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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

杉本つとむ/C.W.フーヘランド/杉田成卿『医戒 幕末の西欧医学思想』

2017年12月25日 | 日本史
 2017年12月13日「緒方富雄 「緒方洪庵『扶氏医戒之略』考」」より続き。
『医戒』そのものはフーヘランドの原作(一部)を杉田が翻訳したものだが、それを原典に遡って杉田訳の得失を指摘評価しつつ訳し直し杉田訳にはなかった注釈をも付した杉本氏を含めて、本著は三者の合作とさえ言っていいと思う。
 そしてその内容は、いろいろ面白い。面白いが、原著はドイツ語で、私はオランダ語もドイツ語を知らぬので、その追究にはおのずから限度がある。そのことをわきまえたうえで、楽しむことにする。
 さて、この日本語訳で使われている「親験」という詞の出典が『福恵全書』ときいて、先日電子版で原文を閲したあと今日は佐伯富編『福恵全書語彙解』(同朋舎1975/8)を見てみたのだが、なかった。杉本氏の拠り所は『大漢和辞典』“親験”条だが、諸橋『大漢和』はいかにしてこの出典を得たのだろう。独自にか?
 そして、汲古書院の『福惠全書 附索引』(1973/2、山根幸夫解題/索引編纂)の索引にもない。むろん本文にはある。巻十四、たとえば同書の165頁上
 楽しみは、まだまだ続く。

  (社会思想社 1972年1月)

緒方富雄 「緒方洪庵『扶氏医戒之略』考」

2017年12月13日 | 自然科学
 『蘭学のころ』(弘文社 1950年10月収録、同書253-300頁。もと『鉄門』第3号、1926年12月掲載の注記あり。
 副題「蘭学者の語学力について」。

 緒方洪庵と杉田成卿両訳の比較検討からその優れた点また欠点の指摘へとおよび、それらの背景と原因を、当時の蘭学者が生きていた社会の状況と、ひいては日本国家の存在していた環境に宛てて、その答えを求めようとするものである。

 著者の緒方富雄氏(洪庵の曾孫に当たられる)は、日本人のそれも一般人にもわかる翻訳を眼目として、その訳は自然平易を旨とし、ときに意訳・省略も辞さない(現にその訳名も「扶氏医戒之略」である)、一方の杉田成卿のそれは原文の内容と文体をいやしくも忽せにしない謹厳にして厳格な訳風とそれぞれを形容したがいに対置したうえで、それぞれにそのゆえの長所と短所があることを、実例を引き、そのいちいちにフーフェランドの原文を提示し、著者本人の現代日本語訳を添えた上で分析してみせる。(ちなみに両訳の関係は後者が前者に先行し、前者は後者を参照したという関係にある。)
 洪庵・成卿両者の訳の長所は今述べたとおりで、あるが欠点もまた、その裏返しとしてある。すなわち洪庵訳は明快であるが反対にいえば日本人にとってなじみのない、あるいは読者としてまずだいいちにその対象となる医者・蘭学者には不必要(と洪庵が判断した)部分は内容が改変もしくは省略されていることである。それとはまさに対照的になるが、成卿の訳は、あくまで全訳を目指した結果(題名はたんに「医戒」)、これらの、日本人読者には不可解あるいは無用な部分がそのまま訳出されて読解の妨げとなっているということである。さらに云えば、後者は訳文が蘭語に引きずられて日本語としても難解となっている。
 そのうえで著者は、両者に共通する欠点ありとしてそれを指摘する(296頁)。それは、主として二点から語られる。
 つまり、
 1、異国の風俗・文明に対する知識の欠乏。
 2、熟語・成語の誤解。
 である。
 1は原文の文化的・社会的文脈の無知による誤訳あるいは訳出不能(と結果としての省略)を意味し、2は語学力の不足による誤訳であり、そしてこれは1と問題の根本において関連するが、両人のオランダひいては西洋事情についての知識の不足あるいは欠乏からする原文への無理解によるものである。1・2の両点とも、オランダ語の熟語・成語の誤解が、やはり実例をもって指摘される。

