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近代革命の社会力学(連載第482回)

2022-08-29 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(4)民衆革命への急転と革命の中和
 ヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との連携協定への調印を見送りとしたことへの国民的反発には政権の想定を超えるものがあり、政権が方針を決定した2013年11月21日には、早くも最初の抗議行動が首都キエフの独立広場で発生した。
 これを呼びかけたのは、ティモシェンコ・ブロックの中核を成す野党の全ウクライナ連合「祖国」であったが、同月24日には2004年の民衆蜂起以来の大規模な抗議デモに発展した。これに対し、政権が30日以降、警察特殊部隊ベルクトを投入して弾圧を開始したことを受け、「祖国」その他の野党勢力が「国民レジスタンス本部」を設置した。
 この後、12月に治安部隊と抗議デモ隊の攻防が激化していく中、政権が同月17日、ロシアとの間で、ウクライナに供給する天然ガス価格の低減などを取り決めた二国間行動計画に調印したことは火に油を注ぐ結果となった。
 同月22日には、新憲法の制定を通じて新しいウクライナを建設することを目指す超党派の政治団体として、マイダン(広場)人民連合が結成された。これは未だ革命政府として整備されたものではなかったが、未然革命における対抗権力に近い組織であった。
 明けて2014年1月に入っても抗議行動が収束しない中、同月16日、与党・地域党主導のウクライナ議会は、抗議活動をより強力に取り締まる根拠法となる反抗議法を制定した。
 しかし、このような弾圧立法はかえって、さらなる抗議行動の拡大をもたらし、親欧派拠点である西部地域では多くの地方庁舎が抗議デモ隊により占拠される中、2月21日、ロシアと欧州連合の仲介により、ウクライナ政治危機の解決合意が締結された後、ヤヌコーヴィチは首都から脱出した(ロシアへ亡命)。
 これを受け、ウクライナ議会はヤヌコーヴィチの罷免とオレクサンドル・トゥルチノフの議長兼大統領代行への就任を決議した。トゥルチノフはティモシェンコ・ブロック所属であり、この新体制は事実上の革命政府となった。
 暫定政権は、2004年の未遂革命の後に施行されながらヤヌコーヴィチ政権が覆した大統領権限の縮小を軸とする憲法修正条項を復活させたうえ、2014年5月に新たな大統領選挙を実施した。
 その結果、無所属のペトロ・ポロシェンコが、革命後に釈放されたティモシェンコを破って圧勝した。ポロシェンコは裕福な実業家で、元は親露派の地域党の結成に関わりながら、ユシュチェンコ、ヤヌコーヴィチ両政権下で閣僚経験を持ち、2014年大統領選では親欧派として売り込んだ複雑な人物であった。
 このように、革命後最初の大統領選挙が意外な結果に終わったのは、革命の混乱を収束させ、平穏を取り戻すためには、急進的なティモシェンコよりも安定感のある中和的な人物を選択する国民の意思が働いたためと見られる。

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