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関口存男のハイデッガー論(その1)

2012年01月12日 | ハ行
 不世出の語学者であった関口存男(つぎお)氏はハイデッガーの哲学、特にその「存在と時間」を高く評価していました。しかし、それの訳注書は出しませんでした。それはしないでエゴン・フィエッタ(Egon Vietta)の「マルチン・ハイデッゲルと新時代の局面」(Martin Heidegger und die Situation der Jugend)という論文の詳しい注釈付きの翻訳を、語学文庫の一環として、出しました。その巻頭に置かれた「解説」にこうあります。

──現代の哲学界における最も著しい動きはフッセルを中心とする現象学派の運動である。現象学というのは1つの方法であって、その可否は一に懸って諸種の問題に関するその適用法である。現象学はいかなる応用を見たか。

 先ず、それは形而上学において存在論なる分野を拓くにいたった。殊に形而上学の中心に重大な問題を巻き起こすにいたったのはマルチン・ハイデッゲルの「存在と時間」の前半である(後半はまだ出ていない)。

 この著は、既に言葉使いの上からして、非常に読みにくい。殊にドイツ語の細かい語法等に関する知識や或る種の細かい語感を持たない人にとっては文字通りein Buch mit sieben Siegeln[理解不可能な書]である。しかもそれがしきりにもんだいになるとなると、ドイツ語をやって哲学に進もうという人々にとっては実にのっぴきならぬ大問題が課せられた、と言わなければならない。「翻訳」を通じたりなぞしては決して分かりっこないものが、また1つ飛び出したわけである。

 しかも一方、形而上学なぞとは何の係わりもなく、現今は「政治」、「経済」その他の社会問題全盛時代である。諸相問題と言えば、人はマルクス主義かファシズムか、と考えるきりで、その他の事は一切忘れている。つまり、社会問題が直ちに以て哲学、哲学が直ちに以て社会問題となりつつある……ように見える。

 しからば、哲学とは何ぞや。こうした荒っぽい、しかも直接に関係のある概括的な問題が、ちょうど現今のような時勢においては又改めて論議されなければならなくなった。
 その意味において、ハイデッガーの形而上的な立場と社会国家政治経済の方面を主とする現今のいわゆる「尖端」の思想との間の関係を論じつつ、同時に「哲学とは何ぞや」という主題を短く扱ったものとして、この書のテクストに選んだ論文は、必ずしも無意味ではなかろうと思う。(1932年3月)(引用終わり)

 見られる通り、関口氏の問題意識は、時代の要請に応えて、「形而上学と政治・経済の関係を論じ、哲学とは何かを論ずる事」です。この問題意識に応えるのに本論文が最適だと判断したのです。しかも、語学のテキストとしてです。

 しかし、歴史が証明した通り、この判断は間違っていました。関口氏の数ある著述の中でこの小冊子程読まれない物は他にありません。関口氏のドイツ語学を学ぶと自称している何人かの人(ほとんどが教授)にも聞いて見ましたが、読んだと言う人に出会った事がありません。

 原文はドイツ語としても悪文です。そういう事より、上に確認したテーマと取り組むならば、原理的に考えて、現象学については「存在と時間」の訳注書を書き、マルクス主義についてはエンゲルスの「反デューリング論」か「空想から科学へ」を取り上げると好かったでしょう。

 しかし、それはともかく、関口氏のハイデッガー論は受け継ぐ価値のある物だと思います。それが読まれていないのは残念です。そこで、核心的な言葉だけでも整理して提供したいと思いました。

 なお、元の小冊子には訳文も載っていますが、それをつなげて紹介しても余り意味があるとは思えません。私が、氏の説明を受けて理解した限りの事を訳しましたものがあります。それは近いうちに別途掲載する予定です。

 その「局面」からの引用は頁数のみを記し、他は出典も書きました。

   第1章、総論

 01、ハイデッガーと「実在と時間」
 02、「存在と時間」は再帰構造の展開
 03、自己意識の特徴
 04、価値判断と「真の自己」
 05、ハイデッガーの方法
 06、他の哲学との関係
 07、ハイデッガーのドイツ語


   第2章、用語解説

・ausgezeichnet(本物の、生のままの)
・Auslegung(解釈)
・Befindlichkeit, Stimmung(気持)
・bestehen
・Da-sein(「現・生」)
・Durchbruch(突破)
・Entdecktheit von 'Welt'.
・erschliessen(啓示、啓き示す)
・Existenz〔実存〕
・fragen〔問う〕
・Gegenwärtigkeit[現在性]
・Geschichtlichkeit(歴史性)
・Hereinstehen(逼(せま)っている)
・Können(可能性)
・Langeweile(退屈)
・Nichtigkeit(虚無性)、Nichts, nicht(虚無)
・offenbaren(啓示)
・der Ruf des Gewissens〔良心の呼び声〕
・Seinsverständnis(人生を分かろうとすること)、Seinkönnen と Verstehen
・Stimmung(気持)→Befindlichkeit
・umweltlich (四囲)
・Verfallen(帰堕)
・sich verhalten〔~への関係〕
・Verstehen (分かる)
・vorhanden(客在)
・Wahrheit(真理)
・Zeitlichkeit(時性)

   第1章、総論

 01、ハイデッガーと「実在と時間」

 近頃の哲学者ですがハイデッガーという一寸変わった人がいます。その主著 Sein und Zeit(実在と時間)は語法と思想の難解なのを以て有名です。それは、荒っぽく言うと、da という1字の持っている内容を繰り広げてそこから「人生とは何ぞや」という問に1つの解決を与えたもので、言語と思想との関係を考えるには好個の材料です。もちろんよほどドイツ語の語感のしっかりした人でなければ、たとえ哲学者といえども容易には読めない本です(関口存男『ドイツ語大講座』第4巻 315節、注)。

 感想・この本は今では普通は「存在と時間」と訳されています。ハイデッガーのDasein(現存在)とは人間のことですが、人間をそう捉えたのでそのように言うわけです。人間を「実存」と捉える人たちは人間のことを実存と呼ぶのと同じです。

 このように言うことの問題点は、人間をそう捉えない人達と議論をする時にもそう呼ぶことです。人間は人間として呼んで、それを「どういうものとして理解するか」が問題になる時、そして自分の理解を語る時にだけ「現存在」とか「実存」と言うべきだと思います。「イエス・キリスト」という言葉も同じで、これは「イエス」という個人を「キリスト」(旧約聖書で神が約束した救い主の名)と認める人だけが使ってよい言葉です。イエスがキリストか否かが問題になっている時にはただ「イエス」と言うべきでしょう。

 「存在と時間」は「存在とは何か」(「ある」とはどういうことか)、つまり存在論をするための準備として、それを認識する主体である人間の意識構造を分析しようとしたものです。つまり認識する前に認識手段を認識しておこうというもので、完全なカント主義だと思います。ヘーゲルはこれを「水に入る前に泳ぎを習うものだ」と批判しました。

 結局ハイデッガーはその存在論まで行かないで終わりました。事実上自分の方法の間違いを認めたことになると思います。この未完の部分を補って完成させようとした人が木田元氏で、その『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)がそれです。

 02、「存在と時間」は再帰構造の展開

 また、もっとややこしいのになると、マルチン・ハイデッガーは、人間の存在、即ち個人の意識を中心として見たわれわれ人間世界というものの根本を成す「からくり仕掛け」を、かれ独特の三本柱をピシッと食い合わして次のように組み立てている。

Sich vorweg schon sein in einer Welt bei innerweltlich begegnendem Seienden.

