マキペディア(発行人・牧野紀之)

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目的、der Zweck

2012年01月25日 | マ行
 目的についての哲学的議論では、合目的性と目的意識性とを区別する事が大切です。ヨーロッパの人たちは両者の区別をあまりしないようですから。

  参考

 01、欲求、衝動は目的の最も手近な例である。それは生体自身の中にある矛盾の感じられた姿であり、未だ単なる主観性に過ぎない否定を否定しようとする活動へと歩み進む。(小論理学第204節への注釈)

 02、目的論的関係の直接的なものは外的合目的性である。ここでは概念は与えられた客体に相対している。(小論理学第205節)

 03、人間が自然に対して実践的に振る舞う時、人間自身も直接的で外的である。従って又、ここでは感性的なものとしての人間が直接的で外的なものである自然に関係するのだが、人間は自己を目的としている。それの考察は有限な目的論の立場である。(自然哲学第245節)

 04、合目的的な活動として自己保存を目指している。(自然哲学第245節への付録)

 05、人間は自己の衝動を抑えたりそのままにしたりする事が出来る。これによって目的に従って行動し、普遍的なものに従って自己を規定するのである。(歴史における理性57頁)

 06、ヘーゲルの内的目的、即ち何か意識的に行為する第三者、言ってみれば摂理の知恵といったものによって自然の中へと持ち込まれた目的ではなくて、事柄自身の必然性の中にある目的(マルエン全集第20巻62頁)

 07、(無意識的合目的性)アマガエルや葉を食べる昆虫が緑色で、砂漠の動物が砂黄色で、極地の動物が大体雪のように白い色をしているとしても、それらの動物が意図的に又は何かの観念に基づいてこれらの色を獲得したのでない事は確かである。そうではなくて、これらの色はもっぱら物理的な力と化学的な要因とによって説明される。

 それにも拘わらず、これらの動物がそういう色に依って環境に合目的的に適応しており、それによって敵に見えにくくなっていることは否定できない。(マルエン全集第20巻66頁)

 08、我々には、動物が計画的で、予め好く組織された行動様式を取る能力を持っていないと主張する気は全くない。これは自明である。逆である。原形質、生きた蛋白質があり、反作用する、つまり、たとえ未だに外からの刺激の結果というような単純な運動であっても、ともかく反作用する所では、どこでも、既に、萌芽の形でではあるが、計画的な行動様式があるのである。そのような反作用は神経細胞は言うに及ばず、細胞が全くない所でさえも見られる。食虫植物が獲物を捕えるやり方もやはり或る点では計画的である。もっとも全く無意識的ではあるが。(マルエン全集第20巻452頁)

 09、実際には人間の目的は客観世界によって生み出されたものであり、客観世界を前提しているのであるが、人間には、自分の目的は世界以外の所から取ってきたもので、世界から独立しているように見える。(レーニン邦訳全集第38巻159頁)

 10、目的は直接的なもの、静止しているもの、不動のものであるが、自己運動する不動者である。かくして目的は主体である。(出典記載忘れ)

 11、目的関係にあつては、目的として立てられた観念が外界に実現される時、その目的は、いわば形式の面から見れば、観念的なものから実在的なものに移されるが、内容の面から見れば、同一のものにとどまるということである。これが「自己に対立するものの中に自己自身を見出すこと」(すなわち自由)の目的論的形態である。(牧野紀之「労働と社会」52頁)

 12、つまり目的意識は、与えられた諸条件によって一義的には規定されないで、選択の可能性を持っているのである。いくつかの可能性を比較して最良のものを取るのである。古代人が人間理性を ratio (比)によって特徴づけた(合理的= rational )ことには根拠があったのである。

 しかるにこのような「選択の可能性」が生まれるのは、主体が対象と直接的に統一されておらず、多様な規定を持っている対象をどの規定の面からも考えることができるからである。そして、この直接的統一を断ち切るものは思考であった。従って、目的意識性と思考とは本質的に関連しているということになる。というより、おそらく両者は同一のものであろう。

 しかし、だからといって、目的意識性をたんに思考と言い換えたのでも、その逆でもない。目的意識とは、読んで字の如く、目的を意識しているということである。それでは、これがなぜ思考と同じものなのだろうか。目的とは未来に実現されるべきものだからである。目的を意識しているということは、変革されるべき現在と変革された未来とを、共に意識しているということである。しかも現在を否定的に、未来を肯定的に見ているのである。つまり、未来の立場に立っているのである。

 しかるに、「直接性」は優れて現在的なことである。「存在している」(sein)ということが直接性なのだからである。よって、目的意識性は未来の立場に立つことによって、現在から直接的には規定されなくなる、すなわち直接性を断ち切るのである。これは正に、衝動との直接的統一を断ち切るという、先の思考の働きと同じである。この意味で思考と目的意識性とは同じだったのである。ここに我々は、目的意識性の論理的性格は「直接性を断ち切ること」であることを知った。(牧野紀之「労働と社会」58-9頁)

 13、さて、目的意識性の成立は、同時に衝動が思考の対象となることであった。しかるに衝動を対象として思考するということは、取りも直さず、その衝動として現われる矛盾の二側面、主体(つまり自己)と主体を否定するもの(つまり対象、客体)とを思考することである。すなわち、目的意識は対象意識と自己意識との統一なのである。これが、ヘーゲルの目的論から論理的に引き出される第二の論点である。(牧野紀之「労働と社会」59-60頁)

 14、ヘーゲルは目的論への付録の中で「理性は力を持っていると同時にずるがしこい」(小論理学209節への付録)と言って、目的意識を理性として捉えている。しかるにヘーゲルは、『精神現象学』の中で、理性を対象意識と自己意識との統一として捉え、理性の概念〔抽象的本質〕を表現したものは、観念論の「私(Ich)が全実在である」という主張であると言っている(「精神現象学」ホフマイスター版、176頁)。ヘーゲルの言う観念論は、本文中でも述べたように、目の前の有限な存在をそのままでは絶対視しない立場であり、きわめて強い目的論的性格を持っていた。これらの事実はきわめて示唆に富むものである。(牧野紀之「労働と社会」66頁)

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