尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日独伊の相違点

2011年07月06日 23時43分00秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 書きたいことがなくなって困る日が早く来て欲しいのだけど、なかなかそういう日が来ません。これからまた原発話に戻りたいんだけど、その前に書いておきたいこと。
 「フクシマ」の事故を受けて、ドイツは原発から撤退し、イタリアは国民投票で脱原発を決めたけど、70年前は同盟国だったドイツやイタリアと、わが日本は何が違うのだろうか???

 そういうことを語る人もいるので、僕の答えを簡単に書いておきます。
ドイツとイタリアは、敗戦後に「国歌の歌詞」を変えた。もっと細かく書くと、ドイツは(西ドイツということだけど)ハイドン作曲のメロディは変えなかったけど「世界に冠たるドイツ」という1番を歌うことをやめて、3番の「統一と正義と自由を」をいう歌詞だけを歌うことにした。ナチス時代は1番しか歌わなかった。イタリアは王政を戦後の国民投票で廃止したので、それまでの王政をたたえる歌に替えて、ヴェルディ編曲の新しい曲になった。もっともそれも歌詞内容が国家主義的で反対論はあるということだけど。日本はどうですか?明治憲法の時代に決まった国歌の歌詞をそのまま使っていていいのかという本質論をせずに、「命令だから(式典で起立斉唱することに)従うのは当たり前だ」とか言ってるレヴェル。ちなみに、ハイドンやヴェルディクラスのメロディにして欲しいよねえ。歌詞内容以前に。

ドイツとイタリアは戦後になって死刑を廃止した。イタリアは諸資料によく1994年廃止とあるけど、これは軍法会議に残っていた規定の廃止で、一般の裁判の死刑は戦後すぐに廃止した。ドイツは西は1949年に廃止したが、東ドイツも統一以前に廃止している。

 これは原発と関係ないようで、深い深い関係があると思います。それは国家は間違う、国家権力は強大になり過ぎてはいけない、国家政策は引き返すことが可能であるという考え方で国家運営が行われているということを示すからです。

 日本では、国家が一端決めたことはなかなか途中で変えることができない。大臣はどんどん変わるけど、官僚はずっと継続していて、同じ政策を推進し続けます。
 死刑の問題は「国家権力をどう位置付けるか」という問題で、僕の理解によればダムや空港や原発などの大型公共施設から途中で撤退するということは、死刑制度がある限り難しい。

 ちなみに、アメリカ合衆国は州ごとに死刑廃止、存置が分れている(廃止が15州と首都、プエルト・リコやグアムなどの海外領土、他にも検討中や執行をしてないところもある)ので、G8参加国で死刑を完全に存置しているのは、日本だけ。

 ということで、反原発運動家にして死刑廃止運動家だった、故・水戸巌さんのことを最近よく思い出します。水戸さんのことを次に書こう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« クーデルカ展と「セヴァンの... | トップ | 水戸巌さんを思い出す »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

 〃 (冤罪・死刑)」カテゴリの最新記事