 その議論と例証のなかで、私にとりとりわけ興味深かったのは以下の2例である。
 まずひとつ目は、
 成卿の訳を踏まえた洪庵訳にしてやはり成卿訳とおなじく、"mensch"を「病者」と訳している事実である。著者によればこれは病人もしくは患者と限定的具体的に捉える(訳す)べきではなく、「人」もしくは「人間」と、概括的な意味として理解し訳出すべき語であるという(200頁)。
 同様な指摘はもうひとつあり、成卿訳は原文のbeschouwing der zakenを「診察の法」としているが〔注〕、この語はもっと一般的な「物の見解、意見」というくらいの意味だと緒方氏は言う(286頁)。

 。このあたりの原文個所は洪庵訳では省略と意訳がはなはだしいが「扶氏医戒之略」では「自得の法」に当たるらしい。

 この両者の例に共通する特徴は、「これらの名辞のもつ一般的・抽象的なカテゴリーを訳者が理解していないか、していても日本語として訳出しなかった」ということである。

余論
 1.mensch=病者の翻訳について。杉本つとむ氏が解説を付けられた杉田訳『医戒』(社会思想社 1972年1月)では、杉本氏は、このmenschを御自身の解釈および現代語訳においては「人」と訳したうえで、杉田がそうしなかったのは、杉田の日本語では――杉本自身もそうであるが――、意味が抽象的で訳しづらかったのではないかという、すぐれて文体論的見地からの洞察を加えられている。同書152-153頁。
 2.beschouwing der zaken=診察の法の翻訳について。同じく杉本氏は「診察の方法」とされている。同書、88頁。

宇田川玄真『経験枢機 内外要論』を読んで

2017年11月21日 | 日本史
 宇田川玄真(榛斎)の『経験枢機 内外要論』の「経験」は、本書を読めば分かるがempiricismの経験である。実験にちかい。この意味の「経験」を、杉本つとむ先生は日本製漢語とし、この著をもって訳語としての初出とされたが(『医戒』168頁)、念のために言うと「経験」という語彙そのものは古代漢語にある。古代漢語の「経験」は、実際にやってみる(=通常の意味での経験。身を以て体験するの類い)という意味で、やってみて思わぬ験があったという結果はあってもあらかじめ設けた予測その他を実地に試してその正否を検証するという意味には乏しい。

福惠全書 - 中國哲學書電子化計劃

2017年11月08日 | 東洋史
 http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=281633&searchu=%E4%BA%B2%E9%AA%8C

 「親驗」という言葉がC. W. フーヘランド著/杉田成卿訳『医戒』(杉本つとむ解説、社会思想社 1972年1月)に出てくる。杉田氏はこれをおそらくは諸橋『大漢和辞典』に拠って『福恵全書』の「親験ハ則チ目を経テ分明ナリ」からきている「蘭学者の愛用語」とされる(同書48頁)。そこで『福恵全書』原文をこの語で検索してみた。
 「親験ハ則チ目を経テ分明ナリ」のくだりは『電子化計画』のテクストでは(38)に見られる。
 杉田氏によれば、蘭学者はこの語を「親しく実験すること」という意味で用いたという(同書同頁)。この杉田成卿訳『医戒』でも、この意味で、オランダ語翻訳からの本重訳の訳語彙として用られている(同書20頁第11行)。
 しかし、ここで検索の結果集められた『福恵全書』における「親驗」の使用例は、「担当者もしくは責任者が実地に現実、原物・現場にあたって調べること」であり、実験の意味はほとんどない。なぜなら、これは“頭の中で勝手な予見を持たずに”という前提に立つ語彙だからである。実験は観察のうえに仮説を建ててそれを検証する行為を指すが、この「親驗」は、まずは現実を見ろ、調べろという意味であり、観察のほうの意味が主である(そしてそれば検証を兼ねる。なぜならここには仮説を立てるという過程がないから)。『医戒』の「親験」は――ひいては蘭学者における――は、本来の語義とは意味がずれている。