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『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[若者よ! 「物語」の表面だけをなぞるな!]

2006-10-13 07:30:09 | 保守の一考
☆この文章は二年半前に書いた未完の文章です(H16 序盤3/17・18 中盤4/4)。

 力入れて書いているのだが、尻切れトンボの文章になっている^^;

 でも、この文章には、既に同じテーマが繰り返し繰り返し語られている。

 私が繰り返し語っているのは、

  【あなたが知ったに過ぎない経験は、あなたの経験ではない】
  【他者の具体的事例は、あなた自身に当て嵌められるものではない】
  【判例を採用するのは、非常に慎重さが必要だ】

                    ってことである。

 内容が古いが、なにぶん、二年半前の文章なので堪忍してね^^

 何ゆえに、この文章を再掲するかと言うと、

 『十四才の母』と言うドラマが視聴者に悪い影響を与える、と言う、やや浅い主張が多いからだ。

 私は、『十四才の母』と言うドラマで示された得意なシチュエーションに自分を重ね合わせる精神性こそ問題なのだよ、と言いたいのだ。

   [同化・感情移入・憑依・シンクロ・フュージョンなどなど]

▼『ヘーゲル・バッハ・エッシャー』ならぬ、「飯島愛・AIKO・小林よしのり」なる拙文を、足早に書いてみたい。

 若き頃、友人の間では、どこからともなく無修正アダルトビデオが回ってくるものだ。ある日、飯島愛の裏ビデオが回ってきた。私は、飯島愛は好みではなかったのだが、やはり、AVギャル出身であるにもかかわらず、あそこまでテレビでメジャーになった訳でもあり、興味深く鑑賞した。

   (感想)飯島愛さん、看護婦さんの扮装でノリノリで出演してました。

 その後、更にテレビで活躍するに及び、飯島愛は、AV出演の過去を問われると、「ああ、私のそっくりさんがいるのよねぇ」とうそぶき、古くからのファン(つまりAV女優時代からのファン、彼女の人気を支え続けてきたファン)を悲しさとともに、失笑させたと言う・・・(いや、確かに、一時期、飯島恋と言うのがいたらしい)。

 宮台真司が、「飯島愛を目指してAVギャルになってしまう女の子」について語る場面に出くわしたことがあるのだが、彼が言うには、「飯島愛は特別に運が良いだけで、みんながみんな、AVギャルになったら、彼女みたいになれると思ったら大間違いなので、そのような動機の女の子に巡り会ったら、やめるように言っている」てなことを言っていた。いや、誰が言っても当たり前のセリフなのだが、宮台氏が言うとなると、なんか特別なことのように聞こえる^^;

 ここで、記憶しておいて欲しいのが、<AVギャルになったら、飯島愛のようになれると思ってしまう女の子>の存在である。

 その後、飯島愛は、隠しきれなくなった過去を・・・、いや、自分自身を偽るのが嫌になったのか・・・、自叙伝みたいな『プラトニック・セックス』と言う本を出版した。これが、売れた。テレビドラマにもなったし、映画化もされた。しかし、それも、やはり、偽りの内容だ。つまり、AVギャルであった隠しようのない過去を、あたかも赤裸々に告白したように見せかけて、そこに、現在の飯島愛の感情を混ぜ込んで、読者の共感を得ようとする、もう一つの過去(フィクション)を生み出した訳だ。・・・いやはや、私はノーカットのビデオを見ているのだよ。もう喜んで快感を貪る飯島愛の姿を見ているのですよ。丸出しなんですよ。・・・そこに、「愛」だの「純粋」だの「無垢」だのをデコレイトした嘘過去物語を見せられても、呆然と見送るしかない。

 しかし、ここで、問題なのが、その本『プラトニック・セックス』や、その映画、そのドラマを見て、飯島愛を見直すバカがいる。いや、それは結構^^ それは、飯島愛の作戦勝ちだ。しかし、その物語に描かれる、例えば、心にもないAV出演や、不純異性交遊(^^;)の姿を見て、自分も「やむにやまれず」気分になって、実際は「(自分の置かれた状況において)やむにやまれ」てないのに、AV出演等をしてみちゃう女の子がいると言う事実だ・・・。

 つまり、楽しくてやっていた不道徳な行為を、年を経て恥ずかしく思った飯島愛が、過去を美化すべく書いた、あたかも「やむにやまれず」したかのように描いた物語を、それを見た女の子達が「やむにやまれ」てもいないのに、その気になってしまうと言う<悪循環>があることに注目して欲しいのだ。

