正運寺
正運寺は阪急京都線大宮駅の北数百mのところにある。周囲にも比較的お寺が多く存在しており、おそらく豊臣秀吉らの平安京改造計画の中でこの地に集められたものだと考えられる。浄土宗鎮西派。洛陽三十三所観音霊場26番札所となる。
創建は関ヶ原の合戦のころ。加藤清正の家臣であった人物により開かれた。当初は勝軍寺と称されていたが、戦国時代の悪いイメージの連想がなされるということで正運寺と改められたと言う。本尊は阿弥陀如来。またお寺には小さな十一面観音菩薩像があり、かつて運慶が見つけたものであり、このお寺に伝わることになった。奈良の長谷寺の本尊と同じ木材が使われていると言うことが分かっている。
ある時、身重の女性がこの小さな十一面観音菩薩にお参りをしたところ、無事に出産できたということで「安産寺」とも呼ばれたと言う。天明の大火でお寺は全焼するが、この小さな観音菩薩像は延焼を免れたと言う。今現在では絶対的な秘仏であり、全く公開されない。
このお寺は普段から門前に大きな柵が立てられており、まるで参拝者を拒むかのような雰囲気があるが、横のインターホンで用件を告げると快く受け入れてくれる。私も境内撮影の趣旨を伝えて中に入れてもらった。境内はそこそこ広く本堂などお寺としては一般的な雰囲気だが、緑は少なめだった。観音堂がどれなのかは分からなかった。ちょうど私と一緒に入ってきた男性が26番札所の御札を頂いていたようだ。
三森稲荷大神
阪急京都線大宮駅から北へ数百mのところにある。道路沿いに民家が建ち並んでおり、その列の中にポツンと両側を民家に挟まれて存在する。小さな神社として京都市内では割とよく見かけるパターンだ。名前の通り稲荷社であり、狛狐が祠の前に陣取っている。他の小さな神社と違ってここには全面にまた狛狐にも、金網が張られていて綺麗に保たれるように工夫している。ずいぶん狭い敷地だが、祠も含めて全体がよく掃除され地域のお宮さんとして大事にされていることがよくわかる。
休務寺
阪急京都線大宮駅から北へ約100mのところにある。周囲は住宅密集地となっている。浄土宗西山禅林寺派のお寺で、京都四十八願寺五番札所となる。
創建は江戸時代初期であり、後に天皇の命によって霊場の一つとなった。天明の大火で全焼。その後再建されたものの昭和時代に近隣の火災によって本堂が消失。現在の本堂は鉄筋コンクリート2階建ての近代的な建物になっている。そういった意味では山門だけがお寺らしい雰囲気を残しており、境内も普通の庭といった感じだ。所々に石灯籠等お寺に置かれている物が見られるが、全体の雰囲気としてはとても400年もの歴史があるような由緒あるお寺には見えないところが残念。
正運寺は阪急京都線大宮駅の北数百mのところにある。周囲にも比較的お寺が多く存在しており、おそらく豊臣秀吉らの平安京改造計画の中でこの地に集められたものだと考えられる。浄土宗鎮西派。洛陽三十三所観音霊場26番札所となる。
創建は関ヶ原の合戦のころ。加藤清正の家臣であった人物により開かれた。当初は勝軍寺と称されていたが、戦国時代の悪いイメージの連想がなされるということで正運寺と改められたと言う。本尊は阿弥陀如来。またお寺には小さな十一面観音菩薩像があり、かつて運慶が見つけたものであり、このお寺に伝わることになった。奈良の長谷寺の本尊と同じ木材が使われていると言うことが分かっている。
ある時、身重の女性がこの小さな十一面観音菩薩にお参りをしたところ、無事に出産できたということで「安産寺」とも呼ばれたと言う。天明の大火でお寺は全焼するが、この小さな観音菩薩像は延焼を免れたと言う。今現在では絶対的な秘仏であり、全く公開されない。
このお寺は普段から門前に大きな柵が立てられており、まるで参拝者を拒むかのような雰囲気があるが、横のインターホンで用件を告げると快く受け入れてくれる。私も境内撮影の趣旨を伝えて中に入れてもらった。境内はそこそこ広く本堂などお寺としては一般的な雰囲気だが、緑は少なめだった。観音堂がどれなのかは分からなかった。ちょうど私と一緒に入ってきた男性が26番札所の御札を頂いていたようだ。
三森稲荷大神
阪急京都線大宮駅から北へ数百mのところにある。道路沿いに民家が建ち並んでおり、その列の中にポツンと両側を民家に挟まれて存在する。小さな神社として京都市内では割とよく見かけるパターンだ。名前の通り稲荷社であり、狛狐が祠の前に陣取っている。他の小さな神社と違ってここには全面にまた狛狐にも、金網が張られていて綺麗に保たれるように工夫している。ずいぶん狭い敷地だが、祠も含めて全体がよく掃除され地域のお宮さんとして大事にされていることがよくわかる。
休務寺
阪急京都線大宮駅から北へ約100mのところにある。周囲は住宅密集地となっている。浄土宗西山禅林寺派のお寺で、京都四十八願寺五番札所となる。
創建は江戸時代初期であり、後に天皇の命によって霊場の一つとなった。天明の大火で全焼。その後再建されたものの昭和時代に近隣の火災によって本堂が消失。現在の本堂は鉄筋コンクリート2階建ての近代的な建物になっている。そういった意味では山門だけがお寺らしい雰囲気を残しており、境内も普通の庭といった感じだ。所々に石灯籠等お寺に置かれている物が見られるが、全体の雰囲気としてはとても400年もの歴史があるような由緒あるお寺には見えないところが残念。
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