日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

日本の文字は、「ひらがな」「カタカナ」…で、既に100を越えている。で、漢字は、「N4」までで、300を越えている。…一体幾つあるの??

2021-05-27 08:28:11 | 日本語学校
雨。

まだパラパラのうちに出てきました。今は少し雨脚が強くなったようです。かなり音がしていますから。

最近は、朝の鳥たちの声の喧しいこと。以前、インドの少女に、「故郷でも鳥の声がしているでしょ」と聞くと、「そう」と言った後、「ぎゃあ、ぎゃあ」と啼いた…ので、度肝を抜かれたことがありました。が、まあ、鳥の声なんてそういうものなのかもしれません。インドですものね、クジャクもいることですし…。

最近、授業の後、残って勉強している人が幾足か見られるようになりました。定着した感じですかしらん。これも留学生ではないからなのかもしれません。

留学生は、まず、授業が終わってから、(アルバイトへ行くために)そのまま帰るか、あるいは、直接バイト先に向かうという人が多いのです。日本語が不自由な間は、夜の方に回されることも多く、そうなると、私達としては、ちょっと心配。夜間のバイトですと、学校に来てから眠くて勉強できないということがあるのです。

大学に行きたいからと、バイトを金土などにした人は、それほどいませんでした。

それに、学校に残って勉強するという習慣のない国の人も、案外多いのです。大卒であれば、必要だったらと、すんなりできるのですが、高卒の人ですと、なかなかそうはいきません。アルバイトがない日には、友達と出かけたり、おしゃべりしたり、掃除洗濯などの家事をして終わるといった具合でした。それも仕方のないことで、とにかく、「授業の時だけは一生懸命に」で、やってきていました。

ところで、昨日、久しぶりに「地図」で遊びますと、半分以上が明後日の方向を指していましたね。

『初級』の頃に、東西南北を地図上で確かめさせ、しばらくは、「はい、北。」、「はい、東」などと遊びながら、地図を読む練習をさせるようにしているのですが、「N3」の勉強が始まる頃になりますと、そういうことにあまり時間が割けなくなる…もちろん、文章に出てくれば別ですが。というわけで、すぐに消えてしまうということになる。

再来週から「N4」のまとめと同時に、試験対策に入るという「初級クラス」でも、久しぶりにそれをやると、「さあ、困った」。「東西南北」の漢字は既に勉強しているのにね。はっと戸惑ってしまう。この「読み方」と「漢字」と「意味」がまだ一体にはなっていないらしい。

(漢字を)導入するときには、「象形文字」を選び、遊びながら、それとなく漢字というものを理解してもらえるようにしているのですが、懸命に「書いて」、「覚えて」を繰り返しているうちに、何が何だか判らなくなってくるのでしょう。それに「音」という見えないものと「書いたもの」という違いもあるし。

このクラスは、「ひらがな」に時間がかかり(書けても、…なかなか読めるようにならなかった)、そして、その次の「カタカナ」が、その倍も時間がかかり…そうこうしているうちに、漢字の導入が例年よりも遅れていたのです。

職員室では、「そうだなあ。『初めて』というのは、こんなもんだったんだ」と、留学生慣れしていた自分たちを反省することしきり。

現在、留学生は、大卒以外は「N5」に合格して来日していますから、書き順とか、形とかを注意するくらいでいいのです。それが、「初めての人」の場合、「ひらがな」「カタカナ」にこんなに時間がかかるとは。

最初のころ(十数年前)は、留学生でも白紙状態で来る人が多かったので、(こういう状態に)慣れていたはずなのに。もうすっかり忘れてしまっていました。

まったく、慣れというものは恐ろしい。忘れてしまう速さというのも恐ろしい。もうすっかりあっちの方向に行ってしまっていました。

とはいえ、そういうクラスでも、「N4」を受けたいというレベルになってきたのですから、天は頑張る人を見捨てはしませんね。

まだ「N4」を受けてもいないのに、その次を考えている人がいるらしく、昨日、「『N3』の漢字は、幾つくらいあるのか」と聞かれてしまいました。どうも、「N4」の漢字数くらいのもの、あるいは多くても「少々」くらいのものだと思っているらしい。そうですよね。アルファベットの感じで行くと、「ひらがな」だけでもすでにその数は超えているし、それに「カタカナ」まで入っているのですから。「N5」「N4」の漢字を合計すれば、漢字だけですでに300を越えている。もうそろそろ文字数は終わりだろうとでも思ったのかしらん。…コマッタナ。

「そうですねえ。もっと多いですよ。」「一人でも勉強できますか。」「そうですねえ。インターネットがありますからね。頑張れる人は頑張れるでしょう(よく意味が判らんですが)」

在日の人は、だいたい『みんなの日本語』が終わるくらいまでで終わりという人が多く、「N3」まで頑張るという人は稀なのです(中国人は、「N1」までという人が一番多いのですが)。だから、このクラスも今度の7月の試験までと思っているのかな。

本当なら、「N3」に合格するくらいまではやって欲しいのですが。「N4」くらいで終わってしまうと、子供ができたときに、病院や保育園、幼稚園、小学校と進んだときに、園や学校側との連絡が、ちょっと難しいような気がするのです。おそらくは「文字」を通してやられるでしょうから。

相手(日本人)が、外国人のことを考えて、全部ひらがなで書いてくれたとしても、それも結構難しい。同音語などの問題もありますし、日本人が簡単だと思っているのと、彼等が簡単だと思っているのとは、違うのです。簡単な言葉だからと日本人が思い、それを使って相手との意思疎通を図ろうとしても、初めて聞いたものであれば、何が何だかわからない、また判らなくて当然です。母国語の他に、別の言語に精通している人であれば、勘が働きますから、まだいいのですが、そうでなければ、難しい。

