日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「世を捨てて 友達多くなりにけり」、さて下の句は?

2021-10-13 08:22:03 | 日本語学校
雨。

今のところ、小雨です。それでも、傘か雨合羽は必要でした。フードが風に飛ばされると、やはり小粒であっても(当たると)痛い。

誰の狂歌だったか、時々ふっと浮かぶことがあります。

「世を捨てて 友達多くなりにけり 月雪花に 山ほととぎす」 

ごく当たり前のことを呟くような狂歌は珍しい。普通はもっとヒネりがきいているか、諷意があるかしますもの、それにもうちょっとしゃれている。ところがこれはとても素直。もっとも素直とはいえ、現代では成り立たないでしょうね、これは。

温暖化のせいか、この辺りでは、冬でも雪が見られなくなった。歌に詠むなんて、とんでもない。南国から来た学生と同じように、冬になると、こちとらでも、雪が見た~いと叫んでいます。

「ホトトギス(不如帰)」も、山にでも行かない限り、声も聞けなければ、姿だって見ることはできない。もっとも、ここでどうして「ホトトギス」なんだろうと、現代人の私は思ってしまいます。声なら「ウグイス」だろうにと。

そういえば、「ウグイス」を一度だけ見たことがありました。ふるさとというか、両親が退職後に建てた家に、飛んできたのです。「(ウグイスの)声がする」で、声のする方に…あっちへ行き、こっちへ行き…。でも、姿は見えず…。でも、だんだん近づいてきているのはわかる。で、固まって、目だけ動かすようにしながら待っていると、来ましたね、すぐそばに。

裏の、木の陰で、薄暗くなっているところに止まっていたのです。最初は見ても「これ???」くらいのものでしたが、一声あったので、「やはり、そうか」。地味な色の鳥でした。それまで、「メジロ」のような、きれいな緑色をしているものとばかり思っていたのです。とはいえ、「ウグイス」はいいですね。鳴き声を聞くと、嬉しくなって、なんだか今日一日いいことがありそうな。山に行って、「ウグイス」の声を聞いたときもそうでした。すっと汗が引いて、清々しいような気分になれましたもの。

でも、先人は、「ウグイス」でなくて、「ホトトギス」を友に選んだのです。

昔の人は、身近に鬱蒼とした木々やそこに飛んでくる鳥たち、そして動物にも近い存在だったのでしょう。今は、なかなかそうはいきません。一度でも見ることができたら、それは、「見た」としっかり記憶に残っていますもの。

今だったら、この歌はどうなるのでしょう。川柳のように

「『世を捨てて 友達多くなりにけり』。さて、下の句は」とやってみたら、どうでしょう。花鳥風月がくることは、まずないでしょうが。

日々是好日
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「わかっていること」と、「わからないこと」。

2021-10-12 08:54:50 | 日本語学校

曇り。

「暑い、暑いと」喚いていた昨日。ところが、今日は、昨日よりもグンと涼しくなるそうな。とはいえ、昨夜は、蒸し暑くて、寝苦しかった。朝の天気予報では、なんと20度を超えていた…とか。さもありなん。そして、今日は、「長袖か、寒がりの人は上着を用意した方がいい」とのこと。ついて行けませんねえ、けれども、これが今の日本。

さて、学校では、なんと言うことはなく、ごくごく平凡な毎日が続いています。時々、
「はあ、どうしようかなあ」という感じ(なんだか草臥れたような)になることもあるのですが、ただ学生も、それなりに勉強していますので、不満を言えば罰が当たる。

「Bクラス」は、中には、「『N3』合格」で燃えている人もいるので、その数人が引っ張ってくれているような感じですかしらん。

ところが、いわゆる「Aクラス」では、そうはいかない。おとなしいことはおとなしい。授業を進めていく上で、別に邪魔にはならない…表面的には。本当はとても大変なのです、平均で括れないのです。昨日は、ちょうど「降水量と気温のグラフ」の読み取りの問題をやったのですが、どうもこれが大変だったらしい…約一名が(三人しかいないので、この一名の占める割合がかなり高くなるのです)。それは、各文章のどれに、どのグラフが当てはまるかを選ぶだけのもので、単語も簡単、文章も簡単、何に迷うかわからないようなもの。ただ、難を言えば、都市名しか書かれていないので、そこにかかずらってしまうと結局、時間が足りなくなって困るかなというくらいのもの。

