不世出の語学者であった関口存男(つぎお)氏はハイデッガーの哲学、特にその「存在と時間」を高く評価していました。しかし、それの訳注書は出しませんでした。それはしないでエゴン・フィエッタ(Egon Vietta)の「マルチン・ハイデッゲルと新時代の局面」(Martin Heidegger und die Situation der Jugend)という論文の詳しい注釈付きの翻訳を、語学文庫の一環として、出しました。その巻頭に置かれた「解説」にこうあります。
──現代の哲学界における最も著しい動きはフッセルを中心とする現象学派の運動である。現象学というのは1つの方法であって、その可否は一に懸って諸種の問題に関するその適用法である。現象学はいかなる応用を見たか。
先ず、それは形而上学において存在論なる分野を拓くにいたった。殊に形而上学の中心に重大な問題を巻き起こすにいたったのはマルチン・ハイデッゲルの「存在と時間」の前半である(後半はまだ出ていない)。
この著は、既に言葉使いの上からして、非常に読みにくい。殊にドイツ語の細かい語法等に関する知識や或る種の細かい語感を持たない人にとっては文字通りein Buch mit sieben Siegeln[理解不可能な書]である。しかもそれがしきりにもんだいになるとなると、ドイツ語をやって哲学に進もうという人々にとっては実にのっぴきならぬ大問題が課せられた、と言わなければならない。「翻訳」を通じたりなぞしては決して分かりっこないものが、また1つ飛び出したわけである。
しかも一方、形而上学なぞとは何の係わりもなく、現今は「政治」、「経済」その他の社会問題全盛時代である。諸相問題と言えば、人はマルクス主義かファシズムか、と考えるきりで、その他の事は一切忘れている。つまり、社会問題が直ちに以て哲学、哲学が直ちに以て社会問題となりつつある……ように見える。
しからば、哲学とは何ぞや。こうした荒っぽい、しかも直接に関係のある概括的な問題が、ちょうど現今のような時勢においては又改めて論議されなければならなくなった。
その意味において、ハイデッガーの形而上的な立場と社会国家政治経済の方面を主とする現今のいわゆる「尖端」の思想との間の関係を論じつつ、同時に「哲学とは何ぞや」という主題を短く扱ったものとして、この書のテクストに選んだ論文は、必ずしも無意味ではなかろうと思う。(1932年3月)(引用終わり)
見られる通り、関口氏の問題意識は、時代の要請に応えて、「形而上学と政治・経済の関係を論じ、哲学とは何かを論ずる事」です。この問題意識に応えるのに本論文が最適だと判断したのです。しかも、語学のテキストとしてです。
しかし、歴史が証明した通り、この判断は間違っていました。関口氏の数ある著述の中でこの小冊子程読まれない物は他にありません。関口氏のドイツ語学を学ぶと自称している何人かの人(ほとんどが教授)にも聞いて見ましたが、読んだと言う人に出会った事がありません。
原文はドイツ語としても悪文です。そういう事より、上に確認したテーマと取り組むならば、原理的に考えて、現象学については「存在と時間」の訳注書を書き、マルクス主義についてはエンゲルスの「反デューリング論」か「空想から科学へ」を取り上げると好かったでしょう。
しかし、それはともかく、関口氏のハイデッガー論は受け継ぐ価値のある物だと思います。それが読まれていないのは残念です。そこで、核心的な言葉だけでも整理して提供したいと思いました。
なお、元の小冊子には訳文も載っていますが、それをつなげて紹介しても余り意味があるとは思えません。私が、氏の説明を受けて理解した限りの事を訳しましたものがあります。それは近いうちに別途掲載する予定です。
その「局面」からの引用は頁数のみを記し、他は出典も書きました。
第1章、総論
01、ハイデッガーと「実在と時間」
02、「存在と時間」は再帰構造の展開
03、自己意識の特徴
04、価値判断と「真の自己」
05、ハイデッガーの方法
06、他の哲学との関係
07、ハイデッガーのドイツ語
第2章、用語解説
・ausgezeichnet(本物の、生のままの)
・Auslegung(解釈)
・Befindlichkeit, Stimmung(気持)
・bestehen
・Da-sein(「現・生」)
・Durchbruch(突破)
・Entdecktheit von 'Welt'.
