切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

紅葉2019 常念寺~西念寺 京都府木津川市・・・紅葉はほぼ終わりだ

2019-12-28 22:39:48 | 撮影


 木津川市の2ヶ所のお寺へ撮影に行く。
すでに紅葉という意味ではほぼ終わっていたが、南部の方がやや遅いので、ごくわずかながら期待を込めて行った。しかしその期待はかなり残念なものとなってしまった。

 旧加茂町の JR 加茂駅近くにある常念寺
 到着してみると小山の裾に、鉄筋コンクリートの建物や駐車場もきれいに整備されており、まるでつい最近建築されたような雰囲気だ。駐車場に置いて石段を登り境内に入る。かなり広大な敷地を持っており、すぐにこれも真新しく見える。大きな本堂。あと社務所などが建ち並ぶ。そして山側の方には巨大な 石造観音像がそびえ立っている。高台になるので旧加茂町のどこからでも見えるような感じだ。その大きさに圧倒される。
 境内を回って紅葉などがあったことはわかったが、ほぼ全部落葉。ごくごく一部いちょうか何かが残っていた程度だった。そういうわけでお寺全体にも歴史的な古さを感じさせるものがあまり見当たらず、部分的に石造物があるくらいで正直なところちょっと興ざめだ。
 しかし、帰宅してから色々調べてみると、どうしてどうしてその外観とは裏腹に、なかなかの歴史的な由緒を持ち、様々な文化財も有している。そのギャップの大きさに思わず 「へぇー」と 声を上げてしまった。
 創建は室町時代の中頃。コロンブスがアメリカ大陸へ向かっていた時だ。(関係ないけど。)このお寺には周囲にあったいくつかのお寺から様々な仏像などが寄せられ、本尊は阿弥陀如来立像(室町)、他にも多くの仏像などがあるが、その大半が京都府の登録文化財となっている。また鎌倉時代の釈迦涅槃図が国の重要文化財に指定されている。頑丈な鉄筋コンクリートの宝物館にでも収められているんだろう。公開日があるのならば是非見てみたいと思う。
 広大なお寺には誰一人おらず、加茂駅の方から電車の走行音が聞こえていた。

 続いて鹿背山地区にある西念寺へ向かう
 この鹿背山は古くから開けた丘陵地、山地であり、小山の上の方にかつて山城があった。今では城址として残されている。
 西念寺そのものは丘陵地帯の細い道をくねくね曲がって到着。一般車は山門前の駐車場には入れないので、下の空き地に置いて上がっていく。山門前にはほぼ朽ちた紅葉が今にも落ちそうな状況で、色もすっかり落ちてしまっていた。来るのが一週間早ければ、境内も含めて万感の真っ赤な紅葉に包まれた光景を堪能できたのだが、やはり遅すぎた。境内のもみじもわずかに残っている部分はあったものの、大半は散り果てて、何か枯れたものの侘しさというものを感じさせる。ある意味独特の無常観というものが感じられ、これはこれで気持ちの中にしみるものがあるかと思われた。
 沿革については下にパンフレットのものを掲載しておく。
 その中にある古代南都仏教というのは、古墳時代に伝来した日本仏教の原形期のようなもので、元興寺を中心にまさにそこから各地へ影響力を伸ばしていくことになる。ここ木津川市はそのすぐ近くであり、この地域にはその影響があちこちに残されている。ただ単に古いお寺が多いというだけではなく、後年になって各地で彫られた石造物や磨崖仏など、非常に多いのは仏教信仰の厚さを物語っているものと思われる。もちろんその前提として、古墳時代以前の弥生時代、またそれ以前の縄文時代にまで遡る、この地域で生活していた我々の先祖たちの生活というものがあり、様々な生活基盤を切り開いてきた証でもあると言えるようだ 。

