日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「田舎暮らし」ねえ、いつも、同じような時期に、訊いてくる人が出てきます。

2020-01-31 08:43:04 | 日本語学校
晴れ。

いかにも冬晴れといったお空の具合です。昨日もそうでしたが、ずっと冬空らしからぬ愚図ついたお天気だったので、昨日は久しぶりにすっきりした気分になりました。そして、今日もそうです。

冬は冬らしく、春は春らしくなければ、四季の移ろいなんて言ってられません。季節がごちゃ混ぜになってしまい、いつがいつやらわからなくなってしまい、詩歌における「春の部」、「夏の部」なんてのがこりゃ、何のこっちゃという具合にもなりかねません。

密やかに移りゆく季節の移ろいであってこそ、成り立つはず…なのですから。

昨日は、お空は、まあ冬らしかったのですが、気温の方は、「サクラ(桜)」が咲いてもおかしくなかった…とのことでしたが、今日は、また気温の方も冬にもどりそうだということで、ちょっとホッとしています。北風も強くなるそうで、勘太郎さんがやっとお出ましかというところ。まだ、冬将軍の出陣とはいきません。

さて、学校です。

昨日、「どうして日本人は『田舎に住みたい』なんて言うのか」と、女子生徒がぽつりと言っているのが聞こえてきました。 全くわけがわからない…。彼女にしてみれば、「田舎には何もない。病院も、学校も、店もない。車を見たことがない人だっている。みんな、何も知らないんだ…。田舎は嫌だ」

聞いているうちに、以前、日系ペルー人の女の子の話を思い出しました。

ペルーで生まれて、小学校は日本で、でも、中学はペルーに戻らされたという彼女、戻ったペルーでいかに馴染めなかったかという話をしてくれました。私は、ただ、幼かったので、故郷の良さがわからなかったのだろうと思っただけでしたが。

「日本はコンビニで何でも買える。コンビニはいつも開いているし、どこにでもある。買いたい時には、夜でも、一人で行けた。でも、ペルーでは、陽が落ちたら、女の子は外に出てはいけないと言われる。危ないから。食事は大皿に盛られていて、種類も少ない。内容も単調で、つまらない。何にも面白いことがなかった…。早く日本に帰りたかった…。

日本人が思うところの田舎暮らしと、彼等の思うところの田舎暮らしとは、大きな差があります。もちろん、日本だって、田舎は都会と比べれば不便なことも多く、車がなければ、生活しにくいことは事実です。とはいえ、その不便を補ってあまりあるものを感じるからこそ、人は、田舎へと心が向いていくのでしょう。

中国人にしても、来日して、(旅行でもして)、田舎へ行く機会があった人は、「あれが田舎か。中国と全然違う」と、(発見して)言うようになるのですが、留学生はそれほどの時間の余裕がありませんから、自分たちに思い描いているところの田舎として、日本の田舎を考えてしまうのでしょう。

DVD等を通して、少しずつ、認識を変えてもらうより仕方はないのでしょう。

日々是好日
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漢字を書くのが驚くほど速くなりましたね。頑張った証拠です。

2020-01-29 08:18:18 | 日本語学校
小雨。

まだ、パラパラと降っています。

「小糠雨」というよりも、さて、何でしょう、もっと細かく、疎らに降っているような気がします。それでも、傘をさしている人も、いることはいる。濡れるのが嫌なのでしょうね、冬の雨ですもの。もちろん、そのまま歩いている人もいる。私も今日は自転車で「登校」してきました。

昨日は寒かった…。「Aクラス」など、早く来て然るべき人が遅かったため、「まだ、揃わない」と一時限目担当の教員が、イライラ、ハラハラしながら入口を見ていました。

とはいえ、例年よりもずっと出はいい方で、しかもきちんと授業を聞いてくれますから、やりやすいと言えばやりやすい。

それに、「A、Bクラス」ともなりますと、一年半ほども漢字を鍛えられていますから、スラスラ書いてくれます(書くのが速いのです)し、書き順も大きな間違いはありません。…これは真面目に書いてきた8割以上の学生のことです。中には適当に誤魔化してきた人もいことはいる。そして、今、苦労しているのはそういう人なのです。まあ、自分で「身から出た錆」なんて言っていますから、わかっているのでしょう。

