神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

藤原道長と、わが祖先の奇縁

2024年03月30日 18時58分53秒 | 日本史
 約30年にわたって我が家のルーツを調べてきて、ようやく一昨年8月に完成した。 筆書きで137ページ+資料10ページほどの閉じ本で5冊だけ手作りした。
これで骨組みは一応出来上がったので、その後は肉付け作業に入った。

それはネットを中心にして、郷土史のアーカイブ資料、地方の民話や伝説、寺社の縁起とか建立までの言い伝えなどを調べているのです。
そうして得た資料を、これまでの骨組みと照合して、訂正したり、付け加えたりしていく、それをやっているうち点と点が線でつながっていくこともあるし
面にまで広がることも稀にある
これが実に楽しく面白い、そんな中で見つけた藤原道長とわが祖先の関連話。

昔の資料や伝説は多くは推測で書かれたものや、盛った話が多くて年代や人物の前後がつじつまが合わなくなることが多々ある。
郷土資料でさえ、1000年前ともなると結構あやふやなのだ、出典がなにかもわからない、そんな中で寺社の資料はわりと正しいかもしれない
ただし伝説、言い伝えは信用するかどうかは各々の判断と言うことになる。

わが祖先の姓Aは父の代で終わり、今は別の姓Bを名乗っている
昭和19年末まで父は、祖先A家の七つの分家の一つの嫡系だったが父の母が再婚した相手B氏に(子が無かったので)B家を継いでほしいと言われて継いでBの姓になった、もちろん私もBの姓である。
父は一人っ子だったからBになると言うことはA家を廃嫡することでもあった。

そのA家であるが、郷土資料では一番古い人物が登場するのが延喜3年(903年)となっていて、その年に一族の氏神を祀った氏子7軒の神社を創建した、その神社は今も在る。 私も5年くらい前に行って見て来た。
903年は大宰府天満宮、菅原道真公が亡くなった年でもある、更に言えば平将門が生まれた年とも言われる
また三大怨霊の内の二人が将門と道真というのも偶然で不思議である。

藤原道長の六男は歌人として名高い正二位権大納言藤原長家、そして長家の孫が藤原資家、彼は妾腹だったのか?(まひろの息子かも・・それはない!) 官位は従三位だが無役だった

その頃(1125年頃)下野国八溝の山の中に、「悪鬼」「蟹の化身」などと呼ばれる人でも獣でもさらって喰らう化け物がいて、周辺の人々を恐れさせていた。「岩嶽丸」という、
都にも、この話は伝わりほおってはおけなくなり、討伐の兵を送ることになった、兵と言っても僅かな人数で、足りない分は現地徴兵と言うことになった。
そして、その大将に選ばれたのが藤原資家だった。
現地で岩嶽丸に詳しい者を雇い、三十人ほどの兵を引き連れて山中に入っていった、その中にわが祖先「Aの治部太郎」と云う者も加わっていた。
岩嶽丸の棲み処を探すのに地元で勢子数百人を雇ったが見つからず、お告げがあってそれで見つけることが出来た

そして洞穴に潜む化け物をついに発見、正体は1000年も生きているカニの化け物、背丈2m足10本で前の足は、ハサミ状、しかし資家と勇士によって退治して首を切った、その首は飛んで行って
「どうこうした」という様々な伝説になって残っている。(平将門の最後にも似ている)
その為、祟りや霊魂を鎮めるためにいくつかの神社が作られた

藤原資家は、この功により名前を須藤権守貞信と改めて、下野国を任されることになった、彼が下野黒羽城を構えた那須氏の祖先である。
源平合戦の那須与一も一族である。

またわが祖先の「Aの治部太郎」も手柄を立てて褒美として、須藤貞信の領地の内、一地方(郡)の地域で最大の集落の郷士として長百姓(のちの地主、庄屋、村地頭)の地位を得た
その後、A家の本家は昭和の戦争が終わるころまでは確実に続いていた
分家の我が家は父が昭和19年に廃家にしたが、それ以前明治の40年代に家運が傾き福島県、栃木県の各地に家族は離散した。
だから今も、それらA家の子孫が住んでいることは確かである。

