曇り。
寒い。風が冷たく、咲いたばかりの「サクラ(桜)」の花も震えていることでしょう。それなのに、なぜか今頃、「モモ(桃)」の花が、俄然目立っているのです。…「モモ」は「桃の節句」の頃じゃなかったっけ???
白やら紅やら、また、同じ木に白と紅の花が咲いていたり…。中でも、白で、八重か九重の花びらがボンボンのようにかたまって咲いているのが、本当にかわいらしい。スックと真っ直ぐに伸びた枝に、大きめの花がついているのですから、これは目立つ。青空の時は言うに及ばず、今日のように重く雲が立ちこめていても、そこだけ照り輝いているように見えるのですから、すごい存在感です。
それから思えば、「ソメイヨシノ」の花、一輪1輪は、地味ですね。そして、「ウメ(梅)」は、もっと地味。それなのに、人の、これらの花に対する思いは、ずっと深いものがある。不思議ですね。人は、花に、己の人生を重ねてしまう傾向にあるからなのか、それとも、人生どころか、この民族の歴史(先人達の心)みたいなものまで見てしまうからなのか。
「詩」とは不思議なものです。「俳句」にせよ、「和歌」にせよ、たった17文字か31文字で、こういう思いというか、広がりを、時間や距離感まで失わせてしまうほどに与えてしまうのですから。その中で用いられている言葉の一つにでも、先人達の歌中の言葉が重なってくと、それだけ思いは重層的に広がっていく。もう三次元、四次元どころではありません。
以前、宇宙の広さを人の心にたとえたCMがありましたが、その通りなのでしょう。
さて、学校です。
昨日は「自習室」に来たのは一人だけ。寂しいかなと思っていたのですが、この部屋は私のものと言わんばかりに、荷物をあっちにも広げ、こっちにも広げしている。ちょいと顔を覗かせてみると、楽しそうに言いたい放題。まあ、大目に見ておきましょう。
そして、「補講」です。
単語や文法の量が増えたこともありますが、自分で出来ることを授業中にやろうとする。今までは夜のバイトで疲れているからだろうくらいに見ていたのですが、もうバイトなし生活が一週間ほども続いているというのに、同じように家では学習していない。授業中に初めて見たかのように単語を見ているし、昨日の復習もしていない。もちろん、来ないより来た方がいいのは確かなのですが。
「補講」というのは、既に学習し終わったところをやる。いわゆる復習です。中には、他のクラスメート達には、追いついていないとはいえ、自分でできるところはやって来ている者もいるわけですから、そんなこと(単語)に、あまり時間を時間を取りたくはない。やらなければならないことがたんとあるのですから。
で、昨日はいつもより強めに、「やって来い」と注意しました。彼は困っていました。そんな経験はないのでしょうね。
本当に、ネパールの人を見て思うのですが、いい人達なのです(選んでますもの)。けれども、日本で言うと、小中学校で、きちんと学習の躾け(学習態度)を受けていないし、皆に追いつくためにはどうしたらいいかもあまり判っていない。座っていれば、だれかが運んでくると思っている。10日しか補講の時間がないのですから、「次にやる課の単語くらい見ておけ」です。
それが言っておいてもできない。いったい部屋で何をしているのか。
それに、彼等は出来ることが凸凹していますから、人によってわかっていることがまちまちなのです。それで、出来るとなると、面倒だからでしょう、できない人を待てない。活用の練習の時も、わざと「言ってェ~」、「言ったァ~」…と気怠げに言ってみたりする。そこで叱ると、一人でバアッと早口で言ったりして、ほかの人の邪魔になる。で、他は出来るかというと、そう出来るわけでもない。
もちろん、ほとんどの人は、そんなことはしません。ほかの人がついていけないと「あれっ」という顔をして待ってやります。しかし、それができない人もいるのです。スリランカ人にもそういうのがよくいましたが、それは明らかに注意してどうなるという類の者ではなく、たいていのことに不愉快さを感じさせるタイプの者たちでした。
ところが、ネパールの場合は、インドと同じ、思わず歴史的ないわゆるカーストが残存しているのかなと思わされるような感じなのです。ほかの人がそういう人に対しては何も言わないのです。言うのは、こちらくらいでしょう。最初は黙っていても(文化も宗教も習慣も違いますから、いつも最初は様子を見ています)、目に余るので、注意するのです。
昨日は随分きつく言いました。アルバイトも、ネパール人ばかりのところとなれば、国にいる時と同じように、勝手をしても、だれも文句は言わないのでしょう。「いったいどういうつもりだ。一緒に授業をしているのだ。一人で授業を受けているわけではない」。
自分だけにしてもらっているような気分になるのでしょう。こちらは誰に対しても同じなのに。真面目にやってさえいれば、誰に対しても教師は懸命に教えたくなるもの。相手を選びはしません。真面目にやるかどうかそれだけを見ているのです。
日々是好日