こういう状態までなれたのも、「N5」や「N4」レベルの頃から、「偏」や「旁」に注意を向けさせたり、パーツに気をつけさせ、同じパーツの漢字をあげさせたりしてきたからなのでしょう。受け持っていた教員は、少々手間取ったりしていたようですが、それが今の彼等を作っているような気がします。

それと、大切なのはバランスでしょうか。誰だって、格好いい字を書きたいでしょうから。中には、一生懸命書いているのに、四角の枠の中にきっちりと入れてしまうのが苦手な人がいて、自分でも何だか変とは思うのでしょうね、一字書いてはノートを見せてくれるのですが、そのたびに噴き出してしまいます。…ゴメン、ゴメン。

最初は小さく入っても、一画毎に大きくなってゆき、最後には歪な台形になってしまうのです。「最初はちゃんと小さく書けるのにねえ」。いつも言われるので、当人も嫌になっているのでしょうが、それでも、時々、「書いて(見せて)」とノートを持ってきます。最初は一行に収まっているのに、最後に筆を置く時には3行目にまで及んでいた…というような状態。

その都度、「あ~あ、またやっちゃった」と、バランスを教え、手を加えてやっていたのでしょう、今回の、『卒業文集』では、きっちりとマス目に入っていましたから。まさに、「おお!」です。皆で見て、「凄い。○○さんの字が、小さいマス目に入っている…」と、特に指導してきた教員は感慨を新たにしていました。

もっとも、小さく書ける度に、「凄い。ちゃんと入っている」なんて言われていたようでしたから、仕舞いには、「また言う…」と少々いじけていたようでしたけれども。

漢字を書く時に、バランスを考えるのは、非漢字圏の学生にとって思いの外大変だったようです。「ここは、これくらいの横長の四角の中に入れ、ここは三角形、ここは縦長」などと教えていくと、形はまあまあでも、そこに注意が行きすぎ、あっという間に画数の多い時など巨大化してしまうのです。それが、よくぞここまで来られたと思います。

教員の根気も確かに必要だったのでしょうが、学生も嫌がらずに、書いては見せに来ていたようで、それも大きい。

そうして、そうやりながら、互いに通じ合えるものが築けたようで、二年生の「Aクラス」も「Bクラス」も、進学先が決まっていても、孜々として授業に臨んでくれています。

卒業まで、あと少しですね。もう少し、この学校でがんばりましょう。

日々是好日

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氷雨でしょうかしら、冷たい雨がそぼ降っています。

2020-01-28 08:17:52 | 日本語学校

小雨。

午後には大雨になるかもしれないとか。で、今日は歩いてきました。歩くとゆっくりと周りの景色が見られるはずが、どうも歩くことに集中せざるを得ず、あと少し、あと少しなどと思っている間に、時は過ぎて行き…、ああ、もったいない。

歩いても、周りを楽しむゆとりなんてありませんね。本来なら、冬芽が膨らんでいる木々や、空き地に生えている小さな花を見つけることができたでしょうに。とはいえ、学校に着いた時にはホッとしました。成功!ですね。着いた、着いた…いや、着けた、着けた。

いつもは慌ただしく自転車から降りて、そのまま階段をよっこらしょと登っているのですが、今朝は、ちょっと、(登るまでに)一息入れて…「ツバキ(椿)」観賞を決め込んで…。しかしながら、もう終わりですね。満開のものが三輪ほど残っているだけで、あとは萎れています…んん?萎れている???で、ふと気がつきました。「ツバキ」は、ぽとりと花が落ちるのではなかったっけ???