大した因縁ではないが、道長のひ孫とわが祖先が家来となって一緒に悪鬼を相手に戦ったという伝承は面白い。
九尾の狐を祀った「玉藻稲荷」にも祖先の一人、A又右衛門という人が寛政12年(1800年)に鳥居一基寄進したと資料にある。
我が家の一番古い公の戸籍には文政12年(1829年)生まれのA利右衛門という名がある、間もなく生誕200年か。

岩嶽丸討伐と、九尾の狐狩りでは約150年の差があるから別であろう、狐の方は三浦介、上総介、千葉介が1155年に行ったとあるので違う件なのは確かそうだ。







仁徳天皇の徳政

2024年03月16日 10時04分14秒 | 日本史
 書によれば、人皇第十六代仁徳天皇は、あるとき宮殿から都の家々を眺むるに食事時と云うのに、どの家からも炊飯の煙が上がらぬことに不審を思い調べてみると、民の暮らしは貧困のどん底で、炊飯する雑穀にも事欠く有様であることを知った。

民の暮らしの貧しさを知った天皇は、直ちに課税を三年間にわたってやめることを官吏に伝えて実行した。
天皇も自ら質素倹約を掲げて、宮中の人々にもそれを実行させ、履物、衣服に至るまで新調を控えさせた。
また宮中の屋根から垣根に至るまで、穴が空こうが壊れようが修繕を拒み、そのままにしておいた、食事も民の苦しみを思い、自らも粗末な食事に甘んじたという。
皇后が暮らしの貧困を嘆いても、天皇は「天が朕をここに授けたのは、民の暮らしを護るためなのだ」と諭したという
また「民からの税で豊かな暮らしをさせてもらう者は、まず民が豊かに生きられるように心を砕くべきである、民が豊かになれば、おのずと次にわれらも豊かになるのだ」とおっしゃられたそうだ。

その甲斐あって、諸国は五穀豊穣の恩をたまわり、人々の暮らしは楽になったので官吏たちは、もう課税しても宜しいでしょうと告げたが、天皇は更に三年にわたって課税をしないようにと申し付けた。
民はこの話を聞いて、帝に感謝の心を持って、誰からともなく集まり、宮殿の修築を手弁当で行ったという

また天皇は新田開発に力を注ぎ、決壊する堤防を徹底的に修築して田畑を反乱から守ったという。
仁徳天皇はその名の通り、多くの天皇の中でも聖皇の一人に数えられる。


琵琶湖周航の歌(心にしみる歌)

1945年3月10日

2024年03月10日 08時11分59秒 | 日本史
 毎年、毎年3月10日「東京大空襲」記事を書いている
昭和20年3月10日の東京大空襲は、半年後の広島や長崎への原爆投下の伏線で、降伏しなければ日本人は一般人でも皆殺しにするぞというメッセージだったのだ。 現在進行中のパレスチナ戦争に似ている。

先日、例の如しで映画を見た「戦場の教室」ナチスが占領地のユダヤ人(当時は国家無き放浪の民)を集めて来ては集団虐殺する映画、その中でペルシャ人に成りすまして生き延びた男の話(実際には600万人ものユダヤ人が無抵抗のまま銃や毒ガスで殺されたそうだ)
イスラエルの人々は、こうした皆殺しの危険から生き延びて国を作った
そして地域最大の軍事力を持ち、今やパレスチナ人を虐殺している
人間とは自分の痛みは当然知っているが、人の痛みに置き換えることができない生きものなのか? 考えさせられる

広島、長崎の被爆を知らない人は少ない、若い人でも知っている、けれども東京大空襲も広島、長崎と同じ10万人以上が犠牲になったことを知っている人は割と少ない。
現在の東京23区の東半分、日本橋、上野、浅草、両国、 本所、深川、亀戸、砂町一帯にサイパン、テニアン、グァムから325機のB29爆撃機が1665トンの焼夷弾を投下して焼き尽くした。
焼夷弾とは爆発の破片で破壊や殺人をする爆弾と違い、家を焼き尽くすための油と火の爆弾だ。