・erschliessen(啓示、啓き示す)
・Existenz〔実存〕
・fragen〔問う〕
・Gegenwärtigkeit[現在性]
・Geschichtlichkeit(歴史性)
・Hereinstehen(逼(せま)っている)
・Können(可能性)
・Langeweile(退屈)
・Nichtigkeit(虚無性)、Nichts, nicht(虚無)
・offenbaren(啓示)
・der Ruf des Gewissens〔良心の呼び声〕
・Seinsverständnis(人生を分かろうとすること)、Seinkönnen と Verstehen
・Stimmung(気持)→Befindlichkeit
・umweltlich (四囲)
・Verfallen(帰堕)
・sich verhalten〔~への関係〕
・Verstehen (分かる)
・vorhanden(客在)
・Wahrheit(真理)
・Zeitlichkeit(時性)
第1章、総論
01、ハイデッガーと「実在と時間」
近頃の哲学者ですがハイデッガーという一寸変わった人がいます。その主著 Sein und Zeit(実在と時間)は語法と思想の難解なのを以て有名です。それは、荒っぽく言うと、da という1字の持っている内容を繰り広げてそこから「人生とは何ぞや」という問に1つの解決を与えたもので、言語と思想との関係を考えるには好個の材料です。もちろんよほどドイツ語の語感のしっかりした人でなければ、たとえ哲学者といえども容易には読めない本です(関口存男『ドイツ語大講座』第4巻 315節、注)。
感想・この本は今では普通は「存在と時間」と訳されています。ハイデッガーのDasein(現存在)とは人間のことですが、人間をそう捉えたのでそのように言うわけです。人間を「実存」と捉える人たちは人間のことを実存と呼ぶのと同じです。
このように言うことの問題点は、人間をそう捉えない人達と議論をする時にもそう呼ぶことです。人間は人間として呼んで、それを「どういうものとして理解するか」が問題になる時、そして自分の理解を語る時にだけ「現存在」とか「実存」と言うべきだと思います。「イエス・キリスト」という言葉も同じで、これは「イエス」という個人を「キリスト」(旧約聖書で神が約束した救い主の名)と認める人だけが使ってよい言葉です。イエスがキリストか否かが問題になっている時にはただ「イエス」と言うべきでしょう。
「存在と時間」は「存在とは何か」(「ある」とはどういうことか)、つまり存在論をするための準備として、それを認識する主体である人間の意識構造を分析しようとしたものです。つまり認識する前に認識手段を認識しておこうというもので、完全なカント主義だと思います。ヘーゲルはこれを「水に入る前に泳ぎを習うものだ」と批判しました。
結局ハイデッガーはその存在論まで行かないで終わりました。事実上自分の方法の間違いを認めたことになると思います。この未完の部分を補って完成させようとした人が木田元氏で、その『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)がそれです。
02、「存在と時間」は再帰構造の展開
また、もっとややこしいのになると、マルチン・ハイデッガーは、人間の存在、即ち個人の意識を中心として見たわれわれ人間世界というものの根本を成す「からくり仕掛け」を、かれ独特の三本柱をピシッと食い合わして次のように組み立てている。
Sich vorweg schon sein in einer Welt bei innerweltlich begegnendem Seienden.
ハイデッガーを知らない人にはもちろん何の事だか分かる筈はない。けれども、これだけの文句をよく覚えていて、この文句の説明を一言一句に聴取せんとする心構えを以て、その『存在と時間』を読んでいけば、いずれは分かる事請け合いです。
問題はこのsich vorweg(己自身に先んじて離れて)という一句ですが、この場合は、主語として考えられる自我とsich によって意味される自我とは、ハイデッガーの考えとしては全然別物です。また別物であればこそvorweg という事が言いうるのであり、また、別物だと区別を立てて関係を明らかにしたところにハイデッガーのシステム〔哲学体系〕があるのです。
ハイデッガーの考え方によると、自我というものが、本来の自我(das eigentliche Selbst)と、本来ならざる自我(das uneigentliche Selbst又は das Man-Selbst)とに分かれる。すると、sich vorwegにおいては、sich によって指されているのはそのどっちかという疑問が当然起こって来なければならない。同時にsich は、その主語の方を考えさせるから、では主語の方はsich とは違った自我を指すであろうという事は当然考えられる。
その問題は、ハイデッガーの論旨を知る人は、その次のschon sein in einer Welt 云々から考えれば当然判明する如く、sich によって指されているのが本来の自己であって、sein という不定法の主語として考えられる方が das Man-Selbst を指すであろう事は明白です。
