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『醫德山藥師院略緣起
抑々当院本尊薬師如来は桓武天皇延暦元年(七八二)伝教大師御年十六歳の時比叡山延暦寺草創の大願により一刀三禮の薬師佛を七尊彫刻したまふ其の一佛にして比叡山延暦寺山門根本中堂御本堂とは御一体なり現存するはこの二尊のみ 往昔人有りて比叡山の五障三従の女人禁制を嘆き悲しみ当時の美濃国(岐阜県) 横倉といえる処に一院を設け安置す 爰に尾張国山田郡に何某右馬允明長という武士の有りける此薬師如来を朝幕尊敬し奉りしに承久三年 (一二二二)五月京鎌倉の軍起り明長京方にて処々の合戦に高名秀でしが弋瀬川の戦に深手負い己に最期に及ぶとき何処ともなく黒衣の僧一人我は横倉より来るとて草を揉みて與え給ふ 是を飲みたれば疵立ちどころに癒えて年老ふるまで本国に住み子孫栄えけり
又人皇八十六代後堀河院寛喜二年(一二三〇) 疫病天下に流行し之が為に死する人都鄙の貴賎数を知らず時に此の薬師如来院主の夢に告げて曰く一切病苦の衆生我前に来らば諸病悉く除くべきに「来也・来也」と佛勅有りし添なくも院主感涙し世に之を触れ知らしめたところ遠国の末々までも聞き傳へ群衆後絶たず参者の輩は疾病諸病忽ち干癒し百寿をも保ちぬ 天下佛願の霊験を尊敬し佛の御言を仰ぎ奉り「来也薬師」と称し奉る 其後星霜推遷り人皇百七代正親町院の御宇織田信長公美濃国岐阜に在住の時法蓮房道三斎藤山城守より傅来したる此の薬師如来を平安城今の此の地に移し奉る 信心至誠の人は言ふに及ばず男女貴賤老少其の悩みに逼り或は父と離れ母と離れ難行苦行の者一切所難其の願う所に依り深く信仰し一度此の薬師如来の名号を唱へ耳に触れ戯れにも一禮を作さば忽ち結縁となって其の霊験有るべし
まして況んや朝暮に参詣の輩は諸願成就富貴繁栄なさしめ給ふ其の功徳願海廣大無辺なることは悉く薬師瑠璃光如来御経に説きたまへり 元禄元年(一六八八) 黄檗宗緑樹派下・美濃国大梅寺開山鐵面寂錬禅師により再興され洛中水薬師・蛸薬師と並ぶ京都七薬師の一つなり
元治元年(一八六四)七月十九日 洛中蛤御門の変で境内尽く灰燼となり明治二一年本寺緑樹院竺大禅師により再建着手 三井家近衛家の外護により翌二二年伽藍は曾ての裏門を正面とし縮小再建す 表門一帯は現在薬師町として名を留め盛時境内域は大黒町二条通一帯に亘り薬市夜店等並び立ち大いに賑いをみた 今尚二条通に薬問屋漢方薬店が多い所以はその名残りである
薬師院御詠歌
皆人の古ぬを於楚しと 満ちたまう
薬師のちかい 多能もし起可那
恒例行事
十月八日 本尊薬師如来開扉法要
醫徳山 薬師院』
(説明板より)
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『医徳山 薬師院(こぬか薬師)
当院本尊薬師如来は伝教大師十六歳の時 比叡山草創の大願より一刀三礼彫刻された七体の一つ。比叡山女人禁制を嘆き岐阜県に安置された。
一二三〇年疫病が全土に流行したこの時、薬師如来が院主の夢に現れ「一切病苦の衆生わが前に来れば一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」住職が人々に知 らしめた所疫病諸病がたちまち平癒し長寿を全うできた仏のお言葉を仰ぎ「こぬか薬師」と称した。
十六世紀に上洛した織田信長が斉藤道三より伝来した薬師如来を京のこの地に移した。 一六八八年天台宗から黄檗宗に改められ、鉄面禅師が再興し現在の数倍ある大きな境内を有し、禅風を響かせたが幕末蛤五御門の変で消失し、明治二十一年黄檗山万福寺塔中緑樹院竺丈禅師北三井家・近衛家の外護により縮小再建着手。井戸から大黒様が現れ大黒町となった裏門を正面とした。以前の表門は薬師町として名を留め、盛時境内域は二条通一帯薬師夜店が並び、薬問屋漢方薬店が多いのはその名残である。
京都市』 (駒札より)
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薬師院は二条城の東数百mのところにある。周囲は古くからの住宅が並ぶ街並みとなっている。創建等の詳細についてはよく分かっていないが、本尊の薬師如来像が奈良時代に彫られたものということは確かなようだ。また鎌倉時代に薬師如来が夢の中に現れ、そこから「こぬか薬師」と呼ばれるようになったのも記録に残っているのか不明だが、そうらしい。 創建以降の経緯については上記の説明書きや駒札の内容の通りとなる。疫病から人々を守るとのご利益は各地に知られるようになり、お寺の規模はずいぶん大きなものになったらしい。そして全国から多くの人々がご利益に授かろうと参詣に訪れたと言う。
今現在では敷地も狭く境内は素っ気ないもので、御堂が一軒建っているだけ。内部に本尊と思われる薬師如来かどうかわからないが、安置されているのが見える。住所としては大国町になるが、薬師院の名残としてすぐ西側に薬師町がある。
薬師如来の移転にあたって、織田信長や斎藤道三の名前が出てきたのは意外だった。
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