日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

どんな算段をしていようと、学校で学ぶからには、「ひらがな」くらいは覚えてほしいと思ったことがありました。

2023-06-30 08:48:39 | 日本語学校

時々、小雨。

今朝は、来るとき、三歩ほど歩く度に、ポツリと雨粒を感じた…くらいでしたが、今、ちょっとザーッと来ましたね。今日は降ったりやんだりだそうで、お湿りくらいかな、このあたりでは。ずっと暑い日が続きましたから、息抜き程度の雨はほしいところなのですが。地域によってはそれどころではないというところもあるでしょうから、それは贅沢なのでしょう。

雨が一分ほどザッと来ると、その後涼しい風がちょい吹く。学校に着いたときから、今まで汗がタラタラと出続けでしたから、今、ちょっとほっとしているところです。

さて、学校です。

この近辺は外国人が多く住んでいるので、様々な国の人が日本語を学びに来ています。年齢がかなり高い人もいますし、働き盛りという人もいます。日本企業に勤めていて、日本語をどうにかして習得したいと頑張る人もいれば、「私は会社を作る、話せればいい」と言って、文字を覚える気などさらさらなく、マイペースでやる人もいます。

日本で生活するのなら、「ひらがな」くらいは覚えておかないと困るだろうと思うのですが、共通言語がないので、言いようがない。せめて、(学校で)他の人が「ひらがな」の練習をしているときくらいは、「書きなよな」とそれなりの指示はするのですが、若いとは言いがたいような年齢であれば、自分なりの算段があるのであろうと放っておくしかない。こうした方が自分のためになると言っても、手間がかかることは嫌なのでしょう。適当に世渡りが出来ればいいという考えなのかな、日本人から見れば。だいたい、こちらがなんと言っても、やりませんし。こういう人は自分の人生体験からしか、動けないのです逆に、文字を覚えることがどれほど「ペイしない」ことなのか説得しようとさえします。ペイ云々の問題じゃないと思うのですがね。

最近、来る中で目立ち始めたのは、母国で教育を、12年は、受けていないという人。日本では大学や専門学校に入るためには、12年間の教育を受けていなければならないのです。だから、どっちつかずになってしまい、先に進めなくなってしまう。

高校さえ、「出た」という証明があれば、次に進めるのですが、国内事情で、それがもらえない場合もある。コロナ禍で試験を受けに帰国できなかった…その間に、政治(彼らは政府と言います)が変わって、試験の仕組みが変わって、今までは出来たことが出来なくなってしまう場合もある。

高校を出てから来日しているのなら、なんとかなるにしても(専門学校、乃至大学に行けますから)、その前段階、小学生や中学生で来日してしまうと、学ばなければならない知識、技能が(日本語が出来ないが故に)習得できないまま、数年の義務教育年間を過ごさなければなければならないと言うことになってしまいます。学習言語がないのです、。日本にいるわけですから、日本語が学習言語になります。

それでなくとも、国によって勉強の仕方がかなり違いますから、子供たちは当惑するでしょう。それに、何が何だか、わからないまま、「机につく」というのは子供にとっては耐えがたいことでしょう。大人でもそうですから。ただ大人は耐えることを、ある程度は大人になる過程で学んできているので、そこが、子供とは違う。

小学校なら小学校、中学校なら中学校と、学校で使う最低限の言葉はできるだけ早く身につけさせた方がいい。「漢字圏」から来た者であれば、文字を覚える手間が省けますし、学校で学ぶ知識も漢字を拾い読みしていけば、ある程度は身につけることができる。しかしながら、「漢字圏」でもない、「英語圏」でもないという国から来ると、本当に不利なのです。

「日本語を覚えたい」という人が来ても、一般の日本語学校では、留学生が主ですから(コロナ禍の期間は別です)、若くても「高校を卒業したばかり」という18歳か19歳。こういう人たちと、14歳とが一緒に勉強するというのは、かなり難しい。時折、高校に入りたいからという人が来ても、16歳か17歳くらいなので、まあまあやれる。教材が同じでも、それほど気にすることはない。

ところが、小学生ですと、まず20分と保たない。無理です、いくら複式授業を連想されても、それは無理というもの。遊ばせるのではなく、学ぶのですから。

中学生にとっては(発達段階が違いますから)、わからないことだらけでしょう。留学生たちにだって、理解させるのは難しいときが少なくないのです。学ぶ文章の折々に、日本の社会状況や、日本人の考え方、またその変化。日本の自然や生活、それに歴史などを、参考にしながら、教えざるをえないこともあるのですが、その前段階の中学生には、まず、わからない。説明している言葉の一つ一つさえ、わからないということも多い。地理なども、「母国」を少し勉強したという人に、他国の説明などしてもぽか~んとされるだけ。慣れるまでは、わからないと言うことさえ、言わない。馬鹿にされると思ってか、言いたくないのです。みんなそうだからねで、初めて、「知らない」ことが恥ではなくなるようなのです。

もちろん、中学校で、学校生活を送っていますから、友達との会話には慣れていますが、学習言語としての日本語は習得できていません。こういう外国人子弟にきちんとした教育を受けさせておかないと、日本国としても将来的に困ると思うのですが、中学校で、「日本語の授業を週に数回行った」で、自由に生活できるようになるはずがありません。

年齢で切るのではなく、ある程度、日本語を習得させてから、中学一年まで母国で教育を受けたのであるなら、習得後、中学二年から勉強させるとか、柔軟に対処することは出来ないものなのでしょうか。ある程度の英語教育を受けてきているとしても、インターナショナルスクールは学費が高いし、そこに入れるほどの学力がなければ、そのままということで、これからの人生を歩んでいかなければならない…のでしょう。公教育として、もう少しなんとか対策は出来ないものなのでしょうか。

日々是好日

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来週から「七月生」のクラスが、始まります。

2023-06-29 08:01:31 | 日本語学校
曇り。

今朝も「湿度」が、80%を越えていました。雨は降っていませんけれども。ジメッとしていて、まるで「ナメクジ」さんにでもなったかのよう。ジメジメ~です。それなのに、「アジサイ」は元気がありません。萼の端が褪せはじめ、中にはドライフラワー化しているものも見られますす。

「梅雨」、もう中盤に入って久しいというのに、ジメジメッとした天気は変わりません。ドット雨が降る…ことはなかった…(あったかな、あっても初期の頃でしょう)。却って末期の豪雨が怖くなる…こうまで雨が降らないと…。

もちろん、降るところには降っているのですが、このあたりで、すごい雨で通勤できなかったというようなことはなかった…ような気がする。例年ですと、もう一回か二回は起こっていてもおかしくないと思うのですが。

さて、学校です。

授業中、クラスでは、マスク着用をお願いしています。特に「『みんなの日本語(Ⅱ)』クラス」では。外している人がいると、沖縄で、はやり始めていることなどを伝え、(コロナが)もう少し落ち着くまで、教室ではマスクをつけて口頭練習をするように、その都度、頼んでいます。

なにせ、「初級クラス」の授業というのは、「口」が主ですから、マスク無しというのは、どうにもまずい。

学校側でも、教室、廊下などは、コロナ禍の嵐が吹き荒れていた頃と同じように、通気を考えていますし、消毒などもしています。窓は二方面か三方面開け、授業後は、机やイスなどを消毒しています。教師も、当然のことながら、教室内ではマスクをつけています。これはエアコンをつけているときでも、同じです。

ただ、今、心配しているのは、来週から始まる「七月生クラス」のことです。留学生が、まだ一名しか来ていないので、七月に入ってからの一週間は、留学生と在日の人が一対一ということになり、もし、在日の人が「絶対にマスクは嫌だ」と言ったりすると、ちょっと面倒なことになるかもしれません。互いに(教師と学生)初めての者同士、気心が知れるまでには時間がかかります。その上、来日すぐということで、彼らはコロナ禍における日本の状態というのもわかっていませんから。

もちろん、これは口頭練習を主とする、「初級クラス」でのこと。「中上級クラス」では、課題を出したり、説明をする教師の方はマスクが必要でも、学生の方はそれほど必要というわけではありません。作業しているときは、マスクを外してもいいと言ってあるのですが、皆、同じようにマスクをつけています。こちらがつけていると、どうも外しにくいようです。

コロナも第九波がやってきているとか、もうすぐ始まるとか言われており、なかなか解放されません。とはいえ、みんな、コロナ禍で何を注意しなくてはならないかが、わかってきたのでしょう。こちらが何も言わなくとも、「通気をよくする」「換気」を心がけるなどのことは皆、気をつけてくれています。こういう状態に、新しい人たちも、少しでも早く、慣れてくれるといいのですが。

日々是好日、

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来週から「七月生クラス」が始まります。先輩クラス『みんなの日本語Ⅱクラス』は大丈夫かな。

2023-06-28 08:23:41 | 日本語学校
曇り。

うっすらと靄がかかっているような…。朝、「気温」とともに出ている「湿度」を見ると、東京「93%」とありました。やっぱりねえ。降るのかしらん。でも、こんな天気でも、陽が差すこともあるし…で、結局、洗濯物は干してきました。部屋の中は、…ちょっとですから。

