美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百三)

2017年08月23日 | 偽書物の話

   自我の経験の対象であると気がつくのは、一体何ものを指してのことだろうか。多分、当の枠内で一緒に戯れているものとは考えにくい。枠に納まらないどこかほかにあって、単一性の背理を駆け抜ける自我でなければなるまい。黒い本を傾慕する心はつかの間引き戻され、水鶏氏の足跡を軟弱に追いかける私は行く手の濃霧に難渋していた。ついつい水鶏氏の論に耳を貸しながらも、こうした場合には注意をできるだけ周りの書物へ散らすのが無難ではないかと、大した意味もなく胸につぶやいた。
   水鶏氏本人にとって、現世界は幾つもある世界の一つであり、おまけに複層に入り組んだものである。矛盾なしには言及できない程度の実在性に立脚したものであって、書物も又それに比肩する程度の実在性を以って現世界の複層化に組みしている。水鶏氏流に解すれば、世界の実在性は理性に準拠しても経験に準拠しても、数学的明証に堪えられない。しかし、自らを対象として客体化する集合世界を駆け昇る連鎖を実感するとき、自我の実在を確信した自心の投影として現世界の不動の実在が確知されるのである。たとえ、そこに潜伏する背理は永劫消滅しなくとも、経験は逐一実在すると底の底から思い做されるのである。

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