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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

厳復 『天演論』「訳例言」

2013年10月02日 | 東洋史
 (『維基文庫』『天演論』「訳例言」)

 厳復の『天演論』は、秦以前の古文の文体と語彙(つまり深文言)で書かれているらしい。少なくとも出版当時の世評はそうだった。彼の古文の師匠で友人でもあった呉汝綸などは、「晩周の諸子とあい上下す」とまで誉めたそうである(『互动百科』「近代散文」項)。
 ウィキペディアの「厳復」項では、彼を桐城派に分類しているようだが(『天演論』の文章は桐城派の文体だとしてある)、彼は桐城派ではあるまい。呉汝綸は曾国藩の幕僚だったから当然のこと曾国藩と同じく桐城派に属するが、厳の文体はともかく思想は性理学(朱子学)のみではなかったから、「文は道を載す」を旨とする桐城派ではありえない。ただし漢代の語彙と表現を使わぬというのは漢代(前漢)については入れたり入れなかったりと、態度が曖昧でやや御都合主義的に見える、やたらな桐城派よりも桐城派的であるとは言える。とはいえ、この「訳例言」でも“希臘”が見えるように、語彙においては先秦にない物や事については後世のそれを用いざるをえなかったのは、言うまでもない。だがそれをできるだけ“晩周諸子”の言語でまかなおうとしたところに、厳復の苦心がある。さらに進化論という中国に全く存在しなかった考え方を表現しようとした。偉大と呼んでもいいかもしれない。
 (ちなみに曾国藩は桐城派だとされるが、彼は文章で時務や具体的政治を語ったから桐城派ではなかろう。「湖郷派」という彼一個の派を建てたとする見方もある。この文脈において厳復は曾の影響下にあったという指摘ならば、わかる。)
 ところで厳復はこの中で面白いことを言っている。『天演論』の翻訳には、浅文言よりも深文言のほうが向いていたという。その理由は、「漢以前の古文のほうが、それ以降の時代の卑俗な文章よりも、語彙の意味も表現も明晰であるからかえって訳しやすい(精理微言,用漢以前字法、句法,則為達易;用近世利俗文字,則求達難)」というものである。この“近世利俗文字”とは、漢代以降の浅文言および駢文を指すのか、あるいは白話文を指すのか。それとも両方か。