相撲史に関心・興味のある方どうぞ

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字数制限を設定せず?

2013-04-30 20:46:48 | 日記
 通常、新聞社等が有識者に執筆を依頼する場合、原稿の
〆切日や、字数制限を設定するであろう━と察している。
ところが昭和十六年二月~三月連載の「長崎相撲の由來」
は、論文の長さがまちまちなのである。
 当初、拙作&私家版『相撲史発掘』へ転載するとき、2回
分を一挙とりあげられたのだが、その後“長篇”みたいで、
1篇ずつしか転載できず、3年で終了予定は不可能に至った。 

12回め「俳號巴重といふ風懷 皓臺寺祕藏の過去帳」
 2ページ半プラス4行
13回め「雷電長崎下り 島原の産關脇千田川」
 2ページ半プラス2行

14回め「唐人と呑み比べ 五島氏より鯨の寄進」
 1ページ半プラス19行

15回め「大村公城中で賞覽 古今獨歩の大剛雷電」
 2ページ プラス14行
16回め「郷土出身の兩大關 玉垣と大岬」
 2ページ プラス13行
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明治の入幕お預け

2013-04-30 12:54:51 | 日記
 横綱力士中、最長寿記録保持者のⅠ梅ヶ谷━取締雷(いかづち)
権太夫が弟子梅ノ花が入幕できないのに、その準備云々の実話は
明治四十三年…に非ず、その1年前の春━旧國技館開設直前の話
だった。
 でも、同四十一年夏場所、十両四枚目で6勝2敗の勝越し4点で、
幕内力士を2人破っているのだから翌年春は入幕したっておかしく
ない。にもかかわらず、“貧乏神”に止められてしまった。

 最近落手した『なんでもわかる相撲百科』の━増補版━でも、
遺憾ながら上記の誤謬は訂正されていない。
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「諦契」とは…造語か? 誤植か?

2013-04-29 20:50:54 | 日記
 昭和十六年…『長崎民友新聞』収載「長崎相撲の由來」の
16回めを転載━同紙の一行字数どおりに表示する。

 彼〔註=大岬〕と諦契相接した對手力士は
大綱、眞鶴 環、大鳴戸等であ
つたし、雷電とも三たび顏が合
つて、全敗にをはつた。このこ
あはせが、錦繪に描かれたと顏
ろをみると、相撲好取組視され
たものにちがひなからう。〔後略〕

 てんで、まともに校正をやってない━4行め最下の「こ」と
5行め最下の「顏」が入れ替っているのだ。お粗末千万。
 力士名の「環」は「王偏」に非ず、「糸偏」だが、“活字”に
なかったかも…。これは致し方ない。

 最大の問題箇所は、「諦契」なる言葉で『広辞苑』などに
載っていない。漢和辞典で「…契」も調べたがわからない。

 『相撲道綜鑑』に「實技演練篇」━彦山光三が好んで使う
「演練」は旧大日本帝國軍部での専用語らしく、『広辞苑』
に不掲載である。「諦契」もその“類い”なのか?
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締め括りの一節

2013-04-29 13:12:08 | 日記
 郷土紙へ18回連載された「長崎相撲の由來」最終回の
おしまいの箇所を転載してみたい━。

〔前略〕出羽海翁〔註=諫早出身、元小結両國〕は、郷土の
大先輩 玉垣がおそらく思ひもよらなかつたこと、岳父高砂
が夢に描いたところであらう、大日本相撲協會結成の大偉業
をつひに成就したのだ。その顚末を記すれば長い。たゞ、この
結成の直接動因が、大正十四年(十六年前)四月二十九日、ときの
□□□宮殿下御□辰の佳日にあたり、當時の東京大相撲協會は、
畏くも、相撲 台覧奉仕の恩命を拝し、その際、□□盃拝戴の
□榮を忝うした、その一點にかゝつてゐることをおもふとき、
たゞたゞ恐懼・感激のほかはない。すなはち、東京大相撲協會
は、この光榮をひとり東京方のみ、私すべきでないといふ、
大乘的見地から、大阪との合流・併體をはかつた結果 現時
のごとき、鞏固なる組織の結成をみたのである。しかも、その
大功は、ほとんど出羽海翁一人の力によるものと稱しても過言
ではない。翁の加餐を祈念するゆゑんである。(完)

 判読不能の字句があって誠に遺憾に存じます。
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琴櫻傑將の不運

2013-04-28 20:32:45 | 日記
 昭和四十年九州場所、小結琴櫻の星は次のとおり。

●柏 戸(横綱)
●海乃山(前二)
●豊 國(前一)
○若天龍( 〃)
○北葉山(大関)
○栃王山(前三)
●佐田の山(横綱)
○北の冨士(関脇)
●大 鵬(横綱)
○栃ノ海(〃)
○栃 光(大関)
○豊 山( 〃 )
○明武谷(小結)
○若見山(関脇)
○鶴ヶ嶺(前七)

 ところが、翌四十一年初場所は関脇へ昇格できず、
26年前の玉ノ海以来の不運・不可解な番附になっている。
 小結で10勝以上の場合かならず関脇へ…━という規則を
つくったらどうか。但し、関脇で8勝のときは場合により
けり小結へ降格もあり得る━という編成方針にせねばならぬ。
「勝越したら下げられない」内規は廃止すべきである。
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