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教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために⑮  日本国憲法(1)

2015-05-12 21:09:34 | キリスト教 歴史・国家・社会

木下裕也先生の「教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために」記事を連載しています。

木下裕也木下裕也(プロテスタント 日本キリスト改革派教会牧師、神戸改革派神学校教師)

教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために
 

 日本国憲法(1)


太平洋戦争は日本の無条件降伏をもって終わります。日本の敗戦は、明治の時代からずっと続いてきた大日本帝国憲法のもとでの国のありかたの終わりをも意味していました。連合国【注1】軍最高司令官総司令部(GHQ)はただちに日本の占領【注2】を開始し、軍国主義と国家主義を除き去り、日本を民主主義国家にするための政策をすすめました。敗戦の年、1945年の12月には神道指令によって国家神道が廃止され、神社は宗教法人となり、宗教団体法も廃止されてあらたに宗教法人法が制定されました。46年1月には天皇はみずから神格を否定する詔書を出しました。翌年5月には大日本憲法にかわって日本国憲法が施行されました。

...

日本国憲法は明確な立憲主義に立っています。つまり、政治のありかたを最高法規である憲法に定め、憲法に反する権力の濫用を排していこうという意志をはっきり持っているのです。政治をつかさどる者はいつも国民の幸せのために権力を用いるとはかぎりません。もっぱら自分の利益をもとめ、そのために国民の権利や自由を奪ったり、ときには戦争を起こして多くの人々を苦しめ、傷つけるということも起こります。そうした権力の暴走をおさえる仕組みが大日本憲法ではきわめて不十分でした。その点が、日本国憲法では大きく変わったのです。

 

日本国憲法は三つの原理のもとに成り立っています。第一に、国民主権です。主権とは国を治めるための権力です。大日本帝国憲法ではこれを天皇が持つ【注3】とされており、そのため国民の権利や自由はおおはばに制限されていました。

日本国憲法は、主権は国民のひとりひとりの手にあると定めています。つまり政治をゆだねられている者たちは国民により選ばれ、それゆえ国民の意志にしたがい、国民が幸せな生活をいとなむために責任を負っているということです。国民主権とは、憲法は国民自身の手になるという意味でもあります。たとえば政治家が最高法規である憲法を軽んじたり、これを勝手に変えたりすることはゆるされていないのです。そういう点でも、国民のひとりひとりが政治のありかたを見守る必要があります。憲法も政治家も一部の権力者のものではなく、国民のものです。国民が政治家たちに憲法の定めのとおりの政治をさせなければならないということです。

 

国民主権とともに大切な定めは、三権分立(さんけんぶんりつ)です。国を治める権を政府が用いる場合、これを立法権【注4】、司法権【注5】、行政権【注6】の三つに分けて、それぞれの機関に担わせるというものです。こうすることによって権力が特定の場に集中し、濫用されることを防ぐのです。

 

【注1】日本と太平洋戦争をたたかった国々。敗戦後から数年の間、日本は連合国の占領下に置かれました。

【注2】ある国が他の国を軍事力によって支配すること。

【注3】日本国憲法のもとでは、天皇は「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であり、その地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」と定め

    られています(1条)。

【注4】法律を定める権。国会が有します。

【注5】裁判を行う権。裁判所が有します。

【注6】法律にしたがって政治を行う権。内閣が有します。

 

 


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