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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

思考の断片の断片(56)

2008年05月21日 | 思考の断片
 劉暁波『現代中国知識人批判』(野沢俊敏訳、徳間書店、1992年9月)に曰く、

 中国の知識人は、「ただ暗君と貪官に反対するだけで、専制主義には反対しない」(28頁)。彼らの否定は「現存の体制に根底からは手をつけないという前提のもとになされ」(8頁)る。彼らの忠誠は「主人と奴隷の関係の上に打ち建てられ」(44頁)たものである。

 江戸時代後期薩摩藩のお家騒動、秩父崩れ(近思録崩れ)の記録『文化朋党実録』から抜き書き。

“御目附・秩父太郎・同清水源左衛門・同若松平八共ニ御役被差免慎被仰付。
 太郎名ハ季保、故ノ御目附伊地知新太夫季 ガ子ナリ。季 本姓川上氏、父ヲ彌右衛門ト云。仕官未考ヘス。兄ヲ彌三太ト云。後甚太夫ト改称ス。今ノ甚左衛門カ承重祖ナリ。仕テ長嶋移地頭タリ。季 出テ伊地知新太夫季周 伊地知越右衛門重 ガ次子ナリ。身族ヲ別シ、仕テ御側御用人タリ。寺社奉行ニ遷ル。今ノ越右衛門ガ義曹祖 ナリ。 ガ嗣トナル、故ニ伊地知氏ヲ冒ス、故ノ京都御留守居東郷源五實孝 今ノ次郎太郎カ養曽祖父ナリ ガ女 名ハ久 ヲ娶テ、安永三年 甲午 ノ歳ヲ以季保ヲ 府下平馬場ノ宅ニ生ム。季保幼ニシテ三七ト称ス。早ニ父ニ嗣テ伊地知氏ヲ継ギ新太夫ト改称ス。寛政元年 已酉 十一月 九日 十六歳ニシテ御近習番トナル。三年 辛亥 正月 十一日 奥御小姓ニ改ラル。 内朝ニ給事スル事トモ五年ナリ。五年 癸丑 七月 廿五日 御目附ニ遷サル。時ニ二十歳。八年 丙辰 伊地知氏ノ宗子秩父十太夫将種 将種ハ秩父氏ノ庶族弾正少弼季随ガ後ナリ。世々伊地知ヲ以テ氏トス。勘助重直ニ至テ始テ秩父氏ニ改ム。先祖大隈今ノ垂水ヲ領シ一所衆ニ列ス。子孫反ヲ謀ツテ邑ヲ(将種ガ曽祖父)収メラル。其後爵ヲ降シテ小番トス。将種仕エテ櫨方検者タリ。病テ旦ニ死セントス。遺言シテ季保ヲ以テ後トス。三月 廿一日 季保、命ヲ請ウテ将種ガ後ヲ継キ、改メテ秩父氏ヲ冒ス。十年 戊午 十一月 廿四日 太郎ト改称ス。季保性剛強ニシテ撓ス。法ヲ執ルコト厳刻ナリ。其道ニ非ザレハ一毫モ人ニ貸サズ。貴戚ト雖トモ避ル事ナシ。先是 享和元年 国老大目附ヲ令シテ御目附・郡奉行ヲ遣シテ諸郷ヲ巡リ、民ノ貧富ヲ視セシム。大目附新納内蔵久命、季保等ヲ台子ノ間ニ召シテ是ヲ命ス。皆敬テ命ヲ聴ク。季保独肯セズシテ曰ク、「民貧キコト有テ富メルコト無シ。行テ視ルヲ待ズ」ト。久命怒テ曰ク、「我国老ノ令ヲ承テ子ニ命ス。而ルニ子是ヲ拒ム、豈令ニ従ハザルカ」。季保曰ク、「令ニ従ハザルニ非ズ。某辱ク御目附ノ員ニ備ハル。聞見スル所敢テ告サズンハアラズ。」ト。久命辞屈ス。同幕島津登久兼傍ラニアリ曰ク、「子郡奉行ニ非ズ。何ヲ以テ民ノ貧富ヲ知ン」。季保曰ク、「方ニ今苛政大ニ行ハレ民皆生ヲ聊セズ。五尺ノ童子モ是ヲ知レリ。豈郡奉行ヲ侍ン。」ト。辞色並ニシ。久兼等怒甚シト雖ドモ皆答ルニ辞ナシ。季保退ク。久命、本田助之丞 季保ガ同僚。時ニ月番ヲ以テ事ヲ大目附座ニ執ル。ヲ召シテ曰ク、「季保令ヲ聞テ唯セズ。言ヲ発シテ敬セズ。宜ク諭シテ罪ヲ侍シムベシ」。助之丞以テ季保ヲ促ス。季保以為、罪ヲ侍シテ理ナシト。私ニ清水盛之ニ謀る。盛之慫慂シテ曰ク、「吾子言フ所其位ヲ出ズ。何ノ罪ヲ待ツ事カ有ン。」ト。若松平八モ亦是ニ雷同ス。季保遂ニ固ク執テ従ハズ。久命乃チ実ヲ以テ国老山田伯耆有儀ニ告グ。有儀素ヨリ其強直ヲ悪ム。因テ上ヲ侮リ法ヲ罔スルヲ以テ劾ス。是ニ至テ遂ニ職ヲ罷ラレ家ニ閉塞セラル。是歳季保二十九歳。” (享和二年 壬戌(1802)正月十六日条)

 (青柳 俊二氏のホームページ 「あゆみ(歩)」より転載)
 (http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/zituroku_01.htm)

 周恩来は、終生、毛沢東の信任を失うことを恐れた。これを高文謙氏は、「晩節を全うしようとした」あるいは「晩節を汚すことを恐れた」と表現している(『周恩来秘録』上下、文藝春秋、2007年2月)。

“毛主席に従わなければならない。毛主席は今日指導者であり、百年後も指導者である。晩節が忠でなければ、すべて帳消しだ” (「第二章 文化大革命がはじまる」にひく周恩来の演説、1966年5月21日、同書上巻144頁)

 だが主君に最後まで迎合し忍従することが「晩節を全うする」ことになるのだろうか。もしそうであるとするなら、この秩父太郎など、まさに「晩節を汚した」ことになろう。私には秩父の生涯こそが、まさに「晩節を全うした」一生に映るのだが・・・・・・。