書籍之海 漂流記

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『三字経』に「光武興、為東漢。四百年、終於献」というくだりがある

2017年01月14日 | 地域研究
 『三字経』に「光武興、為東漢。四百年、終於献」というくだりがある。この「為」はどういう意味か。
 そのすぐあとにも、こんどは「宋斉継、梁陳承。為南朝、都金陵」という、やはり「為」を用いたくだりが、またある。こちらもどういう意味か。
 ネットですぐ引けた注釈では、どちらも「なす」と訓読している。 日本語への解釈は、いまひとつはっきりしないが、「である」もしくは「と言う、呼ぶ」の意味に取っているようである。現代の解釈では、「為」にはそのどちらの意味もあるとしている。
 さらにいえば、「為」には「つくる」という意味もある。たとえば先に挙げた第一の例「光武興、為東漢。四百年、終於献」の「光武(帝)」は東漢(後漢)王朝の創始者だから、この「為」をその意味で解釈することも可能である。いま触れたネットの注釈は、前者についてはどうもこの意味に解釈しているようでもある。
 どれが正しいのか。この意味の確定は、文章内の文脈からだけでは不可能である。文章の外の文脈、つまり書かれた内容に関する知識が必要になる。
 ところで、今日の日本語の「なす」という動詞は「する」が第一義であろう。ついで「である」や「つくる」の意味がくる。「と言う(呼ぶ)」の用法はまれか、ほとんど使われない。ここで私はいったいなにがいいたいのかというと、訓読の日本語は、それ自体一つの言語もしくは少なくとも文体であって、語彙・表現・文のすべてにおいて現代日本語とは異なると、はっきり認識すべきだと主張したいのである。
 現代日本語の話者が、「為」を「なす」と訳語を対照的に記憶して、それを語彙あるいは表現に逐一当てはめていって自動変換のように訓読文を作っても、「為東漢」も「為南朝」も、現代日本語の意味と語感で解釈してしまうことになる。つまり、「東漢をする」は論外としても、「である」「つくる」と辞書(それも現代日本語の辞書)を、機械的に調べなおして、その辞書にある用法の順番どおりに、部品を入れ替えるようにコトバを入れ替え当てはめる作業を繰り返すだけであろう。そして現代日本語と訓読文の「なす」の共通する意味「である」が、幸いにも偶然このばあい解(の一つ)として通用する(=現代日本語としても通じる)がために、当てはめはおそらくここで終わる。しかし、訓読文はおろか、もとの古代漢語において現代日本語の「である」、すなわち繋辞に相当する語や概念はあったか否かという最大の問題(すくなくとも言語を解釈するという面から言えばだ)は、ここでは最初から最後まで等閑に付されているのである。

 ちなみに「である」の意味の「為」は『論語』『左伝』に例が認められるほど古くからある用法なのだが、手元の虚詞辞典を引いてみると、「為」が後世から見て繋辞となる用法は、『助字弁略』に第一の字義(「猶是也」)として挙げられるほかは、『経伝釈詞』『経籍籑詁』のどちらにも見られない。
 ここでおもしろいのは、『経籍籑詁』には『助字弁略』における「猶是也」の用法はないかわり、「猶属也」という、『経伝釈詞』にもない用法が記されていることだ。例は『戦国策』から取られている。「代、上党不战而已为秦矣。」現代日本語の「である」は、基本的に、両者がまったく交換可能(同一物もしくは言い換え)である場合以外は、主語は基本的に述語のなかに包摂されるものという思考上の前提があるから、「AはBである」と「AはBに属す」を別の用法(意味)として捉える古代漢語の考え方は興味深い。