「梅雨」は、例年、6ヶ月ほど続くそうですが、実感としてはもう少し短いかな。「梅雨」末期の豪雨の方が、長さよりも印象的なのです。とはいえ、多分、東京湾沿岸は、それほどでもないか。西に山があるので、西からの雨雲がそれを越えられないこともあるのかもしれません。

さて、学校です。

先々週から『みんなの日本語Ⅱ』に入った「初級クラス」。七月の第一週から「七月生」の授業が始まるので、ちとばかり「先輩クラス」となります。

そういえば、このクラスが始まったばかりの時、ゼロから始めるという人が数人いたので、いつもの進度(留学生ばかりの場合は、普通、「三日で二課」。国でそれほどの日本語教育を受けて来ていない人が多い場合は、「二日で一課」)で、やっといけるのかなと思ったものでしたが、毎日来ている人たちはどうにかなりそう…かな。フウフウ言っていますけれども。

もとより、「二日で一課」(ゆっくりめ)なのですが。勉強を楽しみにしてくれている人もいるようです。わからないときは、聞きに来てくれたり、同国人に尋ねたりしていますし、間違えても、ともに笑って終わりですから。

ただ「漢字」ばかりはそうはいきません。「だいたい」とかいうのが通用しないのです。覚えるにしても、「書く」という作業が必要になってきます。見ただけで覚えられるなんていう人は、まずいませんから。「書く」という「作業」を国で経験したことがない人が多いのです。で、「何回書いたら、覚えられるのか」と聞いてきたりします。その都度「覚えるまで」と答えるのですが、こんなこと聞かれたって困りますよね。本当はその間に書けと言いたい。

金曜日の「漢字テスト」を始めてからは、誰が根性があって頑張っているのかがよくわかります。「書く」「書く」「書く」は徒労。大体何回書いても覚えられないし、覚えてもすぐ忘れるし。こんな無駄なことはしたくない…でしょうね。日本人も書いて、書いて、書いて覚えたといっても、どうも意味がわからないよう。

書いて覚えるというのは、「作業」であり、偉そうなことではありません。水鳥の水掻きのようなもの。表面に出ているのは、麗しい水鳥であろうとも、足は必死に水を掻いている。

適当に、お茶を濁して…「覚えました」というのは無理ですもの。しかも、そのときは合格できても、すぐに忘れてしまう。周りに「漢字」があふれているのに、見ようとしなければ、そりゃあ、覚えられるはずがない。テストで合格するのは、第一歩に過ぎないのです。

もっとも、発音が悪くて、いつも苦労している人でも、文法の理解が遅い人でも、頑張って作業を続け、覚えようと努力している人にとっては、目に見える形で、成果が出てくるので、幾度か繰り返していれば、達成感は味わえるでしょう。そういう人にとっては、きっと励みになることでしょう。

日本語を勉強していく過程で、それぞれのお国の(教育)事情が、見えてくることもありますし、各個人の考え方というか思惑というか、そういうのがわかることもあります。特に在日の人の場合、日本に留学したいからという「目的」があるわけでもありません。「(日本での)生活に必要だから、多少なりとも(日本語は)出来た方がいい」くらいの考えで、勉強している人の方が多いでしょう。そういう人にとっては、日本語は、ある程度、話せて、聞き取れるようになったら、それでいいのではありますまいか。

ですから、彼らにとっての、「ある程度」がどれほどのものであるかを忖度しながら教えていくということになります。最初の頃は、大半の人は『みんなの日本語Ⅰ』が限界かな…。しかしながら、まだ続けたいと言う。次に、「N4」漢字に入った頃かな…と思っていたら、「N4」漢字もそれなりに頑張っている…。次は…と、いわゆる薄氷を踏むような気持ちで、どこまでかなあと見ているわけなのですが。

とはいえ、授業中、目の前で…「ああ、難しい」となった時には、励まさねばと思ってしまう。『みんなの日本語Ⅰ』を教えている頃には、「はい、『八課』を見て」と「八課」を開かせ、「大変でしたね、このときは。『イ形容詞』、『ナ形容詞』がたくさん出てきましたね。しかも『寒い/寒くない/寒かった/寒くなかった』まで、頑張りました。大変でしたね。『だめです』って言った人もいましたね。でも、もう大丈夫ですね」なんて言って力づけられたのですが、二冊目となると、一冊目がないので、口で言うしかないのです。

しかしながら、口は弱い。やはり現物がある方が、絶対に強い。当時のことが蘇って、頑張ろうという気にもなりやすいようです。で、ちょっと「力づけ方」を変えねばと思っているのですが、まだ、いい方法が浮かばないのです。

昨日は、「Aクラス」を例に挙げてみたのですが、ポカ~ンでしたね。これは失敗。もちろん、毎回、同じことを繰り返してしまいますと、「またか」で、威力は落ちてしまいます。

日々是好日
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「七月生」が、ボチボチ来ているようです。

2023-06-26 08:22:37 | 日本語学校

曇り。

「わが国の 梅の花とは 見つれども 大宮人は いかがいふらむ」

安部宗任の、この歌が、今日は頭の中でグルグルと…回っています。梅の季節はもうとっくの昔に過ぎてしまったというのに。…なんででしょうね。

ところで、話は「ウメ」から「オシロイバナ」へと変わります。街でこの花が見られる季節となりました。梅雨ももう後半かな。今年は空梅雨のような気がするのだけれども…。それもこのあたりだけのことかしらん。梅雨の走りの頃には、線状降水帯の話でもちきりだったような気がするのですが。

で、「オシロイバナ」です。この花は「おままごと」のよき連れ合いで、子供の時にはみんなお世話になったことでしょう。もっとも、見れば懐かしくは思うものの、どうやって遊んだかというと…はてさて、どうだったっけ。現代っ子は、ゲームなどに夢中で、公園で「おままごと」をしている子なんて、まず、いませんね。

さて、学校です。

学校では、もう、一名、「来日した」という知らせが入ってきました(先週のことです)。そのほかにも、七月三日に着くとか、四日に着くとか、あるいは、まだビザが下りていないとか、いくつかの知らせがあり、入学式は、皆がそろってからのことになりそうです。

もちろん、まだ向こうでビザがもらえていなければ、いつ来られるかわかりません。とはいえ、来日した人がいることですし、四月から勉強を始めた在日の人で、もう一回やり直した方がいいという人もいることですし、予定通り、七月生の新学期は、三日から始まることになりそうです。

今は、悪くいえば皆、「コロナ慣れした」とも言えるような状態で、初期の頃のような、「一体、どうなるのだ」感はありません。留学生が来られなくても、それなりに日本語を学びたいという人は、近所にいるようですし。そちらの方(教え方)の技術を磨いていくというのも、ちょっと面白くなっているからかもしれません。以前は別になんとも思っていなくて教えていたのに、急に本腰を入れて教えることになって、(以前を)思い出しながら、新たなものを付け加えていくというのも、案外面白い。

留学生は、大卒者を除けば、一応「N5」レベルで来日しています。ですから、ある程度の日本語に対する予備知識めいたものはあるのです。動詞の「テ形」とか「ナイ形」とか、大雑把に言えばそんなものでしかないのですが。

それに比べ、在日の人で、「結婚したから」とか、「親の都合で」とかいった理由で日本に来た人の場合は、「(日本の)車は知っている」で、終わりだったり、「日本と中国の区別」がついていなかったりといったことも少なくなく、ましてや、日本語においてを…なのです。

「ます/ません/ました/ませんでした」とかまでは、ニコニコしながらやり過ごせても、「さて、今日から『動詞のテ形』です」となると、「はあ…なんじゃら…」でしたし、「テ形」がやっとどうにかなった頃に「ナイ形」が来ますから、頭を抱えてしまうと言う人が出てくるのは当然のこと…なのでしょう。こういう時には「…別に好きで日本に来たわけじゃない…」という表情がチラホラ見えてきたりしますし…。まあ、しょうがないでしょうとこちらも笑ってやり過ごすしかない…。

とはいえ、そういう人たちも、やっと『みんなの日本語(Ⅰ)』が終わり、二冊目に入っています。今日、私は先週、二課分の復習をしてから、新たなところを少しやることになっているのですが、どうかしらん。「何が出ても、驚かんぞ」ふうになっている「Cクラス」の面々が、だんだん頼もしくなっているように見えるのですが。もっとも、この「見えいる」というのも、ちと怖い。急にへばってしまったりして…。そのときは少しばかり手綱を緩め…深呼吸して、それから、ゆっくりと歩みを続けてもらいます。

「N4レベル」くらいまで終えられたら、日本での生活に、特別困らずにやっていけるでしょう。

日々是好日

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「こんな所に、『イチジク』の木があった…」。ほんに「見れども見えず」とは、このこと。