 ハイデッガーを知らない人にはもちろん何の事だか分かる筈はない。けれども、これだけの文句をよく覚えていて、この文句の説明を一言一句に聴取せんとする心構えを以て、その『存在と時間』を読んでいけば、いずれは分かる事請け合いです。

 問題はこのsich vorweg(己自身に先んじて離れて)という一句ですが、この場合は、主語として考えられる自我とsich によって意味される自我とは、ハイデッガーの考えとしては全然別物です。また別物であればこそvorweg という事が言いうるのであり、また、別物だと区別を立てて関係を明らかにしたところにハイデッガーのシステム〔哲学体系〕があるのです。

 ハイデッガーの考え方によると、自我というものが、本来の自我(das eigentliche Selbst)と、本来ならざる自我(das uneigentliche Selbst又は das Man-Selbst)とに分かれる。すると、sich vorwegにおいては、sich によって指されているのはそのどっちかという疑問が当然起こって来なければならない。同時にsich は、その主語の方を考えさせるから、では主語の方はsich とは違った自我を指すであろうという事は当然考えられる。

 その問題は、ハイデッガーの論旨を知る人は、その次のschon sein in einer Welt 云々から考えれば当然判明する如く、sich によって指されているのが本来の自己であって、sein という不定法の主語として考えられる方が das Man-Selbst を指すであろう事は明白です。

 即ち、一言を以て断ずるならば、ハイデッガーは、ドイツ語(ばかりではない、あらゆるヨーロッパ語)に特有なる「再帰的という言語現象」に往々生ずる事あるべき前述の如きある種の論理的矛盾をはっきりと意識しつつこの構文(Formulierung, Ausführung)を敢行したと言って構わないでしょう。しかも、区別を意識しつつも、本来の自我と言い、目前の関心網を右往左往している表面の自我と言い、共に結局は常識の立場からは単に「自分」ということになっているその普通の自我だということを言外の余韻にひびかせんとして、文法的には、ドイツ人の考え方に非常に親しいこの再帰構造という奴を採用しつつ自分のGedankengebilde〔思想世界〕の内奥を簡潔にほごして見せたのでしょう。(関口存男『ドイツ語論集』 282-3頁)

 03、自己意識の特徴

 ① そもそも人間に意識という変なものが備わっているという事は、一面非常に有り難いようであって、また他面においては甚だ有り難くないことがある。というのは、よくある意識生活の一局面ですが、意識するということは甚だ自分にとって都合がわるく、目をつぶって通った方が気が楽な場合があるからです。「自分自身に対して頬かぶりをして通る」方が得策なことが起こって来ます。

 意識というのは、つまり、前に述べたように、我々自身の鼻の先に鏡が置いてあるのと同じ関係にあるものです。ある種の場合には自分のやっている事が自分自身の眼に映ずるのは甚だ困ることが起こってくる。そこで、自分自身の意識を躊躇したり、自分には一寸内緒にしておいたり、自分自身の陰に隠れてこっそりとやってしまったり、その他意識の明鏡を曇らせることによって現実我の意図を貫徹しようとする局面が生じてきます。

 只今挙げた母親の挙動の描写などがその局面のなかなか微妙複雑な場合で、これは、自分が平素あまりかまってやらなかった子供が病気になって眠っているところへ母親がやってきて、寝息をうかがって見たが、別に変わった事もなく、すやすやと眠っているらしいので、安心したような、すまないような、何となく物足りない中途半端な気持ちのままで、また部屋を出ていってしまう所の描写ですが、介抱したいにも介抱する事がないものだから、彼女はベッドの布団の上を撫でて皺を延ばしてやる。布団の皺を延ばしたからと言って病気が楽になるという話はまだ聞いたこともないが、とにかく何かしないと自分の気が済まないものだからそうするわけです。けれども、そうしながらも、それは単に自分が自分自身に対して演出して見せる芝居にすぎないのだという「意識」があるから、彼女は多少恥ずかしくもあって、そう大げさにはやり切れない。やりかけた途中で、あいまいにごまかしてしまう。だいいち、皺を撫でたからと言って病気に何の関係もないということは「薄々知っている」ものだから、勿論真面目に撫ではしない。では全然撫でる必要はないではないかと言えば、それはまあそうですが、そこがその──面白いところです。

 要するに、人間という奴は、意識という鏡を突きつけられていながら、格別突きつけられ甲斐もなく、実に齟齬矛盾そのものの如き行動に出る動物で、時には現在ありありと鼻の先に見えている事をすらも強いて見まいとする。「意識という浄玻璃(じょうはり)」としての理想我に対して、「無意識な塊」としての現実我は常に犯罪者の警察に対するが如く逃げ隠れしていると思ってよろしい。どんなに意識が明瞭な、どんなに頭の好い人間でもそうです。否、意識が発達して全てを克明に反射してくれば来るほど、即ち文明人になればなるほど、不透明な現実我の方はますます甚だしく暗にもぐり、地下に隠れ、ますます甚だしく犯人意識が発達して来ると言うも過言ではありません。

 ここでちょうど好い機会ですから「意識」という現象を再帰哲学的に定義すると、こういう風に考えられます。「意識とは、とにかく吾人自身の眼の前に置かれた、どうしても取り除くことのできない宿命的な鏡の如きものである。自分自身が反射屈折して、自分自身が欲すると欲せざるとにかかわらず、自分自身に向かって帰ってくる現象である」。