とはいえ、日本で、言葉の問題で、嫌な思いはさせたくないですね。まあ、私達がどこの国に行っても同じなのでしょうけれども。

日々是好日
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「重ね着」は、案外難しいらしい。

2021-05-26 09:09:43 | 日本語学校

晴れ。

まだ「梅雨」には入っていないそうですが、もう夏に突入してしまったような暑さでした、昨日は。

昨日はよかったけれども、肌寒いときの服装に常夏の国から来た人たちは、困るらしく、少しでも肌寒かったりすると、途端に、半袖の上にダウンや、厚手のジャケット、あるいは厚手のトレーナーなどを着込んで来て、「暑い、暑い」と言っています。

薄手のものを重ね着するというのが、どうも苦手のようです。

「いくら何でも、ダウンはないだろう」と、(肌寒さに)慣れている私達は思うのですが、慣れていないと、冬か夏のものしかないような感じになるのでしょう。

こんな時期には、少し寒かったら、長袖のブラウスを着て来るとか、薄手のカーデガンなどを羽織るか持ってくるかすればいいのにと言うのですが、どうも、ピンとこないらしく、「う~ん」と言って、次の日もやはり同じような格好で来ています。

重ね着を楽しむのには、まだ、ちょっと時間がかかるのかもしれません。ただ、皆、若く、ファッションに関心がありそうな人たちですから、慣れるのもじきですね。

まあ、昨日もちょっと動くだけで汗が出てくるような感じでしたから、次は梅雨寒の頃を待つしかないのかしらん。

みんな、言葉だけでなく、春秋の服装にも慣れが必要なようです。

日々是好日
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みんな目的が違うので、大変です。

2021-05-21 15:21:20 | 日本語学校

曇り。

今のところ、曇りですが、少し前までチョボチョボと雨が降っていました。夕方にはこちらでも大雨になるそうで、この強風の元での大雨となりますと、ちと怖い。とはいえ、家を出るときには、止んでいてくれましたから、助かりました。

ただ、この風の強さ。思わず、「それにつけても、風の強さよ」とか、「とはいうものの、お前ではなし」などと口ずさみたくなってきます。これをなんと言いましたっけ。何にでもつけられるのです。前の部分は忘れて、後半部分だけ覚えているのが、なんだか面白い。

今日のような強風の時。自転車で角を曲がりながら、「この通りは向かい風」とか、「この通りは楽ができる」などと思っているのです。「向かい風」の時は、例の「ヨイショ、ヨイショ」です。不思議なことに、何も言わないと力が入らないのですが、口ずさみながら、それに合わせて力を入れていきますと、今日のような強風でもリキが入って、自転車が前に進むのです。

まあ、涼しい顔をして自転車を走らせている若い人には判らないでしょうけれども。私らは、自転車を漕ぎながら、「ヨイショ、ヨイショ」と言っているのですよ。

さて、学校です。

「地理」を読み進めていると、最初はよく(読めなくて)固まっていたのに、最近は自信なさげでも、それなりの読みができるようになりました。「読み」においても三段階です。第一段階、「わからないと、止まる。じっとしている」。第二段階、「自信がないので、声が小さい。…聞こえない」。第三段階、「(何度も出た故に)彼女にしては大きい声で読める(大きいと言っても、他の学生に比べれば、蚊の鳴くようなもの。声が大きいと私が言うような人は、私が「やめろ」という声さえかき消してしまうほどなのですから)」。

二人のうちの一人は、話すのは大丈夫なのですが、漢字の問題があり、高校を受験できなかった…らしい。最近は「N4」漢字を終え、「N3」に入っているので、それに伴って、「漢字の読み」についても、応用が効くようになったのでしょう。

もう一人は、やっと漢字一字の、本来の意味が判りかけてきているらしい…。らしいというのは、言いながら、頭の中がごちゃごちゃになっているような時があるからなのです。
「(その漢字の読みを、○○と言いながら、すぐにこちらの顔を見て)違った。××。あっ、これも違う。えっ、△△、ああ、違う。判らな~い」

聞いていると、間違える理由がわかってくるから面白い。音が似ている。他の熟語の読みを言っている(似ている漢字と思っているらしい。意味も全然違うので、文章の意味がとれていたら、そうは決して読まないと思うのですが)。そして追い詰められて、テキトーに言っている。

結局は、読解力なのでしょう。意味がとれているかいないかによるのです。

その点、日本と彼等の母国とを行き来してきた学生の方は、日本で生まれているし、ある時期まで日本で教育を受けているので、…こういう悩みはないのです。ただ、一番、いろいろな知識が吸収できる時期に、日本を離れているので、それが悩ましい。一方、語学や他の知識は欠けているにせよ、日本語で話していても、こちらの意図するようなところを取り違えてしまうということは、あまりない。

「地理」や「歴史」の教科書を読んで、その分野の単語を覚えていくことは、日本で、それなりに生きていく上で、必要なことです。

その点からも、やはり、教科書はよくできていると思います。中学生レベルですから、広く浅くであっても、漏れはない。それ以外のところでは、読んでいる途中に彼等が興味関心を持つようなことがあったら、そこで止まって、付け加えていけばいい。