で、一人、そこで止まっている(20分でできるだけやるように言ったのですが)ので、その学生に、「このグラフ、わかりますか」と訊いてみた。国によっては、こういうものを問題として出されたことがない場合もあるのです。そういう場合は、困るようですね。どこをどう見ていいかわからないのです。

もっとも、「一を言えば十わかる人」もいれば、「十言っても、ぼうっとしている」人もいるので、説明を簡単にした方がいい場合が多い。

もとより、彼らは、昨年から、こういう問題とは幾度も出会いを重ねているはず。しかし、そのときに、ストンと落ちていかなかった人には、幾度やろうとも、やはりストンとは落ちてはいかないようです。そういう人は、幾人もいましたから。…だから、私たちにとっては、別に何でもないのです。説明を繰り返せば、それですむこと。

けれども、問題は、「見たことがある」と、「わかる」と言うことの区別がつかない場合なのです。基本、「(図や表を)わかる」ということは、見れば、それで考えることができるということ。ところが、彼女の答えは一体何をもとにして出されているのかわからない。「どうしてそうなるのか」と訊いても、多分、わからないから近くにあった文字を言っただけだろうとしか思えないような言葉が返ってくるだけ。

グラフにもいろいろありますから、その都度説明を必要とする場合もある。特に二つを一つのグラフで表しているのですから、ちょっと説明は要るはずです(実はいろいろな機会で、彼女は他の学生たちよりも多く見ているのです。こういう「降水量と気温」のグラフは。ところが、未だに、どうもイメージが全くないようで、やはり「なんのこっちゃ」という表情。

どの国にも、またどの民族にも、頭のいい人とか、勘のいい人というのはいます。その人たちは、「わかること」が、わかっていますから、「ここがわからない」と、わからないことを言うことができる。しかし、普通の人は、どこがわからないのかわからない。多分、わかっていること(わかっていると本人が思っていても、それが確かであるとは限りません)とわかっていないことの境目がわからない。曖昧模糊としているのでしょう。で、考えれば考えるほど、靄の中を彷徨いているような感じになる。

この「わかっている」と本人が思っていることほど、教える方としては、面倒なことはありません。

日本人である私とて、(日本語の中に)「ああ、勘違い」もあれば、「恐ろしいほど間違っていた」ということだってある。そして、それを、誰もが当たり前のことだと考えている。人の一生は短いのです。日本語の渦に呑み込まれたいと思っている人だって、未だ途上にありと思っているでしょうし。

ただ、日本人は学校教育で、グラフというのは嫌になるくらい見て育っている。特に「降水量と気温」なんて、見飽きたといえるくらい。グラフを見て、これは「雨の量」の「雨」と聞いただけで、「ああ、こっちは降水量で、あっちは気温だな」と勘が働く。

だから、冬は降水量が多いと聞いて、寒いとあれば、北の地方と思う。で、グラフの冬の部分を探す。

これが南半球の人だと、北半球の冬を南半球の冬誤解したりしますから、面倒なのですが、おなじ北半球の人であれば、一月は日本と同じで、それは寒くなくとも、冬なのです。だから、余計な説明は要らない。

日本人とて、海外に行けば、同じようなことはあるでしょう。学校で習っていなかった図や表をどうやって理解していけばいいのか、それはひとしきり考えねばならないことでしょうし、その理解にも深浅はあるでしょう。読み取る力のある人は深いところまで見て取れるでしょうし、そうでない人は、目に見えるまま、例えば「一月には降水量が多いんだ」で終わる。「N3」の読解なんて、だれも深いところを求めてはいないのです。

