尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山田昭次「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後」を読む

2011年09月30日 18時48分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 何とか9月中にと思って一生懸命読んでいた山田昭次先生の最新の本。「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後-虐殺の国家責任と民衆責任」(創史社、2200円)。
(表紙と表紙裏=当時の新聞記事)
 山田昭次先生は僕の最も尊敬する歴史家の一人で、1995年に立教大学を退職され早すでに16年。80歳を超えても新たな研究に取り組み、日本国家と民衆へ向けて鋭い研究成果を発表している。昨年、朝鮮学校への授業料無償化問題で朝日新聞に投書が載っていたが、肩書が「無職」としてあった。一市民としての投書として感銘を受けた。

 さて、1923年に起きた関東大震災に際して、大規模な朝鮮人、中国人、「社会主義者」などの虐殺事件が起きた。その実態解明、責任追及の研究は、特に50周年、60周年、70周年、80周年という節目の年に行われた追悼と実態解明の集会記録として本にまとめられている。山田先生は80周年に際して、今までの研究を「関東大震災時の朝鮮人虐殺-その国家責任と民衆責任」として創史社より刊行した。(また集会でも講演を行い僕も聞いた。)今回の本はその旧著を絶版にして新たに書き加えた著作で、題名をよく見ると「その後」が表題に加えられた。

 この著作では、虐殺そのものの責任に加え、その後になって虐殺を隠ぺいし真相解明、追悼の動きを弾圧した日本国家、そして戦後になっても自らの虐殺への責任を直視できない日本民衆の姿を追求している。この本は歴史学論文集なので、誰もが必ず読んでおくべき本とは言わない。だが、歴史研究を志す人は是非目を通して欲しい。政治史、社会史、社会運動史、思想史、地方史などが総合化された成果になっている。研究が細分化され全体像を描くことが難しい状況の中で、問題意識を持った研究とはどういうものかと問いかけている著作だ。

 この本が解明したことをいくつか。震災に先立つ労働運動、社会主義運動を追い、23年のメーデーでは「植民地の解放」がスローガンとされたこと、それに対する権力の弾圧の実態などを通し、「朝鮮人と日本人社会主義者が暴動を起こしたという流言は官憲から発したと推定できる根拠はかなり確実になったと言えよう」。虐殺は軍隊、警察、民衆の「自警団」によって起こされた。そのきっかけとなる「暴動」の流言はどこで発生したか。それは「官憲から発したと推定できる」というのである。単に「民衆の中の朝鮮人差別」に帰する問題なのではなく、「日本国家の権力意思」による朝鮮人と社会主義運動に対する国家的弾圧だったということだ。

 また震災後、司法省による暴動のねつ造発表、朝鮮人による追悼の動きの弾圧などで真実を隠し続けてきた国家の責任が追及されている。そして戦後になっても、民衆自身の責任を問うことがなかなかできず、その結果として日本人による日本国家の責任追及が遅れた実情も指摘されている。

 一方、朝鮮人の生命を守った日本人は「社会主義者であれ、非社会主義者であれ、日常朝鮮人と交流し、朝鮮人に親近感をもっていた日本人だという、平凡に見えるが、極めて大切なことに気づいた」とある。その一例ととして、劇作家・小説家の秋田雨雀(うじゃく)をが取り上げている。秋田は今ほとんど取り上げられないが、震災以後の言論活動で虐殺の責任を追及していた。その背景には朝鮮人との交流があったのである。この点は非常に大切なことだと考る。人間を支えるのはイデオロギー以上に、人間関係の輪である。実際の生身の人間の声を聴きとれるかどうかがポイントになる。

 多くの朝鮮人が虐殺されたと言われる東京の荒川土手近くに、2009年に「ほうせんかの会」を中心に追悼の碑が作られた。荒川と呼んでいる川は、大正時代に多くの朝鮮人も加わって掘削された「放水路」である。下町一帯が火事になる中、千葉方面に逃げる人々は四ツ木橋に向かい、そこで朝鮮人虐殺事件が起きた。この碑文には民衆と国家の責任(誰が虐殺したか)が明記されている。(京成電鉄押上線八広駅下車、荒川土手方面歩いてすぐ。)
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