もちろん、まずは、合格しなければなりません。けれども、学ぶことと、受験はまた別物。試験の傾向も変わったと聞きます。漢字が判らぬが故に、中学校で置いていかれてきた人が、高校に合格するのは、やはりかなり難しい。他の学生達の倍は頑張る必要があるでしょう。

これまでは、せいぜい、「漢字」と「数学」ばかりで、こういう「社会科」を教えたことはありませんでした。「日本語」ができないので、それに足すにしても、(日本語の授業の他には)、「漢字」と「数学」の基礎(計算)が、やっとだったのです。

今は、留学生も一人しかいませんし、在日生も入れても、二クラスしかありません。午前中だけです。で、午後は、言わば、プライベートで授業をしているようなもの。「N2」を目指す学生が1人、そして「高校」「大学」を目指すという2人、それから週に二回しか来られない人が、午後、追いつくための授業を受けている。これは2人。

これまでも、ここの学生になって、午前か午後のクラスできっちり授業を受けていれば、彼等の目的、あるいは必要に応じて、教員の手の空いている時間に、それなりに面倒を見てきました。今回の「地理や歴史、数学」もそれと同じことです。

もちろん、勝手に休んだり、適当にされれば、こちらも手を引きます。まずは本人の自覚が大切になのです。

日々是好日
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「梅雨寒」と言ってもいいのかしらん。寒い。

2021-05-19 09:59:11 | 日本語学校

小雨。

寒いくらいです。「梅雨寒」と言えないところが、なんともはや。

「バス組」が、早めに来た…と思ったら、「自転車組」まで、早くやって来ました。雨の日は早めに出るという習慣がついてきたのかもしれません。これまでは、雨の日の「バス組」は、スーダン時間で、雨で、バスの時は早めに出なければならないということがよく判っていなかったらしく、よく遅れて来ていました。「雨だから早めに出なくては」と言っても、「バスだったから」と言い訳するのがせいぜいでした。

さて、学校です。

今、留学生が一人だけで、しかも大卒。ヒアリングは悪いのですが、真面目で目的をもって来日しているので、勉強態度について困らせられることはありません。でも、単語を覚えたり、文法など苦手なことが多いようで、ベトナム人は本当に大変だなあとよく思います。

在日生は、大半が普通に日本語を学びたいという人たち。ただ、中に二人進学を目指している人がいます。一人は高校を、もう一人は大学を目指しています。が、大学受験を目指している人も、まだまだ「留学生試験」レベルにはほど遠いので、高校受験を目指している学生と一緒に、「数学」と「地理・歴史」の勉強をしてもらっています。

「数学」は、まだ計算問題なので、いいのですが、「歴史」が少々大変でした。最初、「恐竜は実在した」というところで固まっていましたし、「自分が国で習ってきた地球の歴史とは違う」と目を伏せたりしていましたので、今は、「歴史」を中断して、「地理」に移っています。「地理」もハードルが高くないことはないのですが、「歴史」を学ぶ上での(彼我の違いによる)問題はありません。その点は楽です。

もっとも、とにかく、文章が読めなければ、高校に入っても、授業についていけないということで、教科書の読みと簡単な説明だけにしています。

以前、「留学生試験」を教えるときに、高校の教科書を見て、随分違っていることに驚いたものでしたが、中学生の教科書を見ても、自分たちの頃とは教科書の様子がかなり違っていることに驚きました。

まず、きれいです。写真もカラーだし、紙もきれいです。しかも、外国人用の教科書に比べてずっと安い。「留学生試験」対策の時に、「教科書を買った方がいい」と買わせても、それほど心が痛みませんでした。外国人用の教科書は、悩みますね。なにせ高いですから。

中学校の教科書も、日本人用のは、本当に安い。内容がこれほどしっかりと詰められていて、しかもカラー写真も多いのに、安い。もちろん、使う人の数が違うので、当然と言えば当然なのですが。で、「地理」と「歴史」の教科書を買ってもらって、それで読みを進めています。

やはり「金を遣った」方がいいのです。何でも「『ただ』だ」と思うと、人間、真剣にはなりません。金がかかっているのだと、俗な言い方ですが、その方が必死になると思うのです。

さて、ラマダンやらなにやからやで、一週間ぶりの授業になります。何度も出てきていた漢字の読み、覚えているかしらん。

日々是好日
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例年より、少々遅れて、「初級クラス」で、「N5」の模試を致しました。マークシート方式のやり方に慣れなくて大変だったようです。

2021-05-18 13:30:49 | 日本語学校
曇り。

曇りでも、気分はすっかり「梅雨」です。ムシムシしています。蒸気の中で生活しているような気分です。

「アジサイ」は、青やらピンクやら、紫やら白やら、小花がすっかり大球になっています。色もさまざまならば、形もさまざま。

「梅雨」時になると、「ドクダミ」、「シロツメグサ」、「カタバミ」などが、空き地に拡がってきます。春の終わりごろから、道端にはいろいろな小花が咲いているのですが、この頃ともなりますと、大きめの花が咲くようになってきています。小さな「カタバミ」の花であっても、目につきやすいところに咲いているので、目立つようです。況んや「ドクダミ」においては、…目立ちますねえ。

「ドクダミ」は、あっという間に拡がってしまいます。 葉が繁り始めたなと思っていると、すぐに白い十字形の花を咲かせ、そして花粉を飛ばしてしまう。人の手が届かないところでは、もう「ドクダミ」の天下ですね。