 鏡の例を幸いに、もう一段飛躍して面白く言うならば、「言わば自分自身が逃れようなく自分自身に突きつけられているかたちである」とも言えましょう。

 またハイデガーの思想を持ち出して言うならば、意識という現象だけではなく、そもそも人間、人生、自我というのが、ハイデガーの用語で言うと、我々が、我々自身の現境(da)の真っ只中に向かって「投げつけられている」(geworfen)かたちなのだそうです(この「かたち」(相)のことをハイデガーは Sein という用語で言い表します)。故に、私が只今述べた「突きつけられている」という変な形容は、このハイデガーの Geworfensein〔投げつけられたあり方〕の一種だと思っていただきたい。変な形容かもしれませんが、再帰的な考え方に入り込んでしまった西洋哲学としては、当然こうした解釈に到達しなければならなかったのではありますまいか(論集 323-4頁) 。

 ② ハイデッガーの哲学(むしろ Ontologie〔存在論〕)は、現在までの、単に事実を写し出すだけの哲学ではなくて、わかりやすく言えば「要求」から出立しなければ存在の根本相の説明が出来ないという哲学である。

 即ち、人間の意識現象の根本をなしている所のもの、いわば人が普通 Seele(霊)と呼んでいるもの、或いは自力本願的宗教家が「自己の中枢に君臨する神」と称するもの、これが我々をして常に不安な、あわただしい、動いて止まぬ「人間」たらしめている根本である。それは「良心」として常に我々に呼びかけている。

 ところが常に「世間的」に、社交的な man(御同様)として、真の自己を正視する事を忌避しながら、言わば仮の衣たる外的自己とその利害とのみに没頭しながら、共同生活的、団体意識的、非人称的な意識層に安住の浮木を追って泳いでいる「吾人」なるものは、その良心なるものを、なるべく聴くまいとしている。表面の自己が、背後の自己(神)のために多少たりともその自信を揺るがされるような、多少たりとも真剣な体験や運命は、極力敬遠するのが常である。外部から迫る運命は時には非常な決断を以て全人格に引き請けるが、自己の内から生じて来る運命(開けんとする認識、等々)に対しては、みんな非常に卑怯である。

 しかしそれをしなければ真の人間ではない。少なくとも哲人ではない。内面的体験を忌避「しない」こと、これが人間たる理想である。そこに内面的進歩がある。最も人間らしき人間を人間せんと努める事、と言ってもよかろう(アウグスティヌスがその「告白」において絶えず神に向かって呼びかけているのも、まずハイデッガーの哲学と同一である。ハイデッガーの所謂 das Man-Selbst〔御同様〕がアウグスティヌ自身であり、die eigentlichste Möglichkeit〔本来のあり方〕が対話の相手のDeus(神)であると考えられる)。(44-5頁)

 ③ ハイデッガーの考えの筋道はこうである。吾人の生存意識とはどういう現象であるかというに、それは、意識という現象そのものが、既に本来の吾人を去って、何者か(世の中=Welt) の手に帰し且つ堕してしまっていることを意味する(これが Verfallen〔帰堕〕。同じ現象を Verlorensein in die Oeffentlichkeit des Man, 又は Aufgehen im Miteinandersein等とも言っている。

 換言すれば、本来の自己の中へと見返ったり反省したり、自己そのものの存在に気がついたりするのは、ずっとずっと進歩した上での現象であって、吾人はまず外界にすっかり気を奪われた状態から人生を始め、且つ大抵の場合はそのままで一生を通す。

 これは決して「俗人」だけのことではない。みんながそうである。というよりはむしろ、それが吾人の意識(=da) の第一義なのである。そして、そもそもの最初から暴力的に背後に見捨てのけられたままでいる本来の自己なるものが、自分に背を向けて前方にのしかかっている第二義的世間的自己、即ち意識(da)を自分の方へ引っ張り戻そうとする運動──これが良心、体験、歴史、時間、運命、その他の名を以て呼ばれる諸種の「内圧力」(「内紛」と言ってもよかろう)であって、この圧迫力が普通「時間」という名で呼ばれている既知の現象の本体である。(64頁)

 04、価値判断と「真の自己」

 ① 客観的科学的に述べるのではなく、そこに論者の善悪可不可の判断を交えて、或る一面を奨励し、或る一面を誹謗するごとく論ずるのを moralisieren すると言う。

 このあたりに述べてある事柄は、ちょっと前の注で私がハイデッガーの哲学について述べた趣旨と一見相反するように思われるかもしれないが、ここがハイデッガーの哲学の特有性であって、その時に述べた如く、彼の見方は、普通の見方を以てすれば明らかに1つの「要求」であり、「文化哲学的野心」であり、むしろMoral と解した方が却って力強くその意を捉えることが出来るものであるにかかわらず(それはアウグスティヌスとの類似点を考えてみれば、思い半ばに過ぎるものがある)、ハイデッガー自身はそうではないと言っている。それはもちろん彼の Methode〔方法〕が純現象学的なのであって(即ち形式だけの問題で)、その対象、その内容は明らかに1つの人間的要求である。それが証拠にこの論文を書いている人自身がハイデッガーの哲学から出立して「哲学はかくあるべし」という主張を提げてマルキシスト達の態度を攻撃しつつあるではないか?

 いづれにしろハイデッガーは単なる Auslegung〔解釈〕以外の何物かを提げて立っていることは事実である。(65頁)

 ② 吾人の存在意識は、生まれると同時に、いわば己自身から離反(abfallen)して、当面の客観界へ身を売ってしまったような状態になっている(これが verfallen) 。人間をうまれながらの罪人と考え、生まれて現生に籍を置くことを以て直ちに「神を忘れる」ことに一致すると考えたある種のキリスト教哲学とその考え方が甚だしく似ている。

 ただハイデッガーは、神と言わず、「真の自己」又は「自己の真諦」、もっとハイデッガーの用語に近づけると「自己を深めることの可能性」「計画されるべき自己」といったような言葉を用いるだけの違いである。しからばその真の自己とは何か。これに対しては、概念的な明確な答えをすることはできない。如何となれば、「概念」なるものが既に真の自己の世界のものではなく、いわゆる「公けの」man の世界の符牒だからである。

 強いて言おうとすれば、たとえばここに言ってあるように faktisches In-der-Welt-sein〔事実的世界内存在〕なぞと、概念としてはごく何でもないものになってしまう。吾人は「事実として」(faktisch)世にいる。これが、事実としてあらゆる深い運命を生み、体験を醸し、あらゆる重大な結果を生ずる根本である。Fakt(事実)という現象が、発すれば da となって御同様(man)の実在形式を規定しているのである。「事実」としての自己、これが深く意識されれば、それが直ちに以て真の自己であり、真の自己の獲得し戻さるべき方向である。
 しからば、その真の自己はどこに埋没しているか。即ち何に飲み込まれているか。何の手に「帰」し、何に「堕」しているか。