即ち、一言を以て断ずるならば、ハイデッガーは、ドイツ語(ばかりではない、あらゆるヨーロッパ語)に特有なる「再帰的という言語現象」に往々生ずる事あるべき前述の如きある種の論理的矛盾をはっきりと意識しつつこの構文(Formulierung, Ausführung)を敢行したと言って構わないでしょう。しかも、区別を意識しつつも、本来の自我と言い、目前の関心網を右往左往している表面の自我と言い、共に結局は常識の立場からは単に「自分」ということになっているその普通の自我だということを言外の余韻にひびかせんとして、文法的には、ドイツ人の考え方に非常に親しいこの再帰構造という奴を採用しつつ自分のGedankengebilde〔思想世界〕の内奥を簡潔にほごして見せたのでしょう。(関口存男『ドイツ語論集』 282-3頁)
03、自己意識の特徴
① そもそも人間に意識という変なものが備わっているという事は、一面非常に有り難いようであって、また他面においては甚だ有り難くないことがある。というのは、よくある意識生活の一局面ですが、意識するということは甚だ自分にとって都合がわるく、目をつぶって通った方が気が楽な場合があるからです。「自分自身に対して頬かぶりをして通る」方が得策なことが起こって来ます。
意識というのは、つまり、前に述べたように、我々自身の鼻の先に鏡が置いてあるのと同じ関係にあるものです。ある種の場合には自分のやっている事が自分自身の眼に映ずるのは甚だ困ることが起こってくる。そこで、自分自身の意識を躊躇したり、自分には一寸内緒にしておいたり、自分自身の陰に隠れてこっそりとやってしまったり、その他意識の明鏡を曇らせることによって現実我の意図を貫徹しようとする局面が生じてきます。
只今挙げた母親の挙動の描写などがその局面のなかなか微妙複雑な場合で、これは、自分が平素あまりかまってやらなかった子供が病気になって眠っているところへ母親がやってきて、寝息をうかがって見たが、別に変わった事もなく、すやすやと眠っているらしいので、安心したような、すまないような、何となく物足りない中途半端な気持ちのままで、また部屋を出ていってしまう所の描写ですが、介抱したいにも介抱する事がないものだから、彼女はベッドの布団の上を撫でて皺を延ばしてやる。布団の皺を延ばしたからと言って病気が楽になるという話はまだ聞いたこともないが、とにかく何かしないと自分の気が済まないものだからそうするわけです。けれども、そうしながらも、それは単に自分が自分自身に対して演出して見せる芝居にすぎないのだという「意識」があるから、彼女は多少恥ずかしくもあって、そう大げさにはやり切れない。やりかけた途中で、あいまいにごまかしてしまう。だいいち、皺を撫でたからと言って病気に何の関係もないということは「薄々知っている」ものだから、勿論真面目に撫ではしない。では全然撫でる必要はないではないかと言えば、それはまあそうですが、そこがその──面白いところです。
要するに、人間という奴は、意識という鏡を突きつけられていながら、格別突きつけられ甲斐もなく、実に齟齬矛盾そのものの如き行動に出る動物で、時には現在ありありと鼻の先に見えている事をすらも強いて見まいとする。「意識という浄玻璃(じょうはり)」としての理想我に対して、「無意識な塊」としての現実我は常に犯罪者の警察に対するが如く逃げ隠れしていると思ってよろしい。どんなに意識が明瞭な、どんなに頭の好い人間でもそうです。否、意識が発達して全てを克明に反射してくれば来るほど、即ち文明人になればなるほど、不透明な現実我の方はますます甚だしく暗にもぐり、地下に隠れ、ますます甚だしく犯人意識が発達して来ると言うも過言ではありません。
ここでちょうど好い機会ですから「意識」という現象を再帰哲学的に定義すると、こういう風に考えられます。「意識とは、とにかく吾人自身の眼の前に置かれた、どうしても取り除くことのできない宿命的な鏡の如きものである。自分自身が反射屈折して、自分自身が欲すると欲せざるとにかかわらず、自分自身に向かって帰ってくる現象である」。
鏡の例を幸いに、もう一段飛躍して面白く言うならば、「言わば自分自身が逃れようなく自分自身に突きつけられているかたちである」とも言えましょう。
またハイデガーの思想を持ち出して言うならば、意識という現象だけではなく、そもそも人間、人生、自我というのが、ハイデガーの用語で言うと、我々が、我々自身の現境(da)の真っ只中に向かって「投げつけられている」(geworfen)かたちなのだそうです(この「かたち」(相)のことをハイデガーは Sein という用語で言い表します)。故に、私が只今述べた「突きつけられている」という変な形容は、このハイデガーの Geworfensein〔投げつけられたあり方〕の一種だと思っていただきたい。変な形容かもしれませんが、再帰的な考え方に入り込んでしまった西洋哲学としては、当然こうした解釈に到達しなければならなかったのではありますまいか(論集 323-4頁) 。
② ハイデッガーの哲学(むしろ Ontologie〔存在論〕)は、現在までの、単に事実を写し出すだけの哲学ではなくて、わかりやすく言えば「要求」から出立しなければ存在の根本相の説明が出来ないという哲学である。
