○○135『自然人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の崩壊

2016-03-29 22:14:15 | Weblog

135『自然人間の歴史・日本篇』鎌倉幕府の崩壊

1292年(正応5年)、美作の久世保(現在の久米郡)で鎌倉幕府の御家人に任じられていた久世氏は、「大炊寮領」(おおいりょうりょう)という名の荘園の所職の一つである「下司(げし)、公文職(くもんしき)」職を得ていた。ところが、その地の荘園領主とおぼしき雑掌覚証がその職を取り上げようとしたのが争論に上った。これに対する裁定であるところの「御教書」(みきょうじょ)が出される3日前には、幕府による、次の『御教書』が発布されていた。
 「西国御家人は、右大将家の御時より、守護人等、交名を注し、大番以下課役を勤むると雖も、関東御下文を給ひ、所職を領掌る輩、いくばくならず。重代の所帯たるによって、便宜に従ひ、或いは本所領家の下文を給ひ、或いは神社惣官の充文を以て、相伝せしむるか。本所進止の職たりと雖も、殊に罪科無く、者(てえれ)ば、改易さるるべからずの条、天福・寛元に定め置かるるところ也。然れば所職を安堵し、本所年貢以下の課役、関東御家人役を勤仕すべくの由、相触るべくの状、仰せによって執達件の如し。
正応五年八月七日
陸奥守(宣時)御判、相模守(貞時)御判、越後守(兼時)殿、丹波守(盛房)殿」(貞永式目追加六三三)」(『御教書』)
 この親文書を拠り所にして出された本件争論に対する「御教書」には、京都にいる大炊領の荘園主の主張を退け、久世氏に元のように所職を安堵している。関東御家人としての職務についても、引き続いて勤めるような命令がなされる。この採決によると、久世氏が就いていたのは、荘園領主が任免権を持つ荘官の地位に過ぎなく、その職は鎌倉幕府から与えられたものではない。この久世保(久世町)では幕府任命の地頭による領主制がまだ芽生えていなかった。その点で、同じ美作の梶並荘でのような、新しい地頭(これを「新補地頭」という)が補任されることを含め、従来の荘園領主による土地支配にとって代わろうとしたものでは無かった。御家人の立場から見ると、この力関係の下であればこそ、頼るべきは鎌倉幕府であったし、訴えを受けた幕府は彼を擁護するに至る。
 これに似るものとして、備後の地、神崎庄(現在は広島県か)においては、1318年(文保2年)、荘園土地を巡って、国衙(こくが)と地頭との間に、次のような約定があった。次の書状が残されている。
 「和与す
 備後国神崎庄下地(したじ)以下所務条々の事。右、当庄の領家高野山金剛三昧院内遍照院雑掌行盛と、地頭阿野侍従季継御代官助景との相論(そうろん)、当庄下地以下所務条々の事、訴陳(そちん)に番(つが)ふと雖も、当寺知行の間、別儀を以て和与(わよ)せしむ。田畠、山河以下の下地は中分(ちゅうぶん)せしめ、各一円の所務致すべし。」(「金剛三昧院文書」)
 ここに下地(したじ)とは、中世(鎌倉時代から南北朝時代にかけて)日本の荘園や公領において、土地から生み出された収益を上分と言うのに対して土地そのものを指し、また「下地中分」とは上代からの荘園領主に対し、この時代に台頭してきた地頭との間に、年貢・所領争論があった時の解決法の一つ。すなわち、そのままでは二重権力状態となりかねない下地を双方で二分し、互いの領有権を認めて相互に侵犯しないようにした試み。荘園領主から見ると地頭の荘園侵略に対抗する手段であったが、荘園制崩壊への序曲となりうる政治経済的要素を孕んでいた。
 ついては「下地は中分せしめ」とあるのは、現地の荘園の土地の相当部分を地頭に与え、国衙(こくが)と地頭とが支配権を認め合う、そうすることで土地管理の争いを収めようとした。この件では、「和与」、つまり裁判による「強制中分」ではなく、双方の話し合いによる和解(「和与中分」)が成った。よく言えば、双方による痛み分けの内容とも受け取れる。こうした苦肉の措置により、現地の荘園管理などの実質的な支配権は次第に地頭の手に移っていく。その先には、地頭に荘園管理の一切を任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる「地頭請所(じとううけしょ)」があった。
