○○115『自然と人間の歴史・日本篇』寺社と荘園と僧兵(10~12世紀)

2017-01-15 10:41:49 | Weblog

115『自然と人間の歴史・日本篇』寺社と荘園と僧兵(10~12世紀)

 寺社と荘園の関わりについては、寄進を受けるのが常套とされていた。寄進地系荘園としての山城国上桂荘(かみかつらのしょう)の事例には、こうある。
 「寄進し奉る、所領の事。合わせて一所は山城国上桂に在り。
  四至(東西南北の境界)。東は桂河東堤の樹の東を限る。南は他領の堺(入り交わる)を限る。西は五本松の下路を限る。北は○河の北、梅津堺の大榎を限る。 
 右当所は、桂津守(かつらつもり)。桂川の船着場の管理者}建立の地なり。津守津公(つぎみ)・兼枝・則光(のりみつ)と次第知行相違なし。○(ここに)御威勢を募り奉らんが為、当荘をもって永代を限り、院の女房(にょうぼう)大納言殿御局に寄進し奉るところなり。中司職にいたりては、則光の子々孫々相伝すべきなり。後日のため寄進の状、件の如し。
  長徳三年(997年)年九月十日。玉手(たまて)則光判、玉手則安判」(出典:東寺百合文書)
 これに「桂津守」とは、代々この地を知行してきた人物をいい、また「院の女房」とは東三条藤原詮子に仕える者をいう。開発によって領主となったものの、庇護を求めてこの大納言殿御局(だいなごんおつぼね)に当地を寄進の上、自らは預所職(あづかりどころしき)なり下司職(げししき)といった現地の荘官(しょうかん)に任ぜられることによりそれまで通りの実質支配を行った。
 もう一つの寄進地系荘園として、肥後国鹿子木荘(ひごのくにかのこぎのしょう)を取り上げよう。
 「鹿子木の事。
 一、当寺の相承は、開発領主沙弥(しゃみ)寿妙(じゅみょう)嫡々相伝の次第なり。
 一、寿妙の末流高方(中原高方。寿妙の孫)の時、権威を借らんがために、実政卿をもって領家と号し、年貢四百石をもって割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職(あずかりどころしき)となる。
 一、実政の末流願西(がんさい。実政の曾孫)微力の間、国衙の乱妨(らんぼう)を防がず(防ぎきれなくなった)。このゆえに願西、領家の得分二百石をもって、高陽院内親王(かやのいんないしんのう、鳥羽天皇の娘)に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為め・・・・・勝功徳院(しょうくどくいん)を立てられ、かの二百石を寄せらる。その後、美福門院(びふくもんいん)の御計(おんはからい)として御室(おむろ、仁和寺)に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。」(出典:東寺百合文書)
 この文中「開発領主沙弥」とあるのは、在俗の僧のこと。未開墾地、つまり荒地を開発して領主になった者。「実政卿」とは、前参議大宰大弐(だざいざいに)藤原実政をす指す。この人物が当地の寄進を受けた「領家」となったのは、1086年のことであった。ところが、彼の後代が国衙(国司、朝廷の役人)からの圧力に抗し得なかったことから、
「領家の得分二百石をもって、高陽院内親王」に寄進する。この人物が死んだ後は、今度はこの200石は勝功徳院へと寄進先を変える。さらにその後には、より大きな寄る辺としての美福門院(内親王の母、得子)のはからいを頼って、御室(仁和寺、にんなじ)へまた寄進先を変える。「これ則ち本家の始めなり」ということで、東寺のものとなったという経緯が語られる。

(続く)

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