「ツバキ」と「サザンカ(山茶花)」。品種改良というか、そんなわけでどっちつかずのものもあるそうですから、そっちかな。この花木は。

さて、学校です。

相変わらず、靴下なしのベトナム人学生が一人います。昨日はさすがに、半袖ではありませんでしたが。

それで、他のベトナム人学生を見てみると、確かに、靴下を穿いていると言えないことはないけれども、これで、寒さ対策になるのかしらん…。

踝がはっきりと出ている。「首を完全に覆っていなければ、寒いのは当然。それで、寒い、寒いというのは間違っている。風邪をひくぞ」などと言っても、だめですね。一時期、若い人たちの間で、レッグウォーマーなるものが流行ったことがありましたが、今はどうなのかしらん。流行っていたら、それで気をひくことができるのですが。

いやはや、寒いと、こんなことまで心配になってきます。彼等にしてみれば、「しつこい」で終わりなのでしょうけれども…。でも、こんなのは一年目の冬を過ごす人たちだけです。二年生ともなりますと、寒い時には、何も言わずとも、きちんと靴下を穿いてきています。それを見ると、この種のくどさも徒労ではないようですね。

日々是好日
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急に寒くなったのですが、「沈丁花」の蕾が膨らみ始めています。

2020-01-27 08:16:33 | 日本語学校
曇り。

お日様が出ていないせいでしょうね、一日中気温が変わらないような。それどころか、午後、雨が降り始め、夜には雪になるかもしれぬとか。いよいよ、冬の到来か…というような気が、今頃、しています。もうすぐ二月なのですけれどもね。

とはいえ、学校の「ジンチョウゲ(沈丁花)」の花は蕾を膨らませ始めています。この辺りでも、もう「ロウバイ(臘梅)」の花は散ってしまったことでしょう。ただ寒さがなかなか来なかったせいか、早咲きの「ウメ(梅)」がなかなか咲きませんでした。「サクラ(桜)」にせよ、「ウメ」にせよ、一度は寒さを経験しないと、美しくは咲かないというのは、人にそれを見よとでも言っているかのようです。

さて、学校では、今日、二年生が「朝日新聞社」に行くことになっています。9時出発です。もちろん、一年生は学校でお勉強です。

この二年生、彼等だけで行く時は、だいたい、お天気が悪いのです。雨女か、雨男がいるのでしょうね。

今年の彼等に限らず、留学生達は、どこかへ行く時には、女の子はきれいに化粧をしてきて、「あなた、誰?」と言いたくなるような時もありますし、男子にしても、これは精一杯おしゃれしてきたなと思う人も出てきます。

「歩くから、高いヒールはだめ」と最初に注意をしておかないと、途中で足が痛くなったから帰る…なんて事にもなりかねません。実際、皇居へ行った時には大変でした。その点だけは要注意なのですが。それこれも、写真か動画を国に送るためらしいのです。撮ってはお互いに見せ合って喜んでいるようですし。

ただ、だいたいが南国の人たち。日本の冬を甘く見ていて風邪をひいてしまうということもあるのです、今は。

とはいえ、きっと、今日も、おしゃれをして来るでしょうね。伊達の薄着で風邪をひかなければいいのですが。

日々是好日

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やっと冬になったかの感あり。…ところで、人と一緒に自転車を走らせるのは、…なんと難しいこと。

2020-01-23 08:15:03 | 日本語学校
曇り、時々小雨。

風はないのですが、冷え冷えとしています。時折、雨がパラパラと降ってきます。いかにも冬という感じです。お日様が照っていると、こうまでは感じないと思うのですが、一日中、こんな天気で、気温も上がらないそうです。いかにも寒々しい…冬がやっとやって来た…かな。

月曜日、久しぶりに転けました。信号のある十字路のところでしたが。信号が青だったので安心して、そのまま自転車で行こうとしたら、急に曲がってきた自動車が目に入ったので、あわててブレーキをかけたのです。その時、バランスを崩したらしく、ゆっくりと倒れてしまいました。我がことながら、比較的はっきりと覚えているのです。倒れたは倒れたのですが、非常にゆっくりと倒れたので、「あれれれ、あれれれ、こはいかなこと」と思うゆとりさえありました。もちろん、バランスは崩したままです。

向こうも慌てたらしく、ブレーキをかけたはいいけれども、私がその場に転んだのを見て、(多分、けがはしていまいと思ったのでしょうね)そのまま行こうとしました。こちらはそれをどうのこうの思うゆとりもありません。転ぶまではゆっくりしていたのですが、転んでしまってからの時間の速かったこと。もっとも、はたからみれば、ワサワサしたおばんがというところだったのでしょうが。