 ちょっと考えると、「金の問題」や「人情の行きがかり」や「研究の対象」等に埋没しているように考えられる。そうには違いないのだが、それをもっと「実体学的」(ontologisch)に云うと、自分自身の一構成要素たる「現」世的方面(方面どころか、それがむしろすべてなのだが)の中に没入しているのである。即ち「現」世にいるということそれ自身が吾人をして吾人自身(即ち神)から叛かしめているのである。日本語の「現世」というのはちょっと面白い。直訳すれば Da-Weltである。Da もWelt も、要するに吾人自身の存在様式を表現する無邪気な直接な言葉である。(66-7頁)


その2

2012年01月12日 | ハ行
 05、ハイデッガーの方法

 ① ハイデッガーは「存在と時間」では1つの重要な現象を問題にする毎に必ずその諸種の副形態や姉妹形態を挙げてこれを説き証(あか)すのが常である(64頁)。

 ② ハイデッガーは、人間意識の根底において実現されるべき(können)何らかの可能性を指摘する際には必ずその本能的心理的なBefindlichkeit(気持)の現れを証拠として挙げる。Angst, Gewissen, usw. 「時間」なるものの真底を述べんとする場合もそうしている。[「退屈」を挙げている]。(101頁)

 ③ 人間という特殊な存在は、絶対に他に例を求めることが出来ないものである。かかるが故にそれを学問的に述べんとするハイデッゲルの哲学が、従来の哲学のように、人間以外の実在物の実在様式を指すために用いていたその儘の言葉を以て人間というものを述べるということをせず、人間意識の場合にのみ妥当なる語を求めて行ったのはもっともである。

 自然科学とその用語に慣れている我々は、どうもやはり外界の自然物のように、もしくは外界の自然物に類似を求めながら人間を考える癖がある。例えば、人間が「知、情、意」の3つの機能を持っていると言えば、もうすぐに人間を3つの分解可能な部分から成った機械のように想像したり、ひどくなると、その3つを「三角形」にならべて想像したりするといったようなわけである。「部分」とか「三角関係」といったような事は全て「空間」の関係であって、そんな「比較」「類推」でもって考えては、人間という現象の本質はわからない。この点では既にハイデッゲルを待つまでもなく、フランスのベルグソンが持論として凡ゆる機会に述べている事柄である。(90-1頁)

 「概念」(Begriff, Form) というものを基準に考えると、従来の哲学は、すべて、その扱う概念を1つの与えられたものとして(たとえば「主観」「客観」)、それらの概念と概念との間に生ずる諸種の問題を論じていた。

 ところが、概念というものは元来人間が勝手に造るものである。妥当ならざる概念を造れば、それが妥当ならざるその事によって諸種の妥当ならざる大問題が生じてくる。ところが、そんな妥当ならざる問題が生じないようにするには、初めっから妥当ならざる概念を造らなければ好いのである。妥当な問題のみが生ずるように、初めっから統一ある組織的な概念を造れば好い──これを実際に行ったのがハイデッゲルである。

 だから、これまでのような概念を扱いつつ哲学していたために生じて来ていたある種の問題は、新たな組織の概念の機構の中にあっては、もはや全然問題にならないといったようなことも出来て来るわけである。「主観」「客観」という言葉なぞもハイデッゲルは全然用いない。(118頁)

 06、他の哲学との関係

 ① 生の哲学との関係

  既にゲーテの『ファウスト』にも Grau, teurer Freund, ist alle Theorie, und grün des Lebens goldner Baum. と言ってあるが、Theorie[理論]というもの、従ってPhilosophie[哲学]というものはいつの間にか Lebenの反対を意味するようになり、あまりに概念のやかましい論理的な哲学は、近頃やかましく言われだした Leben[生]の立場の哲学者たちからは、あたかも血の気の通わない骸骨か何かのように言われることになった。
 反対に、たとえばリッケルトの『生の哲学』を見ると、いわゆる graue Theorie[灰色の理論]の立場から、あらゆる生の哲学者に対して言われうべき返事がすべて書き尽くされている。こういう風に、近頃の大問題は、LebenとTheorieとの対立で、頑として旧来の Theorieを守る人と、Lebensphilosophie に赴く人々との抗争が絶えない。(116-7頁)

 ② 人間学及び形而上学との関係

 ヘーゲル等のために、純粋の高遠な形而上学というものと、すぐ歴史的具体的事象に即した Anthropologie(人間学)というものとの間にある種の合流が生じたことは事実である。ハイデッゲルの哲学は、よく悪口が言われるように、具体的な歴史や歴史観を離れて「一人の人間一般」というものについて云々するという範囲において、最も極端な「形而上学」であると同時に「人間学」である(人間というのはこの場合単数である。しかも文法上いわゆる genereller Singular〔代表的単数、又は類を意味する単数〕の 'der' Menschである)。その点において、MetaphysikとAnthropologieとの合流から独立したとはいうものの、やはりその起源を己が特徴として持っていると言える。

 ──そのFreimachung[始まり]は、ハイデッゲルのつもりではもちろん人間学、形而上学の「基礎学」としての「存在論」を立てたことを言うのである。(122頁)

 ③ 唯物論批判

 1、あらゆる形而上論を無用のものとしてしまうと、後にはもう自然界、国家、社会、史実といったようなpositiv[実証的]なものばかりが残る。そして大へん「話がはっきり」して来る。おれたちは何をなすべきか(Möglichkeiten)という問題の範囲も、はっきりとブン廻しで abgrenzen(画する)することができるほど明瞭になる。──これが唯物論的な考え方である。唯物〔論〕的世界というのは、同時に「原始的」な世界、即ち凡ゆる野蛮人がそう考えている通りの世界である(迷信等をのけて考えれば)。(127頁)

 2、そうした「政治的・社会的・実証的な世界観」というものは、吾人の、外界に向かってなされる実際行動の方に全注意を傾倒せしめ、また何か実際的な目的を遂行するための意志を極度に強めるものである。そのために、そうした偏した考え方が一方において(殊に人間の哲学的方面を深めるという方で)如何なる危険(例えば人間を浅薄にする危険)を伴うものであるかということを考えさせない。そうした内面的な問題の存在を忘れないためには、ある種の「緊張力」を必要とする。その内面の緊張力という奴は、外面的な実現力とはややともすれば反比例する関係にあると言える。(127頁)

 3、政治等、外界の問題に向かって全注意を向けている人間は、いざという時には(たとえば外界の問題が無意味に終わって自己の非を悟ったような暁には)こんどは自分自身の中に引っ込むことが出来る(政治家が失敗して坊主になったりする例は古来の歴史によくあることだ)。引っ込むというのは、自分自身の主観という奴がまだ内容を持たない空虚の世界だから、そこに一身を託し、何物かを開拓する余地があろうというものである。