1万mを飛べるB29は僅か2000mまで下って、確実な命中精度で爆撃した
日本軍も迎撃機を発進させたが、数も少なく高度が低いのが逆に災いして、高射砲も効果が薄れた、そのため確実に撃墜されたB29は2機だけだったと言われる。(被弾したり、海上に不時着した機は数十機あったようだが)

この時、19歳の父は調布の高射砲陣地から真っ赤に燃えている東京を見ていた
その下には自分の家があり、両親がいるのだ
行くに行けず、ただ見ているしかないその気持ちは、どうだったのだろうか。

翌日、特別休暇をもらって行ったが、亀戸は焼け野原になっていて、いたるところに死体が転がっていた。
十間川では浮いている遺体を竿にひっかけて陸に上げる作業が行われていた
焼け残った浅草松屋近くの防空壕には遺体が折り重なって、苦悶の表情で天を見上げていた
高熱で窒息あるいは蒸し焼きになったようだ、父の生涯で一番怖い光景だったと言っていた。

自宅もわずかに柱が残って、まだくすぶって煙を上げていたという
この空襲で、亀戸両親、浅草の叔母さん、帝劇で働いていた隣家の美人おねえさんも亡くなった
遺体は見つからなかった、たった2時間で10万人以上を殺した空襲
人間とはいったい何者なのだろうか? 
                                                                    合掌





藤原氏の始まりを調べてみた

2024年02月21日 08時31分36秒 | 日本史
 平安時代については、おぼろげなイメージしかなく、いったいいつからいつまでで、どんな権力者が居たかも知らず、天皇が絶対的な権力を行使していると思っていた。
そして時代は年代の通り「平安な時代」と捕らえていたが、たぶん平安京からとったのではないだろうか。

学校で習ったのは「奈良をなくして(794)平安遷都」だったが最近聞いたのは「泣くよ(794)ウグイス平安京」だった。
でも奈良(平城京)を無くして平安京の方が筋道は通っている。

平安京を意識するまでは江戸時代(約260年)が一番長い平和な時代と思っていたが、実際は平安時代で約390年続いた。
だが藤原氏の繁栄は更に遡り奈良時代の平城京、更に飛鳥時代までさかのぼる
奈良時代を加えれば約470年、藤原鎌足から数えれば540年ほど天皇と貴族が栄えた時代が続いたことになり、これは朝鮮李王朝の520年よりも長い。

藤原氏の絶頂期平安時代は摂政関白、大臣同士の権力争いはあったがほとんどが主流の藤原四家の藤原家同士の争いであり、それは裏工作の連続で、内戦状態まで発展することはほとんどなかった、朝鮮王朝の権力争いに似ていて、その様子は「光る君へ」によく描かれている。
今週の回でも右大臣藤原兼家が道長に「人殺しはいかんぞ、あれは身分賤しき者たちがすることだ」と言ったように、彼らは武士ではなく貴族だったからである。 藤原氏は武士に似て武士でない、平安時代以前には武士はなく、平安時代に入って荘園制が取り入れられて初めて、武士の原型が主に東国で芽生えてくる。

以下の多くは古事記、日本書紀参照

藤原氏の始まりを説明するには、三十三代推古天皇から始めるのが良い
592年に即位された女性初の天皇である、
第三十代敏達天皇の後添えの皇后であった(結婚前は額田部皇女)
その頃は大臣蘇我馬子が権力を握っていて、もう一方の権力者、物部守屋と互いに皇子を頂いての戦になった
蘇我氏は聖徳太子らを旗印に守屋を破って絶対権力を握り、崇峻天皇と対立して天皇を殺害した