立ち直って、自転車をせって向こう側に着いた時に、まだ青のままでしたから、大して時間は経っていなかったのでしょう。

若い子が転ぶ時は、(凄いスピードで走っているからでしょうか、倒れる時も)あっという間。それがこちらが転ぶ時には、スローモーションでですからね、年を感じてしまいます。

学生達を見ていても、彼等の自転車の飛ばし方たるや、普段はトロトロしている子も、あっという間に姿が見えなくなってしまいます。彼等にしてみれば、自転車で私と一緒に走っている時なぞ、さぞかし、イライラすることでしょう…と、思うのですが、優しい彼等、そういう時でも、誰か一人は私の後ろというか、私のそばについていてくれ、「先に行って」と言っても、行かずに世話を焼いてくれるのですから、申し訳ない気持ちで一杯になってしまいます。

ただ問題は、その時にずっと彼等が話しかけてくれていることです。自転車に乗りながら、話をするというのは、私にとっては上級の技になるのです。なにせ、まっすく前を見ていないと、バランスが崩れてしまうのです。それでも、ずっと顔を見ずに答えるわけにはいきませんから、良さそうな時に、彼等の顔を見てしまう。すると当然のことながら、バランスを崩し、よたついてしまう…。

本当に、大変です。もっとも、これは技術の問題であって、年とは関係がなさそうですが。

日々是好日
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「『田舎』の人は、同国人とは認めがたいの?」

2020-01-20 08:52:43 | 日本語学校

晴れ。

昨日は「大寒」だったのに、暖かかった…で、「大寒」が過ぎた今日は11度から、5度とか。風が強いから、よけいに寒さを感じる…。時折、ビュッという風音が聞こえてきます。植木は大丈夫かな?

土曜日、雪が降りました。雪と言っても「粉雪」です。カメラには写りませんね、ああ、細かくては。

もっとも、初めて雪らしきものを見た学生達は大喜びで、「見た、見た。雪でした。雪、雪」と大はしゃぎで、月曜日に報告をしてくれました。

ほんの一時降って、すぐに雨になってしまったので、「霙」ととった学生もいたようでしたが(なにせ、「土曜には霙が降るかもしれない。寒いぞ」という予報が出ていましたので、金曜に学生達に知らせていたのです。夜勤の人もいるので)、あれは確かに雪。細かくとも、白かった。水分は霙ほど多くはなかった。軽やかでしたもの。

子供のころ、ふんわりと落ちてきて、すぐに溶けた「牡丹雪」が懐かしい。ああいうのを見なくなってから数十年…見たいなあ、あれこそが私の中の「雪、そのものだ」などと言いますと、雪国の人から、呆れられてしまうのでしょうね。

南国育ちの人間の言う「雪」と、北国の、雪に閉ざされた経験のある人たちから見た「雪」と、両者の間には、隔絶たる違いがあって…、それを知ってから、単純に「雪はきれい」などとは言えなくなってしまいました。

…こんなことを思い出しているうちに、別に連想ゲームではないのですが、ある国の人たちとの、こんな話を思い出してしまいました。

「結婚」のことです。する、しない、それが許されるかどうかではなくて、結婚する年齢のことです。

「何歳くらいが多い?」と訊きますと、だいたい20歳前後、中には「何歳でもいい」なんて言って笑う人もいます。すると、一人が、「12、3才で結婚することもある」と言いました。「もっと早いこともある。でも、田舎、田舎の人」と言い直されていましたけど。他の人からは、「学校に行かないから?」と言われたり、「本当?」と聞き返されたり…。

多分、彼等の国で、田舎の様子を知っている人がそう言ったのでしょう。同じ国であっても田舎の様子を知らない人たちは、自分の国であってもそういう事が行われている事など知りません。また知っていても、それは「田舎(という、まるで別の国でのこと)」という感じで、自分たちとは全く無関係の連中がしているくらいにしか捉えていないのでしょう。

