美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百四)

2017年08月30日 | 偽書物の話

   四方の書棚から我々二人を取り囲む書物の群は、水鶏氏の声を吸収して静謐の空気を吐く。書物ごとで自我を客体化するという書物の自心は、水鶏氏と私の会話をよそに、めいめいの集合世界をおし広げて行くとされる。その外にぽつねんとある黒い本を私の手許に引き戻す刻限が近づいているのは、言わず語らずとも明らかである。水鶏氏は、品物の添状代わりにもう少しだけ、自説を開陳しておきたかったのだろう。期せずして起きた感応現象を加味した書物論の再構に当たり、黒い本を返して悔いを残さぬために、取り急ぎ理説の荒打ちをしておきたかったとも推測される。
   「長鎖なす文字の行列もまた書物となって、自心あることを窺い知ります。書物、冊子ごとに集合世界を転々昇階しながら、自我の一貫性は寸毫揺らぐことなく、各個に現世界へ参入して別世界の追記、複層の綺室となります。集合の次元をまたいで経験相の継続性、自我の単一性が完全に保たれるのは、思弁不能のパラドックスと言うほかありません。
   場違いな蛇足ですが、まさに自我の客体化が起きず、実直な感覚以外何もないのであれば、我々に認知できる現世界の経験は、こと様の世界で別状に経験している最中の夢、幻であることが遂に払拭できず、客体の自我を見出して発出する書物の別世界に比べ、その実在性は蜉蝣にも劣る儚いものになっていたでしょう。

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