2023-06-23 08:22:12 | 日本語学校
曇り。

朝は、涼しい風が吹いていても、陽が高くなったころから、だんだん蒸し暑さが戻ってくるとか。気温が上がれば、そうでしょうね。何せ「梅雨」だもの。

公園の、名も知らぬ草たちに、昨夜来の雨粒がかかっていて、それが小さく光って見えます。曇っているから、より一層映えて見えるのかもしれません。少し離れてみていると、野原に広がる光の妖精がきらめいているよう。そう思いながら、五番目の角を曲がった時、突然、けたたましい鳥の声が木の上から降ってきました。見やると、大きな葉の隙間から何羽かの小鳥が騒いでいます。「葉っ」で気がついたのですが、なんと、それは、「イチジク」の木だったじゃありませんか。小鳥はそっちのけで「イチジク」の木を見てしまいます。青い実がついています。不覚、不覚。今までここに「イチジク」の木があったなんて、まったく気がつきませんでした。

「イチジク」の木はとても懐かしい木で、子供の頃、我が家の「イチジク」の木は、毎年、「これでもか、これでもか」と言われるくらいに、たくさんの実を付けていました。本当に、なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。

さて、学校です。

「中学生」さんは、もうそろそろ勉強が手に負えなくなってきているようです。「N3」の「わけだ」グループの説明では、呆然となっています。「助詞」の所では生き生きとしていたのですが。「例を出して」と言われ、彼の生活状況に、できるだけ即した例を考えて出してやるのですが、どうも違いが飲み込めない…。みんな「大して差がない」ように思われ、「たとえば」と彼が出した例文を私が、このときには、こういう理由でそれは使わない方がいいなどと言おうものなら、その場に固まってしまう。彼なりに理解しようと思ってはいるのでしょうが、なかなか思うようにはいかない…で、固まる。

多分、彼らの母語に置き換えられないのでしょう。それに引き換え、もう一人の学生は、俄然勢いついてきました。特に、「テスト対策」の説明を始めたとき。どうも「バングラデシュ」人は、「対策」というのが好きらしい…というか、「自分の世界にやっと来た」くらいの感じで体が前のめりになっている。

そういえば、ずいぶん前のこと。バングラデシュから来た学生の書類に、「N3合格」というのがありました。「日本人に習っているわけでもなかろうに(すごい)」と見ると、「大学院卒」。さすがですね…そう思っていたのですが。来日した学生、「カタカナ」は言うに及ばず「ひらがな」さえも満足に書けないレベル。「テスト対策」だけを必死に勉強して、合格していたのでしょう。こういうのを徒労という…というのは、日本人の感覚で、彼らからしてみれば、日本に来ることが目的だから、それが出来ればいいのです。目的は達せられたわけだから、徒労でも何でもない。成功なのです。

しかしながら、「文字も読めず、意味もわからぬまま、テストを受けるんだ。それが出来るんだ。なおかつ合格できるんだ」と不思議さいっぱいで、彼を見ていた私でしたが、向こうは平気でしたね。

もちろん、地頭も良かった。理解力も応用力もありましたし、行動力もありました。ただ机の上での「手作業」は、無駄と思っていたのでしょう、全くやる気はなかったようでした。あれだけ頭脳明晰であるならば、少しばかり時間を割けば、「漢字」も覚えられるであろうに、「日本文」もすぐに読めるようになるであろうにと思ったものでしたが。価値観の違いでしょうね。

そういう人は少し前にもいました。週一の「漢字テスト」は毎回、20問ずつ出しているのですが、なかなか進めていない学生、数人に、春休み中、来させて、試験を受けさせたことがありました。その中の一人なのですが、学校に来て、頭を抱えながら練習している他の学生を尻目に、5分か10分くらい、ちょこちょこと練習して、100点をとって、意気揚々と引き上げていたのです。

実際、そうやって合格できても、(漢字の)意味もわからないままですし、何にもならない。きっと「テストの意味」というのが、彼には、わからなかったのでしょう。「合格」が、目先の目的になってしまって、「(漢字を)覚え、読め、使えるようになるために試験を受けるのだ。ひいては文章を読めるようになるためにテストを受けるの」ということが、彼の肚には、ストンと落ちていかなかった…。

「休み明け」には、「休み前」と同じように、全く日本語の文章が読めませんでしたもの。休みなのに、学校に来て、練習して、試験を受けた…何のため????。あの手間は何のため。…すべて頭の中から消えていた。合格できても、読めなければ、あの練習も無駄だろうに、覚えようという気がはなっからなかったのだろうな。

もちろん、私がその文章を読み上げれば、問いに対する答えはすぐに出せます。が、試験の時は誰も読み上げてくれませんからね。頭のいい人なのに、この、非常にもろい木の柵が越えられなかった。これも、おそらくは、母国ではこれで素晴らしい成績を得ていたから、それが通用すると思っていたのか、あるいは、それが通用しない世界があることが、わからなかった…からなのか、結局、いわゆる求めていた「成果」は、日本では得られませんでした。

却って、彼が「どんくさい」とばかりに小馬鹿にしていた学生の方が、思い通りの学校に合格し、得たいと思っていた技術を身につけることが出来た。頭が良すぎると言う人は大変ですね。

「頭がいい人は山の頂が見えるから、途中で、これは無駄だと諦めてしまう。けれども、私は頭が良くなかったから、それがわからず、コツコツと勉強を続け、それが結果につながった」みたいなことを言った偉人がいましたっけ。それと同じなのでしょうね、程度の差こそあれ。

特に、自分が「頭がいい、敵無しだ」と思っている人は、大変です。「聞く」「話す」分野では、それなりに出来ても、「書く」「読む」分野では、それぞれ言語によって違ったやり方をせねばならぬであろうと思うのですが、それをローラーがけでもするように、自分のやり方で押し通そうとする。なぜなら、これまでそれでやってこられたから。

失敗して(結果が出ずに終わって)、初めてわかるのは、「自分は、それがわからぬ程度の頭でしかなかった」ということ。ただ、こればっかりは、振り返ったとき初めてわかることですから、時すでに遅しとなってしまう。

もちろん、私にしても、あらゆる人にとっても、大小の程度の差こそあれ、経験したことなのでしょうけれども。

日々是好日
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今年の「Aクラス」の学生たちは、例年よりも手強い…「読解問題」が手に負えないらしい…。

2023-06-22 08:41:08 | 日本語学校

曇り、時々雨。

出がけに、ほんの数秒、雨を感じた…くらいでしたが、今、急に雨音が…。少し早めに出たのは、正解でした。

うちから学校までの道。スーパーの裏を通って、植木屋さん?の前を横切って、そして公園に至って…、いつもこの公園の端っこで、呟くのです。

「三角形の一辺は、他の二辺の和よりも短い」。この公園を突っ切ることが出来たら、ずいぶん楽なのになあと。ここを利用する人もそう思うのでしょう、この角っこには植え込みに人が通った形跡があるのです。つまり、正規の門(かわいい、幼稚園のような門です)のほかに、公園に入るための道が出来ているのです。

しかしながら、そこから入るには障害がある。段差があるのです。これくらいの段差であっても上るのはちと辛い。階段の上り下りは、両手遣いでなければ、まだ大変なのです。ここを越すには、右手は杖を頼り…もう一方の手はどこに支えを求めるか…で、見てもか細い植え込みがあるだけ…ないのです。まず無理ですね。で、いつも、恨めしげに眺めながら、呟いて終わり、その二辺を辿るということになってしまいます。

まあ、小さい公園ですから、長いと言いましても、知れていることは知れているのですが。

さて、学校です。

昨日、二回目の「模擬テスト」を行いました。今年のベトナム人は、相対的に、ヒアリングにそれほどの難がなく、その点は心配していなかったのですが、「読解」は、例のごとく悲惨でした。

「聴解」にしても、一人だけ、来日時から心配していたベトナム人学生がいたのですが、やはり、真面目な人は強いですね。毎回、ヒアリングのたびに、眉を寄せ、下手をすると額に青筋が経っているのではないかと思われるくらい、苦しんで、のたうっていたのですが、それがやっと人並みになれたようです。ただ、まだ発音できない音はありますが、言えば、わかる程度にまでただせるようになっています。

「読解」は、母国での蓄積(自国語での読解力)と、日本文を読むのに慣れているかどうか、また、単語や漢字の量、文法などで決まると思うのですが、それとは別にテクニックというか、まあ、それに類するものとして、「接続詞」の、何を、どう、注意したらいいのか(「逆接」「対比」「換言」「補充」などを見て判断する)、「(日本語の場合は)文末表現」から「諾否」を考えたり、いくつかの「キーワード」から「文意(主題は何であるか、それに対する筆者の考えはプラスであるのかマイナスであるのかなど)」を類推したり…などを「読解の問題集」をやりながら、注意させてきたつもりなのですが、なかなかそれが届かない人がいるのです。

例年(「非漢字圏」の学生が増えてから)ですと、はっきりと二つに分かれ、毎日学校へ来て真面目にやっている学生は、時間こそかかるものの、それでも1年か、1年半くらいの間には、それがある程度、習慣になって、注意出来るようになっているものなのです。なにせ、「耳」に「たこ」ができるくらい繰り返しますから。(…はなっから勉強しない、あるいはこちらの話を聞くつもりがない人は、「漢字圏」であろうとなかろうと、同じです。馬耳東風は母国にいた頃からの習慣といった感じでしょうか)。