彼等にとっては、国内のそういう「田舎」の人たちよりも、日本人である私たちの方が近しい存在であるのかもしれません。「あれは田舎の出来事だ」で切って捨てられることなのです。

「でも、それはあなたの国のことでしょう」というのが、何となく通じ始めるのは、来日後、2年近く経ってからのこと。「そうなのだ、外国人の目からは、そういう『田舎の人』も、我々も、同じ国の人間と見えているのだ」と、初めて気づくようです。

最初の頃、彼等と話していて、話せば話すほど、どこかしら違和感が増していく…ような感覚は、彼等が同国人を(彼等と身分や財力などが違っていれば)同じ輪っかの中にいる同国人とは認めていなかったことに由来していたからなのかもしれません。

ミャンマーの人たちもそうでした。ロヒンギャの人たちを、「ミャンマー人じゃない」と、きっぱりと、まるで問答無用という風に言っていましたもの。いつもは穏やかな人たちでしたが、この一点だけは、譲れないといった感じで、唇を引き結び、とりつく島もない…。

ミャンマー人の中には、中国系の人たちも、タイ系の人たちもたくさんいたのに、違うのです。どうも宗教でバッサリと断ち切っていたような…。仏教徒だったらいいのかな。日本人は、自分達が仏教徒なのか、それとも神道を信じているのか、おそらく大部分の人は判らないまま適当に生きているのだけれども…。

だから、「宗教がある」と言われると、ハッとして、「してはいけないことがあるんでしょ。これ、大丈夫?」なんて訊いてしまうのです。「宗教がない」と言われて、ハッとする欧州人とは真反対。

もちろん、私達が気づかないところで、「線引きをしているな」と、異国の人たちから見れば、そういうところも多々あることでしょう。ただ、私達はどの宗教であれ、はっきりと「○○教徒である」と言われてしまうと、戸惑ってしまうのです。自分たちに自覚がないだけに。

日々是好日
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「大寒」です。でも、寒くはない…。

2020-01-20 08:52:43 | 日本語学校
晴れ。

大寒です。けれども、あまり寒くはない。土曜日は、粉雪が舞っていましたのに。

予報では、雪が降るかもしれない…けれども、ほとんど降らなかった。どちらかといえば、冷たい雨が、一日中、シトシトと降っていた…。午後は止むと言っていたのに…。

今年はどこかしら、変な気がしています。この「変な気」というのも、温暖化だから、いつもと違う…というような感じではないのです。それはここ数年感じていたことで、それとは、今年はどうも、違うのです。

冬なのに、冬じゃないような、春を待ちわびるといった気分がしないような…そんな四季がごちゃごちゃになったような、そんな、変な気分なのです。

というのも、今、学生達に、『枕草子』の一節を教えた時に、教えながら、自分自身、「あれれ、どうも…違うな」というような違和感がついて回っていたからなのかもしれません。俳句はともかくとして、短歌などもいけません。時の移ろいを、確と目に見えぬ先に感じるなどというのも、…違うな…。

昨今の自然が、歌を通して感じられるものと違うのです。

イスカの嘴の食い違い。頭の中にある「歌の世界」と、今感じている「現実の世界」と。口先では、今は、それと感じられない歌の世界のことを、さもわかって当然と言ったふうに説明しながら、心の片隅では、自分もそれを信じていない…。

なんだか、嫌なものです。

もう、心の中の日本じゃないみたいですよね。

日々是好日
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明朝、霙が降るかもしれません。

2020-01-17 07:43:39 | 日本語学校
曇り。

今夜か明朝、霙になるかもしれません。

先日、ある東北出身の中国人学生が「どうして冬に雪が降らないのか」と訊いてきました。雪ではなく、雨が降るのがどうも合点がいかないらしい。

今年の冬は(暖冬ですから)ともかくとして、東京湾の奥にあるこの地域は、例年、あまり雪が降りません。一昨年でしたか、去年でしたか、1度だけでしたか、雪が降ったことがありました。すると、その年の学生達、鼻高々で、新しく来た学生達に、「私達は雪を見た。寒かった」なんて誇っていましたもの。