さて、学校です。

金曜日に「初級」クラスで、「N5」の模試を致しました。

ちょっと留学生達の時と比べてしまうのですが、それはちと酷かしらん。

「N5」に合格し、だいたい『みんなの日本語』の「40課」くらいまでは終えて来日しているベトナムやスリランカ、ネパールの留学生(高卒者)達に比べ、今年の「初級」の在日生達は、バラバラとやって来て、しかも、始めた時のレベルはまちまちでしたから、それぞれ、かなり大変だったようです。

けれども、強みは真面目さでしょうか。故に、どうにか頑張れ、「N5」のラインは越えられたのでしょう。「N5」レベルが終わって時間が経ってしまうと、前の部分を忘れてしまい、却って点が採れなくなったりするものなのですが、今年はそういうこともありませんでした。

ただ16才の少年だけは、まだ「どうして勉強しなければならないのか」とか、「漢字まで覚えなければならないのはなぜなのか」といった部分で、どこか納得いかないらしく、それほど真剣に勉強しているようには見えませんでした。けれども、「(試験は)どうだった?」と訊くと溢れるような笑顔で、「だ・い・じょう・ぶ」と答えてくれました。一応、言われた宿題はきちんと(時々抜けがあるのが愛嬌なのです)やってきているので、それなりに上達しているようです。

それに、(皆に)遅れて勉強を始めても、その時の課までは、教師が補講計画を立て教えているので、基本的には大丈夫なはずです。

さて、「課」はどんどん進んで行きます。あと「7課」ほども進めば、「N3」教材に入ります(もしかしたら、その過渡期の教材になるかもしれませんが)。とはいえ、このクラスは、「ひらがな」「カタカナ」に時間がかかったので、「漢字」に入るのが遅れています。「N4」漢字に入ったばかりなのですが、(N4の)暗記プリントを見て「多い」なんて言っているので、「『N3』漢字はもっと多いよ」と脅されたらしく、こちらにまで「本当か」と尋ねに来ました。

どちらにせよ、「N4」漢字までしっかり覚えられていれば、「N3」漢字であろうと苦にすることはないのです。今までどおり、真面目に勉強していれば、気づいたときには、「(N3に)合格した」ということになるでしょう。途中で抜けることなく、皆で頑張ってほしいものです。

日々是好日
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最近、カタカナ語を耳にすることが多くなりました。いいのかな?

2021-05-17 08:50:48 | 日本語学校

曇り。時々小雨。

土日は、走り雨のようなものが降るかもしれないと言うことで、土曜日はどうも洗濯ができませんでしたが、日曜日も同じようならばということで、意を決して洗濯、それに外干し。

パラパラと来たことは来たのですが、大したことはなく、まあ、一日を通して曇り、但しかなり湿度は高い…くらいのものでした。まあまあでしたね。

まだ5月なのに、もう「梅雨」云々がこの辺りでも聞こえています。昔は…と言うと「またか」と言われそうですが、「5月に『梅雨』?」。「5月は『五月晴れ』だよなあ」。確かに「卯の花腐し」などという言葉もありはする。でも「梅雨」は6月という気分がなかなか消えないのは習慣からでしょうか、それとも、「例年」という言葉に惑わされているのでしょうか。それにしても、ちょっと損をしたような気分。なにせ、「梅雨」が終われば本格的な夏が来て、「猛暑」の季節が来て、昨今は「猛暑」の上を行く「暑さ」までやって来そうなのですから。

最近、特に感じているのですが、経済用語のみならず、「コロナ禍」で、外来語が増えた。使う人が、一般大衆に知らしめんとせねばなら、啓蒙を考えなければならないような人たちなのですから、どうもわけがわからん。

これまでは、相手を煙に巻いてごまかすために遣っているなと思ってしまうような人たちが遣っていたような気がするのですが、正確さを考えて遣わねばならないというのに、これですからね。私達が「間違えたときに」「間違えたことをしても」、伝達した公機関の人たちの問題で、私達の責任ではないと言えば、まあ、それで済むからいいか…とは、ならないところが難しい。なにせ命が懸かっていますから。

例えば、「民主主義」なんて「思想」は、元来、日本にはなかった。明治の有識者が必死になって考え、こういう漢字を当てた。「翻訳です」。何となく意味はわかったでしょうね、当時の一般大衆にも。「民を主とする考え方」ですからね。ただ、具体的なことはわからない。

それから150年以上経って、小学生でも、古代アテネの政治などを学ぶ時代になった。そこで、子供でも「『民を主とす』といえど、あちらの考え方とは、(自分たちの国でのものは)ちと違うな」と気づくようになった。期を同じくして、「デモクラシーは絶対の思想ではない」という考え方が、欧米からやってきた。もともと「デモクラシー」についても、どれほどの人たちが正確に理解していたのか、それも怪しかった日本人。

「デモクラシー」が育った欧米の人たちが言うところの「デモクラシーは絶対の思想ではない」と、私達が「そうか『デモクラシーは絶対の思想ではない』のか」と思うところの「デモクラシー」とは違うでしょうね。なにせ、初めは付け焼き刃てきなものに過ぎず、それを公私ともに、育て、太らせようとはしてこなかったのですから、我々、日本人は。

「デモクラシー」を吹聴するためには、自分の考え方を持たねばならず、それを声高に、正々堂々と発言するだけの胆力も持たねばならず、とても、日本人には無理。

せいぜい、「こんなことされるのは嫌でしょ。だから他の人にもしてはいけない」くらいのものしかなかった。これは「気遣い」であって、「思想」ではない。宗教もそう。「哲学」や「理屈」を言い出すと煙ったく感じられてしまう。