 1317年(文保元年)、後醍醐天皇が即位する。そのことは、大覚寺統(だいかくじとう)の後宇多上皇と持明院統の後二条天皇による「文保の御和談」で決まっていた。この協定によるかぎり、後醍醐天皇の後は大覚寺党の御二条天皇の皇子が、ついで持明院統の後伏見天皇の皇子が皇太子となり、以後、これらの皇子の系統が交互に即位することにならざるをえない。こうなると、後醍醐天皇の子孫は天皇位に就けなくなる。
 それでも、政治的野心の持ち主でもあった同天皇は、密かに幕府に取って代わろうという計画を練り始める。そして1331年(元弘元年)、後醍醐天皇による倒幕の密議が関東に漏れる。これを察知した鎌倉幕府は、後醍醐天皇に幽閉処分を下す。北条氏は後醍醐の代わりとして、直ちに持明院統(じみょういんとう)から後伏見上皇の第一皇子である量仁親王(かずひとしんのう)を擁立して光厳天皇とする。
 後醍醐天皇の隠岐の処分が決まり、一行が出雲街道沿いの杉坂峠を通ったおり、備前の武士である児島高徳らが彼を奪い返そうとした。ところが、彼らは天皇一行の道筋をたがえて失敗し、児島主従のみは宿泊先の院庄館(いんのしょうやかた)に彼をたずね、忠誠心を吐露した。その時の主従のきづなの確認にちなんで、あの切々とした「桜ほろ散る院庄・・・」の「忠義桜」歌などが伝わる。その道中の高台に一本桜(在、現在の真庭市別所)があり、「醍醐桜(だいござくら)」と呼ばれる。隠岐の島に配流の途中、後醍醐天皇が桜の立派な姿を讃えたため、この名が付けられたとも言われているが、それだと言うには少し無理があるのかもしれない。ともあれ、同じ現在の真庭市に地上高く立ち上がっている「岩井畝(いわいうね)の大桜」と並んで、推定樹齢が日本有数の桜であることに間違いあるまい。
 1333年(正慶2年=元弘3年)、幕府への不満が全国で渦巻く中で、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県太田市辺り)の地頭職、新田義貞(にったよしさだ)が後醍醐天皇の命を掲げて、本拠地の新田荘において挙兵すると、全国にこの流れに乗ろうとする武士が相次いだ。幕府の有力御家人である足利氏は、関東を本拠にしていたが、西国でも大きな力を誇示していた。まさに幕府の屋台骨を恒星していた豪族の一つであった。その足利氏が、天皇方について挙兵した。新田氏による挙兵からほぼ2週間を経て、新田義貞の軍はついに鎌倉に侵入して、北条氏を中心とする幕府を滅亡へと導いた。
 また、足利氏らにより、京都の出先政府であるところの六波羅探題(ろくしらたんだい)も滅亡する。なお、この足利勢には、茂則の子である赤松則村(あかまつのりむら)も加わっていた。
 この騒乱の間に、幽閉されていた後醍醐(ごだいご)天皇は、伯耆(ほうき)の武士、名和長年らの助けで隠岐を抜け出し、これに美作の菅谷党、赤松則村(円心)などの美作勢も、その旗下に馳せ参じたことになっている。『太平記』(巻第七)は、そのことを生き生きと伝えている。
 「・・・・・美作国ニハ菅家ノ一族、江見、方賀、渋谷、南三郷、備後国ニ江田、広沢、宮、三吉、備中ニ新見、成合、那須、三村、小坂、河村、庄、真壁、備前ニ今木、大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経、藤井、射越五郎左右衛門範貞、小嶋、中吉、美濃権介、和気弥次郎季経、石生彦三郎・・・・・」
 そのまま全国から幕府打倒の炎が燃え上がって、ついにおよそ150年続いた我が国最初の、鎌倉を本拠地とした武家政治は終焉を迎える。

(続く)

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