その前の、いつだったかは忘れてしまいましたがは、本当に細かい粉雪が降ったことがありました。ちょうど授業中で、誰かが無聊を託っていたのでしょう(許されませんが)、窓の外を見て、「雪!」と叫んだのです。途端に、皆が浮き足立ってしまい、授業になりません。「では、十分だけ」と言う約束で、解放してやると、先を争って出ていきました。雪と自分の写真を撮るつもりだったのでしょう。

十分ほどで、意気揚々と戻ってきたはいいけれど、見せてくれたスマホには雪が写っていない…。あれれれ…気の毒なほどがっかりしていました。

南国の人たちが大半でしたから、自分が雪と一緒にいるところを撮ったつもりだったのに写っていたのは、雪なしで喜んでいる自分だけ…でしたもの。

もっとも、親御さんにしてみれば、そんなの、どちらでもよく、元気で楽しそうな彼等の顔が見られれば、それで御の字だったのでしょうけれども。

最近の南国からの学生達は、東京辺りは「雪が降らない」と思っているようで、以前の学生達のように、冬が近づき始めると、「雪はいつ降るか」とせっつき出すことがなくなりました。ただ彼等、雪を見ることが来日の一つの夢だった…と言っていましたから、その夢を最初からこの地(行徳)では諦めて来日しているのでしょう。人は変われど、同じ地域から来ていれば思いは同じでしょうから。

今はまだ勉強漬けの毎日だけれども、日本語が上手になってから、(雪が見たかったら)旅行で雪国に行けばいいと言ってやることしかできません。ただ、実際、雪国で仕事をすることになった人は、(雪が現実のものとして存在すれば)寒いやら、不便やらで、雪というものは決して美しいとばかり言っていられるようなものではないということがわかるようです。

とはいえ、露天風呂で雪見酒としゃれているような映像を見せられれば、やはり心は動かされますよね。それに、スキーやスケートだけでなく、雪合戦とか雪だるまとかで遊んでいる様子を見せられれば、やってみたいと思うのは当然のこと。

どちらにしても体験してみる必要がありそうですね。百聞は一見にしかずと言われますから。

日々是好日

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冬の裸の木々の間に、赤い花なんぞを見かけると、明るい気分になってきます。

2020-01-14 08:43:41 | 日本語学校

晴れ。

木々はすっかり冬の姿になっています。とはいえ、「サザンカ(山茶花)」も「ツバキ(椿)」もきれいな花を咲かせていますし、少しでも郊外に行けば、「ロウバイ(臘梅)」の花もまだ散ってはいないでしょう。

学校の「ツバキ」も赤い花をたくさん咲かせています。学校に来て自転車を停める時、ちょっとホッとしますね。やはり、色があるのはいい、花の色は特別です。

この、色がないというのも、無彩色というか…そう見えるのですが、決して「無彩色」というわけではなく、冬の景色というのは、全体的にそう感じられるということなのです。

もっとも、景色はそうでも、学校の方はそうではなく、本当にこんなでいいだろうかと思われるほどに、穏やかで、楽しく、何事もなく過ぎています。

ネパール人が多いせいでしょうか。変に自己主張をするでなく、変にプライドが高いのでもなく、変に物欲がぎらついているのでもなく…、おっとりしています。だから、教室もそんな感じになっています。不思議ですね。そのまま水の上を、滑らかにそのまま滑っているような、そんな毎日が、続いていたのです。

これまでは、(他の国の人たちが多く、それ故か)苛つかされることも多く(授業中でも)、「なにせ、目的が違うんだからしょうがないと思わざるを得ない」という人たちが、主流の時代もありました。

この人たちが卒業した後、どうなるのでしょうか。ちょっと不安です。教師の、こういう気持ち。おそらく、入管の人たちはわからないでしょうね。

日々是好日。

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「新学期2日目」。「明日、二年生は、『日本科学未来館』へ参ります」。

2020-01-09 08:23:38 | 日本語学校
晴れ。

月日の経つのは速いもので、つい、この間、21世紀になったかと思っていたのに、もう2020年になっています。ブログを書く時に、やっと「19」でなく、「20」に慣れたかと思っていたら、今度は、その次の数字で打ち損ねています。「20」の次はどうしても「2」でなく、「1」になってしまうのですよね。