 ──ところが、内面の問題、人間の問題そのものを真正面の問題にしている人はそうは行かない。それが解決されなければ彼は自ら慰むるに足る他の天地がない。だから「真剣さ」が自ずと違ってこなければならない。その事を言おうとするのである。

 この辺は、一つは言葉遣いも拙いために、一寸難文になっているから気をつけてもらいたい。こういう所が征服できてはじめて凡ゆる哲学、思想の論文にぶつかるだけの頭が出来るのである。従って私自身の解釈にも、多少原著者の意を外れるようなことも全然ないとは保しがたい。言葉を超えた思想の世界、及びその表現は真に科学的な研究の対象になりうる。文学と思想との間の機微な関係はこういう難文(拙文?)を解釈する時に本当に現れるものである。(133-4頁)

 07、ハイデッガーのドイツ語
 ハイデッガーは接続法第2式を使うべき所で使わない癖がある(関口存男「接続法の詳細」 112頁) 。


   第2章、用語解説

・ausgezeichnet(本物の、生のままの)

ハイデッゲルが ausgezeichnetと称するのは genuin, echt(本物の、生のままの)の意である。ausgezeichnetes Verstehen はいわばベルグソンの直観である。即ち、「理屈」(Logos)を介しないという点が似ている。

もっと極端にハッキリ言えば、ausgezeichnetという形容詞を用いつつ、ハイデッゲルは実は schlechthinniges Verstehen, reines Verstehen 又は das Verstehen schlechthin, das Verstehen kat'exochen と言ったつもりに違いない。kat'exochen というのは、überhaupt という意をこめた ausgezeichnetの概念にあたるギリシャ語で、仏語では文字通りpar exellenceという。

 たとえば、日本人は、花といえばすぐに桜を思う。桜は即ち「花の花」である。「花の花」は変だが、「花の華」と書けばよかろう。この「華」が即ち kat'exochen, überhaupt, par exellence, ausgezeichnet で、Für die Japaner ist die Kirschblüte 'die Blüte kat'exochen' (日本人は「花は桜」と云う)とも言えないこともない。

 もっと好い例は Apfel(りんご)と Obst, Frucht (果)との関係で、Apfelは Frucht の一種であるにもかかわらず、西洋人は一寸名のわからない果物を見ると、これは何というApfelか? という。それほど Apfelは Obst kat'exochen なのである。ausgezeichnetもそのつもりで読まなければならぬ。(106-7頁)

・Auslegung(解釈)

 「与えられたるもの」の「意味するところ」を探るというのは、即ち「その真相を見極める」ことであり、それを解釈することである。(109-110頁)

・Befindlichkeit, Stimmung(気持)

ハイデッゲルが Befindlichkeitと呼んでいるものである。気持とか感情とか言ったようなものは、文学の対象でこそあれ、哲学、殊に認識論的な根本問題の対象ではあり得ないように思う人があるかもしれないが、ハイデッゲルはその正反対を主張している。彼の『実体と時間』に用いてある諸種の根本的な名称の大部分は、Sorge, Angst、その他、多少にかかわらず「気持」という色彩を根本に持っている。(88-9頁)

・bestehen──bleibt be-stehen(存し残る)、bleibt stehen(立ち止まる)。

 bestehenなるドイツ語は、語源的にラテン語の con-stareの意識的翻訳、残は移植である(1) 。従って、意味もそこから来ている。Eine Gefahr besteht(危険が存在する。危険の「事実」あり)。ここでわざわざ be-stehenと2部に分けたのは、stehenの意に気づかせるためである。

殊に面白いのは、ラテン系の諸語はみんなstare(立つ)を以て sein の意に用いている(伊 stado, スペイン estado, 仏 être)。或る物の存在に気がつくためには、それが生の現象として自然に流動している時はだめで、それが立ち止まる(stehen bleiben)必要があるものと見える。一体に、静的な(statarisch)、不動の、保守的な、立ち止まった南欧の言語が、実在(sein)と「立ち止まり」(sta-)とを一致せしめているのには、何か心理的な訳があろう。(104頁)

 (1) この辺の意味が分からない。意「識」的翻訳と「残」の引用符号の中は漢字がつぶれていて判別しにくいので、間違っている可能性もあります。

・Da-sein(「現・生」)

 01、我々人間が意識というものを中心にしてそもそもここに 現在こうして生きているという、この最も不可解な、しかも大抵の人が不思議にも思わず慣れっこになっているこの最も当たり前な現象のこと。「現にこうしている」の「現」が Da である。Da というあり方とその本質をDasein という。ハイデッガーの説は「我々のDa はまだ本当のDa ではない。これを本当のDa にするのが歴史の使命であり、哲学の使命であり、生の使命である。」ということ。(20頁)

 02、Dasein ist ein Seiendes, das je ich selbst bin.
 Dasein とは、僕なら僕、あなたならあなたという、それぞれ具体的な人の場合を場合して行く場合し方である。(36-7頁)

・Durchbruch(突破)

ハイデッゲルの哲学は、その一歩一歩が、人間の「使命」へと向かう進出であると同時に、我々自身の自我の「発掘」であり、従って「好い気になっている世間的自我」の突破(Durchbruch)である。(101頁)

・Entdecktheit von 'Welt'

これもハイデッゲルの用語。ハイデッゲルは、主観客観等の区別をわざと設けないが、分かりやすく云うためにそうした考え方をするとすれば、我々の意識が世界を「発見する」、逆に言えば、世界が我々に「既に与えられたものとして」意識の中に含まれている、これを Dasein が Welt を entdeckenすると云う。Umwelt もWelt もDa-seinなる現象の中に含まれていると考えるのである。(41頁)

・erschliessen(啓示、啓き示す)

 現象学派並びにハイデッゲルの行き方は、「論理的」に「証明」したりするのではなく、その真相を解釈することによって「啓き示す」(erschliessen)というMethode[方法]である。(110頁)

・Existenz[実存]

 01、Existenzはハイデッガーの用語法によると、Dasein〔現存在たる人間〕がDasein 自身を考えた際に、或いは哲学的考察を加えたり、或いは感じたり、或いは体験したりする、その「対象」としての Dasein の実在様式である。

 存在しながら、しかも同時にその存在が存在自身によって考えられたり、意識されたり、体験されたり、その他いろんな Verhalten(関係、態度)の自家対象になるなぞということは、石や木の存在にあっては考えられない、それは只人間の場合にあってのみ可能である。だから Existenz はその意味からして既に menschlich〔人間的〕なものである。(45頁)