漠然と「『闇』は怖い。何か居るような気がするから」で、ある意味、それが日本の宗教。だから絶対ではない。ただ人間の本性に属しているような気がするので、これはかなり強い。他の宗教の人たちから、理屈で何のかんのといわれても、原初的なものが一番強いので、「へへへ」と笑って済ませられる。なんといいましても、人は動物なのですから。

どの国の言語であれ、置き換えは難しい。ただ「半分判れば、上々吉じゃないか」と思ってもいいようなものもある。相手に判ってもらうために話すのだと言うことをきちんと理解していないと、「(私は)言った、伝えた。責任は果たしたぜ。判る、判らないはお前の責任だ」というのは、それこそ無責任というもの。

それを、外国人に日本語を教えながら、嫌でも考えさせられている、今日この頃です。

日々是好日
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「アジサイ」の花が咲き始めています。「梅雨入り」はもうすぐです。

2021-05-14 08:38:03 | 日本語学校

晴れ。

正に五月晴れ。まだ関東地方は梅雨には入っていないけれど、なんとなく、もう梅雨に入ってい、そして今日は、その中休みみたいな感じがするのです。

「サクラ」の花を楽しみにするように、「梅雨」が近づくと、「アジサイ」の花が楽しみになってきます。まだ「ヤエザクラ」が咲いている頃から…葉が大きくなりだした。花(本当は、花に見えるものは萼なのだそうですが)が蕾を付けはじめた。蕾が膨らみ始めた。そして小花が開き始め、あっというまに小球になる。

で、今朝、いつものように花の様子を窺うと、奥の方に濃い青の球が見えました。小さいけれども、もう花の格好になっていたのです。

コロナ禍の中で、慌ただしく年が過ぎ(もう1年以上もこんな状態が続いています)、心安まるのは、近くの花や樹を見るときくらい。夏は夏なりに、秋は秋なりに、そして冬も春もそれなりの姿を見せてくれる、命の数々。

人間はコロナウイルスにオタオタしているけれども、地球から見れば、人間がコロナウイルスみたいなもの。人間は「ワクチンだ」、「治療薬だ」と開発に鎬を削り、そして、もとより、同族ですから、死を悲しんでいる。

そういうことができない地球が、同じ生命体であるウイルスを使って、自分を治療しているのかもしれないなどと考えてしまうと、「とにかく自転車で行ける所しかいかない(つまり近くのスーパーや職場です)ぞ」と、自分のできることを言われるとおりにやっている自分が、地球から見れば、それこそ厄介者のウイルスなんだと思われて、虚しくなってくることもあります。

けれども、仕方ないですね。この世に生を受けてしまったのですから、人に迷惑にならないように、ちまちまと命を守る行動を取らざるを得ない。考えることをやめるしかないですね。

この人間というウイルスも、私のように大人しくしているものもいれば、跳ねっ返りで勝手なことをしているものもいる。そっちの方が問題なんでしょうけれども。

さて、学校です。

学校では、手洗いの奨励、教室の椅子や机などの消毒など、できることはできるだけし、学生やスタッフが安全に仕事ができ、また勉強ができるように心を砕いています。これはどこの学校でも同じです。

ただ、ここは日本国ですから、他国の人たちが他国の流儀でやろうとしても、時にはそれが難しい場合もあります。

宗教的な事情で休む。彼等が休むからと言って、他の学生が休みになることはありませんし、特別に休んだ分を補うこともありません。もちろん、本人が聞きに来れば別です。その時は丁寧に対応しています。

というわけで、昨日、集会に参加した人たちに今日は休んでもらおうと考えています。インドからの帰国者も三日は観察しているとのことですから。

昨日、集会があって、一緒に食事をしたとのことですから、翌日の今日を入れれば、土日で三日になります。月曜日から出てきてもらえば、まずは安心ではないかと考えています。まあ、できる範囲で対応するしかありません。これは私達だけの話ではなく、他の学生達もいるのです。

参加はしないように話しても、それは宗教上、できないということですから、それならばこちらで、最低限の要求をするしかないのです、安全のために。何もなければそれに越したことはありませんが、万一ということもある。インドやイスラエルのそれぞれの宗教行事が新聞やテレビで報道され、3密を避けるどころか押し合い圧し合いで、それを指摘されても、神様が守ってくれるからという返事しかない。

それをどうこう言う立場にはありませんが、日本では、いろいろ考えた末に、皆の安全を考えればと各地の祭りも中止になっています(だからオリンピックのためのやり方に対して批判が出るのです。人々の大切な祭りすら犠牲にしているのにと)。それと同じことです。参加は自由だけれども、皆の事を考えれば、これは過分の要求ではないと思います。

日々是好日
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小雨。変異ウイルスは、これまで押さえ込まれていた国でも、はやり始めたようです。

2021-05-13 08:52:29 | 日本語学校

小雨。

家のドアを開けて、外を窺ったとき、傘をさして行くいる人が大半だったので、少々迷いはしたものの、もう出てしまったのだからと、そのまま自転車に乗って出てしまいました。でも、これが正解。疎らではあったものの、傘もささず、雨具も身につけずに、自転車に乗っている人が何人かいましたから。

とはいうものの、ちと寒い。まるで梅雨の頃のような肌寒さです。

最近、よく目にするのが、大輪の「バラ」。白や赤の、まるで牡丹のように大きな「バラ」が、ひょろりとした長い茎の上に心許なげに咲いていました。よく倒れないものだと感心しながら見ているのですが、やはりどことなく危なっかしい。頭が、でかすぎるのです。バラはやはり蔓の方が落ち着きます。さもなくば、バラ園といった感じで、まとめて植えられているもの。どうも一本か二本、植えられているだけだと危なっかしくて、落ち着きません。