日々是好日

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今、高校を受験したいという人が三人、来ています。

2021-10-06 08:47:22 | 日本語学校

晴れ。

まるで春時の雲のようです。柔らかく、うっすらと水色の空にかかっています。でも、秋。でも、暑くなるのでしょうね、今日も。

「萩の花 暮々までも 有りつるが 月出でて見るに 無きがはかなさ」 源 実朝

今年の「中秋の名月」の時、数年ぶりにゆっくりと月を観賞しながら、思い浮かんだのは、この歌。実朝の短い一生、「為したこと」、「成せなかったこと」。

だれも、彼が、何かを「成し遂げた」とは言わないでしょうが、「為した」ことの中に、万葉ぶりの歌を入れない人はおりますまい。

焦りや苛立ちがどの歌からも立ち上ってくるようです。それに後世の人々は心をグイと掴まれ、離れられなくなってしまうのかもしれません。万葉の歌の幾つかに心惹かれるのと同じ理由からでしょうね。

さて、学校です。

今年は、日本語を学びたいという在日生の中に、専門学校を目指す人が一人、そして高校入学を目指す人が三人います(例年はいつも一人くらいでしたから、今年は多い。それぞれ日本語のレベルが違うので、一緒にはできないのです。なにせ、まだ日本語の問題がある人がいて、故に教科の勉強は、ちと無理なのです、今のところ)。他の人は、いつも通り、日本で生活するために必要だから、あるいは「N3」か「N2」をとってから就職したいからという理由です。

この地域は、アジア系やアフリカ系の人が多いからか、高校に入れなかったという若者を見かけることがよくあります。その、様々な理由で来日した子供たちが、「学校の勉強について行けなかった。それで入試に失敗した」というのはよくあることのようで、機会があって話すと、行きたかったけどね」と微笑んだりします。ただ、だんだんと年が長けていきますと、微笑むだけではすまない事情もわかってきて、辛くなるでしょうね。

特に高校は、専門学校などとは違い、お金がそれほどかかりません。しかも、3年間の猶予付きで日本に馴染めるわけですから、行けるなら行った方がいい。それだけ、日本で暮らす上での選択の幅が増えるということになるのですから。

早くに相談に来た親御さんとは、(子供を呼ぶ前に)相談に乗ったりすることもできるのですが、多くは、入管の申請が通ればすぐに呼んでしまって、後々のことはあまり考えていないようです。子供が来日すれば、すぐに学校に入れて、そのままという家庭も少なくないようです。これは親御さんの方でも生活に追われているから、呼ぶだけで精一杯なのかもしれません。が、彼らは、この地で学習するための言語を持っていないわけですから、わからないまま授業を受けても、理解もできなければ、いやそれどころか聞き取れもしない。見ていただけということになってしまいがちです。

とはいえ、ほとんどは普通のお子さんで、彼らの能力が劣っているわけでは、決してありませんから、子供の方では、「自分は他の友達(日本人)よりも頭がいいのに、それを発出する機会が無いだけだ。不公平だ」と思い込むこともあるでしょう。

文字を媒介としないスポーツや音楽、絵画など芸術方面に秀でたお子さんはいいでしょうが、そうではない普通の子は、ずっと日本で不満を持ったまま生きていかねばならないということにもなりかねません。

これは、彼らにとっても日本にとっても、互いに不幸なことです。

前に、学校でも、そういうお子さんを預かったことがありました。中でもタイからやってきた子(中学校)の時は、そのときが(日本が)初めてでしたから、発音から大変で、50音を出すだけで(はっきり出せたとはあまり言えないくらいのものだったのですが)一ヶ月ほどもかかりました。その後も、高校受験を控えた頃には、中学校の授業が終わると、そのままここに直行し、漢字やら数学の計算問題やらを勉強するという日々を過ごしていました。高校に入学した後も頑張っていたようです。勿論、これも親御さんの理解あってのことですし、彼女の方でも、そんな親御さんの気持ちをしっかりと受け止めるだけの力があったからでしょう。

この子はとても勝ち気で、中学校でも、だれかが馬鹿にしたりすると、すぐに立ち向かっていたようです。ここに来たときに、いろいろな話をしてくれました。「今日はね、○○ちゃんのことを馬鹿にした男の子がいたから蹴りを入れたんだよ。その子が泣いて先生に告げ口したから、(先生に)呼ばれたんだ。でも、先生にちゃんと説明したよ。先生は私が正しいと言ってくれたよ」と、話してくれたことを今でも覚えています。ただ、これくらい無いと日本では難しいのかなと思ったりもしました。