今、「Aクラス(昨年の四月生)」では、ベトナム人学生が、ほぼ半分ほどもいます。ということは、自然、繰り返しが増えるということ。私が言い始めた頃はヒアリングが悪く、聞き取れなかったとしても、毎日来て勉強していれば、いつかは聞き取れ、わかるようになる。そう考えていて、はっとした。…ベトナム人学生はいいけれども、それ以の学生はどうかしらん。もしかしたら、今年の彼らは、それが徒となってしまい、完全に「耳たこ」になって、「聞けども聞こえず」状態になってしまったのかしらん。

ベトナム人学生はいいけれども、他国から来た学生は、ヒアリングはいいので、最初から聞こえていた…だから、もう、「またか」となり、彼らの注意を喚起することはできなかった…のかしらん。でも、実際問題として、出来ていないのですけれどもね。まったく、(こちらが)言えることは、全部、言ってきた…のですけれども、相手がそれを大切だと思わなければ、何にもならない…のです。無力を感じるなあ。

とはいえ、これらのことのほとんどは、文章を読んでいく上で、どの国であっても、必要なことだと思うのですが、どうして彼らは、それらがわからないのだろう。こちらの何が足りないのだろうかと、不安になってきます。

日々是好日
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「夏至」ですね。今年ももう「夏至」です。

2023-06-21 08:43:00 | 日本語学校
晴れ。

「夏の青空」が広がっています。

今日は「夏至」。それを忘れていても、一日の、いつかの天気予報で、「明日(今日)は『夏至』ですよ」と教えてくれます。今年は昨日の晩に教えてもらいました。その都度、そうか、今年ももう、「夏至」の日を迎えたのだなあと、毎年思ってしまうのですが。

「二十四節気」は、話の導入に便利なようで、その頃になると、「お天気(予報官)」さんが、それらにまつわる四方山話をしてくれます。子供の頃は「『お天気』さん(当時は、皆、おじさんだったような気がします)は、いつもお空ばかり見ているから、みんな穏やかで、優しそうな顔をしているのだなあ」と思っていたものでしたが、実際は大違いで、かなりの勉強をしていなくては、なれなかった…らしい。

空を見てお天気を判断する(経験から)ものではなく、気象図やら何やらかにやらの知識も必要だそうで、牧歌的に考えていた自分が恥ずかしい。科学が必要な世の中なんですね、何事にも。

どうも、子供の頃、作られたイメージというのは、張り付いた「絵」みたいなもので、ちっとやそっとでは剥がせない。これもそのようで、「船乗りさんが、海岸から、空を見たり、近在の山にかかる雲を見たりして、『明日は雨だ』とか言っている…」の「図」がいつまでも脳裏に刻み込まれている…消えないし、消せない。

天体科学者は、いつもお空を見ている人、海洋科学者は、海に潜って魚や海藻と話をしている人…といったイメージも似たようなものなのでしょうね。

さて、学校です。

この学校が出来て、最初の頃のことです。小学生(上学年)が、一ヶ月ほど、教室にいたことがありました。大変でしたね。まず、90分保たないというのはわかるのですが、10分も保たない。わからない言葉で何かぺちゃくちゃやっているとしか思えなかったのでしょうから、それもしょうがない。親御さんにしてみれば、「少しでも早く日本語を覚えて、(小学校で)友達を作ってほしい。楽しく学校で勉強してほしい」と思っているのでしょうが、国によっては、「書く」ということをあまり重視していない国だってある。教育のやり方だったり、方針、伝統が違うことだってある。ただその前に、勉強すると言う習慣が小学生にはまだない…ということからくる無理だってあった…いろいろと別にやってみたようでしたが、やはり難しかったようですね。声の出る「五十音図」とか、暗記用の「九九」なども使っていたようでしたが、彼にしてみれば、ただ遊びたい。…遊び相手は、子供同士の方がずっと楽だし、楽しいでしょうから、無理もない。

小学生なんだから、学校へ行けば自然に友達が出来て、一緒に遊べるようになるし、言葉も、自然と覚えていける。一対一ならどうにかなっても、大人(18歳以上)と一緒に勉強するというのは、どちらにとっても荷が勝ちすぎる。…失敗だったというわけで、小学生は小学校で、遊びながら日本語を覚えてもらうことに。

で、中学生です。夏休みを利用して日本語の勉強をさせたいという台湾の中学生が来たことがありましたが、もともと彼らには勉強する気がなかったらしく、ほかの留学生の邪魔ばかりする。いたずらばかりして、ちょっと顰蹙ものでした。そうか、漢字圏でもそうなのか。

ほかにも、中学校を卒業して日本の高校へ行くために日本語を勉強させたいという親御さんがいて、ここで勉強した人もいたのですが。そのとき、台湾人だから、漢字は大丈夫と言われたのですが、難は別の所にあった。「N2」「N1」の文法やら単語やらが手に負えなかったのです。意味はわかっても、…う~んなのです。本好きで、母国でも本を読む習慣があれば、どうにかなったでしょうが、「本なんて読まない(彼女の弁)」人でしたから、「こんなに勉強したのは初めて」と言うくらい勉強しても、結局は…あやふやで終わってしまう。これは漢語のここと同じと言っても、う~ん…それ自体を知らない…。高校で習ったんだけれども…と思う私。彼女は覚えようとすればするほど、底なし沼にドハマリしてしまう……頑張っていただけに、気の毒でした。…結局は母語のレベル以上にはなれないのかなあ…。

大人ではありませんし、そういう知識も年齢的にも、そのレベルに達していなかったのでしょう。

そして、「今」です。今年高校に入ったのは、三人。うち、中学卒業後すぐ来日した人が一人、ほかの二人は、中学卒業後、すぐと言うわけでもなかったし、言語を学ぶという才能にも恵まれていたのでしょう、ほかの学生(高卒以上)たちと一緒に勉強しても、それほどの問題はありませんでした。家庭教育もさることながら、彼らの母国の教育レベルとも関係していたのでしょう。

今、来ている人も、来年高校へ行きたいと言って、午前中はここで日本語を学び、午後は中学に戻る…形なのですが。こういう形で、日本語をある程度習得するというのは難しい…。「運動会がある」、「テストがある」、「修学旅行がある」…何やらかにやらで、欠席が多い、しかも、ほかの学生が勉強している時間の、三十分早く中学校に戻ってしまう。

彼がいなくても、授業は進んでいきますから、来たときにはわからなくなっている。しかし、一年ほどは、曲がりなりにも日本人の中学生の中にいた…こともあって、ある程度は聞き取ることもできるし、話すこともできる。ただ思い違いで覚えていることも少なくない。それが、「あれっ。違った。勉強しなきゃ」となればいいけれども、そういう勉強の仕方が出来ない。

年齢のせいばかりとは言えないと思うのですが。「わかる。わかる」と言うのが口癖だし、相手に合わせることができないというのも、ちと困ったこと。一緒に速さを合わせて読むと言うことが出来ないのです。

中学校で耐えている分がここで出てしまうのかなとも思うのですが、今、彼がいるクラスでは「N3文法」に入っている…何が何だかわからないのでしょう。何かにつけて、英語が「できる。できる」と言うけれども、彼らの国の人で、大半はその「文法の説明(英訳本)」の意味がわからなかった。彼もそうなのでしょう。まだ中学生だし。

「七月から来ません。中学校の勉強をしないと、点が悪いままだから」と言いますが、多分、もうこれ以上は日本語の勉強は無理なのでしょう。ちょっと聞いただけであったら、うまそうに聞こえるのですが、その実、意味がよくわかっていない。

日本語が出来ないと中学校の勉強は何も身につかないので、先に日本語を勉強して…と、思っても、1,2年通って「N2」レベルになったとしても、「中学校」の人文社会科系の授業はまずわからないでしょうね。どうにかついて行けるのは「数学」の計算問題くらい。文章題になると、意味がわからないので太刀打ちできない。

本当にどうしたらいいのでしょうね。母語で基礎的な部分を学んで(高校まで)それから日本で勉強したいことを学ぶというのが一番いいのです。学習できる言語というのは、おそらく、自分が生まれ育った環境で培われてきた言語であって、外国語ではないでしょう。ビザの関係で、高校を卒業させられず日本に来させている家庭も少なくないのですが、それは、却って、日本の将来に影を落とすことになるかもしれないような気がするのですが、どうでしょう。どうにかなりませんかね。

日々是好日
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二回目の漢字テストで、もう「不合格」をもらった留学生がいました。しばらく「見張らねば」なりますまい。なりますまい。

2023-06-20 08:17:37 | 日本語学校
曇り。

時折、陽が差してきますが、曇り。

昨日は暑かったけれども、朝のうちは風がありました。だからでしょう、まだ耐えられた。皆、急の暑さに慣れていないのです。ところが、ふと気がつくと、風が止まっている。いわゆる「凪」なのでしょう。海の近くではこれが、朝、夕あるから、油断も隙もあったもんじゃない。

