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四国八十八箇所霊場 第19番札所「立江寺」

2019年02月28日 15時19分15秒 | 四国88箇所霊場

        


  立江寺の歴史・由来


 立江寺は高野山真言宗の別格本山「四国の総関所」として四国八十八箇所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られている。縁起に寄ると聖武天皇(在位724~49)の勅願で行基菩薩に寄って創建された。勅命に寄り行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5
センチ程の小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。此れを「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられて居る。弘仁6年(815)弘法大師が此の寺を訪れ此のご本尊を拝した時、大師は余りにも小さなご本尊なので、後世に成って失われる恐れが有ると、自ら一刀三礼をして新たに1.9メートルある大きな延命地蔵像を彫造され、其の胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。此の時に寺名を「立江寺」と号した。当時の寺は現在地より西へ400メートル程の山寄りの景勝地にあって七堂伽藍を備えた巨刹で在ったと言われて居る。


 此の立江寺も「天正の兵火」を逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。阿波藩初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依を受け現在の地に移って再建された。また昭和49年の祝融の災いにもご本尊は救い出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授に寄り花鳥風月などが描かれて居り、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財と高く評価されて居る。寺伝の「釈迦三尊図」は国の重要文化財指定品で邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵」「立江の地蔵さん」と親しまれ今日に至って居る格式高い寺と成って居る。


 此の立江寺のある立江町は近在では珍しい門前町で毎年2月の後半(今年は23~25日)に開かれる初会式・大植木市は近在の行事としては最大の物で私の実家からは4Kmも離れて居たが小さい子供が此の距離を厭わず100円札を握り締め行きは「何を買おうか?」の楽しみで意気揚々なのだが目的を達した後の帰り道は疲れて長かった事など、懐かしい思い出が沢山残って居る。当時(昭和30年頃か?)は余り楽しみの無い時代であったが人家が無い山際の田んぼ道を通り立江寺に入る数百メートル手前から今は余り見ることの無い「芋飴」「板飴」の露店が沢山並び、他に玩具の露店や、覗き窓や、大きい球状の網の中でオートバイの曲芸が行われたりして大変賑わって居た。此の歳に成っても其の時以上の露店の賑わいを見る事は無く、子供にも大人にも此の「立江のお地蔵さん」は当時では一大イベントであった。



        


 其の後の火災で立江寺の境内の様子は私が子供の頃の立江寺の印象とは少し違うが幼児の頃に婆さんに手を引かれて写真の山門を潜った時に「賢い子にしていなかったら仁王さんに怒って貰うよ!」と言われ顔を覗き込んで其の怖さにビビッテ仕舞った事や少し改修されたのか?綺麗に成った多宝堂だけは昔と同じ場所に在り小さい頃に見た印象と一致して居た。然し当然と言えば当然だが此の頃の懐かしい思い出は立江寺に行く事では無く、非常に賑やかだった露店での楽しい買い物の思い出である。



        

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