新239に合併○○『自然と人間の歴史・日本篇』信達騒動(信達一揆、1749と1866)

2021-08-16 21:47:27 | Weblog
新239に合併○○『自然と人間の歴史・日本篇』信達騒動(信達一揆、1749と1866)
 
 「信達騒動(しんだつそうどう)・信達一揆騒動(しんだついっき)」」というのは、1749年(寛延2年)の幕領での惣百姓強訴と1866年(慶応2)の世直し騒動との総称である。
 ここでは、18世紀に勃発した信達一揆のあらましから始めよう。この一揆は、陸奥国(むつのくに、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県にまたがる地域)の信夫(しのぶ)・伊達の両郡(福島市周辺)で起こる。桑折(こおり)代官所の代官として着任した神山三郎左衛門が、凶作にもかかわらず過酷な増租策を打ち出したのが、一揆の発端となる。
 その成り立ちからいうと、この年の検見(けみ、作柄の検分)が終わろうとする頃、この地域の村人に「急回状」が出される。その書き出しには、「急回状を以て申達候、(中略)、大凶作青塾皆無に御座候に付き村々役人共数日桑折詰御年貢御引之儀両三度嘆願書差上奉嘆願候処」とあって、凶作のため代官所に年貢の減免を願い出たものの受理されなかった。そこで、旧暦9月17日に皆で「宮代村王社」に集まり相談する。
 なお、その際には、「万民の仇、手を不下候共万民を害すに似たり、依之差留候村は其もの焼払一命を申請候間其旨可致◻️され候(以外、略)」とあって、この文面通りなら、不参加の村は焼き払うとまでいう。

 同10月には、このような文脈にて、代官所に嘆願を行う。なお、提出された文「乍恐以書付奉嘆願候事(おそれながらしょをもってたんがんそうろうこと)」の一節には、「当巳(とうみ)より三ヶ年延伸巳迄向十ケ年賦、桑折、福島十月中平均値段金一両に付米三斗安を以て御上納仕り、当巳御年貢皆石代に仰付下されたく村々百姓一同挙げて奉願上候」と記されているところだ。
 すなわち、その際には、3ヶ年の年貢の繰延べと、十か年賦代金納とし、今年分は全部金納としてもらいたい。なおかつ、もし代官所かぎりでは要求に対する回答をなし得ないというのなら、江戸幕府に願い出るというのである、

 そして迎えた同12月には、ついに我慢の限界に達したと見えて、減免や代金納・分割納入などを求めて、68か村の農民が代官所を襲う。


(続く)

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