「梅雨」の真っ最中のはずなのに、ここ数日、雨はお休みのようです。…こういうこともある。もっとも「アジサイ」は終わりがけのようだし、秋の七草の一つ、「ハギ」だって、葉がずいぶんしこってきた。このあたりの道に慣れてくると、どのあたりにどんな花が咲いているのかわかってきて、花が咲かねばそれとわからぬような「ハギ」だって、そう。あそこの庭に咲いていたというのがわかっていると、どこか待ち遠しくなって、目が自然とそちらへ行ってしまうのです、秋はまだ遠いというのに。

それに、あの花が咲いたから、近々、向こうの花も咲くだろうなんてわかってくると、それが、楽しみにもなってくる。子供の頃は、友達や近所の人に、花や木の名前に詳しい人がいたので、その都度教えてもらっていましたが、結局、草花の詳しいことはわからずじまい。ただ、咲いていた場所は覚えていましたから、当時は、知ったかぶりはできた。ところが、大人になり、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりの生活を続けてきたので、もう、それも期待できなくなっている。

もっとも、なじみの草花を見つけると、どこかしら、ほっとしてしまいます。昭和天皇が、この世には雑草なんて草はないと言われたそうですが、「名なき君に問う、君の名は」なんてしゃれて尋ねてみたくもなります。

さて、学校です。

四月開講の「Cクラス」で、早くも二回目の漢字テストに不合格をもらった留学生が一名いて、今、彼を「見張って」います。どうも、書くのが苦手のようで、何回か書くと手が痛いという口かなあと思って見ているのですが。ただ、言われれば、する。ということで、まずは、いつも一緒に登校する(先輩の)同国人に、週一の「漢字テスト」で不合格が貯まると、後がどれほど大変かを忠告してもらう。次に、早く来ているので、毎朝、三つずつ漢字を練習し、覚えるように言っておく。

最初は様子見ですかね。これでも、ボロボロ負けが込むようだと、別の一手を考えなければなりますまいが。スリランカの学生というのは、「(失敗を)見られた」「恥ずかしい」というタイプが多い…ようなので、早めに手を打っておくと、どうにかなるということも。少なくないのです。

彼らも、大半が、「話す」「聞く」の世界の住人で、「聞いて」「話せれば」それで御の字、読んだり、書いたりを重視するというのは、理解の外のようで、以前、卒業する頃まで、「ひらがな」すら、「お知り合い」になれないという人もいました。まあ、あれが一番ひどいときでしたが、

彼らの名誉のために、一言付け加えておきますと、「10月生」で来て、卒業するまでに、「N2」までの漢字を完全に「読め」、「書けた」(但し、書き順はひどいものでしたが。訊くと、登下校の途中、電車の中で覚えたと言うことでしたので、まあ、しょうがないのでしょう)学生もいました。もっとも、本当に例外中の例外とも言えるような存在でしたが。

日々是好日
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昨日、「日本留学試験」が終了しました。一発勝負だったのですが、大丈夫だったかな。

2023-06-19 08:30:53 | 日本語学校
晴れ。

昨日は暑かった。夏真っ盛りといった感じ。まだ「梅雨」は明けていないというのに、夏が飛び込んできた…みたい。頭も体もこの暑さには慣れていないので、かなりこたえる。

最近、「スーパーエルニーニョ」が起こるかもしれないという話を聞くようになりました。「エルニーニョ」だけでも大変なのに「スーパー」がつく????。

この「エルニーニョ現象」なるものも私が子供の頃には聞いたことがなかった。それが、毎年のように、エルニーニョだの、ラニーニャだのと聞く。もう耳たこです。でも、日々の暮らしに深い関係があるから、「耳を欹てて」聞かざるを得ない。困ったもんです。

今年は、「例年の異常気象」以上の「異常気象」が起こる可能性があるとか。「異常気象」という言葉に過敏になっていた「かつて」が懐かしく思えるほどです。30度でオタオタしてるようだと馬鹿にされかねません。とはいえ、これには、「危険」がついて回ります。戦争なんか起こさなくても、命の危機なんてのが周りにはウジャウジャしているというのに。なんかわからないような「屁理屈」を捏ねくり回して戦争を起こす政治家が本当に鬱陶しい。殺されるのはいつも決まって、我ら、平民なのですから。

沖縄を例に挙げるまでもなく、自分たちだけ逃げて、満州(現中国東北地方)に置き去りにされた日本人がいる、またその記憶をはっきりともっている日本人だって、まだごまんといるのですから。

今の、この、日本の静かさは何なのでしょうね。嵐の前の静かさというべきか。ウクライナの国家としての存在を認めないなんて言っている人がいる国では、日本の、国家としての存在なんかも認めていないのでしょうね。彼らが認めるのは、「強い国」だけであって、弱い国なんて、利用できる間は認めてやるが、それが終わったら踏み潰すだけというのかもしれません。他国からどう見られているか気にならないのでしょう。変な見方をする国は脅して、自分の思い通りにさせるだけなのでしょうから。

日本人と日本との関わりと同じように、彼らも、彼らの国と同じように見られるかもしれないというのに。戦争に勝ったと思い込んで、あれ以後を生きてきた国は、どういう歴史を認識してきたのでしょうか。かつての日本と同じように、自分たちに都合のいい部分だけをつまみ食いして生きてきたのでしょうか。他者の目が必要なのは、「唯我独尊(ここでは「うぬぼれ」の意で)」とならぬよう、己を戒めるため。きっと、そこだけがスッポリと抜け落ちて、生きてきたのでしょう。

さて、行徳の街では「サツキ」の花が散って、緑の季節になったと思っていたら、もう、あっちこっちから「サツキ」の枝がヒョロヒョロと伸びているのが見られるようになりました。その、ヒョロヒョロの枝に、きれいな若草色の若葉がついているのがなんとも言えませんね。じきに刈られてしまうのでしょうけれども、このヒョロヒョロもなぜか目に馴染んで懐かしい。

学校では、若葉クラス、「初級クラス」が今日から、『みんなの日本語Ⅱ』に入る予定です。

「よくぞ、ここまで来られたもんだ」です、感慨も深い。「動詞」の「テ形」で、音を上げ、「ナイ形」では下ばかり見ていた学生もチラホラいた…ような「クラス」です。その都度、「はい、二課です。もう大丈夫ですね」とかやって、ごまかしごまかしやってきたのですが、先日など、机の上で、のたうっている学生がいたので、「はい、『イ形容詞』の四つの形です」なんてやったら、「へへへへへ」とやられてしまいました。こっちの腹など、とっくにお見通しで、「また来たな」と思ったのでしょう。笑いながら、立ち直ってくれました。

今、言いたいことがかなり言えるようになった、現「Aクラス(非漢字圏)」だって、大変な時期はありましたもの。昨年の12月に10人中、5人が「N3」に合格したのも、できすぎだと思われましたし。

今、「N2」を目指している彼らに、そのことを話してみますと、彼らも「できすぎだった」と言います。どうして合格できたのかわからない。不合格だった人たちと(日本語能力の上で)ほとんど差はないと思う…らしい。実際、私たちも、(合格できるのは)一人か、うまくいって二人くらいか…しか考えていませんでした。

現在、一応、文法だけは復習が必要なので、「N2」と「N3」に分かれているのですが、あとはほとんど差はありません。一人だけ、「日本留学試験」を受ける(昨日でしたから、受けたでしょう)という学生いて、彼女だけは別格なのですが。

ただ、「N2」と「N3」の差は大きい。「N3」の時のようにはうまくいきますまい。そのつもりで、これからの「二週間」を頑張ってほしいものです。

日々是好日
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「アマリリス」は、フランス語?

2023-06-16 08:34:37 | 日本語学校
晴れ。

青空を久しぶりに見た…。とはいえ、雷雨になる可能性もあるとか。「青空を信じろと言われても、…それは無理」というような気分で見ています。

今年は、「アマリリス」や「ガーベラ」の花を見る機会がありました。珍しい…。私が子供の頃にはどのお宅の庭にも「アマリリス」のでっかい赤い花がのぞいていて、それを学校に持ってくる生徒なんかもいたりした。学校に持ってこられて、教卓に飾るのは、邪魔になるだけなんですけれども。

「アマリリス」で、思い出すのは、フランス人の友人のこと。北京で、この花を見たとき、思わず、「あっ、『アマリリス』だ」と、名前を言ったのです。彼女、大喜びで「おまえは、フランス語ができるのか。すごい。そう『アマリリス』だ」。

私は私で、「えっ、『アマリリス』というのはフランス語なのか」くらいに思ったのですけれども。日本人は和名というか、漢字で書けない動植物は、外からのものだということがわかる(今は皆カタカナのようです)が、フランス語にはそれがない。多分ラテン語から来ているんでしょうね。ただ、フランス語だとフランス人に言われれば、そうだろうと思うしかない。彼女は彼女で、耳慣れた音を聞いたので、はっとして言ってしまったのでしょう。この音が懐かしくてうれしかったのかもしれません。

と言うわけで、私もずっと「アマリリス」はフランス語だと思っていました。

さて、学校です。

「Aクラス」です。

ここ十数年、文章を読んでの「問い」に、なかなか答えられない学生たちに、日本人ならだれもが当然のことと思うような「ワザ」を習慣づけさせるべく努力を重ねてきました。例えば、「接続詞」。「『逆接』が来たら、前後で逆になる」とか、「『比較』だったら」、あるいは「『換言』だったら、後ろを見る」とかやっていたのです。ほかにも「キーワード」を探させたり、「文末表現」に注意させたり…、数人は繰り返すうちに、どうにかそこを注意するようになれたけれども、大半の学生には…あまり功を奏さなかった。

