新新293○○250『自然と人間の歴史・日本篇』武州「世直し」一揆と信達一揆(1866)

2021-08-17 20:53:35 | Weblog

新新293○○250『自然と人間の歴史・日本篇』武州「世直し」一揆と信達一揆(1866)

 1866年(慶応2年)旧暦の5月から6月にかけて、江戸や大坂を含む日本各地に大規模な農民一揆や「打ちこわし」が発生した。それは、江戸幕府の中枢部と直接に相対峙してのものではなく、その周辺部、質屋、酒屋、米屋一般に加え、特に地域の武家、有力町人、富農などを襲うものであった。その典型として、江戸、大坂等都市部での打ちこわしと、それら都市部の周辺地方における打ちこわしがあった。
 後者については、都市部からやや遅れての半月後の同年旧暦6月13日、武州の山懐に抱かれた正覚寺(現在の埼玉県飯能市)の檀信徒(だんしんと)の紋次郎と豊五郎を中心に、「世直し」の旗を掲げて決起したのが、規模としては筆頭であろう。これは、米価高騰で生活に困窮した農民達が地域の穀屋を打ちこわしたのを端緒とし、武蔵国西部・北部及び上野国(こうずけのくに)南部の広範な地域にわたる、幕末期の「世直し一揆」として今も名高い「武州(世直し)一揆」(ぶしゅう(よなおし)いっき)へと発展した。
 この一揆の発端は、1866年(慶応2年)旧暦6月13日、上名栗村(かみなぐりむら)で起こった。おりしも、横浜など開港後の物価上昇で庶民の生活が苦しさを増す中であった。飯能の商人が穀物を買い占めて、名栗村や吾野村など、山間の村々に高値で売りつけていることに、怒りを覚えた農民たちは、互いに語らってか、この地にある正覚寺裏山に集結した。米価の引き下げなどを要求して、立ち上がることに衆議一決する。一揆の面々は、まず近在の中心であった飯能(はんのう)の市場町を目指して出発した。途中、町場の家々の戸を押し叩き、参加を強制して人数は膨らんでいき飯能(はんのう)の河原に到達した時は、同様の不満や怒りを持った農民らの数は5~600人となっていた。その河原から街へ繰り込んだ徒党は、質屋や穀家、酒造業者や大家に押しかけて強訴した。横浜商いの生糸職人なども狙われた。主に米穀値段、借用証等の要求を掲げ、受け入れない家を落ち壊していった。
 一揆は、それからの7日間で、同時多発的に広がっていった。飯能を手始めとして、この間に武州(武蔵国)の15郡、上州(上野国(こうづけのくに))の2郡の広範囲におよんでいった。この一揆に巻き込まれた藩でいうと、北から南へ向かって岡田藩領、忍藩領、川越藩領といったところか。まさに、藩を跨いでの大乱であったといっても過言ではない。現在の行政区で広がりを見ていくと、飯能から狭山(さやま)、入間(いるま)、所沢、清瀬、新座(にいざ)など東方へ。青梅(おうめ)、瑞穂(みずほ)、福生、五日市(いつかいち)、窓の南へ。日高、毛呂山(もろやま)、板戸、東松山、熊谷等北へ。そして秩父(ちちぶ)、寄居(よりい)、小川、岡部(おかべ)、本庄(ほんじょう)、高崎、小鹿野(おがの)等々、まさに燎原の火の如くに広がっていったところに、最大の特徴がある。
 勃発してからの7日間で一揆に参加した総人数は十数万人、その先々で打ち壊された家は五百数十軒に及んだと伝わる。一揆衆の出で立ちだが、刀などの精鋭な名武器は持たなかったものの、ナタ、オノ、ノコギリなどの農具をたづさえていたが、ほかに竹やりなどのにわか武器を持っている者もいたとのこと。また、手当たり次第、縦横無尽(じゅうおうむじん)の掠奪ということではなく、金銭の掠奪と放火は固く禁止の上、打ちこわしも無差別で行うことはなく、要求が拒否された時に行ったという。日本の百姓一揆史上稀に見る、さしもの大一揆ではあったが、南や東からは八王子千人同心らの幕府軍が主力、そして彼らに駆り出された農兵等によりそれ以上の拡大を阻止され、北や西は川越藩、高崎藩等の藩兵らが鎮圧活動に当たった。旧暦19日になって終結となった後も、暫くは関東取締役による探索、捕縛が続けられ多くの罪人を出した。