即ち、人間の意識現象の根本をなしている所のもの、いわば人が普通 Seele(霊)と呼んでいるもの、或いは自力本願的宗教家が「自己の中枢に君臨する神」と称するもの、これが我々をして常に不安な、あわただしい、動いて止まぬ「人間」たらしめている根本である。それは「良心」として常に我々に呼びかけている。
ところが常に「世間的」に、社交的な man(御同様)として、真の自己を正視する事を忌避しながら、言わば仮の衣たる外的自己とその利害とのみに没頭しながら、共同生活的、団体意識的、非人称的な意識層に安住の浮木を追って泳いでいる「吾人」なるものは、その良心なるものを、なるべく聴くまいとしている。表面の自己が、背後の自己(神)のために多少たりともその自信を揺るがされるような、多少たりとも真剣な体験や運命は、極力敬遠するのが常である。外部から迫る運命は時には非常な決断を以て全人格に引き請けるが、自己の内から生じて来る運命(開けんとする認識、等々)に対しては、みんな非常に卑怯である。
しかしそれをしなければ真の人間ではない。少なくとも哲人ではない。内面的体験を忌避「しない」こと、これが人間たる理想である。そこに内面的進歩がある。最も人間らしき人間を人間せんと努める事、と言ってもよかろう(アウグスティヌスがその「告白」において絶えず神に向かって呼びかけているのも、まずハイデッガーの哲学と同一である。ハイデッガーの所謂 das Man-Selbst〔御同様〕がアウグスティヌ自身であり、die eigentlichste Möglichkeit〔本来のあり方〕が対話の相手のDeus(神)であると考えられる)。(44-5頁)
③ ハイデッガーの考えの筋道はこうである。吾人の生存意識とはどういう現象であるかというに、それは、意識という現象そのものが、既に本来の吾人を去って、何者か(世の中=Welt) の手に帰し且つ堕してしまっていることを意味する(これが Verfallen〔帰堕〕。同じ現象を Verlorensein in die Oeffentlichkeit des Man, 又は Aufgehen im Miteinandersein等とも言っている。
換言すれば、本来の自己の中へと見返ったり反省したり、自己そのものの存在に気がついたりするのは、ずっとずっと進歩した上での現象であって、吾人はまず外界にすっかり気を奪われた状態から人生を始め、且つ大抵の場合はそのままで一生を通す。
これは決して「俗人」だけのことではない。みんながそうである。というよりはむしろ、それが吾人の意識(=da) の第一義なのである。そして、そもそもの最初から暴力的に背後に見捨てのけられたままでいる本来の自己なるものが、自分に背を向けて前方にのしかかっている第二義的世間的自己、即ち意識(da)を自分の方へ引っ張り戻そうとする運動──これが良心、体験、歴史、時間、運命、その他の名を以て呼ばれる諸種の「内圧力」(「内紛」と言ってもよかろう)であって、この圧迫力が普通「時間」という名で呼ばれている既知の現象の本体である。(64頁)
04、価値判断と「真の自己」
① 客観的科学的に述べるのではなく、そこに論者の善悪可不可の判断を交えて、或る一面を奨励し、或る一面を誹謗するごとく論ずるのを moralisieren すると言う。
このあたりに述べてある事柄は、ちょっと前の注で私がハイデッガーの哲学について述べた趣旨と一見相反するように思われるかもしれないが、ここがハイデッガーの哲学の特有性であって、その時に述べた如く、彼の見方は、普通の見方を以てすれば明らかに1つの「要求」であり、「文化哲学的野心」であり、むしろMoral と解した方が却って力強くその意を捉えることが出来るものであるにかかわらず(それはアウグスティヌスとの類似点を考えてみれば、思い半ばに過ぎるものがある)、ハイデッガー自身はそうではないと言っている。それはもちろん彼の Methode〔方法〕が純現象学的なのであって(即ち形式だけの問題で)、その対象、その内容は明らかに1つの人間的要求である。それが証拠にこの論文を書いている人自身がハイデッガーの哲学から出立して「哲学はかくあるべし」という主張を提げてマルキシスト達の態度を攻撃しつつあるではないか?
いづれにしろハイデッガーは単なる Auslegung〔解釈〕以外の何物かを提げて立っていることは事実である。(65頁)
② 吾人の存在意識は、生まれると同時に、いわば己自身から離反(abfallen)して、当面の客観界へ身を売ってしまったような状態になっている(これが verfallen) 。人間をうまれながらの罪人と考え、生まれて現生に籍を置くことを以て直ちに「神を忘れる」ことに一致すると考えたある種のキリスト教哲学とその考え方が甚だしく似ている。
ただハイデッガーは、神と言わず、「真の自己」又は「自己の真諦」、もっとハイデッガーの用語に近づけると「自己を深めることの可能性」「計画されるべき自己」といったような言葉を用いるだけの違いである。しからばその真の自己とは何か。これに対しては、概念的な明確な答えをすることはできない。如何となれば、「概念」なるものが既に真の自己の世界のものではなく、いわゆる「公けの」man の世界の符牒だからである。