 思えば、やはり、飯島愛は「時代の寵児」なのだろう。どのような局面においても、日本の女の子の半分に影響を与えている。しかし、最近テレビでその姿を見ると、少し寂しげだ。『プラトニック・セックス』で自分は癒され、過去の清算が出来たと思ったに違いないのだろうが、その賞味期限が切れ、再び、自分の良心が、自分の過去の不徳を責めているのかも知れない。私は、最近の、諦観のこもった飯島愛の瞳を見る度に、「この人、いい人かも知れない・・・」と思うのだ。最近のAV女優には、飯島愛に残された、このような良心の欠片さえ見当たらない・・・。・・・飯島愛のように、歳を経て現われてくる羞恥心もある。いや、あった。しかし、今の若者には、おそらく、それがなくなりかけてる・・・(この問題に関しては、いつか長文)。

 映画『プリティ・ウーマン』が公開された頃の「ニューズウィーク」で、こんな記事があった。 アメリカの女の子の間で、「プリティ・ウーマン症候群」てのが流行っているのだと。・・・その作品は、まあ、リチャード・ギア扮する孤独な富豪に、下町の娼婦ジュリア・ロバーツが巡り会い、気に掛けられ、恋に落ちる、という話だ。もちろん、ハッピーエンドなのだが、多くのアメリカの女の子が、自分にもそんなシンデレラストーリーが訪れると思っちゃうそうなのだ・・・。その話を聞いた当時の私は、「そんなバカな」と思ったものだが、その後、十数年を経て、私は、世の中は「そんな単純な」人間ばかりで、「そんなバカな」ものであることを知った。「そんな」人びとに影響を与えなくては、世の中を変えることは出来ないのだと分かった・・・。

 ♪飯島愛の「愛」は、AIKOの「AI」^^

 ▼歌手AIKOは、私の最も好きな歌手だ。多分、永遠に聞き続けるだろう(椎名林檎も大好きだったが、結婚してから精彩を欠く)。いや、AIKOの魅力を記すのが、本稿の趣旨ではない。彼女のアルバム『夏服』のある楽曲にこんな詞がある、

   ♪後ろ振り向かずに歩くこと あたしは何があっても生きる
   ♪誰が何を言おうが関係ない あたしは味方よ・・・

 その歌を繰り返し聞き、当時、その女の子がつきあっていた彼氏に、途方もなく失礼なことを仕出かした女の子を私は知っている。私は「いや、AIKOは、お前さんのような愛を踏みにじった行為を肯定してはいないぞ。愛を貫くために犯した罪を肯定してるんだぞ!」

 私は言ったものだが、その子は、AIKOの歌が、自分のおかれている現実の具体例とは全く違うのにもかかわらず、AIKOの歌に描かれているストーリーに自分を重ねて、自分のメチャクチャな行為を正当化した訳だ・・・。

 私は、私の友人の為に、その女の子の頭をかち割ってやりたいほどの怒りを持ち続けている。いや、実際のところ、会ったところで、そんなことはしない。でも、心の中では激怒し続けている。・・・心の中で思うことと、実際に実行することとは、天と地ほどの開きがある・・・。

 つまり、余談ではあるが、ニュースを騒がす犯罪者が、自分と似たような性質を持つものであろうとも、あなたと、その犯罪者は、まったく異なる存在なのである。

 先ほどの、十年程前の『プリティ・ウーマン』の頃のジュリア・ロバーツとは、全く関係ない話なのですが、最近のジュリアの話を書きます。現在はどうだか分からないが、二、三年前のジュリア・ロバーツは、ハリウッド女優№1の出演料だったそうだ。人気者ゆえに、プライベートを探る雑誌記者や、パパラッチに追いまわされることも頻繁だったそうだ。・・・で、あるインタビューの時、しつこく男性関係を聞かれたジュリア・ロバーツは、遂にブチ切れてしまったそうだ。以下、下品ではあるが、ジュリアの肉声・・・。

   「私のマンコが、誰のチンポをくわえ込もうが、あんたらには関係ねえんだよ!!」

 私は、その話を聞き、ジュリア・ロバーツが大好きになってしまった。いやはや、よほど、ゴシップ誌の取材に辟易していたのだろう・・・。

 もちろん、普通の人が同様のセリフを言っても、許され難い。ハリウッド一の女優が、さすがに「堪忍袋の緒」が切れたからこそ、言えるセリフなのだ。そう、あなたが言っても、ただの社会非適合者のセリフにしか聞こえないかも知れない。社会に生きていく限りにおいては、度を超さない程度のプライベートへの干渉は、必ずあるものだ・・・。

