切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2022年 京都の梅 長岡天満宮 京都府長岡京市

2022-03-25 22:33:56 | 撮影
   

『菅原道真(845年~903年)と長岡天満宮の由緒
 長岡人満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平(平安時代前期六歌仙の一人)らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。
 道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、宇田天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣まで昇りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は、道真の出世を快く思っていませんでした。
 昌泰4年(901年)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王(宇多法王の息子・醍醐天皇の弟)に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言を聞き人れ、道真に九州・太宰府への左遷を命じます。
 無実の罪により平安京を追われることとなった道真。道中、この地を訪れ、「我が魂長くこの地にとどよるべし」と都を想ったそうです。(このことから長岡人満宮は「見返り天神」とも呼ばれます)。
 その後、道真は九州に向かいますが、その時にお供したのが乙訓郡開田村(このあたりの旧地名)の中小路宗則らでした。道真は宗則らと別れる際、自身の姿を模した6センチ余りの木像を贈り、名残を惜しみます。左遷か2年後の延喜3年(903年)、道真は配流先の太宰府で亡くなります。これを開いた宗則らは、道真から贈られた木造を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始まりです。』 (説明書きより)

    

 長岡天満宮は毎年梅のシーズンと紅葉のシーズンには必ず訪れている。従って撮影する風景は毎年同じような状況だ。しかし実際に現場に行って様々な梅の木を見ていると、また花を見ていると、同じところに同じ色の花が咲いているものの、そういう細かな記憶はないので改めて新鮮さと色のコントラストの美しさに感嘆する。
 やはり良いところは何度訪れてもいいものだ。1年も経つと前回のことはあまり覚えていないので、現場で思い出すという形になる。しかしそれでも新たな発見という感覚はなく、改めて新鮮な感情が芽生えるというのが本当のところだろう。

 

 長岡天満宮は人口約8万人の長岡京市にあって、車の駐車料は必要なもののそれ以外は出入り自由で境内も広く、遊ぶわけにはいかないがゆったりと楽しめる。ちょっとした茶店も出ており、また市街地沿いに大きなため池があって、その端に料理旅館がある。この辺りも天満宮の巨大な石造鳥居を中心として桜や紅葉、そして梅雨時期のキリシマツツジが真っ赤に染まる。なかなか素晴らしい場所だと言える。

 昔勤務していた地域でもあり、当時からすればJR の駅前など隔世の感があるほど再開発が進み、村田製作所の超高層ビルと少し離れてちょっとしたタワーマンションがあり、とてもじゃないが人口8万都市とは思えないくらいの様相を呈している。そして同時に天満宮の境内だけではなく、あちこちに結構広い公園が整備されており、住むのには絶好の環境だと言える。 JR と阪急京都線が走っており、地価が高いのも頷ける。大きな文化センターもあって催し物も多い。こういう所に住んでいると精神的に豊かになれるような気がする。このようにして天満宮をふらっと訪れている近所の人たちも結構多い。すぐ横のグラウンドでは少年達が大きな声を上げて楽しそうに遊んでいた。

     

 なお、今シーズンの梅については今回で最後。

コメント
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