さて、学校です。

ご近所から、留学生の申し込みやら相談やらが、チラホラ来ています。従来のウイルスが変異ウイルスに変わり(もうほとんど変わってしまったようですが)つつあるせいか、これまで押さえ込まれていたと思われていた国でも、少しずつ拡がり始め、「(国の親は)今、全然外に出ていません」という話を学生から聞くようになりました。それでも100人くらいのもの。日本とは桁が違います。それなのに、日本ではどうしてでしょうね。フラフラと、我慢できないからと若者だけでなく、いい年をした人たちまでが出歩いている。

早期に(コロナを)押さえ込んだ国では景気が戻っているというのに、日本ではまだまだだということが、ずっと経済云々と言ってきた人たちには見えないのでしょうかしらん。専門家がいわゆる専門バカになり果てているのかしらん。却って岡目八目で、無知蒙昧の我々のような輩の方が見えているというような状態になっているのかしらん。

でも、変ですね。嫌になるくらい、言われていたことなのに、巷では。それがいまさらという感じで偉そうに言われはじめると、これまで、なぜそれができなかったのか、却ってわけがわからなくなってしまいます。できなかった理由が、特別にあるのかしらん。それを、上の連中は、やるだけの能力がなかっただけのことなのかしらん。

わかりませんね。下々には。でも、給料分だけは働いてもらいたいものです。下っ端であればあるほど、必死になって働くという図式は、あまり日本的ではないような気がしますし。

コロナが、日本だけでなく、世界中の国々で、少しでも早く収まって、また自由に行き来できるようになるといいのですが。でも、このグローバル化のせいで、これまでに、拡がったということでしょうから、観光で行くにせよ、仕事で行くにせよ、リスクはあるということを、我々は知っておかなければなりません。未知の土地へ行くのを、あまりに簡単に考えていたのです。飛行機で行けばひとっ飛びですから。

これからは、リスクを恐れる人たちが、バーチャルでの世界旅行を求めるようになるかもしれません。もちろん、同じ旅行と言っても、旅行よりも冒険を主に考えるような人たちは、一人か二人での海外旅行を考えるでしょうけれども。

日々是好日

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「サクラ」は七変化、八変化。

2021-05-12 09:15:19 | 日本語学校
薄日が射しています。今日は曇り空だとか。

「ポピー」はもう終わりですね。惚けた坊やのような姿になっています。「アジサイ」の花の蕾も少しずつ膨らんできました。もう少しして、梅雨にでも入りますと、赤や白、青や紫の小花が街を彩ってくれることでしょう。それもじきです。南九州も早々と梅雨入りしたそうですから。

学校への最後の角にある「サクラ」の樹。春はあれほど華やかに花をつけていたのに、もう、遠くから見やれば、濃い緑と闇の色ばかりとなりにけり、です。光が通らないほどびっしりと葉が繁り、そこだけ暗い闇となっています。「サクラ」は本当に七変化、八変化ですね。

今朝は昨日と同様、…肌寒い。昨日よりも強い風が、ひいやりと迫ってきます。昨日は寒いと思ったので、かなり厚着をしていたら、反対に汗をかいてしまいました。ということで、今日は控え目に着てきたのですが、さて、凶と出るか、吉と出るか。

さて、学校です。

留学生が、来られなくなってから、既に一年以上も過ぎ、待つ身の辛さを思いやりながらも、こちらはこちらで辛い。本来なら2年目を迎え、そろそろ進学の話などもしていたでしょうに。それが、話に出ても、いつ来られるかというようなもの。コロナだからしょうがないといえばそうなのですが、コロナをかなり抑えている、日本と同じような島国もあるだけに、少々イライラしてきます。

学生(彼はギリギリで間に合いました)からは、時折、来られなかった学生の話が出てきます。「(彼は)ベトナムで「N3」を受けるつもりだそうだけれども、やはり日本で勉強したかった」…と言っている。ベトナムの学生は「ヒアリング」・「文法」に、総じて難があり、とにかく「聞く」ことが大切になります。とにかく、聞いて耳を慣らすということが必要なのです。

そのためにも、アルバイト。お金が絡むと責任も出るようになるので、やはりアルバイトはした方がいい。適当にやって、お金はどうでもいいやなどとなると、結局は何でもテキトーにやると言うことになってしまいますから意味はない。

これは在日生についても言えることで、若い人が親に連れられて下見に来たりしたときには、「お金が要ることだから、勉強したいと本人が思っていないのなら、今はやめた方がいい。(これからも)日本にいるなら、日本語が必要なことはじきわかるだろうから、わかった時に学ばせた方がいい」とよく言います。

たいてい、その時、(本人も)勉強するつもりだと言いますが、帰ってから話し合った後、やはり勉強したくないと言っていると断ってくることもあります。以前は、親に言われて嫌々来ている学生もいましたが、結局は勉強しないので、お金も無駄になるし、(本人が勉強しないので、勉強している他の人に比べて)日本語がいつまで経っても上手にならないので本人も嫌気が差してしまう。

親は日本にいる限り日本語は必要なので、少しでも早く日本語をマスターさせたい(その方が苦労しなくて済む)と思うのだけれども、来日直後の子供にしてみれば、なぜ日本に来なければならなかったのだと気持ちの整理がついていない…。