もちろん、この「読解」なるものの、一つ一つの答えは、氷山の一角に過ぎず、その下の90%以上は、知識の無さや関心の無さから来るものであるというのは、わかっていたのですが、「N3」レベルくらいでは、知識を増やすためのDVDなどは、言語習得の邪魔になるくらいに考えていたのです。単に見るだけで終わってしまい、言語の勉強にはならないと思っていたのです。だいたい、興味がないのです。問題文になりそうな文章には。日本人や、あるいは他国で社会的な問題になっていることとかには、興味がないのです。。

ところが、2,3年前でしたか、やり方をガラリと変えた方が、結局は良かったということがあったのです。それまでは、その安直なやり方をとらぬように、取らぬ方がいいと思っていたのですが。

その頃、コロナ禍で、留学生が来られなかったので、学校はずいぶん寂しくなっていました。留学生はいなかったのですが、家族関係などで来日し、高校や大学に入りたいという人が三人いて、彼らで一クラスを作っていました。「読解」の授業風景は同じです。指示語を聞いても、内容を問うても、答えられない。たった三人ですし、高校入学を目指しているので、わかってもわからなくても、知識はある程度必要になる。そう考えて、高校の参考書などを利用しながら、ニュースなども見せていったのです。

教えていくうちに、高校の参考書などでは間に合わないような知識の無さに、これじゃ、たまらんという気分になったりもしたのですが、足らぬ部分はこちらが調べて補足したりしてどうにか、はじめの頃はやっていました。まず、国内ニュースは、無理です。見せても、何が何だかわからない。ほかの知識が必要となりますから、で、国際ニュースを見せることにしました。

最初のころは、「はい、地図を見て。その国の位置を確認しよう」で、確認できたら、その国の歴史や風土のことを少し話し(地理が苦手だったので、どうしても歴史が主になってしまいます)、その近隣の国のことなども付け加えたりしていたのですが(話題になった国の地勢上の位置がわかれば、近隣の国にも目が行きます)、だんだんそれらを組み合わせたような質問が出始めたのです。皆それなりに頭のいい人たちでしたから、基礎的なことがわかると、興味を持ち始める人も出てきます。もちろん、こういう話題に乗ってくる学生は一人だけだったのですが、彼が言うようになると、ほかの学生も引きずられるように、ちらほら聞き始めました。わからないことがわかってくるといった感じで、質問がだんだん当たり前(何を以て当たり前というかは少々難しいところなのですが)のことになっていきました。

無理をして、そうこうしていくうちに、問いに対する答えがだんだん的確になってきたのです。これは単に長く日本語を勉強したからではないような気がします。

留学生は無理をしても、「N2」まで。出来れば「N1」の幾分かなりとも教えておかねばという差し迫ったものがあり、なかなか自由に出来ない部分があるのですが、彼らはそれがなかったので、かなり自由にやれた、それが良かったのでしょう。

結局は氷山の下の部分(知識)が「問い」に対しての「答え」を妨げていた…。頭の良さ悪さなんて、人間ほとんど同じようなものですから。

日々是好日
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降っているのか、降っていないのか。別に霞がかかっているというわけでもないのだけれども…。

2023-06-15 08:12:03 | 日本語学校
曇り。

時折、雨粒を感じながら学校へやってきました。お天気はあまりいいとは言えないのでしょう。ただ、「時」は流れていますね、早くに咲いていた「アジサイ」の、萼の外側の部分がもう変色していますし、秋の七草の「ハギ」も葉を付け始めています。

とはいえ、まだ「ムクゲ」も咲いていないし、「ネム」の花も見当たらない。そう、梅雨はまだ終わっていないのだ…。で、思考停止状態になる。

さて、学校です。

初級「Cクラス」も来週には、『みんなの日本語(Ⅱ)』に入ります。早いものです、感慨もひとしきり。最初のころはどうなることやらと案じられましたが。

三人の留学生がそろったのは、四月も末のこと(留学生以外の人が大半です)。しかしながら、留学生(高卒は「N5」が条件)とは名ばかりで、思わず担当教員が「ゼロじゃん」と呟いてしまうような人も、中にはいました。0でも、言語が得意ならいいのですが、そうではなく、どうも外国語がなかなか入っていかない人のようでした。

これもあながち責められない。なんとなれば、国や地域によっては、もろもろの事情で、日本語がそれほど学べない所もありますから。

前にいたネパールの学生など、来日後、同国の在校生を連れてきて、「私の所は、僻地で、『ひらがな』、『カタカナ』を習えたのは一日だけ。でも一生懸命練習した…」と必死で訴えた。どうも、ネパールで面接したときに、私が言った言葉が棘のように刺さっていたらしい。このときも、面接に行った二人で相談して、(彼は)日本語は出来ないけれども、その一生懸命さと感じられた真面目さを見て、OKを出したのでしたが、それは伝わっていなかった…。だから、誤解(?)を解こうと言いにきたのでしょう。

フィリピンから来た学生もそうでした。彼の場合は大卒だったので、「N5」合格という縛りはなかったけれども、来日後、「N5」合格者たちとの勉強は大変そうだった。毎日のように苦しそうな表情をしていましたから。

彼の口癖は、「大丈夫。大丈夫。勉強するから大丈夫。先生、先に進んでください」でしたっけ。ただ、苦しそうだったのは『みんなの日本語(Ⅰ)(Ⅱ)』の頃だけ。後は追いつきましたね。やはり彼の場合、「根性」が違っていたのでしょう。大卒だということも関係していたのかもしれません。それまでのフィリピン人留学生たちは、大半が高卒で、「楽しく、賑やかに」勉強する…ような人たちしたから、アレッものでした。

で、現「Cクラス」。私が入った(週三)の時は、午前の前半でも、月曜日は二課分、火水は大体一課分の復習と、動詞の活用と助詞を用いた文(覚えるまで)で、それと、形容詞の活用など(1,2ヶ月は巻末の時間やら、数やら助数詞やらもしていましたが)の復習をし、長いときはそれに一時間以上もかけていました。真っ白で勉強を始める人が主であるときには、「復習を主、本時は従」とした方がいい場合が多いのです。

そして後半は、「担任が決まった復習を繰り返す」ので、復習の二乗です。苦手なんて言っていられないでしょう。

これが『Ⅱ』に入ってから、同じ重さの復習が出来なくなると、ちょっと大変になるかもしれません。私は遊軍のほうがやりやすいのです。本時をしているときに、気がついたら、すぐに復習、確認をしという形。もちろんその前に、出来なかった部分やら前時の復習などをするのですが。

ただ、復習、復習とやってきたということもあり、ほとんどの人は苦手意識がそれほど目につきません。最初はうんざりしていた「テ形」「ナイ形」などの練習も、復習しているうちに無事こなせるようになってきて自信がついたのかもしれません。間違えても、1グループの「ワ行」というのに気がつけば、楽勝ですもの。

もっとも、それはまさにそうなのですが、それでも『Ⅱ』冊目は大変でしょうね。ただ「形」を覚えればいいというのではなく、誰に対するか、どういうときに使うのか、どういうニュアンスが加味されるのかといった部分も理解しなければなりませんから。

また、スーダン人学生のように、「(言いたいことは)同じでしょ。同じでしょ。どうして違う言い方をするの(全く同じというわけじゃないんだけれどもね)」。怒り出す人が出ないといいのですけれども。

日々是好日
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「初級読解」。一回目は互いに「ガーン」となっていました。

2023-06-14 08:20:15 | 日本語学校
曇り。

降っていないかというと、そうでもなく、かすかに雨を感じし、雨のにおいもする。降っているのでしょうね、わからないけれども。

今は、「アジサイ」の花、真っ盛りといったところです。こうも色鮮やかというか、色の濃い「アジサイ」や、形の変わった「アジサイ」が増えていますと、子供の頃から見慣れた、地味な「アジサイ」、ありふれていたはずの「アジサイ」が、どんなふうだったのかわからなくなってしまいます。

これはおかしい…のかな。実際、言葉も変遷するし、草花だって、時の流行というものがある。わからなくなって当然。そうやって「今」は形成されるのだから。…とはいえ、時折、昭和の頃の「アジサイ」が、と恋しくなったりする。普段は「きれいだ」だの「面白い」だのと言って、色や形が変わっているものを褒めそやしたりしているのですが。

今朝、あるお宅のお庭に咲いている、地味な「アジサイ」を発見しました。ずっと咲いていたのでしょうけれども、気がつかなかったのです。見えていたのでしょうけれども、華やかさの方に目が奪われ、気がつかなかった…。

