相撲史に関心・興味のある方どうぞ

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明瞭な例と・曖昧な例

2010-10-31 20:39:02 | 日記
 江戸最弱横綱の不知火諾右エ門の横綱免許年について
酒井忠正著『日本相撲史』㊤は、天保十一(1840)年説を
否定━すなわち、横綱力士が番附面で関脇へ落される筈
はない…と主張して、大関へ復帰した天保十三年十月説
を採っている。
 これに反駁したのが彦山光三著『横綱傳』だった。当時
未だ横綱というのは“地位”じゃぁない。したがって絶対
降下させないとはいいきれない━と力説していた。
 現在では、彦山説の方を大抵の研究家たちは支持━十一
年十一月免許が定説といってよかろう…。

 ところが、次の…秀の山雷五郎の免許年月は曖昧模糊だ。
弘化二(1845)年・同三年・四年説とあってはっきりしていない。
『日本相撲史』は弘化二年十一月新横綱説で、『横綱傳』は
同四年九月説である。『大相撲人物大事典』も後者なのかな?
708頁には「弘化2・9」と記載している。
 どの説が有力なのか…わからない。
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横綱稲妻も…

2010-10-31 12:44:09 | 日記
 大関柏戸利助、横綱阿武松緑之助に次いで、彼の
好敵手だった稲妻雷五郎の天保八(1837)年十月場所
星取表は━

初 日○和田ノ浦(前頭七枚目)
二日目●和田ヶ原( 同 上 )
三日目◇稲 川(前頭四枚目)
四日目○布ヶ滝(前頭二枚目)
五日目○荒 礒(前頭三枚目)
六日目×鰐 石(前頭筆頭)
七日目○平 石(小 結)
八日目○黒 岩(関 脇)
九日目×手柄山(大 関)
十日目や〔幕内力士全員欠場〕
 註=×は引分け、△は預り、◇は無勝負。

 今まで新聞・雑誌・書籍で発表された個人別星取表に
対戦相手の地位まで附記してあるものは極めてすくない。
即ち、番附と“照合”しなきゃぁ平幕なのか・幕下なのか
…わかり難いのである。
 
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昔は東西が逆?

2010-10-30 20:58:29 | 日記
 大相撲の伝統的な縦「番附」は、中央の「蒙御免」を
柱に…右側が東方、左側が西方━250年余つづいている。
 素材が紙の番附における東西と、実際に正面からみる
東西は逆━TVの相撲放送は、画面の左の方が東であり
右の方が西である。
 上の画像━谷風・小野川の横綱伝授披露の図であるが
西方の谷風が右、東方の小野川が左に位置している。
〔尚、本場所の土俵上での横綱の伝授は、これが最初で
最後の儀式だった。〕
 ところが、谷風─小野川の取組の錦絵などをみると、
東方力士が右側、西方力士が左側に位置しているのだ。
現在と反対ではないか…。

 東西のちがいは、微妙な相異がともなう。つまり、土俵上
の両力士にとっては、自身の右側か左側に行司が立っている
━例えば、立合いに変化をやる場合、東方力士は左の方へ
変るとき行司の存在を意識するのではあるまいか。西方なら
右側に行司がいることを無視できまい。

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横綱阿武松も…

2010-10-30 12:40:16 | 日記
 30年ぶりの横綱━阿武松の文政十三(1830)年
三月場所星取表を御覧いただきたい。

初 日○渦ヶ渕(前頭X枚目)
二日目○越の海(前頭六枚目)
三日目○ 頂 (前頭三枚目)
四日目○勢見山(前頭四枚目)
五日目△鷲ヶ濱(前頭二枚目)
六日目○黒 柳(前頭筆頭)
七日目○秋津風(小 結)
八日目○緋 縅(関 脇)
九日目●稲 妻(大関=横綱?〕
十日目や

 文政六年十月場所の大関柏戸以来、9日乃至10日間
皆勤しながら幕下(現十両)との対戦なしの記録である。

 その文政六年冬は、取組編成に不可解なところがある。
西前頭三枚目の簑嶋━大関柏戸や小結荒馬とは対戦
〔関脇源氏山は全休〕したが、出場した東方平幕6人と
顔合せをしないで、実に7人の幕下力士と取組んでいる。
 当場所、東幕尻の大空が三日目から休場したり…東方
に欠場が多かったけれども……。
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やっぱり『…起顕』のミスだった

2010-10-29 21:08:06 | 日記
 去る8月22日、「43連勝!」というタイトルで…
幕末の不運力士大鳴門の入幕前の星・対戦相手
・相手地位を列記━そのなかで、彼が越山の名
で幕下〔何枚目なのか特定できない〕に附出された
嘉永六(1853)年二月場所十日目(千秋楽)の相手を
御所櫻(東序ノ口23枚目)━と記載した。
 しかし、当時幕下対序ノ口戦の取組があったか・
否か…非常に疑わしいと思いつづけたので、相撲
博物館へ照会し、三河屋…版の勝負附で確認を
お願いし、この度回答を得た。
 『相撲起顕』にある「御所さくら」は誤りで、御所ノ浦
(西三段目11枚目)が真実であるとわかった。
 
 更に、翌場所東幕下24枚目にランクされ、これまた
楽日の十日目の関ノ浦も三段目24枚目というのは地位
が離れすぎているので疑問に思っていたら、正しいそうな。
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