「はっとして われに返れば 満目の冬 草山をわが歩み居り」 (牧水)
払暁時、暗く青味を帯びた黒雲が空を覆っていました。今年最後のお日様を拝めないまま一日は始まりました。けれども、今は、もうきれいな青空になっています。洗濯日和です。
「木に倚れど その木のこころと我がこころと 合ふこともなし さびしき森かな」(牧水)
「いざ行かむ 行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに 君は耐ふるや」(牧水)
2009年生には、大学院を目指している学生が何人かいます。今年は皆中国人で、モンゴル族の学生です。これまでの漢族の学生達は、そのほとんどが、中国の大学で専攻していたのとは違う専門を、大学院で勉強したいと言い、これに本当に手こずらされていました。違う専門と言っても、とにかく前の専門は嫌だと言うばかりで、何がしたいのかもないのです。
こういう学生が多いと、私たちとしても、中国では、大学四年間の専門知識は、大学院を受験するときに役に立たないレベルではないのかしらんと思わざるをえないのです。たとえば、政治を専攻していた学生が、教育を専攻したいと言います。それでは、大学に入り直して専攻すればと言いますと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をします。
私のことを、常識がないと言わんばかりに見るのです。
「私は大学を卒業した(当然、次は大学院だ。また大学だって?何を抜かす)」くらいの気持ちなのでしょうね。日本では、大卒であろうが、院卒であろうが、専門に何を選んでいたか問題なのです。日本では、大学教授を定年退職した方が、今度は考古学を専攻したいからと大学を受験し直し、大学生になったという例もかつてはありました。
この年度の学生達は、面接の時に、私たちが(その点を)力説し、確認をとっていたということもあったでしょうし、専門が違えば、大学へ行きなさいと譲らなかったと言うこともあったでしょう。皆、大学で専攻したのと同じ専門を選んでくれました。
中には、中国にいた時には、少しも勉強したくなかった。けれども、日本に来て、今は本当にこれを勉強したいと思うようになった。この先生に認められたいと言ってくれる学生もいます。
こうなると、日本に来てもらってよかったと、私たちの方でも、嬉しくなってしまうのです。もちろん、研究生になれるかどうかは、まだわかりませんが。
彼らも、自分達の知識が足りないということをよく知っているのです。専門だけではありません。日本語においてもです。大学院の先生方の中には「日本語の『N1』が通ったくらいで来ないで欲しい。何も出来ないのだから」とはっきりと言う方もいます。けれども、大方の先生方は、本人が如何にその専門に魅せられているかと、その情熱を見て決めて下さるようです。
私たちにとっても、それが救いでしょうか。人は国も民族も選んで生まれてくることは出来ません。生まれた場所で受けた教育が頼りないものであったからといって、それで、その人の能力を測られてしまうと辛いところがあります。本人が来日してからできるようになったこと、それを見てもらいたいのです。それが日本留学であれば、一年少しで、「N1」に合格できたということ、それを、まずは、見て欲しいのです。専門知識は、本人にやる気さえあれば、どうにかなるでしょう。なんといっても、それがやりたいと頑張っているわけですから、。少なくとも、一年少しで「N1」に合格できたということは、それだけの能力があるということですし。
今年は、家でインターネットができるようになったということもあり、今日は7時くらいまで、学生達の指導に追われました。正月もそうなるでしょう。彼らの夢が叶えられることを祈りながら、今年、最後の「佳き日」の報告を終わりたいと思います。
この一年ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
来年も、幸多からんことを。
日々是好日
払暁時、暗く青味を帯びた黒雲が空を覆っていました。今年最後のお日様を拝めないまま一日は始まりました。けれども、今は、もうきれいな青空になっています。洗濯日和です。
「木に倚れど その木のこころと我がこころと 合ふこともなし さびしき森かな」(牧水)
「いざ行かむ 行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに 君は耐ふるや」(牧水)
2009年生には、大学院を目指している学生が何人かいます。今年は皆中国人で、モンゴル族の学生です。これまでの漢族の学生達は、そのほとんどが、中国の大学で専攻していたのとは違う専門を、大学院で勉強したいと言い、これに本当に手こずらされていました。違う専門と言っても、とにかく前の専門は嫌だと言うばかりで、何がしたいのかもないのです。
こういう学生が多いと、私たちとしても、中国では、大学四年間の専門知識は、大学院を受験するときに役に立たないレベルではないのかしらんと思わざるをえないのです。たとえば、政治を専攻していた学生が、教育を専攻したいと言います。それでは、大学に入り直して専攻すればと言いますと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をします。
私のことを、常識がないと言わんばかりに見るのです。
「私は大学を卒業した(当然、次は大学院だ。また大学だって?何を抜かす)」くらいの気持ちなのでしょうね。日本では、大卒であろうが、院卒であろうが、専門に何を選んでいたか問題なのです。日本では、大学教授を定年退職した方が、今度は考古学を専攻したいからと大学を受験し直し、大学生になったという例もかつてはありました。
この年度の学生達は、面接の時に、私たちが(その点を)力説し、確認をとっていたということもあったでしょうし、専門が違えば、大学へ行きなさいと譲らなかったと言うこともあったでしょう。皆、大学で専攻したのと同じ専門を選んでくれました。
中には、中国にいた時には、少しも勉強したくなかった。けれども、日本に来て、今は本当にこれを勉強したいと思うようになった。この先生に認められたいと言ってくれる学生もいます。
こうなると、日本に来てもらってよかったと、私たちの方でも、嬉しくなってしまうのです。もちろん、研究生になれるかどうかは、まだわかりませんが。
彼らも、自分達の知識が足りないということをよく知っているのです。専門だけではありません。日本語においてもです。大学院の先生方の中には「日本語の『N1』が通ったくらいで来ないで欲しい。何も出来ないのだから」とはっきりと言う方もいます。けれども、大方の先生方は、本人が如何にその専門に魅せられているかと、その情熱を見て決めて下さるようです。
私たちにとっても、それが救いでしょうか。人は国も民族も選んで生まれてくることは出来ません。生まれた場所で受けた教育が頼りないものであったからといって、それで、その人の能力を測られてしまうと辛いところがあります。本人が来日してからできるようになったこと、それを見てもらいたいのです。それが日本留学であれば、一年少しで、「N1」に合格できたということ、それを、まずは、見て欲しいのです。専門知識は、本人にやる気さえあれば、どうにかなるでしょう。なんといっても、それがやりたいと頑張っているわけですから、。少なくとも、一年少しで「N1」に合格できたということは、それだけの能力があるということですし。
今年は、家でインターネットができるようになったということもあり、今日は7時くらいまで、学生達の指導に追われました。正月もそうなるでしょう。彼らの夢が叶えられることを祈りながら、今年、最後の「佳き日」の報告を終わりたいと思います。
この一年ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
来年も、幸多からんことを。
日々是好日