ピンク系の薄い色をした「アジサイ」です。そういえば、子供頃はこれが主流で、青系統の「アジサイ」を見かけると、ウキウキしたものでした。が、それが今では、真紫やら、濃紺のものやらが、あっちでもこっちでも幅をきかし、昔の「ほのかな」とか、「かすかな」といった色合いが、どこやらに吹っ飛んでしまったような感じです。慣れてしまったのかな、強烈な色彩に。まあ、見慣れないものに新鮮さを感じ、そちらを良しをするのも人ですからね。しようがないか。

果物や野菜はどんどん甘くなって、酸っぱさ、苦さが失われているというのに、花々は派手に、奇抜になる一方のようです。

さて、学校です。

「Cクラス」に、「読み物(初級1)」を利用した問題を準備し、やってみて三回目。どうやら、やり方が決まったようです。もちろん、彼らの反応如何で変えていくものですから、あくまで、今の段階ではということなのですが。

こういうものの指導の仕方は「クラス」によって違えなくてはいけないものなのですが、多分、傍目には、「何が」と見えるでしょうね。しかしながら、本当にさじ加減一つで、学生がこちらを小馬鹿にしたり、(やるのを)諦めたりすることだってあるのです。たかが「初級読解」、されど「初級読解」なのです。軽んずる事勿れ。

まずは、一回目。「教科書」の本文を読み、軽く質問をしていきます。単語の確認などをし、わからないことがないようにしておきます。だいたい、そのときは皆、漫然と聞いているだけでしょうし、流れのまま順に質問していきますから、その順に答えていくだけ。考えてはいない。

ただ、この「クラス」で考えておかなければならないのは、皆、留学生ではないということ。毎日の授業の時に、苦手意識というか、難しいと思わせないことが必要になってくるのです。留学生の場合、一、二年はいますから(つまり、逃げられない)、どこかで手は打てる。けれども、こういう忙しい中を勉強しに学校に、わざわざやってきている人たちは、「わからない」「難しい」が、ある一定量になってしまうと、続けることを諦めてしまうのです。帰宅しても、それほど(勉強に)時間が割けませんから、8割か9割方は学校で、一応わかったにしておきませんと、「宿題」をする元気も失せてしまいます。

これから数年は日本にいるという人もいれば、おそらくはずっと日本にいるであろう人もいる。日本語の、「読む、聞く、話す」が、ある程度、出来ていれば、これからの日本での生活がずっと楽になる…そう思ってきている。そのため、忙しい中、(彼らにしてみれば、学習適齢期はトウに過ぎている)無理をして来ている人たちです。

せっかく学ぼうとしてきた人たちに辛い思いはさせたくありません。

とはいえ、一回目は、向こうも「ガーン」なら、こちらも「ガーン」でした。留学生だって、たいして(始めた頃は)できはしません。とはいえ、その比ではない…ということで、二回目はかなり手を入れ…それでも個人差が出てきましたね。まあまあの人が一人か二人。

で、三回目の昨日は、「問い」にある「疑問詞」の線引きからやっていきます。「疑問詞」が終わったら、次は文末の「動詞」です。「何を問うているか」と、「答えの最後(文末)はどう書くべきなのか」。そこまでヒントを与えた後、見ていると、前には、為す術がないとじっと本文を見ていただけの人も、答えを一生懸命書いています。しかも、だいたい同じくらいの時間でやり終えていました。時間差があまりにありすぎるのは問題になるのですが、まあまあと言ってもいいでしょう、許せる範囲内です。一回目や二回目の時には、早い人で15分だったのに、30分かけても、まだ答えが埋められていない人も数人いました。

しばらくはこのやり方でやっていくことにします。もう少し慣れてきたら、またやり方を変えていくつもりです。授業なんて、学生あってのもの。彼らが変わっていけば、こちらのやり方も変えていく、その柔軟性がなければ、互いにつまらないでしょう。これはどの仕事でも同じでしょうけれども。

そういえば、スーダンの女子学生が、怒っていたなあ。「『先生はどうして』とか、『主語は』とか、『筆者の考えは』とか(いろいろ)すぐ聞く。(国の)学校では、勉強というのは、覚えるだけ。覚えればよかったの!」。ウザったいというところだったのでしょうね。

今はどうしているかなあ。もう大学二年生になっているはずなのですが

日々是好日

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「日本留学試験」の作文に頭を抱えています。頑張れ。

2023-06-13 08:27:19 | 日本語学校
曇り。

朝、窓を開けると、街中が靄の中に沈んでいました。久しぶりです、こんなの。天気予報を見ると、「東京は、湿度100%」とありましたから、なるほどなです。これが山里などであったら、どんなに佳いことか。さぞかし美しいことでしょうね。まっ、街でも、いい。ないよりはずっといい。一層の静かさの中、小鳥たちの鳴き声が靄の中で聞こえてきます。

さて、学校です。

「日本留学試験」に参加する学生が、「作文」で、頭を抱えています。

試験を受ける学生がいるときにはいつものことなので、私は慣れていますけれども、学生にとっては初めてのことですから、それはそれは大変ね。「こんなこと、考えたことがない」とか、「どう書いていいかわからない」とか、試験なんて、覚えりゃいいということで、やってきたような人たちにとっては、「なんじゃい、これ」というところなのでしょう。。

以前、「作文」の授業(「日本留学試験」用作文ではありません)の時、中国人学生には、最初に「本当のこと…というか、自分の正直な気持ちを書いてね」と言い、次に「『国のために尽くします、貢献します』ってのは、無しだからね 」と言っていました。

こう言わなくて(彼らが)書いたものを見ると、嘘くさいし、誰が書いたのかわからない金太郎飴というのも少なくなかったのです。

しかも、彼らの国で培われた、おかしな技巧で、書いてくるものですから、一体何を言いたいのかわからない。もしかして、それが目的ではないのかと思われるくらいに…韜晦術に長けている者もいた…(大卒です)。何が言いたいの?と聞くと、もっともらしい、いわゆる偉そうな言葉が返ってくるので、こちらは疲れてしまう。君は大統領かと言いたくなる。

ただ、中国人でも、高卒で、この学校に半年から一年くらいいた人は、あまりこの点は問題になりませんでしたね。「国のために」とか「貢献」とか書いてきても、「本当にそう思ってるの」と聞くと、「へっ」と言う顔をして、終わりです。それが通用しないことがわかってほっとするのでしょう。「もし、そういうことを書きたかったら、『みんなが幸せになれるように頑張ります』かな」と言いますと、それは違う…らしい。日本では中国の理屈が通りませんから、素直になってくれるのが一番です。

その点、ほかの国から来ている人たちは、何を言っているのかわからなくても、そういう臭みはありません。ただ、ベトナム人のものは中国的な臭みがチラチラと見えますね。かつて、中国科挙の弊害を色濃く受けてきたからなのか、あるいは中国と同じ政治のなせるワザなのかはわかりませんが、偉そうなことを書きたがる。

「これはいかんよ。人が見てあまりいい気分にはならない。上から目線だな」と時々、中国人に言っていたようなことを言わざるを得ないこともあります。もちろん、題が「友達」とか、そういうものだったら、違うのですが。

日本人はこの点、楽ですね。偉そうなことを書かずにすみますし、素直に、「自分は幸せになりたい」とか、「こんなものがあったらいいな」と、現在はお上の考え方を斟酌せずにすみます。まして、作文です。何を書いてもいい。

そうやって、自分たちは書ける時代に育ってきたことを感謝せねばならぬと思います。「国民は国のために尽くすべきだ」なんて、無理な要求をされ続け、そういう教育を受け続けしてきた人たちは、どっかで破裂しないかなといらぬ心配をしたりします。とはいいましても、それが当たり前で育ってきた人たちは何にも思わないでしょうね。日本の軍国時代と同じですもの。

戦前は、「本音」の日記と、「建前」の日記(提出用の日記)とを書き分けて、自分の姿を見失わないようにしなければならなかった…多分。それが、今はありません。

もちろん、人を貶めることが目的だったり、人に注目されたいがために愚かなことを書いたり、発表したりするということも起きています。これは「自由」の弊害とも言えますが、ただ弊害はあっても、やはり「自由」を守る方がずっと大切。

人間は、基本的には優しい気持ちの持ち主であると言ってもいいでしょう。ただ、同じ人間が、時には他者を攻撃して鬱憤を晴らしたいという気持ちになることもあります。それで得られた安らぎも、つかの間のものに過ぎず、そのあとには倍も辛い思いをしなければならなくなるというのに。

さてさて、「作文」から話がずいぶん逸れてしまいました。

昨日、私に作文を見せてくれた学生の話。「昨日(一昨日です)最初に書いた作文を見て、驚いた。下手。何を書いているのか、さっぱりわからない」と言って帰って行きましたが、少しでも言いたいことが相手に伝わるように書けるといいですね。わずか400字ですから、頑張れ。

日々是好日
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シトシト雨が…。

2023-06-12 08:25:44 | 日本語学校
小雨。

しとしと雨が、途切れては、また降る…といった感じで、降り続いています。今日は「日が照る」ことはなさそうです。

この六月の、「水無月」という古名は、「無」という字がいけませんねえ。様々な説があるという「由来書」を見ても、どうもすっきりしません。「水張月」の方がピンとくるというのも、今年も六月に入ってから雨の日が多かったせいでしょう。もう「梅雨」に入っていますし、「台風」も、もしかしたら、「三号」「四号」「五号」とひっきりなしにやってくるかもしれません。