 ▼女性の例ばかり挙げているが、男性だって負けていない。シルベスター・スタローン! 彼の映画を見た若者はやはり感化される。多くの中学生高校生男子は、『ロッキー』を見た後に必ず、身体を鍛えたくなる(腹筋・腕立て^^;)衝動に駆られるはずだ。ボクシングをやっていた訳でもないのに、大勝負が控えている訳でもないのに、ロッキーの境遇にシンクロし、ある者は情けなくも三日で挫折し、ある者は本気になり、ボクシングジムなんかに通い始めてしまう・・・。

 ▼小林よしのりの章に進む前に、もう一つAIKOの話。アルバム『小さな丸い好日』の中に、こんな詞の楽曲がある。

   ♪もしも罪を犯し 世界中敵にまわしても あなたと眠る夢を見続けたい・・・

 このような歌詞は、恋をし始めた時の誰もが、共感してしまうものだろう・・・。

 そう、荒野・・・、地平線いっぱいに敵の軍隊がいる。自分は恋人を片手にかき抱き、その恋人を守る為、戦う決意をする。

 ・・・ははは、自分など、たかが知れている人間なのに、そんな歌に、自分の妄想を重ね合わせたりするのである・・・。

     ♪AIKOの「KO」は、小林よしのりの「小」

 ▼小林よしのり氏についてだが、私は、かつて、他の掲示板で、彼の思想転向に際し、裏切られた思いを抱き、批判を尽くしたものだが、今は、その怒りも冷めた。

 一つに、私も、「便所の落書き」レベルではあるが、このように人様の目にとまる場所で意見を主張したことによって、小林よしのり氏の気持ちが、その万分の一でしかないのだが理解できるようになったのだ。

 恐るべきは、彼の強靭な精神力である。いや、例えば戦時中の戦場であれば、彼はその強さを発揮できないかも知れない。しかし、この、平和な日本の、情報戦争の中においては、彼は至上の強さを誇ろう(ホントは、その最強表現手段<マンガ>に、文章のみで対抗できている西尾幹二先生らの方が凄いのであるが・・・)。

 二つ目に、現在の彼が、それまでは言論界の中心を牛耳るかの勢いであったのだが、最近の彼が、言論界の一角を確実死守するかのような言動に変わってきているのに気付いたからだ。

 今の彼が保守言論の中心にいたら、現実の社会に多くの弊害が出よう。しかし、彼が、言論界の一角に存在する所存であるのなら、絶対的に必要な存在であった。多くの意見の一つとしてなら、彼は正しいのである。

 三つ目に、彼自身にとって、出版社にとって、「小林よしのり」という存在が、これからも何とかして稼がなくては、稼いでもらわなくてはならないブランドであるだろうと思ったからだ。稼ぐためには、一風変わった正しさを示さなくてはならない。反米だろうが親米だろうが、賛戦だろうが反戦だろうが、日本の保守思想を語れなくはないのである。
彼は、稼げる方を撰んだだけだ。自分の信念に忠実に、だ。

 発言者としての小林よしのり氏は、まあ、それまでも、個々の具体事例に対し、それぞれに対応した言論を主張して来た。故に、それぞれの、彼の提出した答えは、その具体事例によって、全く異なった答えを出す。それは当然なことで、根本的な間違いも多々あるのだが、それに対し「矛盾している!」などと批判するのはおかしい。

 他の知識人たちの言説よりも、はるかに自分をさらけ出しているパーセンテージの高い知識人である小林よしのり氏は、その長大著書「ゴーマニズム宣言」によって、上記に記したような<根本的間違い>の理由(情報の欠落)を読者にも理解させているのである。
故に、「矛盾している!」と言う批判はあたらない、読者は、ネットや、街中での読者同士の議論をもって、小林よしのり氏の「根本的間違い(情報の欠落)」を指摘し、それによって、彼への愛憎と言う両極端の感情を得るのである。

 (彼が関連した<具体的事例>)・・・「言論の規制問題」「「プライバシー(ピャ-ボー)事件」「差別問題」「薬害エイズ問題」「オウム真理教事件」・・・、etc、etc・・・。
 そして、「従軍慰安婦問題」に発する「歴史教科書問題」に至った・・・。

