○○93『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の建築、彫刻、絵画、工芸など1

2017-08-21 22:08:36 | Weblog

93『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の建築、彫刻、絵画、工芸など(1)

 大化の改新によって国政が一新(中央集権化)の過程に入った後、飛鳥から白鳳そして天平へと、文化が流れて行った。それらの先駆けとされる飛鳥文化は、ほぼ推古朝に位置する。仏教伝来の頃からの我が国文化の発展を含める。この時期の文化の多くは、仏教をはじめ、多くのものが外国との関わりの中で、多くを採り入れ、あるいは吸収しつつ、発展していったことが窺える。

 そこで外国からの技術がどのように伝わっているか、そこへこの国の人々の創作がどのように加えられているか、これらを垣間見たい。だが、自前の文化形成の一貫した流れをそこに見出し、眺めるのは、かなり難しい。興味深いことに、この時期には、絵画の面では、かなりの独自性へ繋がる展開が見られる。


 これを寺社の造営でいうと、聖徳太子とも言われる人物が四天王寺と法隆寺(斑鳩寺(いかるがじ))、蘇我氏(蘇我馬子)が法興寺(飛鳥寺)、平城京に移ってから元興寺を、朝鮮系氏族の秦氏(秦河勝)が広隆寺を、和気氏が神護寺(高雄寺とも呼ばれ、元は和気清麻呂が建立したと伝わる神願寺とも)を、大化の改新後に政権の中枢に取り入り力を伸ばしていくことになる藤原氏が興福寺(創建時は山階寺・厩坂寺として、平城京への遷都後は興福寺と改称)を、それぞれ造営したことで伝わる。

 なお、聖徳太子は実在がはっきりしていない、おそらくは想像上の人物なので、彼が四天王寺と法隆寺の造営を命じたとの断定は差し控えておきたい。


 これらの中での代表格は、法興寺(飛鳥寺)と法隆寺なのであろうか。飛鳥寺は、日本最古の寺とされる。今日に残っているのは、本堂ばかりだ。その中に鎮座する飛鳥仏はといえば、1940年に「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」として国重要文化財に指定されている。この像高は275.2センチメートルという。鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であると伝わる。製作(完成)年代には2説があり、『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年であるが、後者が有力のようだ。

 画集でこの像を観賞していると、どうやら日本人を写したたものとは考えにくい。当初部分とみられる頭部は、面長の顔立ちや杏仁形(アーモンド形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。とにかく鼻が大きくて、盛り上がっている。顔全体の印象はやや「強面」(こわもて)であって、厳格な人柄なのだろうか。
 7世紀中頃の飛鳥仏のうち変わったところでは、正眼寺(現在の愛知県小牧市)に伝わり、現在は奈良国立博物館なら仏像館に展示され、「誕生釈迦仏立像」と題される銅造りの仏像がある。全身の鍍金(ときん)がかなり残っていて、地味な金色を醸し出す。

 大きさは、8.2センチメートルという小ぶりながら、不自然に頭が大きい。顔は面長で、目はなんだかなにかんでいるようでもあり、眩しそうでもある。口元には微笑があり、まだ10歳に満たない位の少年のあどけなさと覚える。

 しかも、裳(も)に刻まれた左右対称の襞が、中国の北魏彫刻の様式を採り入れているとか。しかも、立ち姿のポーズが変わっていて、右手で天、左手で地を指さしているのは、誕生時に「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と唱えたという、実際にはあり得ない作り話を物語っているようだ。


 寺自体が国宝の法隆寺において柱群が有名なのは、これら柱が「エンタシス」という中央が太くなっている特徴を備え、遠く西洋のヘレニズム文明にも通じる様式となっている点だとされる。ここにある五重塔は、インドでストゥーパで呼ばれたもので、日本では「卒塔婆」(そとうば)と訳される。心柱(しんばしら)と屋根などが独立している構造で耐震性に優れ、この巻の地震でもくずれなかった。塔の先端から相輪(そうりん)を下りていった処のふっくら、丸くなっている部分・伏鉢(ふくばち)にブッダその人の舎利(しゃり)が納められているかどうかは、分からない。

 この法隆寺金堂の本尊は、「釈迦三尊像」であり、623年鞍作鳥の作とされる。この作者がわかるのは、同三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されていることから来る。
 およそこの時期に造営された他の寺に安置される仏像の類でいうと、例えば、2016年6月、日本と朝鮮に伝わる二つの半跏思惟像(はんかしいぞう)が、東京の上野美術館で並んだ。日本のものは、奈良県の中宮寺門跡(ちゅうぐうじもんぜき)に伝わり、木造の国宝に指定されている。また、韓国の国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像は、国宝78号像としてある。
 伝承によると、この像が日本で造られたのは聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の発願によるとの伝承もあるものの、事実かどうかはわからない。中宮寺蔵のものは、『日本書紀』(巻第廿渟中倉太珠敷天皇敏達天皇)に「十三年春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子使於新羅、遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一?、佐伯連闕名字、有佛像一?。」となっていることから、その類推で百済から倭に持ち込まれたとする説も否定できない。ともあれ、この日本国宝の像の安置された中宮寺は、斑鳩宮(いかるがのみや)を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に合わせる等のけじめをつけて創建されたのではないか。

(続く)

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