02、特に「人間」の存在のみを他と区別してExistenz と呼んだのは、この箇所でほぼわかると思うが、ハイデッゲル自身は『実体と時間』では別に語学上の説明をしていないようだから、一寸私の自説を付加しておく。

 ラテン語のexsistere(又は -s を略してexistere)は、ex-(外に)sistere(立つ)の意で、原意は「出る、聳える」等である。ここに人間という「意識現象」を特徴付ける一寸面白い相がある。即ち、自然界の平等を断然「抜いて」特殊な地位を持っているという意味に取ることも出来よう。

 それから第2にはこう見ることも出来る──この方は多少勝手な解釈になるが、その代わり意味が深くなる──即ち、exsistere(外立)するとはハイデッゲルの所謂 sich vorweg sein 即ち「己れ自身を後にして前に出張っていること」、或いは「己れ自身の外に立っていること」である。これがハイデッゲルの趣旨にぴたりと合する。(90頁)

・fragen 〔問う〕

fragen するということが、そもそも Nichts そのものから発する純粋に人間的な現象だからである。(95-6頁)

・Gegenwärtigkeit[現在性]

 ごく荒っぽく、意味だけ分かるように云うとすれば Bewusstseinsnahe(意識の近く)であるが、ここは明らかにハイデッゲルのいわゆるGegenwärtigung(現在化)なるものを考えているらしい。即ち、或る事柄を、実際自分に直接関係あることとして、直接痛痒を感ずる重大事として、むきになって問題にすることを gegenwärtigenと言っている(この点に「体験」を中心にして考えた人間観が現れていると同時に、「現在」なぞという「時間」観念の根本に横たわっている存在論的根底を見ようとしているのである)。
 なおその意味をはっきりさせるとすれば、ハイデッゲルは、このgegenwärtigenという作用が sich etwas vergegenwärtigen(或る事をありありと思い浮かべる、眼前に彷彿させる、具体的に脳裏に描く)なる動詞の意味とは全然ちがったものであることを力説している。
 そうでろう、sich etwas vergegenwärtigen は sich etwas vorstellenと同じで、単に空想力のみを以てする一つの心理的努力にすぎないが、etwas gegenwärtigen という方は、「或る一事をして己が全人格の関心を独占せしめ」て、同時にそれが「現在」という時間現象の本質をなすようになるのだから、既にその存在論〔的〕重要性において随分と相違があるわけである。

 ──こういう風に、ハイデッゲルは、時間なるもの(既にベルグソンその他の人達によって時間なるものが生物の存在現象と根底的に関係したある種の「非数学的」な現象であることは嗅ぎつけられていた)をばすべて人間意識の根本的な部分(Sorge、その他)と関係させて考えている。

 これは別にハイデッゲルを待つまでもなく、例えば文法の「現在完了」とか何か言ったような問題ですらも、論理的にのみ考えてはその本質がわからなくて、これがほんとうに説明できるためには、人生、人間、人情、利害、関心、その他要するに「人間的なること」の根本がわからなければ駄目だという事は、既に頭のある文法学者の一部において認められていた。

 ──in lückenloser Gegenwärtigkeitは、だから、「時間」的に考えた「現在」という概念を先にしてはわからないので、まず、「水ももらさぬ全人的体験を以て」と考え、しかる後に、その意の Gegenwärtigkeitが数学的論理的現象に堕すると同時に、これを「現在」というのだと思えばよいのである。日本語の「現在」が好い証拠で、現にも在にも「今」という意はない、「現」は意識に最も近くて直接の関心が掛かることを示しているにすぎない。

 ──また、「現」「在」がむしろ Da-sein の方にあたる語構を持っており、Gegen- wartが entgegen-(吾人の面前に、吾人に相対して、まのあたりに、鼻の先に、のっぴきならぬ位置に、吾人の全関心を要求する底に) wart(ある)という構造を持っているのも面白い現象である。(137-8頁)

・Geschichtlichkeit(歴史性)

 ハイデッガーは、人間に Schicksal〔運命〕があり、民族・社会にGeschick[盛衰] がある、それらの現象の根本を、吾人の Geschichtlichkeit(歴史性)と名づけ、それがDasein[現存在〕の特徴の1つをなしている事を説いている。(44頁)





その3

2012年01月12日 | ハ行

・Hereinstehen(逼(せま)っている)

これは、hereinragen(聳え込む)という言葉が盛んに用いられるので、それに似せて使ったものである。

 hereinragen というのは、たとえばスヴェーデンボルク等、いわゆる霊界の存在を説く人達が、吾人の住む人間界(日常世界)へ、霊界の存在が「割り込んで」入って来ている、あるいはある種の治外法権、租借地を持っている等々といったような事を云う時に用いるのが、この hereinragen(割り込む、のさばり込む)で、「割り込む」と同時に、ある種の脅威を与えている、「邪魔になっている」ことを意味している。

 なお一つの応用例を示すと、Die Vergangenheit ragt in die Gegenwart hereinなぞということを云う。即ち、現在というものが、始終過去というものの影響下に立っているの意。
次に hereinstehen について言えば、英語仏語の instant(瞬間、刻下)という言葉も、ラテン語のinstare(herein-stehen)、即ち「逼(せま)っている」から来たもの。但し、この in-は、本当は herein-ではなく、むしろ gegen-, entgegen-である。(Gegenwartでも分かる。-wart はwesen(= sein)に対する -t 語尾の女性名詞。)(105頁)

・Können(可能性)

 01、Können(可能)というのもハイデッガーの用語。我々の存続(Existenz)を、次へ次へと可能なる意識形態を辿りつつ進んでゆくものと見れば、その「可能」が Können である。たとえばここに1人の若い青年があるとすれば、その青年は、性格と境遇との如何によっては、或いはトルストイに似た考え方の人間「である」(sein)ことも出来(können)よう、或いはトルストイでもなくゲーテでもない、全然新たな何者かになる可能性もあろう、そういったような無限の Seinkönnen を己が本質の中に持っている、そしてそれを段々と捉えつつある、~というよりはむしろそれら無数の Seinkönnen によって動されていること、これがハイデッゲルのみた「人間」である。(73頁)

 02、ハイデッゲルは人間意識の根底において実現されるべき(können!) 何らかの可能性を指摘する際には、必ずその本能的心理的な Befindlichkeit の現れを証拠として挙げる。

・Langeweile(退屈)

「退屈」は、取りも直さず時の歩みの停止である。(105頁)

・Nichtigkeit(虚無性)、Nichts, nicht(虚無)