推古天皇は父が二十九代欽明天皇で、三十一代用明天皇の妹、崇峻天皇の異母姉、大臣の蘇我稲目の姪というサラブレッド皇女であった。
推古天皇の御代では聖徳太子がその才能と手腕を発揮して天皇を助けた。
また蘇我馬子も太子同様に働いたにちがいない。
この時代は朝鮮半島や大陸との往来が盛んで、朝鮮半島の南端には日本の拠点ともいえる任那があり、ここを巡って新羅と何度も戦を行った
また小野妹子を団長とした遣隋使も送っていた。
聖徳太子、蘇我馬子と朝廷を担う巨頭二人が相次いで亡くなると、推古天皇も後継者を決めずに崩御されたため、天皇の継承者は定まらず大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)にゆだねられた、そして田村皇子を即位させて舒明天皇が誕生したが、政治は蘇我馬子、蘇我入鹿の父子によって独占された。
舒明天皇は宝皇女を皇后として、葛城皇子(中大兄皇子)、大海人皇子を産み、蘇我馬子の娘との間にも古人大兄皇子が生まれた。
いずれも皇位継承権を持つ皇子であるので、朝廷内での継承争いがおこるのは必死であった。

舒明天皇が崩御されると、以前から考えていたのか皇子たちの争いを避けるためなのか皇后は自ら皇極天皇となって即位した。
女性として二人目の天皇である。
三年の後、政治をわがものとしてふるまう蘇我入鹿とその父蝦夷を、中大兄皇子、中臣鎌足が主導して討った、蝦夷の甥にあたる古人大兄皇子も出家して吉野に赴いた
皇極天皇は退位して中大兄皇子を即位させようとしたが、皇子は天皇の弟である軽皇子を推薦して、盟友の中臣鎌足と共に新天皇を支えることとなった。
軽皇子は三十六代孝謙天皇となった
この功労により中臣鎌足は「藤原」の姓を賜り、藤原鎌足となり内大臣に任命された。 ここが藤原の始まりである。
ここまでが平安初期の荒々しい権力争いと藤原氏が誕生するまでの流れである。
「光る君へ」の雅なる平安の黄金時代は、ここから300年後である、ゆえに藤原氏も300年以上栄えたのである。






武士の起源などを調べてみた

2020年05月10日 20時01分28秒 | 日本史

東京の感染数が次第に減ってきている、これがほんとうの数字なら

とても良い兆候だ、全国的にも感染者ゼロが多くなってきた

今日は日曜で、午前の地元ショッピングモールは東京銀座よりも

ずっと人が多かった

優良な県の自粛解除がおこなわれる可能性が出てきた、まずは

集団感染の可能性が少ない小売業などから解除になりそう

当然ながら50名、100名を同時に収容する私のような店は、まだまだ

解除にはならないでしょう・・・一番最初に仕事がなくなり、一番最後に

解除される、「こんな商売もう嫌!」・・・・・と言いたいが

それはじっとこらえて、どうせここまで来たら10日も1ヶ月も同じ事

開き直って楽しくやろう!

深刻に考えて、神経を集中して打開策を考えたって名案なんか

すぐに浮かんでこない・・・・そう言う意味ではもうポンコツ頭

笑うポンポコリンで笑うしかない・・・ならば大声で笑う

家の中で縮こまってばかり居るから、たまたま足を伸ばしたときの

気持ちよさ、そうかストレッチも良いなあ

ファンキーミュージックに合わせて踊るのも良いかも

「ファンキーファンキーブロードウェイ! いぇ!」

どうせバカ頭バカになって踊ろう、カラオケも随分歌ってないなあ

仲間とも飲んでいないなー、 一人で飲んでもつまんねぇや

 

さて暇が出来た日は仕事を忘れて、家を出て、車に乗って

何をしに行こうか・・・・・・

料理作りも面白いけど、毎日毎日これじゃやりきれない

 

