リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

詩写真

2017-02-18 17:05:21 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、昨日はほんとに春の陽気でした、花粉が飛ばないだけ春よりずいぶんいいし。残念なのは若葉が出てないことですが。対して今日は寒々しい。今お客さんが帰ったしね。
 
 さて、新聞世間は相変わらずトランプ。金の息子の暗殺というのもあるけれど、こちらはなんといってもキチガイの仕業でコメントのしようもない。
 トランプも世間におまかせなんだけれど、今日テレビで見てたら、いかにも言うことがファシズムで。これはあまり世間の人は感じないかな、と。
 ざっとネットを見ましたが、某K派が、40年来、気に入らない者向けに使っている悪口でファシスト呼ばわりしているだけのもよう。
 そうじゃなくて、当人たちはファシストではないけれど、状況に応えた政策提示がファシズムに近い、ということで。アメリカ白人を守るため、海外資本とイスラムをシャットアウトの大規制を! それしかない! ちゅうわけ。
 これを「民族主義」と呼ぶ人が多いですが、民族主義なんちゅうものは社会科学の概念ではない。ま、「準」ファシズムです。
 ファシズム、すなわち、資本主義過剰生産の行き詰まりによる労働者反乱を抑圧し、過剰生産を国家主導で打開すべく支配権力者がしかけた経済(-社会)規制体制のことです。
 (ところでアホのMS・IMEが変換する「期性」(きせい)たあ、いったいなんのことだね)
 ファシズムは世界戦争による経済体制の変革(不要な資本のリセットと人民の平等の進展による大衆資本主義の拡大)で解消されたけれど、今度は泥沼しかなさそうだ。今のところ相手がイスラムなのが、まだ「ファシスト」にまでなる必要のない状況、というわけ。
 こういうのも、展開しないとわからないので、ま、感想ね。
 
 さて、本日は、今年も決まりました中原中也賞。
 なんですが、今回はどの候補者も感情の薄さが目立ってお薦めできず。薄いなあ、、、可哀想というべきかもしれないほど。人生は1回ですぜ。何が面白くて生きているのか。詩人なんてどうせ、なんでも楽しめる庶民じゃないんだから。
 それにしても毎年非中也的な詩ばかりが受賞、さすがに客観的にも選者が何も考えていないと断定できそうに思われます。北川透とか佐々木幹郎とかいるのに何を考えているのだろうか。おそらくは年寄りの諦観なのだろうと思うのですが。「いまどき要求するほうがムリ」みたいな。
 
 で、わたし的にはこちらのほうがおなじみなった谷内修三さん。いつも詩人を検索するとこの人がブログで評を書いていて、その評が奇をてらわずまことにしっかりした評。
 いいね、こんな存在。今回も候補者の批評はほとんど網羅。
 ご本人、詩人ということですが、なにも無理して詩を書くことはない。なにしろとてもお人柄のよさそうな顔をしている。(検索でご当人の詩はすぐ見つからない、が無理して探さない)

 さて、遅ればせながら、久しぶりマイフェイボリットシング。
 そのブログに2年前から嵯峨信之のコーナーがあるようで、もしかすると、と検索すると、これが、あったね、朝焼けの大淀川。43番目にある。あるけど、わたしが覚えているフレーズだけで終わってしまってる。ざんねん。短詩だから。あと数行なんですが。谷内という人は客観的なので正しく、たいしたことない、と認識したようで。
 ま、詩集を借りたりすればいいんだけどね、そういう問題じゃないんだよね。
 詩集の字を読んだからって何かが甦るわけではない。そこまで自立的に立派な詩ではない。
 しかし、他者が語ればそこに新しい世界が広がる、場合がある。「嵯峨さんここにいたんだ、ところでここはどこ?」 みたいなもんさ。なにしろ他開的なわたし。
 けなしといて何をお前はいってるんだ? というと、あれは写真とコラボなんだよね。日本交通公社の雑誌「旅」、1973年近辺所収。10年位前、俳句写真とかあったじゃん。あんなもん。写真家不明。
 芸術的には少しインチキだけれど、受け手には芸術とか関係ないもんね。
 
 といえば、中原中也詩集に大竹新助の写真コラボがあるんですよ、これがまたなかなかよろしい。今ざっと検索しても出ないのはなぜかな。
 
 
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