異郷でも負けずに逞しく育っていったこういう子も居れば、そのままずるずると流されていく人も居る。勿論、日本人だってそうだから、彼らだけが可哀想というわけではないのですが。

日々是好日
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日本語学校では、一つの国だけでなく、様々な国の人と一緒に勉強した方がいいようです。日本の事を知る上でも、日本語を身につける上でも。

2021-10-05 13:12:16 | 日本語学校
晴れ。

青空が広がっています。朝晩は涼しく、秋を感じさせるようになって来はしたものの、陽が上がれば、途端に「夏」が戻ってきます。やっと「残暑」がやってきてたか…でも、10月に「残暑」とはねえ。

さて、学校です。

留学生が来なくなり、今は地域の外国人に日本語を教えるのが主な活動となっています。このあたりは、東アジアはもとより、南アジア、東南アジア、西アジア、アフリカからの人も少なくなく、以前、(私の)身内が来たときに、駅で、「よくわからないところやねえ」。彼女のいた地域は欧米の人が多かったからそう感じたのかもしれません。

こういう様々な地域からの人とは、前々から付き合いがあったので、どちらかといえば慣れている方…だと思っていたのですが、実際に教えるという立場になってみると、「あれ、あれ、あれ…」で、新たに発見することも多々あり、その都度、方向修正に追われています。

前には、「ヒンズー教」の人、そして今は、「イスラム教」の人。勿論、前から居たことは居たのですが、留学生でしたから、教えるに当たってそれほど困ることはありませんでした。だいたい、在日の同国人が呼び寄せた「友人の子弟である」とか「知人」とかで、問題が起こったときには、彼らに話してもらうことができましたから。それに、留学を決める以前に、国で、日本のことをよく聞いていたでしょうし。

こういう日本で働いている人たちは、来日後、慣れない土地で様々な苦労をして来たようで、日本で生活の「酸いも甘いも」わかっていると言ってもいいのでしょう。勿論、技術や才覚のみならず、日本という国の、「水に合った」という面もあるでしょうが。そうでなければ、異郷の地に親しい者を呼ぼうという気にはなれないはずですから。

ところが、そういう人たちを持たず、様々な理由から来日したイスラム教の人たちと、もろに向き合うことになると、こちらが想像していないようなことも、時々「勃発」してしまいます。なにせ、イスラム教というのは、(多分私だけではなく)多くの日本人にとって、いわゆる未知の世界の宗教ですから。学校で習ったり、テレビなどで見聞きしていても、実際にそういう人たちと一緒になると、戸惑うことも出てきます。

ただ、うれしいことに、勉強したいと思って来てくれているからか、大半は向こうが気を遣ってくれているようです。また、私たちの方でも、気を遣うこともありますし、向こうからの要求があった時には、それにはできるだけ応じるようにしています。

とはいえ、こちらは、一応、日本語のみならず、日本での生活に関しても教えねばならぬ立場ですから、私など、どちらかといえば、ズケズケ言う方でしょうか。それを相手もわかってくれているようで、だから、普通はやりやすいのです。

とはいえ、困ってしまうのが、クラスの人数が少ないのに、イスラムの人が半分かそれ以上を占めた場合。私は、毎日、暗記文を読ませ、覚えさせるようにしているのですが、彼らだけ、変な節をつけて読んでしまうのです。彼らなりのリズムで、ある部分では尾を引くように引っ張って読んだり、バアッと読んだりするので、日本語のリズムと合わなくなってくるのです。

最初は、おかしな読み方をする人だなと思って、その都度改めさせていたのですが、それが二人になりますと、声がその分大きくなる。その都度改めさせても、それが一向に治りません。なにせ自覚がないのです。以前にいたイスラムの留学生はそんなことがありませんでした(他の国から来た人たちの声にかき消され、それが普通になっていたからかも)。

ところが、コロナ禍の中、留学生が来ずに、近隣のイスラム系の人たちが何人も来るようになると、特に年齢が高かったりすると、大体がそういうようすなので、彼らにとっては、そういう読み方の方が心地よいのでしょう。一段と声が高くなっていきます。