常念寺



『多聞山 随願院
常念寺 天台真盛宗


 室町時代の半ば、伊勢国一志郡小倭荘(現在の三重県一志郡一志町大仰)に生まれた真盛上人 (一四四三~一四九五)は、十九歲で比叡山延曆寺に登り、勉学修行に励みました。その後、文明十八年 (一四八六)に西教寺(大津市坂本)へ入って不断念佛を始め、応仁の乱て荒廃した各地を廻って人々を教化しました。人は正直であることが大切で、心の安らぎはお念佛にあると説く、「無欲清淨・専勤念佛」の教えはたちまち朝廷や幕府はもとより、老若男女を問わず貴賤衆庶の間に広まり、多くの人々が上人に帰依したといわれています。
 真盛上人が、諾国を布教していた延徳四年 (一四九二)、伊賀の西蓮寺(三重県上野市)を発って加茂の船屋に立ち寄られ法話をされたとき、南都東大寺の大勧進盛憲が感銘を受けて帰依し、ほどなくして念佛道場を船屋に開き「常念寺」と名付けました。その後、木津川の水運が活発になるにつれ、加茂の船屋も主要な港津として発展をとげ、常念寺を中心に念佛の教えが南山城一帯に広がっていきました。
 江戸時代に入ってまもなく、加茂一带は伊勢・伊賀に領地をもつ大名藤堂高虎の所領となりました。高虎は、元和六年 (一六二一)德川幕府から大坂城の修復を命じられると、加茂に拠点をおいて近郷近在から多くの石材を切り出し、木津川を利用して大坂城へ運びました。その折り、高虎が逗留したのが常念寺であったと伝えられています。
 その後、正德二年(一七一二)八月、木津川の大洪水で流域の町や村のほとんどが壊滅的な被害を受けました。船屋ても大半の町家が流され、常念寺も水没して多くの仕什器・什宝類を失いました。このとき、加茂組大庄屋畑山重左衡門が里村の山際に寺地を寄進し、流失した佛像を引き上げて常念寺を再奥しました。その後も当寺は幾多の変遷を経て今日に至っています。
 その本堂も近年になって老朽化が進み、檀信徒の方々と協謙を重ね、平成二年(一九九〇)事業に着手、平成八年 (一九九六)三月落成いたしました。加えて、檀信徒の方々の先祖供養が行える舍利堂を新たに建立しました。
 主な文化財
 佛像  阿弥陀如来立像  南北朝時代
     釈迦三丼像    室町時代
     地藏菩薩半跏像  藤原時代
     地咸菩薩立像   鎌倉時代
 (府登文)十王坐像     室町時代
 絵画(国重文)积迦涅槃図  鎌倉時代
       三千佛図   室町時代
       真盛上人六字名号 室町時代
       盛憲上人念佛供養板碑 永正十七年 銘』
  (説明板より)



























西念寺



【西 念寺 沿革】
 西念寺の前身は「鹿山」と称して古代南都仏教の一派である奈良元興寺と関りがあったとされる。鎌倉時代、建曆年間 (1211~13)に庶民信仰の南都念仏門興隆の一端をこの「鹿山」が担っていた。後に南朝に味力して後醍醐天皇の元應 (1321)三年堂舎焼失し、室町時代には、真言律の西大寺とも交流があり、江戸時代に入ってからは念仏門を表に立てて興隆し、1872(明治5)年より西山浄土宗に所属しています。江戸時代は何処の本山にも所属せず「無本寺」浄土宗を通していました。
 現在の本堂が建ったのは1706(宝水3)年です。位置は鹿背山城から下る谷筋、300年余りの間雨水により岩盤がむき出しととなっていたであろう谷川に石垣を積み上げ、南北の尾根を削っで造成し敷地としました。以来、修理と改修を繰り返して310年、今日に至ります。
 寺名は浄勝寺から鹿山寺に改名されたと『鹿山略縁起』は伝え、鹿山寺の跡と伝える地「小字古寺」があります。現西念寺の東方約400メートル、谷の奥に溜池があり、改修工事の際に瓦・土器などが出土しています。溜池は「古寺の池」と称し、西向きの斜面で、そのまわりを丘陵に囲まれた袋谷状の地形となっています。池を含む傾斜地の範囲は東西約150×南北80メートルで、寺院を造営するのに十分な広さです。標高は88~96メートル前後です。
 焼失した鹿山寺は、城山の峰に移り(西念寺の北、鹿背山城跡のある丘陵上)、1589 (天正十七)年現在地に移ったとされ、西念寺を鹿山寺の後身としています。』
  (パンフレットより)






















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