いにしえの名も、習った当座は気にしていても、日常生活の中では出てきませんからね、そういう我々にとっては、耳にするたびに「何が『無』だ。毎日が雨だろうが」という気分になって来るのも、当然と言えば当然でしょう。

さて、学校です。

「Cクラス(初級)」では、留学生三名のほかは皆、在日の人で、仕事の関係上、勉強を暫時停止しなければならないということも時々起こります。

今年の「Cクラス」でも、そのようなことが起こりました。前に一度、「会議のせいで、月に一回は来られない」と言っていたミャンマー女性が、とうとう、来月から来られなくなったと言いに来たのです。彼女は、病院に行くときも、学校の方を優先してくれていたのですが、仕事が忙しくなり、会社を休めなくなったそうなのです。忙しいのは、多分三ヶ月ほどだろうから、それからまた来ると言っていたようなのですが、さて、一度切れてしまうとどうでしょうか。

こういう人が学校に来るというのは、よほどのことなのです。高卒や大卒で、学校生活の流れ(慣性の法則のようなものです)で、勉強している留学生たちとは違います。留学生にはきつく言うこともあるのですが、こういう頑張り屋さんたちには、何も言えません。ギリギリで頑張っているのがよくわかりますから。

日本で暮らしていく以上、「生成AI」が、いくら優れた機能を持とうが、日本語がわからなくては、なにもできません。言語の勉強というのは、早くざっとやってしまったほうがいいのです。短期決戦というのがいいのですが、とはいえ、皆、それぞれ事情がありますから、何も言えませんね。毎日の授業では、「ゆっくり、ゆっくりでいいですからね。毎日何回も何回も復習しますからね」と言っています。

それから、もうお一方。先週末からアメリカ出張のコロンビア人男性。「コロンビアとのリモートは夜中になります。本当に忙しい。昨日も眠くて起きられなかった…」いかにも申し訳なさそうに言ってくれるのです。…そんなに気にすることはないのにと、思うのですが、言わないことには気が済まないのでしょう。「日本語の勉強、好きです。とっても好き。今は、ちょっとちょっと、日本語がわかります。楽しい。でも、時間がない」を幾度となく繰り返しながら、帰って行きました。

残念は残念ですけれども、数ヶ月を勉強に割いてきた時間というのは決して無駄にはなりません。出来るところで、頑張ってください。もし、勉強できるようになったら、また来てください。待っていますからね。

日々是好日
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小雨。皆は無事、「葛西水族館」に行けたかなあ。楽しんでくれるといいけれども。

2023-06-09 10:26:27 | 日本語学校
小雨。

まだ少し降っているようです。時々雨脚が激しくなりますが。

さて、学校です。

昨日「Bクラス」でのこと。中学生が遅れていたので、今度「N3」の試験を受ける学生のために、暗記プリント(N3文法)の読み合わせでもやるかと思ったのですが、そこではたと気づいた。試験まであと二週間。「文法」の時間は、あと二回しかない(…勘違いしていました。「留学生試験」とごっちゃになっていたのです)。ということは(と、そのときは焦っていました)来週の二回しかない。となると、彼はどうするか。…で、その次を見ておこう…ということに。(「Bクラス」の2人以外は、復習になりますから、それほど気にする必要はないのです)。

で、「尊敬語・謙譲語」のページを開かせる、…と、それだけで、いや~な顔になる。「先生、大変。これ、嫌い」。それで、「まとめプリント(N4)」に書き足しておいた「謙譲・尊敬」の部分を開かせると、こちらが何も言わずとも、自分から読んでいきます…これには、別に抵抗感はないようです。

そして「うん、わかる」。…「わからなかったら大変でしょ。勉強したんだから」という渋い表情は見せずに、「読むんだったら、こう読んでいった方がいい」などと言ってやります。そして「文法(N3)」の本のページを指さしながら、「あれ(N4)に足りないのは、これらだけだから。でも、こういうのは聞いたことあるでしょ」と言うと、「ある、ある」とお店の人のものまねをして見せます。…そんなこんなをしているうちに、中学生がやって来ました。

ちょうど「尊敬・謙譲」のページから「助詞」のページに移るところだったのですが、そのまま続けていきます。

「助詞」の所の食いつきは良かったですね、中学生の方は。わからなかった時には、もっと例を挙げてと何度も要求します。一応納得できると、「例えば」とか、「じゃあ」と言って、自分が確認したい例を挙げたりします。中学校で、そういうときがあったのでしょうね。こういう、実体験が先にあって、確認できるところには、彼、食いつきがいい。

とはいえ、それで、皆、どうにかなるかというと、そうはいかないのですね。

彼の場合、「~わけ」類などの微妙な表現は苦手なのです。ここの説明には、目がだんだんにうつろになってきます。もう一人は、これ(この文法の本)じゃない。他の本(N3文法)だったら、ベンガル語の説明があるというだけ。そう言いながらも、どの文型がそれに相当するかを探すのはかなり面倒らしい。「その本を持ってきなさい。探してやるから」と、確か、前にも言ったことがある…のですが、それから、私が担当したり、しなかったりで、お互いにそれはどっかに飛んでいた。でも、もう一度言っておきます。

彼の場合には、そういう母語による説明などがありますから(多少は)どうにかなるとしても、中学生の方の言語の履歴には、多分こういう(ちょっと面倒な)のはないのでしょう。すぐに「同じでしょ。先生。同じなのに、どうして違う言い方をする!」と癇癪を起こしたりします。そのたびに私は、おなかの中で「ガキンチョ、ガ近著」と言っているのですが、最近はどうもそれに気がついたらしい。何か言ってる?と訊いてきます。

そういえば、以前、台湾人の少女を教えたことがあるのですが、彼女も「N1」の文法に苦戦していました。中国語にも、日本語と同じような形があるので、わかりやすいと思っていたのですが、年齢的にも、自分の周りにそういう言葉を使う環境がなかったからでしょう。しかも、それ自体を理解するだけの知的体力もまだ不十分であったでしょうし、それを異国の言葉に置き換えることも、難しかったのでしょう。彼女が見てくれと持ってきた(一つ一つの文系を用いた)日作文も、…困った。どう変えていいのか変えようがなかったのです。

「N1文法」で使われているものは大半が新聞記事や書き物などでよく見られる類いのものですから、お友達との会話などではどうも作りにくい。彼女の世界はまだお友達との会話レベルでしたし、大人が出てくるにしても、せいぜいが先生くらいのもの。で、「…意味は合っているけどね、こういう場面では用いない…なあ。大丈夫。意味さえ、わかればたいしたもんだ」

私も現場にいた時「中学三年生」を教えた後、すぐに「一年生」の教室に行った時、しまったと思わされたことがありましたもの。上の学年に使えた言葉が下の学年には無理だったのです。…ああ、あれと同じなんだ。

で、話は元に戻ります。「わけだ」類です。私も、いくつかの例を出し、彼らもそれなりに理解しようとしてくれましたが、「どう?」と訊くと、「う~ん、なんとなく」。気を遣っているのがよくわかる返事です。すると、今度は隣にあった「~はずだ」で「これ、な~に」。「な~に」のはずがないとは言いたくても言えません。

特に中学生の方は、この学校に来る前に一年ほど中学校で日本語を習ったと言うことでしたから、来たばかりの頃は「私は日本語ができる」と言い張っていたのです。教えるまではこちらでも彼のレベルがわかりませんでしたし、一丁前に話せていましたから(留学生は、話すのが苦手なのです。日本人の中で揉まれるということがありませんから。おそらく聞き取りの問題なのでしょうが)。彼が入りたいと言った「N4クラス」の学生たちの会話能力は、日本人の中で一年も学校生活を送っていたこの少年よりもずっと下でしたから、自分の方がずっと上だと思えたのでしょう。

とはいえ、この学校の学生たちは、系統的に文法も漢字も習っていますから、じきに彼のメッキは剥げてきました。彼は多分「生活日本語」みたいなもので、教えられていたのでしょう。最初は「ナ形容詞」などを、「学校の文法では形容動詞というからね」と気遣っていた私も、こういうことは言わなくてもいいのだと言うことに気づきました。そもそも「国語」の時間は取り出しで(日本語の授業を受けていた)、「形容動詞」などの言葉も聞いたことがなかった

一度、彼一人の時に「国語の教科書(中学校)」の最初の部分を「どうかな」と思ってやってみたのですが、普通の小説ですから、漢字だけでなく、文法的にも、表現的にも、「N1」レベルは疾うに超えています。

日本の風土・歴史もわからなければ、日本人がどうしてそう考えるのかも掴めていない。そういう少年にはどうしたらいいのでしょうね。多分、最初にとにかく突貫工事で、「N3」まで入れてしまうしかないだろうと思うのですが、これとても、こちらが現場にいるのではありませんから、どうしようもない。

中学生が「このままじゃいかん。どうにかせねばならん」と自分でこの学校を探し出し、日本語を勉強したいんだと言いに来た、それに免じて見てやってやるしかありません。

日々是好日
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