よくよく考えてみれば、これは仏教の「声明」と同じようなものなのかもしれません。ただ、日本人だったら、「声明」のリズムで普段、話すということはまずあり得ないし、それは暗記も同じ。ところが、真面目な信徒である彼らは、暗記となるとそういう節をつけてやってしまうのです。なるほど、いくら言い直させても、すぐに戻ってしまうのは、そのせいかもしれません。と、私なりに理解しました。合っているかどうかはわかりませんが。

どう言っても変わらないので、むなしい努力に思え、一時期、諦めてしまいました。私一人がどう騒いだとて、どうなるものでなし。彼らにとってそれが心地よく、しかも覚えられるものならば、わざわざ言う必要はないだろうと思ったのです。他の人たちにしてからが、そのリズムは別に関係ないようでしたし。これは彼らだけの問題で、しかも他の人たちに影響を与えていないのなら、それでもいいかと思ったのです。

というふうに半ば「放って」おいたのです。このクラスでは絶対的多数でしたから、本人も何ら矛盾を感じていなかったのでしょう。

ところが、クラスを変わることになったのです。新しく行くことになったクラスは、いろいろな国の人たちがいて、みんな同じ(普通の)リズムで読めていたので、一人だけ、合わなくなってくる。彼女の、節をつけた読み方に比べれば、日本語の読み方など棒読みに近く、しかもみんな同じテンポで読んでいますから、当然彼女の、引っ張ったり流したりという読みよりは早くなる。

彼女から、「速い」という不平が出てきました。気持ちよく読めなくなったのでしょう。ところが、彼女以外は、私のリズムに合わせて読むことに慣れています。勿論、一回目は最初と最後に合わせるしかないという人も出てきます。一文を読み終わるときは一緒ということになっていますから。それができなければ、二回、三回、四回とできるまで繰り返してあわせられるようにしていますし。勿論、今だけというわけではなく、前からです。留学生がほとんどを占めていた頃から、どのクラスでもこうやっていました。

やはり、クラスの中に、同じ国(民族)とか、同じ宗教とかの人が多いと、そういう人たちの考え方、やり方が、クラスにおける「常識」ともなり、「日本」の色彩が薄れてしまうのでしょう。それでは、日本で日本語を学ぶという利点が無くなってしまいます。

異国では、少なくとも現地の学校では、様々な国の人たちの中にいた方が、いいようですね。日本語を学ぶにしても、日本の習慣、文化を知る上でも。

日々是好日

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「宣言」が「解除」されても、前と同じ。「換気・マスク・手洗い」は変わりません。

2021-10-04 08:42:54 | 日本語学校

晴れ。

自転車を走らせていると、前には鬱陶しい灰色の雲がまるで雨雲のような感じで広がっている…のに、背後からは真夏の陽が当たっているかのよう。変なお天気です。

学校の着いて、はっとしました。「モクセイ(木犀)」が小花をパラパラとつけています。樹勢が年々衰えて見えるのは、土の関係かもしれません。とはいえ、今年も花の姿を見せてくれました。

この香りの強い花に気がつかなかったのも、マスクのせいかもしれません。いくら非常事態宣言が解除されたとしても、政府よりも国民の方が用心深い。それでお祭り騒ぎをする人もいないわけではないのでしょうが、みな用心しいしい行動するというのは同じ。解除されようがされまいが、同じ。

政府が踊れと言って踊ったツケが、あの広がりを見せたわけですから、それは国民の方が賢いというか、専門家を信じているというか。で、それなりの行動をとる(とらない人がいても、それは比べてみれば少数です)。

本来なら専門家の意見を重用し、国民の命が守られるようにすべきなのでしょうし、おそらくは彼らなりにそうしていたのでしょう。ただ、それが形あるものとして見えてこない。現場ではどんどん悪くなっていたし、自宅で死んでいく人だって一人二人ではなかった。だから、だれも信じられなかった、この日本でこんなことが起こるなんてと気持ちがついて行けない。病気になったら病院へ行く、それが当たり前の国だったのに。