強いて言おうとすれば、たとえばここに言ってあるように faktisches In-der-Welt-sein〔事実的世界内存在〕なぞと、概念としてはごく何でもないものになってしまう。吾人は「事実として」(faktisch)世にいる。これが、事実としてあらゆる深い運命を生み、体験を醸し、あらゆる重大な結果を生ずる根本である。Fakt(事実)という現象が、発すれば da となって御同様(man)の実在形式を規定しているのである。「事実」としての自己、これが深く意識されれば、それが直ちに以て真の自己であり、真の自己の獲得し戻さるべき方向である。
しからば、その真の自己はどこに埋没しているか。即ち何に飲み込まれているか。何の手に「帰」し、何に「堕」しているか。
ちょっと考えると、「金の問題」や「人情の行きがかり」や「研究の対象」等に埋没しているように考えられる。そうには違いないのだが、それをもっと「実体学的」(ontologisch)に云うと、自分自身の一構成要素たる「現」世的方面(方面どころか、それがむしろすべてなのだが)の中に没入しているのである。即ち「現」世にいるということそれ自身が吾人をして吾人自身(即ち神)から叛かしめているのである。日本語の「現世」というのはちょっと面白い。直訳すれば Da-Weltである。Da もWelt も、要するに吾人自身の存在様式を表現する無邪気な直接な言葉である。(66-7頁)
──現代の哲学界における最も著しい動きはフッセルを中心とする現象学派の運動である。現象学というのは1つの方法であって、その可否は一に懸って諸種の問題に関するその適用法である。現象学はいかなる応用を見たか。
先ず、それは形而上学において存在論なる分野を拓くにいたった。殊に形而上学の中心に重大な問題を巻き起こすにいたったのはマルチン・ハイデッゲルの「存在と時間」の前半である(後半はまだ出ていない)。
この著は、既に言葉使いの上からして、非常に読みにくい。殊にドイツ語の細かい語法等に関する知識や或る種の細かい語感を持たない人にとっては文字通りein Buch mit sieben Siegeln[理解不可能な書]である。しかもそれがしきりにもんだいになるとなると、ドイツ語をやって哲学に進もうという人々にとっては実にのっぴきならぬ大問題が課せられた、と言わなければならない。「翻訳」を通じたりなぞしては決して分かりっこないものが、また1つ飛び出したわけである。
しかも一方、形而上学なぞとは何の係わりもなく、現今は「政治」、「経済」その他の社会問題全盛時代である。諸相問題と言えば、人はマルクス主義かファシズムか、と考えるきりで、その他の事は一切忘れている。つまり、社会問題が直ちに以て哲学、哲学が直ちに以て社会問題となりつつある……ように見える。
しからば、哲学とは何ぞや。こうした荒っぽい、しかも直接に関係のある概括的な問題が、ちょうど現今のような時勢においては又改めて論議されなければならなくなった。
その意味において、ハイデッガーの形而上的な立場と社会国家政治経済の方面を主とする現今のいわゆる「尖端」の思想との間の関係を論じつつ、同時に「哲学とは何ぞや」という主題を短く扱ったものとして、この書のテクストに選んだ論文は、必ずしも無意味ではなかろうと思う。(1932年3月)(引用終わり)
見られる通り、関口氏の問題意識は、時代の要請に応えて、「形而上学と政治・経済の関係を論じ、哲学とは何かを論ずる事」です。この問題意識に応えるのに本論文が最適だと判断したのです。しかも、語学のテキストとしてです。
しかし、歴史が証明した通り、この判断は間違っていました。関口氏の数ある著述の中でこの小冊子程読まれない物は他にありません。関口氏のドイツ語学を学ぶと自称している何人かの人(ほとんどが教授)にも聞いて見ましたが、読んだと言う人に出会った事がありません。
原文はドイツ語としても悪文です。そういう事より、上に確認したテーマと取り組むならば、原理的に考えて、現象学については「存在と時間」の訳注書を書き、マルクス主義についてはエンゲルスの「反デューリング論」か「空想から科学へ」を取り上げると好かったでしょう。
しかし、それはともかく、関口氏のハイデッガー論は受け継ぐ価値のある物だと思います。それが読まれていないのは残念です。そこで、核心的な言葉だけでも整理して提供したいと思いました。
なお、元の小冊子には訳文も載っていますが、それをつなげて紹介しても余り意味があるとは思えません。私が、氏の説明を受けて理解した限りの事を訳しましたものがあります。それは近いうちに別途掲載する予定です。
その「局面」からの引用は頁数のみを記し、他は出典も書きました。
第1章、総論
01、ハイデッガーと「実在と時間」
02、「存在と時間」は再帰構造の展開
03、自己意識の特徴
04、価値判断と「真の自己」
05、ハイデッガーの方法
06、他の哲学との関係
07、ハイデッガーのドイツ語
第2章、用語解説
・ausgezeichnet(本物の、生のままの)
・Auslegung(解釈)
・Befindlichkeit, Stimmung(気持)
・bestehen
・Da-sein(「現・生」)
・Durchbruch(突破)
・Entdecktheit von 'Welt'.
