書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

福田恒存 「郭沫若氏の心中を想ふ」 から

2009年10月26日 | 抜き書き
 「朝日新聞」1966(昭和41)年5月2日掲載。

 ある思想家の著作はその著者のものであると同時に、あるいはそれ以上に読者のものである。著作を抹殺する権利は他のだれよりも著者に最も禁じられてゐるものと言へよう。自作の焼却を命じるのは、儒家を坑に埋め焚書を命じた秦の始皇帝以上の暴挙であり、思ひあがりの極と言ふべきである。始皇帝は単に自分の思想に反する「敵」を滅ぼさうとしただけのことだが、郭氏は自分が影響を与へ、自分を支持してきた「身方」を冷酷に裏切つたからだ。始皇帝の恐怖政治も恐しいが、郭氏の無責任にうかがへる道徳的頽廃の方が一層恐しい。私たちが恐怖政治を忌むのは、それがかういふ頽廃を生むからではないか。 (テキストは『福田恒存全集』第6巻、文藝春秋、1988年3月所収による。同書172頁、原文旧漢字。太字は引用者)