悪循環ですね。「ここまで頑張っています。必要な手はすべて打ちました。これ以上できることは何もありません」というところまで、国民は期待していたのかもしれません。無理だったのでしょうけれども。それを目に見える形で訴えることができるという言葉も必要でしょうね。政治家の資質の一つに、夢や理想が語れるというのもあるはず。内容があっても相手に届くだけのものを持っていなければ、誰も信用しません。とはいえ、ちときついですね。世界でもそれが成功している指導者をもっている国はほんのわずかですし。それを政治途上国の日本に求めても無い物ねだりなのかもしれません。

さて、学校です。

学校では、「宣言」が解除されようがされまいが、同じように換気とマスク、手洗い、そしてクラスが終わる毎の消毒、これらは変わりません。学生の中には、「宣言解除」を聞いて、安心してマスクをはずそうとする向きもあるにはありましたが、解除されても、「私たちのすることは前と同じ」と言ってあります。

で、授業です。

実は、「文法」の時間に(昨年までは「文法」は別の教員が教えていました)習った文型を、毎日の(私の)授業の時に暗記させていたのですが、どうも、毎日繰り返してやっても、「覚えられるクラス」と「覚えられないクラス」があるようで、特に「クラス」の人数が少ないと、もう大変。

例年は、「N2クラス」でも「N3クラス」でも、それがうまくできていたのですが、今年の「N2クラス」はどうもだめのようですね。読むのさえ、きちんと読めない人が半数います。四人しかいないから、二人でも毎日やるとずいぶん辛い。

最初のころは、(文法の)暗記のために、30分から1時間も時間を割いていたのですが、それを一ヶ月二ヶ月と繰り返しても同じだけかかる…つまり、同じなのです。ということで、このクラスでは、それをやめました。諦めが悪かった。もっと早く諦めておけばよかった。結局は本人の意思次第なのです、やる気次第。こちらがやってやっても向こうにその気が無ければ、どうにもならないのです。

今は、暗記用のプリントを読むことは読むけれども、それも20分以内にしています。もうしつこく繰り返さない。残りの二人のうちの一人は、日本で飛び飛びにですが、小学・中学を数年やっていますから、話し言葉には困らない。暗記文を覚えられなくても、文法問題は間違えないのです。もう一人は、昨年もこれを他のクラスでやっているので、読むことには難は無い。

もう一つの「N3クラス」は例年と同じようにやれています。最初は30分から1時間ほどもかけていましたが、今は2日で全部やるということで、毎日半分ずつやって、うまく流れています。時間は多くても20分から30分くらい。たいしたことはありません。

なにせ、両クラスとも、「読解」と「文法」、「N2クラス」では「漢字」もやっているので、時間が本当に足りないのです。最初の頃はギッチギッテでやっていたのですが、「N3クラス」の方では、それなりに流れがつかめると、すぐにうまく流れていくようになり、まあ、大丈夫でしょう。ただ、どうしても「読解」は時間がかかる。「なぜその答えになったのか」、「どうしてそういう答えが出せたのか」、それが言えないのです。

これは国でそれほど本を読んだという経験がない人たちにとっては大変なことのようです。例年のことなのですが、高卒でも「本を読むのが好きだった」という人が多いクラスだと楽なのです。が、そうでないと、彼らにとってはクイズみたいな読み方を、日本語で教えていかねばならぬので、ちと大変になるのです。

日々是好日
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国(民族)によっては、母音が三つだったり、五つより多かったり…お互いに大変です。教える方も習う方も。

2021-10-01 08:45:54 | 日本語学校
雨。

外は雨音が時々激しくなったり、また静かになったりと、台風の影響でしょう。風は強い方ですね。自転車で来るとき、なかなか大変でした。

さて、学校です。

今、「初級クラス」が開けないので(留学生がいませんから。それに在日の人たちのクラスはもう「N3クラス」になりました)、最近、勉強したいとやってきた(初級の)人は、朝の「N3クラス」の最後の列に座って、宿題やら与えられた課題やらをやっています。そして午後に、(今のところ一人ですから)個人指導で、初級の内容を勉強していくということになっています。…面白いことに、最初の頃は何もわからなかったので、自分の勉強だけに集中していたようですが、最近は、(N3の授業の時に)興味がわくと、こちらを見ているのを感じます。何を言っているのだろうと思うのでしょうね。これも一緒の授業を受けている(?)からこそのもの。自分でも日一日とわかることが増えているのが実感できるのでしょう。