「十年一昔」というけれども、10年という歳月は、何事であれ、「習慣」を築き上げてしまうに十分な年月であるとみえます。人という生き物は、新しいものに無理にでも関心を持とうとしたり、新しいものを意識的に作り出そうとしない限り、毎日が惰性的になり、保守的になり、挙げ句の果ては、頑迷固陋な人となってしまうのでしょう。

生き物というのはそういう定めを持っているような気がします。一日は、何十年経っていようと初めての一日でありますのに…。それ故に、なおさら、発展していくためには、常に「世代交代」が必要であり、人は無意識のうちに、そういう人材を求めてしまうのかもしれません。

さて、新学期2日目が終わりました。

ヒアリングというか、聞いてからの反応は速くなっているけれども、基礎的なものがきれいさっぱり消えていた…。もちろん、全員というわけでも、その全部がというわけでもなく、休み中、一度も教科書を開いていなかったなというのがわかる程度のことなのですが。

質問しても、最初はシ~ンですね。それから、一人が、思い出したように、「あっ、○○」。すると、「えっ」という感じで、次ぎに、思い出したように、「あ~あ、そうか」。これはため息交じりで。

授業が終わってから、中国人の学生が、やって来て「漢字は、判ると思って一度も見なかったら、(前に合格していたところまで)全部忘れていた(漢字テストが週一であります)。やはり『N1』は難しい…」。

まあ、この時期にそれがわかっただけでもよかったと…言えなくもない。

(この学校は「非漢字圏」の学生達が多いので)「漢字圏」の学生は、よほど日頃から注意しておかないないと、「非漢字圏」の学生を見て安心してしまうのです。(他者に)自分の及ばないところを見てくれるといいのですが、なかなかそうはいきません。普段から「手を抜いているな」とか、「高を括っているな」とか思われた時には、バシッと「入試の相手は、中国人だからね(中国で日本の高校と同じカリキュラムでやってきた高校生も、日本の大学の「外国人枠」で試験を受けていますから、ますます門は狭くなっています)」と言ってやらねばなりません。

素直な学生は、それでどうにかなるものなのです。

後は、少しずつ、勉強時間を増やしていくようにさせていくだけです。

総合問題などに関しても、「まだ勉強しなければならないことが、山のようにあるのだ。それも試験のためだけではなく、大学に入ってから、日本人と伍してやっていくために、あるいは、将来、自分の好きな仕事をしていくために」というのが、ある程度、わかってくれば、自分から、やるようになるでしょう。まず、本人が、そう思わなければ、こちらとしても、何にもできません。

こちらが、「あれやれ」、「これやれ」と、やいのやいの言っても、「ああ、日本も中国と同じで、『暗記、暗記』の国なのか」と思われるだけです。

本格的に勉強を始めるまで、まずは、中国で染みついた垢を洗い流してやらねばなりません。この専門を好きだから、だからそのための勉強なのだということがわかってくれば、あとは知識を増やしていけばだんだんにわかることが増え面白くなるでしょう。面白くなければ、誰だって勉強なんてしたくありませんもの。興味がなければ、覚えるのは苦痛以外の何ものでもありません。

少しずつ、興味が出、面白さがわかるようになってくれればいいのですが。

日々是好日  
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「2020年」が始まりました。今年もよろしくお願いします。

2020-01-08 08:25:24 | 日本語学校
小雨。

新学期が始まりました。

つつがなく皆揃い、それどころか、今年の7月に「N1」を受験したいというベトナムからの人まで加わっての、年の初めの新学期となりました。

彼は、日本でもう数年IT関係の仕事をしているとのことですが、やはり教室用語というか、学校で頻繁に遣われている言葉には戸惑うことが多いようです。

一学期に行く予定の「日本科学未来館」や「朝日新聞社」の話をしていた時も、かなり戸惑っていました。学生達はもう二年目で毎月のようにどこかへ行っていますから、慣れたもの。ごくごく自然に話を聞き、理解し、ああそうかで終わりなのですが。

