切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2020紅葉 法界寺・日野誕生院 京都市伏見区

2020-12-01 23:26:03 | 撮影
 紅葉撮影に2箇所行ってきた。このうち日野誕生院については以前にこのブログで桜撮影で紹介している。紹介は説明書きのみとしておく。
 これら2ヶ所のお寺と施設はお互いにすぐ近くにある。地下鉄東西線石田駅から東の方に向かって役1 kmあまり。徒歩で15分弱で行けるだろう。ともになかなか見事な紅葉が見られる。

法界寺

 

『法界寺
 東光山と号する真言宗 の寺で、日野薬師として視しまれている。
 平安後期の永承六年(一〇五一)に日野資業がこの地にあった日野家の山荘を寺に改めたことに始まる。日野家は藤原氏の流れをくむ貴族で、浄土真宗の開祖、親鸞や室町募府八代将軍・足利義政に嫁ぎ政務で手腕を発揮した日野富子らを出している。
 代々一族が堂塔を整え荘厳美麗を極めたが、兵火で燒失し、現在は本堂(重要文化財) と阿弥陀堂(国宝)が残るのみである。  本堂の柔師堂には、伝教大師作と伝わる薬師如来を胎内に納めた本尊・薬師如来像と運慶作と伝わる脇士日光月光十二神将(ともに重要文化財)が安置されている。この本尊に祈願すると、樹乳のご利益があるということから、通称「乳薬師」とも
呼ばれている。
 阿弥陀堂は、平安後期の阿弥陀信仰の高まりと末法思想の普及に伴い建てられたもので、定朝様の阿弥陀如来坐像とともに国宝に指定されている。
 毎年一月十四日には「裸踊り」が催され、通りに用いられた下帯は妊婦の腹蒂 として厚い信仰を集めている。
  京都市』  (駒札より)

             

 京都のお寺の中でここの法界寺を知っている人はほとんどいないだろうと思う。場所も伏見区の端の方になる。周囲に多くのお寺や神社があるわけでもなく、ポツポツと散財するくらいだ。周辺はむしろなだらかな丘陵地帯を新たに宅地開発して、人口が比較的密集する住宅地と言った方がいい。そのような中に昔からあるお寺や神社が住宅に囲まれていると言った状況のところ。
 もちろん付近の人は法界寺の名前は知っているだろう。でもそこがどんなお寺なのかということになると、よほど興味のある人でないとわからないと思う。むしろすぐ近くの日野誕生院の方が有名かもしれない。何しろ親鸞聖人の生地とも言われる場所でもあり、横の広場に紅葉が密集している。写真撮影においても撮り甲斐があるし、普段は周囲の住宅のファミリーがのんびり遊びに来たりしているところだ。
 しかしこの法界寺、実はかなり貴重な「国宝」を有する京都でもある意味、屈指のお寺なのだ。本堂の阿弥陀堂が国宝。そしてその内部に座する巨大な阿弥陀如来坐像がこれまた国宝。そして隣にある薬師堂の中の薬師如来像が国の重要文化財となっている。私も何度か訪れてその度に拝観料はいるが、阿弥陀如来坐像を拝観している。とにかく間近で見ることができるので圧倒されるし、気持ちが吸い寄せられるように感じられる。更に天井には天人の壁画が描かれており、これは日本で最も古い壁画と言われ、これも重要文化財に指定されている。阿弥陀仏と共に全体として極楽浄土の世界を表していると言う。
 以前ここの住職さんにお話を聞いたが、宇治市の平等院にある阿弥陀如来坐像も国宝だが、大きさでは平等院のものの方が少し大きいものの、古さではこちらの方が若干古いと言う。しかも平等院のものは観光客が多いために、 20人単位ぐらいでまとめて入り時間制限もあって、さほど長く見ていることはできない。法界寺のものはとにかく目の前に圧倒的な存在感をもって迫ってくるので、これを見るだけでも十分な値打ちがある。
 さらに阿弥陀如来が収められている阿弥陀堂は、京都においては京都市街地内にある大報恩寺(千本釈迦堂)の国宝の本堂とともに、最も古い部類に入る木造建築だと言う。大報恩寺の方は京都市街地にあるために、交通の便もよく私も何回か行っており、その度に多くの人が来ていた。しだれ桜は非常に有名。
 しかしここの法界寺は交通の便では少し不便。特に何の宣伝もしていないので訪れる人は少ないし、この日は私一人だけだった。紅葉もなかなかいいだけにもっと人が訪れても良いのではないかとつくづく思う。

 
 (パンフレットより)
           



日野誕生院   (2019.4.19掲載済み)

 

『日野誕生院
 親鸞聖人は日野氏一族である「日野有範」(ひのありのり)を父に、(母は源氏、八幡太郎義家の孫娘「吉光女」(きっこうにょ)と伝えられている)承安三(一一七三) 年ここ日野の里にご誕生になり、幼名を「松若丸」と称されました。
 九歳のとき粟田口(現在の青蓮院)にてお得度なされ、人間の根源的な苦悩から救われる道を阿弥陀如来の本願に見出されました。
 本願寺第十九代宗主 本如上人は、文化年間(一八〇四~)に日野氏の由緒地を調査され、聖人の父である日野有範公に因み「有範堂」を建立されました。その後、第二十一代宗主 明聖人の時代に本願寺の飛地境内地として「曰野別堂誕生院」と改称されました。
 なお、境内地西側には聖人ご誕生の際に使用されたと伝わる「産湯の井戸」と、聖人のへその緒を納めた「胞衣塚(えなづか)」があります。
 大正十二 (一九二三)年、立教開宗七〇〇年の記念事業として本堂並びに書院の建築が始まり、昭和六(一九三一)年には現在の本堂が完成しました。また、平成十八(二〇〇六)年には、親鸞聖人七五〇回大遠忌法要の記念事業として、本堂並びに書院の改修が行われました。』
 (境内説明掲示板より)

             
コメント
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