NHKスペシャル 2017年8月15日 「全記録 インパール作戦」
”太平洋戦争で最も悲惨で愚劣な戦い”
初回放送 2017年8月15日(火) 午後7時30分~8時43分
再放送…2017年8月26日(土)午前0時50分~2時03分(25日深夜)
相手の戦力や兵站を軽視した無謀な戦いで甚大な死傷者を出し、旧日本軍の体質を象徴的に示したとされる「インパール作戦」。
「援蒋ルート」の遮断を主目的とし、ミャンマー(当時ビルマ)からイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパールの攻略を目指した日本軍は、この作戦で歴史的敗北を喫した。
餓死・戦病死した日本兵の死屍累々が並んだ道が「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨な戦いの実態はどのようなものだったのか。これまでインドとミャンマーの国境地帯は戦後長く未踏の地だったが、今回、両政府との長年の交渉の末に現地取材が可能となった。
さらに、新たに見つかった一次資料や作戦を指揮した将官の肉声テープなどから「陸軍史上最悪」とされる作戦の全貌が浮かび上がってきた。数々のスクープ映像と新資料、証言からなる「インパール作戦」の全記録は、決して忘却してはならない悲劇の記憶を、未来へと継承していく。
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吉原 庸郎さんFBより
将校や士官は死んでない…
将校や士官は死んでない…、印象的な言葉だ。
大日本帝国陸軍 牟田口 廉也中将(1888年 - 1966年)・・
インパール作戦において部隊を指揮。
「日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。」
「日本は神州である。神々が守って下さる…」
「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」
・戦闘、飢えやマラリア、赤痢などの戦傷病餓死者数は7万5千人
・生存者数はわずか1万2千人
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太平洋戦争/大東亜戦争での日本の死者数・・
・兵士230万人(内:餓死者・病死者140万人)
・民間人80万人(外地30万人、内地50万人)
【関連記事】
「日本軍が去った後、村は火の海と化した」目撃者が語るインパール作戦の真実 - クーリエ・ジャポン
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1994年6月13日にも放送されています。
NHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争④」ビルマ・インパール作戦_責任なき戦場
時の記憶 NHKスペシャル選
ビルマ・インパール作戦_責任なき戦場
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http://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/vol6.htmlより
68年前の昭和19年3月、日本軍は3個師団を繰り出して、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。前年から始まった連合軍の反攻を食い止め、中国・国民党政府への援助を遮断するためだった。
いったんは、連合軍にとっての拠点の一つ「コヒマ」まで進み、これを制圧、連合軍の補給ルートを遮断したかに見えたが、日本軍は前線への補給が続かず、作戦は発動から3か月あまりで失敗に終わった。そして、撤退路の多くで、将兵が飢えと病に倒れた。インパール作戦は、当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められ、戦闘中に師団司令官が独自に撤退を決めたり、更迭されたりするなど特異な事態が出現、戦後も長きにわたって批判された。
インパール作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ。
この作戦に参加した日本軍将兵や日本軍と戦った英軍将兵の証言、関連の番組でインパール作戦を始め、ビルマ戦線で何が起きたのかを振り返る。
ビルマの山中を行く日本軍部隊ビルマ戦線でたおれた日本軍兵士
1. ビルマ攻略戦~拉孟・騰越での玉砕戦 第56師団の戦い
福岡・佐賀・長崎出身者で編成された56師団の兵士たちは、昭和17年にビルマの攻略戦に投入され、中国軍を国境の外へ押し出した後、国境の守備に就いた。
しかし、米軍の支援を受けた中国軍が昭和19年の半ばから反撃に乗り出してきた。国境を越えてくる優勢な中国軍に対し、インパール作戦のために援軍をえられないまま、拉孟・騰越で守備軍は玉砕した。
陸軍第56師団の将兵
中国雲南 玉砕・来なかった援軍 ~福岡県・陸軍第56師団~ |
2. 密林に倒れた「最強」部隊を救出せよ ~第18師団・敦賀第119連隊~
福岡県久留米市で編成され、菊兵団と名付けられた陸軍18師団は、中国戦線、シンガポール攻略戦、ビルマ攻略戦を戦ったあと、ビルマ北部のフーコン谷地と呼ばれる密林で、昭和18年秋から重装備の連合軍と激戦を戦った。
しかし、補給のないなか装備の違いもあり、玉砕する部隊が相次ぎ、昭和19年6月までに3000人の戦死者を出した上に、撤退路で多くのが餓死者を出した。一方、福井県の敦賀119連隊は、菊兵団の盾となって、菊兵団の生き残った将兵の「収容」のため、最前線へ派遣され、やはり重装備の連合軍の攻撃と食糧医薬品不足のため、3000人の連隊兵士の半数が命を落とした。
福井県敦賀・陸軍歩兵第119連隊
3. インパール作戦開始~コヒマまでたどり着いた高田第58連隊~
インパール作戦に参加したのは、15師団、31師団、33師団の3個師団であった。そのうち、31師団に所属する58連隊は、3月に出発して3000m級の山を弾薬や食料を積んだ牛を引いて越え、連合軍のインパールへの物資輸送の拠点コヒマに向かった。
いったんは、コヒマを攻略しインパールを孤立させたかに見えたが、補給と援軍を受けた英印軍の反撃が激しさを増し、5月末、31師団の佐藤師団長は、まったく補給のないことを理由に、独断で撤退を開始。激怒した牟田口軍司令官によって師団長を更迭される。さらに、雨季を迎えた密林の中で食糧のないまま撤退を始めた将兵たちは、病と飢えで次々に脱落、将兵の死体があふれたその撤退路は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。
インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~ |
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4. 伸びきった補給線~インパールを目指した第15師団~
京都府出身者を中心に編成された第15師団は、昭和19年3月15日にチンドウィン川を越えて、直接インパールを目指し進軍を始めた。日本軍を引き込んでたたくという英印軍の方針もあり、部隊はインパールを見下ろす高地まで短時日でたどり着く。
しかし、人力で運べる分しか武器、弾薬、食料を持たない15師団は、ここで、豊富な砲弾と機甲部隊を持つ英印軍の激しい反撃にあい、草を食みながら白兵戦を挑むしかなくなる。補給を訴える15師団の山内師団長も牟田口軍司令官によって解任された後、15師団は撤退を始めた。この撤退路でも餓死、病死者が続出した。
インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち ~京都 陸軍第15師団~ | |