那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごしました。戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行きました。

 でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした。家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう。口に出してはいけない話題なんだ、と感じていました。

 初めて体験を聞く機会がおとずれたのは、ニュース番組のリポーターをしていた2007年。ディレクターの何げない提案をうけて祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれたのです。

 1945年3月26日に祖父のふるさと、慶良間(けらま)諸島・慶留間(げるま)島に米軍が上陸。祖父は姉と2人、「自決」を決め、姉の首をしめた。祖父は当時15歳。自分の首は、ヤシの葉をヒモ代わりにしてしめ、木にくくりつけて首をつろうともした。でも2人とも死にきれなかった。米軍に捕まる前に死を選ばなければいけない――そう信じ込んでいた、と。

 沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述が問題になっているときでした。事実が書きかえられようとしている、という危機感から祖父は話すことを決めたそうです。そして「生き残っていることが申し訳ない」と涙を流しました。

 命のつながりを初めて実感する思いでした。祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる。沖縄では「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」とよくいうけれど、本当にそうなんだなと。

 耳が遠くなっていく祖父をみると、聞き逃したことがないか、話しておきたいことはないか、と焦ります。先祖が眠るお墓に親族であつまるシーミー(清明祭)にでた今年4月も、祖父の顔をじっと見つめました。いまなら聞けるかなあ。やっぱり聞けないなあ。実際、おばが戦争の話をきりだすと、祖父は黙り込んでしまった。

 それでも、わたしは祖父の話は必ずもう一度、聞こうと思っています。

 生き残ったことへの後悔について。これからの日本に対して、私たちの世代に対して。こんどは取材ではなく、自分のためにビデオを手にもって向き合いたい。子どもや孫ができたとき、すごく力強いメッセージになると思うから。(聞き手・木村司)

 

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 6月23日は、太平洋戦争末期の沖縄戦戦没者を悼む「慰霊の日」です。多くの住民を巻き込んだ地上戦の体験を直接語れる人が亡くなっていくなか、沖縄出身の著名人に聞きました。戦争を知らない世代、わたしにとっての沖縄戦とは。

 

 ■知花くららさん モデル

 1982年生まれ。上智大卒。雑誌「Domani」専属モデルを務め、CMなどで活躍。昨年末に国連世界食糧計画(WFP)初の日本大使に。