01、木石とは相違して、我々をして永久に転々として「動く」存在たらしめている所以をハイデッゲルは色々な点から見て、或いは「虚無性」(Nichtigkeit) 、或いは時間性 (Zeitlichkeit) 、或いは Geschichtlichkeit(史性)と言っているが、我々がそうした我々の本質を自覚するのは、決して我々が我々の四囲の事象に対して関心を以て相対し、「世」に身を売り、「世」に沈没している時ではない。運動は我々の内部から起こってくる、「不安、良心、空虚の意識、虚無引力」といったようなものがそれである。外界からの不安は我々をしてますます外界に忠実ならしめるが、内部からの不安は、我々をして我々自身の本質を悟るための「意識の鋭さ、心の明敏さ」を与えてくれる。(95頁)

 02、Nichts, nicht というと、普通は消極的な、否定のみの概念になるが、ハイデッゲルは、これを以て積極的に人間存在という現象の根本をなしている積極概念と見ている。それは当然そうなるべきはずで、Sorge, Gewissen, Schuld, Zeit, Geschichte それら全ての特徴づけの基調を成しているのは、必ず何かが(それが何であるかは言えない、「分からない」というのは否定ではなくて、積極的な一つの主張である、たとえばこの花は「赤い」という「赤い」が一つの積極的な主張である如く)「無い」という点である。人間が論理という筋道を開いたのも、この「無い」とVerstehen とを出立点にしている。「無い」(nicht) という現象を知っている(或いは持っている)のは万物中で人間だけである。もちろんハイデッゲルの所謂 Befindlichkeit としては、それはある種の「無情感」といったような考え方にもなろうが、Existenzial としては単に「虚無」といわなければならない。その代わり、これもハイデッゲルが度々言っている通り、凡ゆる Verstehenには必ずBefindlichkeit の色調を伴うものであるが故に、多少仏教くさい「虚無」がその意味でもちょうどいいと思う。/
 「虚無」というものを根底に持っているのが、人間が他の実在物と相違する本質的なる特徴であって、これあるがためにいわゆる意識という現象が生じ、時間というものが可能になり、我々自身の存在そのものが我々自身に「分かる」のである。(95-6頁)

・offenbaren(啓示)

 ハイデッゲルはまたerschliessenともいう。「結論として生」じたり、「理屈」(Logos) を経て合点が行ったりするのでなく、「パッ」と「わかる」ことをいう。だからOffenbaren(啓示)に理屈はない。geoffenbarte Religion(啓示宗教)は神から直接授かった宗教である。直観もまあそんなものと言える。(107-8頁)

・der Ruf des Gewissens〔良心の呼び声〕

 哲人、即ち人間らしい人間は、俗人に聞こえぬことが己自身の内部から聞こえなければならない。己自身の中にある、よりよき自己の声(ハイデッガーは der Ruf des Gewissens〔良心の呼び声〕と云う)に進んで耳が傾かなくてはならない。普通は、巷の声に圧せられて聞こえない。(48頁)

・Seinsverständnis(人生を分かろうとすること)

 ① 人生とは何ぞやという実識実感(Seinsverständnis)は決して理屈その他によって狂わされる恐れのないもので、いわば「分かり切った」(selbstverständlich)こととして一つの(たとえ学問的ではないにせよ)天真の意識を持っているものである。それは知識ではない、また全然心理的な「意識」でもない、むしろその意識を可能ならしめる根本条件、即ち Seinsverständnis である。──Ebene(平面)という変な形容を用いたのは、それと一線において相会する、しかも一致しない多くの平面があるものと見た面白い言い方で、Kreis(圏), Gebiet, Bereich(域)、と言ってもいいところ。

 「人生」は自明の事実である、自明の事実ならばもうそれ以上分からなくてもよさそうだが、ここに Metaphysik 〔形而上学〕の使命(ばかりではない、筆者はそれがそもそも人間存在なるものの使命だという)があるので、言わば哲学とは、分かり切った事を分かろうとする努力である。同じことをハイデッゲルは "Dasein ist ihm selbst ontisch 'am nächsten', ontologisch am fernsten."(人間は人間自身にとって「事実」としては一番近く、「哲学」としては一番遠い)とも言っている。(92-3頁)

 ② Seinkönnen と Verstehenの問題(無冠詞 388頁)

 wissen, wie man mit der Welt dran ist(その時々の世の中が自分にとってどういうことになってきているか、を知ること)、あるいは wissen, wessen man sich zu verstehen hat(従って、どんな覚悟を以てその時々の世の中に臨まなければならないか、ということを知ること)ということは、ハイデッガーの言うVerstehen〔了解〕と Seinkönnen〔存在可能性〕として考えた人間なるものの真姿そのものである。人間はすべてその人その人の道を歩みながら将来を切り開いてゆく。

 自分自身の心の行方もさることながら、彼にとって最も関心の対象となるのは、何と言っても、運命的に課せられて次に来る異変である。
 夜が去って朝が来る、雨が降ることがある、戦争になる、平和になる、試験がある、等々。(無冠詞 392-3頁)

・umweltlich(四囲)

ハイデッゲルの用語。四囲というと、空間的又は外形的に考えられるが、そうではなく、「現(ゲン)」にこうして生きているという、その「現」(da)の一特殊形態としての四囲である。Man(御同様)としての人間は、ほんとうに突き詰めていけばもっと深刻な何物かになる可能性(eigentlichere Möglichkeit)を発揮しうるのだが、「さしずめは」(zunächst)すっかりこの Umwelt の中に没頭沈没して自分自身という灯台許は一向見えないのが常態である、とハイデッゲルは説く。(32-3頁)

・Verfallen(帰堕)→第1章の03の③、04の②

・sich verhalten〔~への関係〕

ハイデッゲルはこれを Sein zu .. という形式で表している。「人間」の「人間自身」に対する関係の主なるものは verstehen(自分がわかること)と sich befinden(気持を感ずること)とである。(91頁)

・ Verstehen(分かる)

これも、ハイデッゲルの用語として説明するのは、そもそもハイデッゲルの哲学を全部説明することに等しくなってくるが、便宜上こう思えばよろしい。即ち、「理解する」といったような論理的な作用ではなくて、ごく俗に云う「わかる」という日本語に相当すると思えば当たらずと言えども遠くはない。(89頁)


・vorhanden(客在)

ハイデッゲルはこの語に(普通はは単に「存在するところの」を意味する)をある種の物象の「吾人の意識とは直接の縁つづきでない、言わばお客様のように吾人の意識に対面して存在する」存在様式を他のzuhanden というのと区別するために用いている。(87頁)

・Wahrheit(真理)