彼女は大卒だし、インド人ということもあって、最初の方はかなり早く進めていきました。「これは家でできるね」とか、「ここは一人でできるはず、覚えてきてください」と言えたからです。勘もいい方だと思いましたし、真面目ですし。

これが「留学生」ばかりの時だったら、こうはいかない。また同じ「在日生」であっても、発音に重大な問題があったり、文法がなかなか理解できない場合にはこうはいかない。

「留学生」の場合、母国で「N5」までは履修してきていますし、申請が通った後も、引き続き勉強しておくようにと言ってありますから、『みんなの日本語』レベルでしたら、少なくとも「40課」か「50課」くらいまでは、初級における文法上の問題というのは、ほとんどありません。母語の説明を受けてきているはずですから。とは言いましても、習得できているかどうかは別です。

それに、毎年のことですから(相手校があることで)来る国も大まかには決まっています。つまり、彼らの発音やら文法上の問題は、だいたいこちらでも把握できているのです。それを確かめ(そういう難がほとんどない人もいます)、注意して置くくらいでどうにかなる…かな。もとより、上手になれるかどうかは本人のやる気次第というところですが。

ところが、「在日生」というのはそうはいかない。これまで、覚えているだけでも20カ国は超えています。

欧米はほとんどいなくて、やはりアジアが多い。日本に近いところの東アジアや東南アジアだけでなく、南アジアも結構いる。それから南米ですね。アフリカからも数カ国の人が習いに来ました。今いるのはスーダンの人です。というわけで、発音が大きな問題となってくる(「読解」は別です。これは知識の有無や想像力が関係してきます)。

国(民族)によっては、「あいうえお」と母音が五つでなく、三つであったり、あるいはもっと多くの母音があったりする。少なければ、発音が難しくなり、多ければ文字の問題が絡んでくる。

後者の例を挙げると、日本人にとっては、皆、同じ「あ音」であっても、彼らには別の音に聞こえるらしく、「このときの『あ』と、あのときの『あ』は違う音なのに、書くと同じ「あ」なのか」なんて聞いてくる。「同じように『あ』と書く」なんて言うと、最初のころは戸惑ったりする。

勿論、日本でも、方言の中には50音で捉えられないような音は少なからずあると聞いています。が、なんと言いましても、彼らは外国人ですし、しかも、こういう人は日本なんて国のことを、何も知らないまま、来日している場合も少なくないのです。

訊いて、「ああ、知っていた」と言っても、せいぜいが「車」くらいのもの。20歳前後なら、アニメを知っている人もいますが、それくらい。日本人が外国旅行中に、様々なところで出会う「安いよ。安いよ」とか、「買ってよ。買ってよ」なんていう「呼び声」は、来日するような人々とは無縁の存在なのでしょう。

やはり日本は小国ですね。知られていないのです。そういえば、80年代の後半、知り合ったアラブの友人は「日本と中国の区別がつかないまま、中国に来た」と言っていましたっけ。今でも「日本??よく知らない。アジア??そうか、中国か」くらいのものかもしれません。

私たちだって、北アフリカの国名は、「アラブの春」が、一時ニュースによく出ていましたから、多少とも馴染みはあるでしょうが、中部や南部アフリカのことは、興味がある人はともかく、他の人は、内戦とか病気とか飢餓とか、そういうことくらいでしか知ることはないでしょう。

日本についても、同じ事です。日本は戦争もないし、彼らが知る機会があるとしたら、原発事故という人災か、地震、津波、台風という自然災害くらいのものでしょう。20年ほど前だったら、「広島・長崎」と言う人もいたのに、最近は「広島」と聞いても、「ああ」という人が少なくなりました。知名度は低いですね。政府がいくら躍起になってもだめですね、これは。

日々是好日
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