・erschliessen(啓示、啓き示す)
・Existenz〔実存〕
・fragen〔問う〕
・Gegenwärtigkeit[現在性]
・Geschichtlichkeit(歴史性)
・Hereinstehen(逼(せま)っている)
・Können(可能性)
・Langeweile(退屈)
・Nichtigkeit(虚無性)、Nichts, nicht(虚無)
・offenbaren(啓示)
・der Ruf des Gewissens〔良心の呼び声〕
・Seinsverständnis(人生を分かろうとすること)、Seinkönnen と Verstehen
・Stimmung(気持)→Befindlichkeit
・umweltlich (四囲)
・Verfallen(帰堕)
・sich verhalten〔~への関係〕
・Verstehen (分かる)
・vorhanden(客在)
・Wahrheit(真理)
・Zeitlichkeit(時性)
第1章、総論
01、ハイデッガーと「実在と時間」
近頃の哲学者ですがハイデッガーという一寸変わった人がいます。その主著 Sein und Zeit(実在と時間)は語法と思想の難解なのを以て有名です。それは、荒っぽく言うと、da という1字の持っている内容を繰り広げてそこから「人生とは何ぞや」という問に1つの解決を与えたもので、言語と思想との関係を考えるには好個の材料です。もちろんよほどドイツ語の語感のしっかりした人でなければ、たとえ哲学者といえども容易には読めない本です(関口存男『ドイツ語大講座』第4巻 315節、注)。
感想・この本は今では普通は「存在と時間」と訳されています。ハイデッガーのDasein(現存在)とは人間のことですが、人間をそう捉えたのでそのように言うわけです。人間を「実存」と捉える人たちは人間のことを実存と呼ぶのと同じです。
このように言うことの問題点は、人間をそう捉えない人達と議論をする時にもそう呼ぶことです。人間は人間として呼んで、それを「どういうものとして理解するか」が問題になる時、そして自分の理解を語る時にだけ「現存在」とか「実存」と言うべきだと思います。「イエス・キリスト」という言葉も同じで、これは「イエス」という個人を「キリスト」(旧約聖書で神が約束した救い主の名)と認める人だけが使ってよい言葉です。イエスがキリストか否かが問題になっている時にはただ「イエス」と言うべきでしょう。
「存在と時間」は「存在とは何か」(「ある」とはどういうことか)、つまり存在論をするための準備として、それを認識する主体である人間の意識構造を分析しようとしたものです。つまり認識する前に認識手段を認識しておこうというもので、完全なカント主義だと思います。ヘーゲルはこれを「水に入る前に泳ぎを習うものだ」と批判しました。
結局ハイデッガーはその存在論まで行かないで終わりました。事実上自分の方法の間違いを認めたことになると思います。この未完の部分を補って完成させようとした人が木田元氏で、その『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波現代文庫)がそれです。
02、「存在と時間」は再帰構造の展開
また、もっとややこしいのになると、マルチン・ハイデッガーは、人間の存在、即ち個人の意識を中心として見たわれわれ人間世界というものの根本を成す「からくり仕掛け」を、かれ独特の三本柱をピシッと食い合わして次のように組み立てている。
Sich vorweg schon sein in einer Welt bei innerweltlich begegnendem Seienden.
ハイデッガーを知らない人にはもちろん何の事だか分かる筈はない。けれども、これだけの文句をよく覚えていて、この文句の説明を一言一句に聴取せんとする心構えを以て、その『存在と時間』を読んでいけば、いずれは分かる事請け合いです。
問題はこのsich vorweg(己自身に先んじて離れて)という一句ですが、この場合は、主語として考えられる自我とsich によって意味される自我とは、ハイデッガーの考えとしては全然別物です。また別物であればこそvorweg という事が言いうるのであり、また、別物だと区別を立てて関係を明らかにしたところにハイデッガーのシステム〔哲学体系〕があるのです。
ハイデッガーの考え方によると、自我というものが、本来の自我(das eigentliche Selbst)と、本来ならざる自我(das uneigentliche Selbst又は das Man-Selbst)とに分かれる。すると、sich vorwegにおいては、sich によって指されているのはそのどっちかという疑問が当然起こって来なければならない。同時にsich は、その主語の方を考えさせるから、では主語の方はsich とは違った自我を指すであろうという事は当然考えられる。
その問題は、ハイデッガーの論旨を知る人は、その次のschon sein in einer Welt 云々から考えれば当然判明する如く、sich によって指されているのが本来の自己であって、sein という不定法の主語として考えられる方が das Man-Selbst を指すであろう事は明白です。
即ち、一言を以て断ずるならば、ハイデッガーは、ドイツ語(ばかりではない、あらゆるヨーロッパ語)に特有なる「再帰的という言語現象」に往々生ずる事あるべき前述の如きある種の論理的矛盾をはっきりと意識しつつこの構文(Formulierung, Ausführung)を敢行したと言って構わないでしょう。しかも、区別を意識しつつも、本来の自我と言い、目前の関心網を右往左往している表面の自我と言い、共に結局は常識の立場からは単に「自分」ということになっているその普通の自我だということを言外の余韻にひびかせんとして、文法的には、ドイツ人の考え方に非常に親しいこの再帰構造という奴を採用しつつ自分のGedankengebilde〔思想世界〕の内奥を簡潔にほごして見せたのでしょう。(関口存男『ドイツ語論集』 282-3頁)
