◻️121の2『岡山の今昔』製塩業

2020-01-05 10:12:16 | Weblog

121の2『岡山の今昔』製塩業

 さて、明治時代には、「十州塩田」(じゅっしゅうえんでん)ということで、全国ベースでの塩の主要産地としていた。その構成は、瀬戸内沿岸の播磨(はりま)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、安芸(あき)、周防(すおう)、長門(ながと)、阿波(あわ)、讃岐(さぬき)、伊予(いよ)の10ヵ国にあった塩田の総称だ。
 その中での主要な塩田としては、播磨赤穂(はりまあこう)、備前野崎浜(びぜんのざきはま)、備後松永(びんごまつなが)・富浜(とみはま)、安芸竹原(あきたけはら)、周防三田尻(すおうみたじり)・平生(ひらお)、阿波撫養(あわむや)、讃岐坂出(さぬきさかいで)、伊予多喜浜(いよたきはま)などであった。
 これらのうち東児島に横たわる備前東野崎浜(現在の倉敷市児島)の塩田は、山田塩田と胸上塩田の両方を合わせてのことであり、前者は1841年(天保12年)の創業にて73町9反の広さ、後者は1863年(文久3年)の創設にて19町8反の広さであったという。そして、この塩田を作った人物こそ、あの「瀬戸内の塩田王」の異名をもつ野崎武左衛門なのである。
 岡山には、そのほかにも近世からのまとまった塩田があり、それらの中でも勇崎塩田(現在の倉敷市玉島勇崎)、錦海塩田(現在の瀬戸内市)が有名だ。そこでまず勇崎塩田だが、開発の最初は、1646年(正保3年)と聞く。そこでの最盛期は1671年(寛文11年)のあたりにて、全村の約9割までが塩田で占められていたらしい。それからは、自然災害もあったりで、約70軒あった釜屋敷も減っていきつつも、息長らえてきた。(中略)
 ところが、1941年(昭和16年)頃から始まった枝条架(しじょうか)の採用、さらに1954年(昭和29年)頃からの流下式塩田への改造により、当初からの入浜式塩田は姿を消していく。これらの説明としては、例えば、こうある。
 「枝条架というのは竹の小枝の束を数段重ねた上から、ポンプで掲示げた海水を散布し、小枝を伝わって落ちる間に水分を蒸発させて、塩分を濃縮する方法でした。流下式というのは、塩田に傾斜をつけて海粘土で塗り固め、炭がらを敷き海水を流して、水の蒸発をうながす方式で、枝条架と併用されました。」(森脇正之「玉島風土記」岡山文庫、日本文教出版、1988)
 しかし、やがて工場で塩を直接製造するやり方が採用される。これによると、海水中の塩の分子は、「塩素イオン」と「ナトリウムイオン」との結びつきでできている。一方、塩素イオンはマイナス、ナトリウムイオンはプラスの性質があるので、海水に電気を流すと、ナトリウムイオンはマイナス極へ、塩素イオンはプラス極へ移動する。この性質を利用し、「イオン交換膜」でもって製塩を行うのが「イオン交換膜製塩法」だ。
 もう少し具体的にいうと、まずは容器の中に海水を入れ、プラスイオンしか通さない膜とマイナスイオンしか通さない膜を交互に置く。 ここに電気を流すと、塩素イオンとナトリウムイオンは、それぞれが逆の方向に移動し、膜に阻まれ止められるという。すると、膜と膜との間に濃い塩水ができる層と、薄い塩水の層とに分かれるので、濃い塩水の方を取り出し、従来の平釜より効率のよい真空蒸発釜で煮詰めて作られるのが、食塩なのだという。

 かくて、1950年代の終わりに差し掛かる頃には、旧来の製塩法と、これを行ってきた産地はほぼ姿を消して、近世の途中以来ほぼ300年続いてきた塩田は終止符を打たれる。


(続く)

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