国に居るときは、親が日本で働き、送金していれば、ある程度豊かな生活(現地で)ができ、贅沢もできた。それが日本に来てしまうと、何でもお金がかかってしまう、勝手なこともできない(様子が判らないので)。まず、欲しいものが自由には買えない。日本語ができないので、友達もできない。結果、日本にいても同国人同士の付き合いになるか、部屋で国の友人達と連絡を取り合って憂さを晴らすぐらいのことしかできない。ずっと後ろ向きの生活をして行くしかないのです。

世界中、どこの国で過ごすにせよ、その地の言葉が片言であろうとできなければ、それは不便なもの。いわゆる途上国といわれる国から来た人たちには、英語信仰というものがあり、「『英語が話せる』すなわち『金持ち』」。ひどいときには、同国人同士で英語で話すくらいなのですから。他の同国人に、「俺はお前らとは違うぞ。金持ちなんだぞ、エリートなんだぞ」とでも、見せつけるためなのでしょう。

日本ではよく、アメリカのトップクラスの大学を卒業した人たちが、できるだけ正しい日本語を用いようと苦労しているという話を聞くことがあるほどで、これ見よがしに外国語を使うのは、チャラいヤツと見做されるのとは逆ですね。この点も知っておかねばならないでしょう。

もちろん、生活レベルがそれほど高くない人が多い国では、それも仕様がないことなのかもしれませんが、日本に来てこれ見よがしにやってしまうと、日本人は変に思うでしょうね。「あなた達、同じ国なんでしょ?(同じ国でも)民族が違っていて、お互いの言葉がわからないの?」

笑い話のようですが、本当です。

ただ、「日本語」を勉強するには、やはり「英語」は役に立つ。単語の訳、文法の説明など、英語のものの方が、他の言語のものに比べ、質がいいようですから。中国語ですら、「えっ」と思われるような落とし穴があって、いちいち説明しなくてはならないこともありますし。漢字が同じでも意味が違うということが、無視されてしまう故でしょう。

まして、ベトナム語ともなりますと、ちょっと大変。高卒の学生はあまり気にならないようでしたが(国で「N5」から「N4」を勉強してきているので、ベトナム語で説明を受けている)、大卒の学生が来ると、そうは行きません。ゼロに近い状態で来る人もいますから。

「これとあれと同じ意味です。本当に同じですか」とか、「先生の説明と(この訳は)違っています」とか言いますから。その都度、「こちらを信じろ」で通すしかないのです。単語の訳ですらそうですから、文法も、勘がよくない人は随分苦労したようです。ベトナムの学生が多い頃は、一つ一つ訳を確認していったというような時期もありました。

それも今は昔。コロナ禍の間は、ベトナムの学生だけでなく、だれも来られませんから、もしかしたら、私もやり方を忘れてしまうかもしれません。

日々是好日
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日本に来たくてきたわけではないし、その上、日本について何の興味ももっていなかった人たちが、日本語を学ぶ。

2021-05-11 14:32:00 | 日本語学校

曇り。

昨日、一昨日と真夏のような日が続きましたが、今朝の風はひいやりとしています。沖縄が梅雨入りしてから、こちらの方でも、梅雨前線が北上したり、しなかったり。そして、それに引き寄せられた前線が姿を見せたり見せなかったり…で、明日には雨が降るらしい。

「失くしつる さはあるべくもおもはれぬ 
また ある日には 探しなば なほあるごとくおもはるる 
色青き真珠のたまよ」                       (白秋)

中学生の頃、「朔太郎」の詩が好きだという友人に引きずられるように、「詩」というものを読み始め、「白秋」や「啄木」に惹かれたことがありました。

思えば、不思議な気がします。それまでは「歴史物」ばかり読んでいた子供が、急に「詩歌」の世界に迷い込んでしまったのですから。

この頃の友人の影響というのは、今、思えば、摩訶不思議。

互いに何がどうというわけでもない。浅く淡い関係。その時期が終われば、スッと消えてしまうようなもの。おそらく、そこが、スポーツを介したり、なにがしかの活動を通じての「知り合い」とは違っているのでしょう。

重さ、深さ、密さは、ない。どこか互いに響き合うものがあり、琴線に触れたところが、各人の心の中で勝手に成長していく。それだけのこと。そこには「戦友」みたいな「同じ釜の飯を食った仲」とか、「苦楽を共にした」みたいな絡み合った感情は、ないのです。漂う空気、匂いみたいなものでしかない。それでいて、残されたものは大きい、その人にとっては。

今でも、この年になってもまだ、時折「失くしつる さはあるべくもおもはれぬ また ある日には 探しなば なほあるごとくおもはるる」などと、口ずさむことがあるのです。でも、いったい何を捜しているやら。

さて、学校です。

在日の方々の勉強を見ていて、初めての日本語、それを学ぶということとはこういうことなのかと、ため息をつくような毎日が続いています。

これまでの「主」は、留学生でしたから。だいたい、ここ数年は「N5」の試験に合格していなければ申請が通らないという状態で、来日時に、日本語文法が白紙という学生はいませんでしたから。そのずっと前でも、「ひらがな」の「いろは」からという学生は、いても(国によっては日本語を教える機関が大学くらいしかないので)その期に(一年に四回学生を募集しています)一人か二人といったもの。人数が少ないと、他に呑まれてしまいますから、できるのが当然といった感じになる。それで、次の期にもう一度(やりなおす)ということもできたのです。

ところが、留学生が一人しかいない(コロナでだれも来られません。1年以上待っている人もいます)。既習の人でも、それぞれ、レベルが違うし、できる分野が違う。その上、日本に関する知識がほとんどないときている。しかも、なぜか、自分の国が世界で一番優れていると信じ込んでいるので、自分自身、どうしてこんな(大したこともない日本という)国の言語を勉強しなければならないのかわからないという、来たくて来たのではない人も少なくないのです。

