(12)『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人のルーツ

2017-01-29 21:00:39 | Weblog
(12)『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人のルーツ

 縄文時代の後に続く「弥生時代」も、日本の歴史学における独特の時代区分である。その文化は、時代が明治になってから東京都文京区本郷町で最初に発見された土器にちなんで命名された。その時期としては、幅広で考えると紀元前10世紀頃に始まったとされている。それから三世紀頃に備前(現在の岡山市がその中心地域)や近畿地方で定型的な前方後円墳が造営されるまでの、少なく見積もっても約1200年間続いた。
 この列島の中だけで、縄文から弥生への生活様式の変化が熟成してきたのでは決してない。今日では、それより前に列島にやってきて住み着いていた縄文人に続き、主にユーラシア大陸から海を渡ってくるなど、新たな生活技術を携え、多様なルートを辿って日本列島にやって来た人びとがいた。大まかにいうならば、ロシア経由、朝鮮からは2ルート、中国から直接に、そして南方から黒潮に乗っての、あわせて4つ位のルートがあったのではないか。朝鮮半島南端からは、対馬で一休みできた筈だ。だから、家族でやってくる場合は好都合であったろう。中でも、中国大陸からやってきた人々は、古くは丸ごとにして農耕民族であった。また南の海洋諸島からの人々は、巧みな航海術を操る人々であったろう。
 このように考えると、弥生人というのは単一民族なのではない。強いて言うと、それは、東アジアのあちらこちらから、3つ以上の民族が北方から南方から、そして東方からなど集まってきた。これをして、いわば寄合い民族なのであったと言えるのではないか。かのギリシア文明も、紀元前二〇〇〇年頃のイオニア人、紀元前1400年頃のアカイア人、そして紀元前1200年頃にドーリア人がほぼ三方からやって来て、この地域のそこかしこに住み着いていったこととの比較で観ても、感慨深いものがある。
 次に注目すべきは、大挙してこちらにやって来てから短期間の間に在来住民を押しのけて覇権を打ち立て、いわば征服者のように振る舞ったという形跡は残されていない。向こうからは、日本列島に向かうのに好都合な風が吹く時を見計らって、小グループで小さな船を仕立てて、長い時間にわたり少人数ずつ、海を渡ってこちらへやって来ていたのではない。それだから、少ないチャンスをものにしないと行けない。したがって、わざわざ冬場を選んで海を渡ってくるのは稀であったのではないか。
 彼らはやがて、この細長い列島に先に定住していた縄文人とともに、倭人を構成するに至る。そして、縄文人の占めていた場所においてしだいに多数派になっていったのではないか。ちなみに、今も北海道の一部でひっそりと暮らしているアイヌの人々は、白人でなく、縄文人の末裔であると考えられている。アイヌの人々は、弥生人が次から次へと列島に渡来する前から、この列島の東北、北海道を中心に狩猟中心の小部族社会をつくっていたのである。そこでもし弥生時代にこの列島に次々と渡来してきた人をも含めて広く「倭人」というのなら、以後、日本人の原型は縄文人と弥生人との共生、その生活域が交錯するところでは混血を含めてつくられていった。今の日本では彼らこそが、「ネイティブ・ジャパニーズ」であって、しかもそのあらかたが新渡来人である弥生人と混血を繰り返しつつ、新しい世代の「倭人」を形成してきたのである。
 そんな多用なルートの中でも、大方の人々は九州北岸にたどり着いたことだろう。顧みれば、いつの頃からか、弥生期に至るまで、大陸からこの列島に次々にやってきた人々の動機とは何であったのだろうか。何か高邁(こうまい)な動機などがあって、意気込んでやってきたとは考えにくい。多分、それまでの生活の苦しさから抜け出したい一心で、家族や一族とともに海を渡って来たのではないだろうか。それならば新天地を求めてみようということで、めざすは晴れた日には海向こうに肉眼で見える日本列島への移転を人々とその部族とこれに所属する家族にに決意をさせたのだと推察される。中でも、3世紀から4世紀にかけての渡来については、特別、その頃の朝鮮南部では飢饉が多かったことがわかっている。

(続く)

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