 そして、昨今、小林よしのり氏の言説は、多くの具体的事例・事件の底流には、現代日本人の「保守的思想」の欠損があるのではないか、との結論を得たとみられる。
つまり、ここで、多くの事件や問題の根本原因の存在(「保守思想」の欠損)を知るのである。とりあえず、その思想に照らし合わせれば、答えは得られると言うものである。
いや、ここにおいて、私は、保守思想が真理であるなどとは言ってないですよ。共産主義思想だって、その思想を軸にして世界を見分けられるし、左翼リベラリズム、進歩主義的思想でも世界を見分ける中心軸とすることは出来ます^^

 ただ、小林よしのり氏は、その経験及び、もって生まれた彼独自の思想的バランス感覚をして、「保守的思想」を自分の思想とし、それを内に秘め、多くの言論を闘うことになった訳だ。

 「歴史教科書問題」は多くの問題を孕んでいる。・・・歴史それ自体の真実の解読。・・・それを歪める近隣諸国・国内左翼勢力との関係。・・・教科書であるが故の子供への教育的影響、・・・その子供達は、将来、日本国を担うのである。

 「嘘」の歴史を教えられたらどうなるか?

 「他国からの不当な干渉」に屈したらどうなるか?

 国は遅かれ早かれ滅びることになる・・・。(歴史)教科書は、そういった「真っ当な概念(道徳)」をも教育せしめなくてはならない責務を負う。

 家族・親類・縁者、隣人を愛し、守らなくてはならない、そして! それを脅かすものに対しては、戦争を辞さない。それが、至極あたりまえの「道」だ。

   (小余談^^)世界最大部数を誇る週刊誌「少年ジャンプ」の数々のヒーロー達も、当然に戦い続けている。

 そこで、「いかなる戦争も反対!」とか言うバカに対しては、あんたの親類・縁者・親戚は俺らが守るから、あんただけ「殺されてくれ」と言いたいものだ。

 と、話が脱線したが、小林よしのり氏も似たような思考を持って、保守的(=新しい歴史教科書をつくる会)活動に勤しんでいた。

 ▼だが、2001年の「9・11 NY同時多発テロ」が起こり、それに際し、小林よしのり氏は、その劇的状況に叫んだ訳だ。「その手があったか~っ!」

 正直、私も、そう思った。「こんな凄まじいテロ方法は、人間のイマジネーションの究極の産物だ」と・・・。しかし、犯罪者への賛辞はそれまでである。犯罪者は、断罪されねばならない。アメリカの、その後の取った行動は全く納得出来るし、同盟国として、日本が取るべき道も限定される(フランスやドイツの出方や、そこと日本との対比は、今は割愛)。

 しかし、小林よしのり氏は、そんな日本の現状を、そんな日本政府を指示する保守派言論人を許さなかった。

 <・・・アメリカは、先の大戦の敵国である。日本に直接的な被害を負わせ、今もって間接的な被害を与え続けている国だ。にもかかわらず、その悪の帝国に、何の主張もせぬままに米国の言いなりになるとは何事だ、と。また、それを支持する保守派言論人は何者だ!>

 と・・・。

 だが、世の中は、そんなにシンプルではない。小林よしのり氏が断罪した政治家も、言論人も、易々と米国追従に与している訳でもない。

 少なくとも、親米保守派言論人の全てが、90%の<反米意識>を内に秘めていると言う事実があろう。その悉くの著書が、先の大戦前後よりの米国の影響を国難と解している。彼らは、私などが生まれるよりも遥か昔から、そんなことは繰り返し主張してきているのである。

 小林よしのり氏が、その彼らを責める語彙・理論は、責められている彼ら・親米保守派言論人が過去に語り尽くしてきた言論である。

 何故、「ポチ保守」などと罵られる親米保守派が、現在、アメリカのやり方に従う日本政府を支持しているかと言うと、この二点に尽きる。

  ①・どっちかと言うと、アメリカの傲岸不遜な正義の方が、イスラム諸国の国際社会への不満を<過激>に体現したテロリスト集団よりも、今の日本の正義に近いから(相対化)

  ②・また、かつての敵国ではあるが、現在の同盟国でもあり、世界唯一の強国であるからして、その<力>を取り込むのは得策だと考えているから(パワーバランスにおける優位)