つまり、自分の(隣近所で終わりという)世界だけがあって、比較するという習慣も歴史もないようなのです。しても、せいぜい我、近隣の同質的な国。それしか知らされずに長年自国で過ごしてきていれば、それも尤もであるような気もしますが。

私達日本人は(私だけではないでしょう)、「日本人は島国根性の持ち主で、他を知らぬ。井の中の蛙であってはならぬ。自分たちよりもっと優れたも世界がある(はずだ)。故に、知ろうとせよ。知識を増やせ」と聞いて育ってきています。

自分と異なっているものを見聞きすれば、「あれっ」と立ち止まり、「どうしてかな」と考えるような習慣があるのです、基本的には。

それが、中国に長期いた時、そう考えたりするのは、一部の国の人間に過ぎぬということを愕然とした思いと共に知ったような気がします。

中国に限らず、大きな(かつて植民地を持っていたり、文化的に世界をリードしてきたと自負する)国から来た人たちは、「自分達のやり方に世界は従うべきであるし、従わぬのは無礼である。無知である」と考えて当然という態度を取っていましたし、小さい国であっても、自分たちと違うやり方をする国があることを学んでいない人たちは、「自分たちと違うのは『途上国』である」という態度を露骨に示していました。

そういう国の人たち同士の争いというのは、どうにもこうにも、にっちもさっちも行かないものでした。他者を認めない、故に、平行線なのです。風土や文化、歴史が違えば、食べ物のみならず、いろいろな宗教、また考え方が出てくるのも当然といえば当然なのに。皆、同じであれば、それこそ奇妙なことであるはずなのに。それなのに、自分たちが絶対と思い込んでいる(思い込まされている)ゆえに、「私達のやり方が正しい。反対するお前達の方が無法者だ」で、最後は、かなり激しい言い争いになっていました。政治も関係していたのでしょうけれども。

もちろん、世界は100、200年前に比べれば、国と国との関係がより近くなってい、密接になっていて、融合というものも少しずつ起こっている。それでも、ちょいとばかり違うものを見ると、からかうか、見下すかしてしまう。また、それぞれの立場から、身を守ろうとするからか、互いに鎧を着てしまう。国と国とが鎧兜に身を固め、やり合うのは論外としても、個人単位でそれが起こってしまうと、本当に厄介。人は他国に行くと、個人というものから、民族とか国といういう名称がつきまとい、個人の問題で済まなくなってしまう。ある国の人がこうだとなると、その国の人は皆、そういうものだという風に、いつの間にかなってしまう。

その頃、「いいじゃない。そこに住んでいる人たちがそれで満足ならば」とか、「そこに住んでいる人たちが、自分たちが幸せになるように考えてできたやり方なのだから、それでいいじゃないのか」と、宥める役回りが、だいたい日本人でした。けれど、その挙げ句が、「いったい、どっちの味方なのか。だから日本人は信じられないのだ」という双方から飛んでくる石、礫。

曖昧なままにしておくことが苦手な人たちが本当に多いのだと知らされました。「蝸牛角上の争い」といえば、叱られるかもしれませんが、どっちが正しいなんてあり得ないのです。決めるのはそこに住んでいる人たちだけで、部外者の私達じゃない。そして、そこに住んでいる人たちを幸せにするのが国や地方公共団体の役目。そのために金を払っているのだから。どのような形であれ、そこに住んでいる人たちが満足していれば、それでいいのです。

今、日本にいて、それとは全く同じというわけではありませんが、時々、同じような感覚になることがありま。学生達は皆若く、一番上と言っても私よりも15も20も若い。戦争を経験した人なら、私などより、もっと深い悲しみ、恐れを知っているでしょうし、心や感情はもっと幅があり、深いのでしょう。けれども、知識などの点では、偏りがかなり見られ、学んだことがない分野というのも目立つのも事実です。日本語を彼等の言葉に置き換えてそれで終わりとはならないのです。

留学生の場合、日本語の基礎を学ぶと同時に、同国人から日本について聞いて来ています。そこでは、日本ではこうこうなんだとか、自分たちとは違うという部分も伝えられています。けれども、それが全くない人たちとは、私達の常識が通じませんし、それは同時に彼等から見れば、彼等の常識が通じない相手ということにもなります。

「どっちもどっちだね。お互いに何も知らないんだね」で、笑って済ませられればいいのですが、困ったことに彼等はこれから日本で暮らしたいと言い、進学したいと言い、あるいは仕事をしたいなどと言います。旅行者なら、来日したときの自分のままで帰ってもらえばいいのですが、「居たい」となると、ある程度は日本のことを理解してもらわねば、これからどうにもならないでしょう。それと共に、「我のみあって、他者はなし」という思想はちょいと遠慮してもらわねばなりません。

とは言いながら、自尊心はとても大切です。ただ盲目的な自尊心は「百害有って一利なし」。多分、入学したばかりだった頃の彼等は、自尊心とは名ばかりの、自己防衛的な鎧で覆われていただけであったのかもしれません。

ただ、学校に長く通っていると、少しずつ、自分たちの短所が見えてくるようで(私達も日本の短所、困ったところ、大変なところなどはよく言います)、そうなると、他国で生活する上で必要な「比較」というのができるようになって来ます。これがある程度でき、考えられるようになりますと、「後は自分で考えてね」で流していけます。なにせ、皆、子供ではないのですから。

日々是好日
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