♦️299『自然と人間の歴史・世界篇』細菌学(パスツールとコッホ)

2018-03-11 10:00:47 | Weblog

♦️299『自然と人間の歴史・世界篇』細菌学(パスツールとコッホ)

 ルイ・パスツール(パストゥール、1822~1895)は、フランスの生化学者、細菌学者。王立協会外国人会員。ロベルト・コッホとともに、「近代細菌学の開祖」とされる。
 フランスのドルの町で、皮なめし職人の3人目の子として生まれる。パリの高等師範学校(エコール・ノルマル)へ進学する過程で、当時最も有名な化学者の一人であったジャン・バティスト・デュマの講義を聴き、感じるところがあったらしい。
 その業績は、「生命の自然発生説の否定」あたりから有名になっていく。当時は微生物が空気のない環境でも自然に発生するという「自然発生説」が信じられていた。パスツールは1861年、ガラスの形を工夫したフラスコ(「白鳥の首型フラスコ」という)を用いて実験を行い、自然発生説が誤っていることを証明する。ただし、地球の発展過程の一段階として考えられている生命の自然発生まで否定している訳ではない。
 この「生命の自然発生説の否定」を皮切りに、彼は牛乳、ワイン、 ビールの腐敗を防ぐ低温での殺菌法(パスチャライゼーション・低温殺菌法とも)を開発。 またワクチンの予防接種という方法を開発し、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを発明するなど、広範囲にわたる。.
 1864年4月、「ソルボンヌ夜間科学講演会」において行った話を、次の言葉でしめくくっている。
 「さて、皆さん、われわれが採り上げなければならない立派な題目がここに一つあると言えます。発酵の原因をなし、また地球の表面で生命をもっていたあらゆるものの腐敗と解体の原因をなす、この小さい生物の中のあるものが、天地万物の総体的調和のうちにおいて演ずる役割に関する問題がこれであります。この役割たるや、量り知れぬほど巨大であり、驚異的であり、まさにわれわれを感動せしめるものがあります。」
 生活のほとんどを研究に没頭する中で、家庭的には色々あったらしい。子どものうち2人は腸チフスで死んだという。1868年には、自身が脳出血に倒れ半身不随となる。1870年につ普仏戦争でフランスがプロイセン帝国に破れた時は、科学に対するフランスの怠慢と無関心を批判したというが、愛国心の発露というべきか。
 1879年の夏には、パスツールはニワトリ・コレラという家きんの伝染病につき、免疫形成につながる実験を行う。これに着手するには、1796年、ジェンナー(17949~1823)の天然痘への実験があった。この天然痘という病気は、当時人びとを震え上がらせていたという、伝染力の強い、非常に怖い疾患である。ジェンナーは、牛の痘瘡に罹ったことのある人は、その天然痘に罹らないということからヒントを得て、これを行ったのだ。しかし、そのジェンナーの種痘は、経験的にその効果がわかっていたが、何故、そうすることで天然痘に罹らないのかまでは明らかになっていなかったという。
 パスツールは、夏休みで栄養補給をできていない培養基を使い、その中のニワトリ・コレラ菌をニワトリに接種する。ところが、ニワトリは病気を起こしていない。これに閃いたのか、先にニワトリ・コレラ菌を接種したニワトリと接種していないニワトリの二種類のニワトリに、本物の新しい培養菌の接種を行う。結果は、先に菌を接種したニワトリは元気で、初めて菌を接種したニワトリが全部死ぬ。
 その訳を、パスツールは次のように結論する。この実験によって、わざと弱い病気をつくり、そのことで生物の体内に耐性をつくるのだと。その物質のことを、パスツールはジェンナーに敬意を表して、ジェンナーが牛痘のラテン名、Variolae vaccinaeのvaccinae(牛のという意味)から採用したという意味での、「ワクチン」という名前で呼んだ(ルイ・パスツール著・山口清三郎訳「自然発生説の検討」岩波文庫、1970)
 1881年には、弱毒化した炭疽菌を使った大規模実験を行い、ワクチンをつくる。その後、狂犬病のワクチンを発明し、何十頭もの犬で実験を成功させる。「ヒトに使用するとなると手が震えてしまうだろう」と語っていたのが、1885年、ジョゼフ・マイスターという少年が狂犬病の治療を求めて彼のもとを訪ねてきた。そこで、この少年に狂犬病のワクチン接種をおこなつたところ、大いなる効果が認められた。
 その彼は、「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」とか、「科学と平和が、無知と戦争に勝利することを、私は確信している」などの言葉を残している。
 ロベルト・コッホ(またはハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ、1843~1910)は、ドイツの医師にして細菌学者。
 幾つもの病原菌の発見者として著名。また、純粋培養や染色の方法を改善し、細菌培養法の基礎を確立する。これらの実験で使われた寒天培地やペトリ皿(シャーレ)は、彼の研究室で発明され、その後今日に至るまで使い続けられているとのこと。
 彼は、ドイツのハルツ山地の村クラウスタールに生まれた。父は鉱山技師で、13人兄弟の3番目であった。地方の学校から近くのゲッティンゲン大学に進み、数学と物理学を学んだ後、1862年からは医学へと進む。1868年、医師となり、ハンブルクの病院およびハノーファー近くの小さな村ランゲンハーゲンで一般開業医として経験を積んでいくかたわら、研究にも精出していく。
 一つは、ドイツでウシやブタなど家畜(かちく)の間に流行した、炭(たん)そ病の原因である炭(たん)そ菌(きん)を発見する。また、インドで大流行したコレラの原因であるコレラ菌(きん)も発見する。さらにコレラは、激(はげ)しい腹痛(ふくつう)におそわれ、ひどい場合は、感染後、数日でほとんどが死んでしまうこわい病気であった。彼は、この病気の元がコレラ菌であることを突き止めた。
 その昔、伝染病(でんせんびょう)は神の罰(ばつ)だと考えられていたこともなしとしない。コッホが病原菌説を明らかにする以前は、伝染病(でんせんびょう)の原因はわからないままであった。これを突き止める先駆けを成したことにより、彼はパスツールと並び「細菌学(さいきんがく)の父(開祖)」と呼ばれる。

(続く)

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