03、自己意識の特徴
① そもそも人間に意識という変なものが備わっているという事は、一面非常に有り難いようであって、また他面においては甚だ有り難くないことがある。というのは、よくある意識生活の一局面ですが、意識するということは甚だ自分にとって都合がわるく、目をつぶって通った方が気が楽な場合があるからです。「自分自身に対して頬かぶりをして通る」方が得策なことが起こって来ます。
意識というのは、つまり、前に述べたように、我々自身の鼻の先に鏡が置いてあるのと同じ関係にあるものです。ある種の場合には自分のやっている事が自分自身の眼に映ずるのは甚だ困ることが起こってくる。そこで、自分自身の意識を躊躇したり、自分には一寸内緒にしておいたり、自分自身の陰に隠れてこっそりとやってしまったり、その他意識の明鏡を曇らせることによって現実我の意図を貫徹しようとする局面が生じてきます。
只今挙げた母親の挙動の描写などがその局面のなかなか微妙複雑な場合で、これは、自分が平素あまりかまってやらなかった子供が病気になって眠っているところへ母親がやってきて、寝息をうかがって見たが、別に変わった事もなく、すやすやと眠っているらしいので、安心したような、すまないような、何となく物足りない中途半端な気持ちのままで、また部屋を出ていってしまう所の描写ですが、介抱したいにも介抱する事がないものだから、彼女はベッドの布団の上を撫でて皺を延ばしてやる。布団の皺を延ばしたからと言って病気が楽になるという話はまだ聞いたこともないが、とにかく何かしないと自分の気が済まないものだからそうするわけです。けれども、そうしながらも、それは単に自分が自分自身に対して演出して見せる芝居にすぎないのだという「意識」があるから、彼女は多少恥ずかしくもあって、そう大げさにはやり切れない。やりかけた途中で、あいまいにごまかしてしまう。だいいち、皺を撫でたからと言って病気に何の関係もないということは「薄々知っている」ものだから、勿論真面目に撫ではしない。では全然撫でる必要はないではないかと言えば、それはまあそうですが、そこがその──面白いところです。
要するに、人間という奴は、意識という鏡を突きつけられていながら、格別突きつけられ甲斐もなく、実に齟齬矛盾そのものの如き行動に出る動物で、時には現在ありありと鼻の先に見えている事をすらも強いて見まいとする。「意識という浄玻璃(じょうはり)」としての理想我に対して、「無意識な塊」としての現実我は常に犯罪者の警察に対するが如く逃げ隠れしていると思ってよろしい。どんなに意識が明瞭な、どんなに頭の好い人間でもそうです。否、意識が発達して全てを克明に反射してくれば来るほど、即ち文明人になればなるほど、不透明な現実我の方はますます甚だしく暗にもぐり、地下に隠れ、ますます甚だしく犯人意識が発達して来ると言うも過言ではありません。
ここでちょうど好い機会ですから「意識」という現象を再帰哲学的に定義すると、こういう風に考えられます。「意識とは、とにかく吾人自身の眼の前に置かれた、どうしても取り除くことのできない宿命的な鏡の如きものである。自分自身が反射屈折して、自分自身が欲すると欲せざるとにかかわらず、自分自身に向かって帰ってくる現象である」。
鏡の例を幸いに、もう一段飛躍して面白く言うならば、「言わば自分自身が逃れようなく自分自身に突きつけられているかたちである」とも言えましょう。
またハイデガーの思想を持ち出して言うならば、意識という現象だけではなく、そもそも人間、人生、自我というのが、ハイデガーの用語で言うと、我々が、我々自身の現境(da)の真っ只中に向かって「投げつけられている」(geworfen)かたちなのだそうです(この「かたち」(相)のことをハイデガーは Sein という用語で言い表します)。故に、私が只今述べた「突きつけられている」という変な形容は、このハイデガーの Geworfensein〔投げつけられたあり方〕の一種だと思っていただきたい。変な形容かもしれませんが、再帰的な考え方に入り込んでしまった西洋哲学としては、当然こうした解釈に到達しなければならなかったのではありますまいか(論集 323-4頁) 。
② ハイデッガーの哲学(むしろ Ontologie〔存在論〕)は、現在までの、単に事実を写し出すだけの哲学ではなくて、わかりやすく言えば「要求」から出立しなければ存在の根本相の説明が出来ないという哲学である。
即ち、人間の意識現象の根本をなしている所のもの、いわば人が普通 Seele(霊)と呼んでいるもの、或いは自力本願的宗教家が「自己の中枢に君臨する神」と称するもの、これが我々をして常に不安な、あわただしい、動いて止まぬ「人間」たらしめている根本である。それは「良心」として常に我々に呼びかけている。
ところが常に「世間的」に、社交的な man(御同様)として、真の自己を正視する事を忌避しながら、言わば仮の衣たる外的自己とその利害とのみに没頭しながら、共同生活的、団体意識的、非人称的な意識層に安住の浮木を追って泳いでいる「吾人」なるものは、その良心なるものを、なるべく聴くまいとしている。表面の自己が、背後の自己(神)のために多少たりともその自信を揺るがされるような、多少たりとも真剣な体験や運命は、極力敬遠するのが常である。外部から迫る運命は時には非常な決断を以て全人格に引き請けるが、自己の内から生じて来る運命(開けんとする認識、等々)に対しては、みんな非常に卑怯である。