 01、ハイデッゲルの Wahrheitsbegriff 〔真理概念〕に関する観察は、「実体と時間」にも出ている通り、従来の所謂 Vorstellungsphilosophie〔表象哲学〕の考え方とは随分違っている。後者が「主観客観」の両概念の対立を絶対的事実として、そのために生じた諸種の厄介な問題のために自縄自縛の窮地に陥っているに反し、ハイデッガーは、そもそも主観、客観という概念を全然廃してしまった。それ故、真理というのは、たとえば従来言われて来たように、「認識とその対象との一致」ではなく、理屈や概念なぞの仲立ちを借りないで、それ自身の存在によって「存在権を持つもの」のことである。

 たとえば、「現にそういう事が世の中にある」とか、「実際あることなんだから仕方がない」なぞと云う際のその「ある」が、これが wahr〔真〕である。ハイデッガーはapophansis(現われ、見え)といっている。つまり「見える」ものが真理だというわけである。主観の中に結ばれた概念と概念との結合が、外界の客観物の関係に符合するかしないかなぞと、そんなやかましい論理的なものが真理なのではない、真理というのは、論理なんて複雑なものがそもそも生ずるより一歩前にすでにあったものである(vorlogisch!)。だから理屈をこねて真理を発見するのではなくて、その反対に、真理を発見してからでなければ理屈はこねられないのだ~、これがハイデッガーの真理説の概要である。

 だからハイデッガーは、たとえばgenuin erschliessen(生〔き〕の儘感じさせる)ということを云う。ハイデッガーの哲学が難解とされているのは、筆者の方が「生」のままを感じさせようとしているのに、読む方の「文明人」が、このurspruengliches Vermoegen〔根源的能力〕を働かしてこれを「生」のまま受け入れることをしないところに原因があるのではあるまいか?

 「生」の儘に感じさせるとは云うものの、決して、さようにして得た所の直観直通的な Wahrheit〔真理〕を、まるで禅坊主の真理のように「喝!」と言って相手に伝えよとはハイデッガーは言わない。否、むしろ、他の側から言うと、ハイデッガーの哲学ほど概念のやかましい哲学はない。語らんとする所の問題(真理)そのものは logisch〔論理的〕でなくても、それを本に書いたり口で言ったりして相手に伝えるためにはどうしても言葉を用いなければいけない。その時にはむしろ、いわゆる論理的な哲学体系よりはずっと「極端に」 (radikal)且つ大胆に言葉を扱い、概念的にすっかり消化しなければならない。それは決してハイデッガーが否定せんとする所ではなく、むしろ、たとえば「実体と時間」において現に勇敢に radikal〔根源的に〕にやってのけている。(83-5頁)

 感想・ヘーゲルの真理概念を知らない人々の議論です。

02、ハイデッゲルの考え方によると、真(wahr)であるというのは、決して「符合」する という事ではなくて、何か一つの新たな事を「見せる」ということ、即ち積極的な(positiv)結果をもたらすことである。(86-7頁)

 03、従来の論理、認識論は、真(wahr)ということを、一つの「宣言」(Aussage, Satz) が、客観的状勢と符合(übereinstimmen)するかどうかという点から見て、符合すればその命題は真なりと言い、符合せざるを以て真ならずとしていた。それはある種の場合にはもちろん正しいのである。たとえば飛行機が敵軍を視察してきて、「敵の兵力は五千だ」と報告したとすれば、この「敵の兵力は五千だ」という声明(Aussage, Satz)はもちろん実地に当たってみればわかる。こういう場合だけを念頭に置けば、真理ということはもちろん主観と客観との符合に相違ない。

 けれども哲学その他の重要な問題は、それとは全然わけが違う。「人生とは何ぞや」──或る者はA だと言い、他の者はB だと言う。さあ、A かB か、それともC か、ということは何で決まる? どれが真か。飛行機の報告とは問題が全然ちがう。──こうしたWahrheit は、同じ Wahrheit でも、符合するのどうのでは解決がつかないのである。ところが従来の哲学は、それをすべて「符合」で解決しようとしていた。如何となれば「理屈」というのは「符合」ということだ。何かと何かがピタッと符合することである。それが証拠に現に「理屈が合う」とか「合わぬ」とかいうことを云うではないか。──符合ですべてを裁いては、色々とわからぬことが出来て来る、しかも一番重要な事柄が──(110-1頁)

 04、吾人が「全人」を以て決裁しなければならない場合にあっては、単に吾人の「一部」「一面」であるに過ぎない「理知」の機能は大したことはなしえない。俗に「理屈で片づく幕じゃない」というのなぞも、それがもし又反対に「情」のみに偏することを意味するのでさえなければ、ちょうど今の場合にあてはまる。(115-6頁)

・Zeitlichkeit(時性)

時間が客観的存在でないことは既にカントによって証明されたが、ハイデッゲルは尚一歩を進めて、時間そのものが吾人自身の本質なのだと説く。歴史、局面、行きがかり、体験、生きていること、感じ、意識、そういったような全ての人間的本質の根底をZeitlichkeit(時性)と呼んでいる。(105頁)

 政治的傾向に属する哲学者達に言わせると、ハイデッゲルとか「人間学派」なんてものは、要するに中世紀、または18世紀への逆転であって、時代を超越していわゆる永遠の真理なんてものの夢を追っている人たちにすぎないということになる。

 ところが、それらの人々の側から云うと、時代に即しているのが必ずしも時代を真に尊重する所以ではない。時代的なものと超時代的なものとの間には何らかの密接な関係がなくてはならぬ。ハイデッゲルは現に「人間意識一般」、又は「存在学」なるものの研究によって、そもそも「時代的」なるものの根本現象に到達している。

 Zeitlichkeitなぞという、「内容」を抜いた形式ばかりが揃っては駄目だという人があるかもしれないが──そういう人達自身の奉ずるある種の概念だって、よく反省してみれば、形式でないものは1つもないはずだ。時代に即する、時代に即する、と言ったって、「壁に即する」つもりでイモリのように壁にくっついたのじゃ、第一壁が見えない。また、即する、即する、と言っている当人が、決してそんな事はしていない。それと反対に、永遠の真理を追う人々だって、決して時代を見ないわけではない。

 要するに、こうした「形式」的なところに論点を置いて批評し合うのは最も馬鹿馬鹿しいんで、それよりも、ハイデッゲルならハイデッゲルについて論ずるときには、例えば、マア「一般に人間なるもの」(今日まではそれが永遠的とか何とか言われていた)から発して「時代」という具体物の真底にまで話が進められているのだから、それが何処まで深い考えであるかを感ずれば、それで好いのである。(141-2頁)