 つまり、アメリカは、日本にとって忌むべき相手ではあるが、世界には、もっとなりふり構わない国が多数存在する。ちっとは話の分かるアメリカと組んで、極悪退治をしようとするのは当たり前のことだ。遥か彼方の、究極の理想ばかり追っているなら、共産党と同じだよ、ってことなのだ。・・・と、このような要旨を、私さえも何度語ったことか・・・。

 この稿は、小林よしのり氏の問題について語っているので、親米保守の問題はこれにてやめますが、もう一つ・・・。「保守思想」と言うのは、その思想の10数%に「悪」を内包しなくてはならない側面があるのです。人間なんて、そんなものじゃないですか?^^ 生きてること自体が、多くの悪事を生み出している。でも、残りの80数%を善行に向けるのが、現実に則した思想と言うものなのです。

 どんな人間も、思想は思想として持っている。しかし、現実の問題が、その思想に能天気にあてはめる事によって解決できるとは限らないのである。

   (繰り返す)

 私は、「保守思想」とは、人間として生きていく為の10数%の悪徳を内に秘めているものだと思っている。確かに、アメリカは、日本のような純粋な国家ではない。傲岸不遜な国家である。しかし、その国と組むという悪徳を犯しつつも、残り80数%の善行を達成していくのが<保守する>と言う事である。

 遥か彼方の至高の理想を追求するのは悪かない、むしろ、いい事だ。しかし、現実は厳しく、例外に満ちている。自分の正義が、相手にとっての正義とは限らない。言論でならば、素晴らしき思想の理想を追えようが、それを現実の世界で実現させたい<真の言論者>にとっては、どこかで<妥協>と言う<悪徳>を犯し、思想と、現実の政治との<折り合い>をつけなくてはならないのだ。

 真摯な言論者であればあるほど、その身は汚れていくと言うジレンマがある。

 近頃の小林よしのり氏は、遥かな至高の理想を語り、安穏のうちにいる平和な人々に自分の主張をしつつ、まさに侵入してこようとする世界の悪徳に対し警告を発している言論者に対しては罵倒を繰り返し、その低レベルな論争と言う<異常状況>で好事魔を引寄せ、お金を稼いでいる・・・。

 いま、まさにそこにある危機に対し、現時点では、日本は為す術を持たない。故に、にっくき帝国・アメリカを利用しなくてはならない(いや、私は、イスラム諸国同様、アメリカも大好きです^^)。それが、親米保守派の冷徹な選択である。苦渋はないようである、すんなりと導き出される答えであった。

 雲の彼方の理想ならば、幾らでも語れる。だが、それは共産党と一緒だよ、とは何度も繰り返している。・・・小林よしのり氏は、現実の中で、頭をフル回転させている真摯な言論者の気持ちを分かって欲しいものだ。そう、日本を含めたアメリカ側が敵対しているのは、小林よしのり氏が、好き勝手な言説を振りかざす事を許さないような社会の住人たちなのだから・・・。少なくともアメリカには、言論の自由が保障されている。小林よしのり氏は、自由主義陣営の恩恵には身をドップリと浸しつつ、アメリカの自由を非難し、また、好き勝手なことを言える日本の平和の恩恵に与りつつも、現在の日本を批判し続けるのだ。・・・それは、思想以前の経済行為に他ならないのだが・・・。

 ▽(ちょい余談)・・・対して、左翼の方たちは、人間と言うものは100%正しくあるべきだ、と考えているようだ。それは言いのだが、それにも段階がありそうなものだが、バカなので、それが行き過ぎて、人間は100%正しいのだ、と言う考えに行き着いてしまっている。故に、「知る権利」などを理想化し、心の未熟な小学生の低学年から過激な性教育を施したりする。また、「子供を信じる」という美辞麗句にのせられ、非行に走るかも知れない子供の監視を怠る。また、「いかなる戦争も反対」などと言って、対テロ戦争において、その現地(例えば、イラク)に「人間の楯」などとして行き、テロ集団・テロ国家をほくそ笑えましたりする。

 もう、冷徹な判断を下して欲しい。相対的に考え、「戦争」と「テロ」では、どちらが<悪>として点数が高いのかと・・・。こう言ってもいい、現在の日本にとって、アメリカとテロリスト集団ではどちらが<悪>かと・・・。では、「戦争」と「テロ」に、「虐殺」を加えてもいい、どれが「悪」の点数が高いのかと・・・。戦争を内包したアメリカと、テロを内包したイスラム国家と、虐殺を内包した中国・・・。「どれもが<悪>だ」などという逃げ口上こそが、「人間の楯」を組織し、より[悪度]の高い者どもを生き長らえさせるのである。