 この一揆の背景に戻って、開国による急激な経済の変化で貨幣経済に呑まれていったこともあるだろうが、幕府が第二次長州征伐を景気とする商人たちによる穀物の買占めもあって、米価等の穀物価格が上昇した。また当年の関東地方は天候不順で不作の見通しでになりつつあったことも、一揆に拍車をかけた格好だったろう。米作のほかにも、秩父、青梅、飯能等の山間地帯は、古くから養蚕の盛んな場所であり、それを農家経営の助けにしていた村が多くあったことも、この一揆の遠因としてあったろう。すなわち生糸の生産は、開港以来貿易は活発となり、当地方の産物である生糸も輸出品として出荷されていたが、値段の上下が激しく、ひとたび下落すると養蚕農家は不況のどん底に陥ることになっていく。この頃の武蔵国小川町下里の島田家の日記にも、「安政5年から横浜に異人が住み交易を始めた頃からさまざまな物の値段が上がり、米穀の相場も高くなった。作物が取れないけでもないのに米が高いのは、飢饉よりひどい」(2016年12月にて小川町立図書館による現代語訳)、その一方で「横浜の交易は繁盛し絹糸の売買は高値である」とあり、この頃生糸産業の興隆により利益が横浜に集中しつつあったことを示唆して余りある。
 ともあれ、江戸近郊で大規模なで起きた幕府の動揺は大変なもので、その鎮圧方針の下、高崎藩兵、日野・駒木野の農兵隊及び八王子千人同心隊らと衝突したとはいうものの、幕府の心胆を寒からしめた、名にしおう一事件であったことは、疑いあるまい。この期の一揆は、天保期の農民闘争とは質的に変化していた。これには、米価の引下げや穀物拠出などの百姓達の要求に加え、米の買占めなどに苦しむ広範な庶民が生活防衛のため、一揆勢に加わり、打ちこわしに参加するようになっている。そればかりではない。一揆勢は、国内戦争への兵役負荷やそれに伴う賦役に反対したり、商品の生産や流通、そして金融を通じての様々な農民収奪が問題にされ、領主権力による政策自体に反旗が翻っていることが特徴である。

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1866年(慶応2年)には、幕府天領の陸奥国中、信夫・伊達両郡全域幕府天領の陸奥国伊達信夫両郡らが、当面の生活苦からの要求に加え、政治的な要求を掲げ、立ち上がる。
 具体的には、年貢減免の要求に加え、物価高騰、助郷(すけごう)加重負担、蚕種・生糸の不良品取締りを名目にした荷改め料徴収などに反対する。
 旧暦6月中旬の約1週間にわたり、49か村を回り歩く。そのうちに、164戸を打毀(うちこ)したというから、驚きだ。
 村役人の邸宅や桑折代官所を襲撃し、隣の福島藩の中枢である福島城城下町に突入し、圧政に加担する在方商人らに打毀しを、かける。
 これの指導者としては、金原田(かなはらだ)村(現在の伊達市の農民思想家菅野八郎(かんのはちろう)とあり、農民たちから「世直し大明神」と呼ばれる人物であった。
 長州出兵の最中に起こった世直し騒動で、関東の武州一揆とともに幕府に大きな打撃を与えかねない中、福島藩は武力で威嚇して解散させたものの、幕府共々一揆の過激化を恐れてであろう、一揆側の要求の多くを受け入れる。


(続く)


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