江戸最弱横綱の不知火諾右エ門の横綱免許年について
酒井忠正著『日本相撲史』㊤は、天保十一(1840)年説を
否定━すなわち、横綱力士が番附面で関脇へ落される筈
はない…と主張して、大関へ復帰した天保十三年十月説
を採っている。
これに反駁したのが彦山光三著『横綱傳』だった。当時
未だ横綱というのは“地位”じゃぁない。したがって絶対
降下させないとはいいきれない━と力説していた。
現在では、彦山説の方を大抵の研究家たちは支持━十一
年十一月免許が定説といってよかろう…。
ところが、次の…秀の山雷五郎の免許年月は曖昧模糊だ。
弘化二(1845)年・同三年・四年説とあってはっきりしていない。
『日本相撲史』は弘化二年十一月新横綱説で、『横綱傳』は
同四年九月説である。『大相撲人物大事典』も後者なのかな?
708頁には「弘化2・9」と記載している。
どの説が有力なのか…わからない。
酒井忠正著『日本相撲史』㊤は、天保十一(1840)年説を
否定━すなわち、横綱力士が番附面で関脇へ落される筈
はない…と主張して、大関へ復帰した天保十三年十月説
を採っている。
これに反駁したのが彦山光三著『横綱傳』だった。当時
未だ横綱というのは“地位”じゃぁない。したがって絶対
降下させないとはいいきれない━と力説していた。
現在では、彦山説の方を大抵の研究家たちは支持━十一
年十一月免許が定説といってよかろう…。
ところが、次の…秀の山雷五郎の免許年月は曖昧模糊だ。
弘化二(1845)年・同三年・四年説とあってはっきりしていない。
『日本相撲史』は弘化二年十一月新横綱説で、『横綱傳』は
同四年九月説である。『大相撲人物大事典』も後者なのかな?
708頁には「弘化2・9」と記載している。
どの説が有力なのか…わからない。