曇り。時々晴れ。のち一時雨…らしい。
さてさて、他人事でなく、自分が、老いが絡むいろいろな状態になってしまうと、どうも書物の世界に逃げ込もうとするようである。他者の慰めやら、からかい、力づけなどでは、どうもうまくたちいかなくなってくるのです。
で、頼りにするのが、「狂歌」。「狂歌」というと、文化文政期と思ってしまうのですが、実際はそうではなく、既に「万葉」のころにもあったようで、殊に「戦国時代」は盛んであったらしい。一休和尚のものも、面白い。
「先の世に 借りて返すか 今貸すか いつか一度は 報い来ぬべし」(一休)
昨日の歌(?)もそう。やはり禅宗系のお坊さんは、「公案」で常に攻めたてられているからか、暇つぶしのようにポイポイと作っている…かのようにも見えるから、すごい。聞いた者はフフっと笑ったり、なるほどなと感じ入ったり、それぞれ違いはあるけれど、結局は一時的にでも、気が紛れる。それがいい。何かの折にふと思い出したりすると、何事も、「なるようにしか、ならないものさ」などと思ったりする。
夜など、1人で、
「雀どの お宿はどこか知らねども ちょっちょとござれ ささの相手に」(蜀山人)
などと言いながら、やに下がったり、
「鶴もいや 亀もいや 松竹もいや ただの人にて 死ぬぞめでたき」
この狂歌も作り手の名を「四方赤良」で覚えたものの、「蜀山人」と言うべきか、はたまた「大田南畝」となすべきか、どの名も有名なので、どうしたらいいのかわからない。ご当人はなんとも思っていないのでしょうけれど。
そういえば、こういう歌もありましたっけ。
「貪欲を 捨てよと言うて 捨てさせて 後より立ちて 拾ふ上人」
人間なんて、本当に変わらない。縄文時代の人も、もしかしたら何万年も前の人も、同じように考え、迷い、また、人を騙し、騙されしていたのでしょうね。判っていながら、それを繰り返し、引っかかっては泣き喚き、騙しては悦に入る。
そうかと思えば、人は、
「あら楽や 人が人とも思はねば 人を人とも 思はざりけり」(深草の元政…この人は禅宗ではなく日蓮宗だそうですけれども)
なんて思ったりする。
花鳥風月はもう関係ないのです、人間の業と向き合っている時には。
さて、学校です。
「B・Cクラス」こそ、留学生が入ってきたので、11人なのですが、「Aクラス」「Dクラス」も4人か5人といったところ。この二クラスは、在日生だけなので、どうしても数が少なくなる。それで、足りない部分は別に引き出して、「(授業が終わってから、或いは授業の前に)○○さん、来なさい」といった感じで、手当てするという形をとらなければならなくなる。
授業が終わってから、○○さん、残りなさいといった感じで
「在日生クラス」にいる人たちは、日本語の様子がわからないからか、「宿題」というものの意味が掴めない…のでしょうね(日本語なんて聞いたことがないという人がほとんどですし。だいたい日本のことだって、知らない人が少なくないのです)。自分たちの文字と同じと考え、言えれば、だいたい書けるだろうから、練習する必要などないくらいに考えているのでしょう。
で、まず、(宿題を)しません。つまりノートに問題や答えを書かないのです。書くという習慣がないのでしょう。「言えば判ることをなぜ書く????」と、宿題を出したこちらを怪訝そうに見るだけ。
それが、「留学生クラス」に入ると、変わりますね。最初から「留学生クラス」に入っていれば、皆が毎朝、宿題をノートに書いて、それを提出しますし、「N5漢字」に入れば、20~30字ほども書いた漢字ノートも提出します。そして提出された各自のノートを見て、教師が問題箇所を指摘していきますから、多分、焦るのでしょうね。しかも、留学生には、こちらも強面で臨みますから。
もっとも、なかなか同じようにはできません。それでも、毎日文字を書くということが大切なのです。彼らだけの時には、毎日「おはようございます」だけでもいいから、書くように言っていました…でも、書いてきませんでしたね。
「在日生クラス」では、彼らに合わせて授業をしていきます。なんとなれば、こちらの進め方で、やりますと、すぐについて行けなくなりますから(つまり、彼らが7,教師側が3くらいでしょうか)。ところが、「留学生クラス」では、1年半で、ある程度の結果を出さなければならないので、卒業時から逆算して、こちらのやるべきことを決め、それを彼らにさせていきますから、こちらが9.8くらいで、学生側が0.2くらいになる。特に「初級」ではそうです。これが「N2」レベルくらいになりますと、進路を考えながら、進めていかねばなりませんから、学生の方の割合がずっと増してきます。それに進路に応じての取り出しというのも増えてきます。
今は「B・Cクラス」と、「Dクラス」で、筆を持つ時間が全く違うという「面白い」ことになっています。
日々是好日