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トータル訪問者数 1,117,728
弘化二(1845)年春場所における幕内
力士「略歴表」を作成した。
当場所の「番附」をみると、東西の
幕内で随分と様相が異なっている。
それは、番附面の“頭書”である。西方
幕内力士12名に「江戸」と書かれたもの
は皆無なのに対して、東方の同じく12名
のうち、大関劔山、関脇武隈、前頭筆頭
小柳、同五枚目の要石、同七枚目~幕尻
の音羽山・尾上・桂野━以上、計7名、
即ち過半の力士が「江戸」頭書なのだ。
これら7力士は、当時お抱えの藩に
無関係であり、勝手な表現ならばいわば
ジプシーな存在と云うことになる。
更に、邪推すれば、「天保の改革」での
間接的な影響で各藩の“財政”が悪化して、
力士を抱える“余裕”がなくなってきている
ことを示唆しているのじゃぁないか…?
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弘化二(1845)年春場所における幕内
力士「略歴表」を作成した。
当場所の「番附」をみると、東西の
幕内で随分と様相が異なっている。
それは、番附面の“頭書”である。西方
幕内力士12名に「江戸」と書かれたもの
は皆無なのに対して、東方の同じく12名
のうち、大関劔山、関脇武隈、前頭筆頭
小柳、同五枚目の要石、同七枚目~幕尻
の音羽山・尾上・桂野━以上、計7名、
即ち過半の力士が「江戸」頭書なのだ。
これら7力士は、当時お抱えの藩に
無関係であり、勝手な表現ならばいわば
ジプシーな存在と云うことになる。
更に、邪推すれば、「天保の改革」での
間接的な影響で各藩の“財政”が悪化して、
力士を抱える“余裕”がなくなってきている
ことを示唆しているのじゃぁないか…?