 私は、繰り返し、左翼の方に言いたい。「死ぬのはあなただけにしてくれ! あなたの隣人を巻き込むな。私は、やられるならば、やるし、あなたが喜んで殺される自由は認めるが、あなたの隣人が殺されるのは絶対に見逃す事はできないぞ」と・・・。

 ▼アメリカは悪い、自国の国益優先し、自分勝手に弱いものイジメをしやがる。しかし、アメリカは、その国民を守る義務がある。その弱いもの(タリバン政権・フセイン政権)が狂人と化し、暴れまくったら、成敗しなくてはならない。

 ここでポイントなのが、アメリカが「弱いものイジメ」をするのが悪い、と言う意見があろうが、「弱いものイジメ」が起こる前段階として、両国の利害関係が存在している、と言う現実がある。そこにおいて起こった「弱いものイジメ」は、それは、もう、残念ながら、アメリカには強大な力があり、アメリカの方が強かったという悲しい現実の現われだ。

 では、弱者はどうするか? その闘争方法の一つとして「テロ」はあろう。しょうがないのである。テロは永遠に行なわれ、対するアメリカ側は、永遠に討伐戦争をし続けるのである。・・・そう「トムとジェリー」のように<仲よくケンカ>し続けるのである。
日本は、アメリカ側である。異論はあろうが、下記の事由により、どうしようもなくアメリカ側であるが故に、テロリストに対し断固戦うことになる。

 小林よしのり氏は、その、アルカイーダのテロリスト、タリバン、フセインの兵士たちを、明治維新前後の攘夷派や、先の大戦前後の日本軍及び日本兵と重ね合わせているようなのだ。世界貿易センタービルに突っ込んだテロリストを、日本の神風特攻隊の兵士とは異なる、とは言っていたと思うのだが、アメリカに対しての憎悪を、アルカイーダ及びタリバン・フセイン政権への好意に翻した時、そこには、自分の「正義・戦士の美徳」を同調させずには済まなくなってしまったようだ。つまり、かつて、アメリカに戦いを挑み、潔く命を散らした日本兵を、現在においても「悪の帝国」と言えるアメリカに戦いを挑むアルカイーダのテロリストと似たものだと感じてしまったらしいのだ。

 いや、そもそも、アメリカが憎いからと言って、アルカイーダのやり方を賛美できよう筈はないのである。ましてや、旧日本兵や幕末の「ラスト・サムライ」たちと、テロリストを同列にするなど言語道断なのである。

 テロリストは、イスラム諸国の国民の意思の反映ではないのである。敬虔なムスリムたちの、人間であるが故の悪徳の極北に過ぎないのである。人間は、そんな悪を内に秘めつつも、そんな悪を打ち消しつつ、神に祈り、生きているのである。

 悪を開放し尽くしたアルカイーダの如きテロリストは断じて、先の大戦においての旧日本兵の如き、全国民の思惟の代表なのではないのである。

 日本軍が、まえもって作戦上、他国の市民を「武器の一部」として使用したことがあったであろうか?

 日本軍が、テロリスト的に、宣戦布告もなしに戦いを挑んだことがあっただろうか?
いや、そもそも、テロリストは、兵士じゃないか・・・^^; 説明を要するかも知れないが、タリバンもフセインの私兵も同根である。

 テロリスト如きは、その出身国の歴史・伝統・文化・社会・宗教の代表者足り得ないのである。(続く)

 ☆ダメだあ。今週も完成できない。ここらから、今までの全てがひっくるめられたフィナーレに向かいます。ちゃんと、全てが繋がりますから御安心を^^

 ここまで「H16 序盤3/17・18 中盤4/4」です。終盤もすぐに書きますから^^; また、文章の不備は適宜直しますんでヨロピコ!

 (現在)・・・と、こうして頑張って書いていたのですが、未完です^^;

 この後、小林よしのりが反米になった原初には、イスラムへの初心者案内として観た『ランボーⅢ』の、その主人公への同調があったのではなかろうか?

 と、話を進めていく予定でした。

  相棒(?)となる西部邁をトラウトマン大佐に見立て、大軍隊を相手に言論戦争を挑むイメージです^^;

                                              (2006/10/13)
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