しかしそれをしなければ真の人間ではない。少なくとも哲人ではない。内面的体験を忌避「しない」こと、これが人間たる理想である。そこに内面的進歩がある。最も人間らしき人間を人間せんと努める事、と言ってもよかろう(アウグスティヌスがその「告白」において絶えず神に向かって呼びかけているのも、まずハイデッガーの哲学と同一である。ハイデッガーの所謂 das Man-Selbst〔御同様〕がアウグスティヌ自身であり、die eigentlichste Möglichkeit〔本来のあり方〕が対話の相手のDeus(神)であると考えられる)。(44-5頁)
③ ハイデッガーの考えの筋道はこうである。吾人の生存意識とはどういう現象であるかというに、それは、意識という現象そのものが、既に本来の吾人を去って、何者か(世の中=Welt) の手に帰し且つ堕してしまっていることを意味する(これが Verfallen〔帰堕〕。同じ現象を Verlorensein in die Oeffentlichkeit des Man, 又は Aufgehen im Miteinandersein等とも言っている。
換言すれば、本来の自己の中へと見返ったり反省したり、自己そのものの存在に気がついたりするのは、ずっとずっと進歩した上での現象であって、吾人はまず外界にすっかり気を奪われた状態から人生を始め、且つ大抵の場合はそのままで一生を通す。
これは決して「俗人」だけのことではない。みんながそうである。というよりはむしろ、それが吾人の意識(=da) の第一義なのである。そして、そもそもの最初から暴力的に背後に見捨てのけられたままでいる本来の自己なるものが、自分に背を向けて前方にのしかかっている第二義的世間的自己、即ち意識(da)を自分の方へ引っ張り戻そうとする運動──これが良心、体験、歴史、時間、運命、その他の名を以て呼ばれる諸種の「内圧力」(「内紛」と言ってもよかろう)であって、この圧迫力が普通「時間」という名で呼ばれている既知の現象の本体である。(64頁)
04、価値判断と「真の自己」
① 客観的科学的に述べるのではなく、そこに論者の善悪可不可の判断を交えて、或る一面を奨励し、或る一面を誹謗するごとく論ずるのを moralisieren すると言う。
このあたりに述べてある事柄は、ちょっと前の注で私がハイデッガーの哲学について述べた趣旨と一見相反するように思われるかもしれないが、ここがハイデッガーの哲学の特有性であって、その時に述べた如く、彼の見方は、普通の見方を以てすれば明らかに1つの「要求」であり、「文化哲学的野心」であり、むしろMoral と解した方が却って力強くその意を捉えることが出来るものであるにかかわらず(それはアウグスティヌスとの類似点を考えてみれば、思い半ばに過ぎるものがある)、ハイデッガー自身はそうではないと言っている。それはもちろん彼の Methode〔方法〕が純現象学的なのであって(即ち形式だけの問題で)、その対象、その内容は明らかに1つの人間的要求である。それが証拠にこの論文を書いている人自身がハイデッガーの哲学から出立して「哲学はかくあるべし」という主張を提げてマルキシスト達の態度を攻撃しつつあるではないか?
いづれにしろハイデッガーは単なる Auslegung〔解釈〕以外の何物かを提げて立っていることは事実である。(65頁)
② 吾人の存在意識は、生まれると同時に、いわば己自身から離反(abfallen)して、当面の客観界へ身を売ってしまったような状態になっている(これが verfallen) 。人間をうまれながらの罪人と考え、生まれて現生に籍を置くことを以て直ちに「神を忘れる」ことに一致すると考えたある種のキリスト教哲学とその考え方が甚だしく似ている。
ただハイデッガーは、神と言わず、「真の自己」又は「自己の真諦」、もっとハイデッガーの用語に近づけると「自己を深めることの可能性」「計画されるべき自己」といったような言葉を用いるだけの違いである。しからばその真の自己とは何か。これに対しては、概念的な明確な答えをすることはできない。如何となれば、「概念」なるものが既に真の自己の世界のものではなく、いわゆる「公けの」man の世界の符牒だからである。
強いて言おうとすれば、たとえばここに言ってあるように faktisches In-der-Welt-sein〔事実的世界内存在〕なぞと、概念としてはごく何でもないものになってしまう。吾人は「事実として」(faktisch)世にいる。これが、事実としてあらゆる深い運命を生み、体験を醸し、あらゆる重大な結果を生ずる根本である。Fakt(事実)という現象が、発すれば da となって御同様(man)の実在形式を規定しているのである。「事実」としての自己、これが深く意識されれば、それが直ちに以て真の自己であり、真の自己の獲得し戻さるべき方向である。
しからば、その真の自己はどこに埋没しているか。即ち何に飲み込まれているか。何の手に「帰」し、何に「堕」しているか。
ちょっと考えると、「金の問題」や「人情の行きがかり」や「研究の対象」等に埋没しているように考えられる。そうには違いないのだが、それをもっと「実体学的」(ontologisch)に云うと、自分自身の一構成要素たる「現」世的方面(方面どころか、それがむしろすべてなのだが)の中に没入しているのである。即ち「現」世にいるということそれ自身が吾人をして吾人自身(即ち神)から叛かしめているのである。日本語の「現世」というのはちょっと面白い。直訳すれば Da-Weltである。Da もWelt も、要するに吾人自身の存在様式を表現する無邪気な直接な言葉である。(66-7頁)