参考
01、物は一般に常住的な内的な本性と外的な実在性とを持っている。(小論理学第24節への付録1)
02、 全ての事物は普遍として個別と関連している特殊である。(小論理学第24節への付録2)
03、物という言葉は2義的な表現である。さしあたって物という言葉では、直接的に現出存在するもの、感性的に表象されるものが理解されている。(小論理学第34節への付録)
04、実際には本当の事情はこうなのです。つまり我々が直接知る事物は単に我々にとってのみ現象であるばかりでなく、それ自体としても単なる現象にすぎないということです。ですから、自己の存在の根拠を自己自身の内に持たず普遍的な神的理念の内に持つということは有限な事物の固有の規定だということです。(小論理学第45節への付録)
05、物とは、根拠と現出存在という規定が展開されて1つのものの中で定立された時のそれらの全体性である。(小論理学第125節)
★ 物自体、Ding an sich
01、物自体(精神や神も物という言葉で捉えている)という言葉が表わすものは、意識の対象となる全てのもの、感覚に与えられる規定もそれについての思考による規定もすべて捨象された限りでの対象のことである。容易に分かるように、その時そこに残っているものは、完全な抽象物、全き空虚であるが、それがいまだ彼岸と規定されているだけのことである。それは表象、感情、規定を持った思考等々を〔みな〕否定したものである。
同じくちょっと反省してみれば分かるように、この〔物自体という名の〕残滓自身が思考の産物にすぎない。それはまさに純粋な抽象まで行きついた思考、つまりこの空虚な自己同一性を対象とする空虚な自我の産物である。
〔しかも〕この抽象的な同一性が〔思考の〕対象となった時獲得する否定という規定は、カントの〔挙げた12の〕カテゴリーの中にも〔非存在として〕記載されており、それはかの空虚な同一性〔自我〕と同様、周知のものである〔だから、物自体についてはそれが何か分かっているわけである〕。だから、物自体とは何であるか分からないという言葉を何度となく聞かされると驚ろくしかないのである。〔実際〕物自体を知ることより易しいことはない。(小論理学第44節への注釈)
02、anの一般的な話になりますが、物自体のことをDing an sichと云うのなどもそれで、Kantに従えば、それは経験不可能なるものではあるかも知れませんが、それは決して「凡ゆる意味に於て」経験不可能なのではないのです。
もしそうであったら、むしろDing in sich或いはDing hinter sichとでも云った方が好いでしょう。an sichという以上は、等かの意味に於て、たとえば形而上的にでも、その表面(にまで迫ることが出来、その表面に「即して」(an)何等かの──たとえ古い意味の認識ではなくても──意識活動が行われ得なければなりません。物自体を指すのに、Ding in sichと云わないで、一見自身を裏切ったようなanを用いて来たイツ語の習慣の中には、知らず知らずの間に顕れた現象学的解釈が働いていたと云うべきです。如何となれば、「内部」と云い「外部」「表面」と云うのは、結局
Nichts ist drinnen, nichts ist draussen
Denn was innen, das ist aussen. -Goethe,Epirrhema.-
で、本質は直ちに以て現象であり、現象は直ちに以て本質です。
So ergreifet ohne Saeumnis
Heilig oeffentlich Geheimnis. -ibid一
つまりGoetheの自然観はDing an sichを「公然の秘密」(oeffentlich Geheimnis)と観た所にあります。換言すればDing an sichのanを、習慣通りの「自体」、即ちほとんどin, hinterに近い意に取ることと、anをその原意にかえして「表面に即して」と解することとが、結局同じだというところにあります。(関口存男『前置詞』94-95頁)
感想・「内なるものは外なるものであり、外なるものは内なるものである」というのはヘーゲルの考えですから、ゲーテと一致するのはヘーゲルであって、カントではないと思います。関口氏のカント解釈は読み込み過ぎだと思います。
01、物は一般に常住的な内的な本性と外的な実在性とを持っている。(小論理学第24節への付録1)
02、 全ての事物は普遍として個別と関連している特殊である。(小論理学第24節への付録2)
03、物という言葉は2義的な表現である。さしあたって物という言葉では、直接的に現出存在するもの、感性的に表象されるものが理解されている。(小論理学第34節への付録)
04、実際には本当の事情はこうなのです。つまり我々が直接知る事物は単に我々にとってのみ現象であるばかりでなく、それ自体としても単なる現象にすぎないということです。ですから、自己の存在の根拠を自己自身の内に持たず普遍的な神的理念の内に持つということは有限な事物の固有の規定だということです。(小論理学第45節への付録)
05、物とは、根拠と現出存在という規定が展開されて1つのものの中で定立された時のそれらの全体性である。(小論理学第125節)
★ 物自体、Ding an sich
01、物自体(精神や神も物という言葉で捉えている)という言葉が表わすものは、意識の対象となる全てのもの、感覚に与えられる規定もそれについての思考による規定もすべて捨象された限りでの対象のことである。容易に分かるように、その時そこに残っているものは、完全な抽象物、全き空虚であるが、それがいまだ彼岸と規定されているだけのことである。それは表象、感情、規定を持った思考等々を〔みな〕否定したものである。
同じくちょっと反省してみれば分かるように、この〔物自体という名の〕残滓自身が思考の産物にすぎない。それはまさに純粋な抽象まで行きついた思考、つまりこの空虚な自己同一性を対象とする空虚な自我の産物である。
〔しかも〕この抽象的な同一性が〔思考の〕対象となった時獲得する否定という規定は、カントの〔挙げた12の〕カテゴリーの中にも〔非存在として〕記載されており、それはかの空虚な同一性〔自我〕と同様、周知のものである〔だから、物自体についてはそれが何か分かっているわけである〕。だから、物自体とは何であるか分からないという言葉を何度となく聞かされると驚ろくしかないのである。〔実際〕物自体を知ることより易しいことはない。(小論理学第44節への注釈)
02、anの一般的な話になりますが、物自体のことをDing an sichと云うのなどもそれで、Kantに従えば、それは経験不可能なるものではあるかも知れませんが、それは決して「凡ゆる意味に於て」経験不可能なのではないのです。
もしそうであったら、むしろDing in sich或いはDing hinter sichとでも云った方が好いでしょう。an sichという以上は、等かの意味に於て、たとえば形而上的にでも、その表面(にまで迫ることが出来、その表面に「即して」(an)何等かの──たとえ古い意味の認識ではなくても──意識活動が行われ得なければなりません。物自体を指すのに、Ding in sichと云わないで、一見自身を裏切ったようなanを用いて来たイツ語の習慣の中には、知らず知らずの間に顕れた現象学的解釈が働いていたと云うべきです。如何となれば、「内部」と云い「外部」「表面」と云うのは、結局
Nichts ist drinnen, nichts ist draussen
Denn was innen, das ist aussen. -Goethe,Epirrhema.-
で、本質は直ちに以て現象であり、現象は直ちに以て本質です。
So ergreifet ohne Saeumnis
Heilig oeffentlich Geheimnis. -ibid一
つまりGoetheの自然観はDing an sichを「公然の秘密」(oeffentlich Geheimnis)と観た所にあります。換言すればDing an sichのanを、習慣通りの「自体」、即ちほとんどin, hinterに近い意に取ることと、anをその原意にかえして「表面に即して」と解することとが、結局同じだというところにあります。(関口存男『前置詞』94-95頁)
感想・「内なるものは外なるものであり、外なるものは内なるものである」というのはヘーゲルの考えですから、ゲーテと一致するのはヘーゲルであって、カントではないと思います。関口氏のカント解釈は読み込み過ぎだと思います。