黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

無線再開の思い断ち難く退社

2011年07月26日 11時08分29秒 | 日記

 私の大阪における寮生活は楽しかったがアマチュア無線が出来ないのが難点だった。先輩から貰ったTRー1000で移動運用を時々していたが此れで満足出来るものではなかった。寮に入って2年目位に成ると先輩達も大半の人がアパートに引越しして行ったので私も寮の室長に成り徳島の後輩と二人部屋に成った。自由が効く様に成ったので夏のボーナスが出たところで日本橋で八重洲のFL-50BとFR-50Bの無線機を購入した。


 寮では無線は御法度だったが受信して聞こえれば送信したく成るのが人情、3階の物干し場に解らない様に21MHz帯用のダブレットを張りコソコソと無線をやっていた。2ヶ月程は何もなかったので調子に乗って運用していたら隣の叔父さんが「テレビから変な声が聞こえる。」と寮長の所に申し入れが有ったらしく犯人探しが始まった。寮長は警察のOBで大柄な迫力のある人で酒が入ると人柄の変わる人で運悪く自首した時間帯が夕方だった 1時間ほど御説教を聞いた後、隣のお宅に御伺いし御詫びし後日、対応をさせて貰いたいと申し入れると何とか了解が取れた。


 対策の為に何度か訪門する内におじさん夫婦には子供が居ない事もあって親しく成って行き、お茶を戴いたり食事を御馳走になる間柄になれた。私も徳島に帰省の折には必ず御土産を持っていく親戚付合いになったが何せ人口密集地帯この場所での運用を諦め無線機を封印した。


 無線熱が再発すると我慢することが出来なくなり大阪で生活をする限り無線運用は不可能と思い段々と会社を辞める事を考え始めた。当時は移動用の無線機など無かったし自動車を持つ事など考えも及ばなかったし大阪で無線を再開出来る可能性も無かった。生付きの田舎育ち やはり自分には田舎生活が向いていると考えたが「若気の至り」とでも言うべきか?其の延長線上に無線再開の思いが強くあった。


 次の年の正月、徳島に帰省の際、両親に気持を打ち明け辞める事を決めた。正月明けに出社して直に辞表を提出した。保留されたが私の意思が強いことが解ると3月まで務めることで受理された。自分の中にも「石の上にも3年」の思いが有ったので丸3年務め 3月末日で退社した。


 3年間の短い期間では有ったが仲間と別れる最後1週間は後ろ髪を引かれる思いをした。最終日には胸が熱くなり「二度とこんな思いはしたくない」次に就職したら定年まで務める事を強く心に誓った。

 
 其の年の3月25日に退社後、気持の整理の為長野県へ1週間一人旅をした後に徳島に帰った。
 



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