もちろん、これは「課外活動」で、日本理解のための教育の一環、学校行事です。つまり見学に相当するものなのですが、どうも私達教員と学生達との間には理解の上で、齟齬をきたしているらしく、つい、彼等、「今月はどこへ遊びに行きますか」と聞きに来たりすることもあるのです。

その都度、「遊びではありません。勉強です」と直すのですが、学生の方も慣れたもので、聞きたいことさえわかれば、「勉強」と正されようとも、関係ないというところなのでしょう。「へへへへ」で、終わりです。

二年生ともなると、一人がそう聞きに来たりした時など、もし周りに同じような二年生がいれば、こちらから言うまでもなく、「見学です」と訂正したりするのですから、もう何をか言わんやです。本当は、遊びに行きたくてウズウズしているのでしょうに。

最近は、学生同士でもどこかへ行ったりすることもあるようですが、以前は、学校の勉強とアルバイト、そして帰ってきて寝るだけという「三点生活」の学生も少なくありませんでした。

それどころか、中国人やベトナム人が多かった数年前には、彼等の国の教育のなせるワザか、どうなのかはわかりませんが、どこかへ見学に行くくらいなら家で寝ていた方がいいという好奇心があまりない人たちがワンサカいて(まあ、小さい学校なので、そういう人が5人とか8人とかいると目立つのです)、わざわざ学生達のために学校から外へ連れ出してやっているのに、いったいどういう了見なのだとイライラさせられることもありました。

だいたい、人を待たせても平気なのです。それが雨が降っていようと、冬の寒さの中であろうと、お構いなし。想像力がないから、待たされている人がどういう状態なのか、どういう気持ちなのか考えられないのでしょう。「これでは、どうしょうもないな。こんなでは、日本で人に嫌われるよ」と彼等の代わりに心配したほどだったのですが、それがいつの間にか、そういうベトナム人が減り(中国人留学生は、今、ほとんどいません。いることはいるのですが、ごく自然に日本に慣れているようですね)、今はみんな楽しみにしてくれているので、引率も気になりません。

ネパール人が増えたからかなとも思っているのですが。

こういうのを考えると、共産主義というのものは、人にとってあまりいいものであるとは思えませんね。国を統治していく上では便利かもしれませんが、何か大切なこと、物欲とかではなく、興味・関心から面白がって何かをしたりする、そういうものが、欠けがちになってしまうような気がします。面白がるにしても、おかしな事を面白がったりするのです。悲しみは万国共通であるという考え方さえ、誤っていると思いたくなることもありました。

多分、社会や国民が十分に成熟していない時に、そういう主義を入れてしまったからなのでしょう。どのような思想でも、いいものはたくさん含まれているはずなのですが、それが理解されず、活用されず、時の政府に都合がいい部分だけ利用されてしまえば、結局ナンジャモンジャで終わってしまいます。熟されないまま入れてしまえば、何でもおかしな方向に進んでしまいます。その上、それを正していくような自由な考え方が活発に為されていなければ、それどころか、下々に許されていなければ、社会も人も、硬直するだけです。腹いせに、転んで怪我をする人を見て、面白がって笑うしかなくなるのでしょう。

まあ、他人事ではありません。日本政府だって、わけがわかりませんもの。せっかくいい学生(ネパール人)を選んで連れてくることが出来るようになったと思ったら、一律に不交付ときているのですもの。一度切れた流れを戻すのは、倍のリキが必要になります。

国によって制度が違い、どこでも日本のようにやれるかというと、そんなことはないのです。銀行が信じられない国の人たちだっているのです。同じ国でも地域によって、税を納める必要がないというところだってあるのです。明治期の日本のように、里の人たちが皆で資金を出し合い、町で勉強させるという習慣だってあるのです。

多様性を認めると言いますが、他国の制度も認めて欲しいですね。出せないものを出せと言うから、そこで暗躍する手合いも出てくるのです。「ありませんから、出せません」が通じるようになって欲しいものです。

新年早々文句ばかり。でも、これは学校が、学校らしくなり、教室でも、よく勉強してくれる学生が増えたから言えるセリフなのです。

今年もよろしくお願いします。

日々是好日
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