朝5時に起きて、ワールドニュースを見たり、撮りだめの映画を見たり

そして6時半に魚市場2カ所をまわり、魚屋仲間と挨拶、情報交換

8時に店に行って、毎日2人ずつ交代出勤の社員が出てくる10時まで

溜まった事務や、営業作戦を考えたり,ブログチェックをしたり

10時から調理場に入り、その日の仕事をする

社員が帰る17時から一人で「ボ~」っとしながら電話番を20時までして

あとは警備会社に任せて帰る

家に戻って晩酌しながら夕飯を食べて、それから愛犬のご機嫌伺いをして

それから部屋でテレビを見ながら眠りに落ちてしまう

22時頃目が覚めて、重い重い体をなんとか起こして、それからお風呂に入ると

今度は覚醒して目がぱっちり空く、それで一杯飲みながらテレビを見る

今は撮り置きの中国歴史ドラマ2本を見る、そして24時、ようやく電気を消す

そんな決まった日常を一日も休まず続けている

 

そんな決まり切った時間の中でも読書だけは毎日続けている

一日10ページだけの読書、たった5分だけの読書、それでも2ヶ月で1冊くらいは

読み終わる

この頃は「古代からの日本の内戦の歴史」「武士の起源」についての2冊を併読

している

もう秀吉だ謙信だという戦国戦記は読みあきた、新しいネタは早々出てこない

ずっと前から考えていたのだった、私の血がつながっている祖父(戸籍上は他人)

が調べて書き残した我が家の歴史には、鎌倉時代(北条時賴の時代)に祖という

人物が表れる

三浦三崎の藤原系の武士で、同地の武士の娘と恋愛をして許されず、はるか

下野国(栃木県)の那須まで駆け落ちして、その地を開墾して名をあげたという

その地で8人の男子をもうけて7家の分家と共に栄えて、氏の長者となって

様々な伝説が伝わっている

祖父が大正年間に調べたものだが、地元の歴史ではこの人物は更に300年

遡って900年代早々の延喜年代に確かな名前が表れる

我が家は、その本家から300年ほど前に分家してその分家の嫡流として

私で15代目とか16代目なのだそうだ

祖母が結婚するとき(婿取り)には本家の奥さんが祖母を本家の養女と

して、本家並の結婚式をしてくれたという、これは祖母が、その母(私の祖祖母)

の再婚でママ父の籍に入っていたからで、本家は、本来の籍(分家)に祖母を戻して

いわゆる「お家再興」を助けてくれたのだ、「家」を重視する時代ならではの話しだ

だが父の代で、その由緒ある家を廃して、今の姓の家を受け継いだのだった

 

なぜ「武士の起源」を呼んでいるかと言えば、頼朝と関係が深い三浦一党

から別れて那須で一家を興し、地域の有力者となり地方地頭を務めた先祖が

そのときは既に大地主だったわけだが、果たして身分は武士なのか農民

(小作ではない)なのかを調べたかったのだ

田舎武士はその地から身分低き者どもが荒くれとなって徒党を組み、

やがて朝廷の出張所である管領や公方の用心棒的

役割を与えられて、やがて源平などの武士となった」というのが説が主流だった

だが「武士の起源」を調べてみると、武士の起こりはその元は、朝廷にあり

天皇が多くの子を成し、庶子も多く、それらを京の朝廷で面倒見切れなくなり

各地に食い扶持を与えてあるいは役職を与えて広まったという

だから当時は武士という職業はなかったが、その祖は乗馬と弓射に長けた

身分ある者だったということだ

それが時代と共にその地に永住して一族を増やし在地勢力となり、都からくる

役人(国司など)と手を組んだり,脅したりして税をごまかし、狼藉を働き在地勢力

として強大化していったという、まさに京から遠い地方はやりたい放題だった

それは8世紀から10世紀以前のことで、まだ朝廷に権威があった頃は、前九年の役

後三年の役、あるいは平将門の乱や藤原純友の乱を鎮める事が出来た

けれどこうした反乱を起こすだけの力を持つ豪族や(武士団)がすでに地方にあったのだ

だがそれらは武士とは呼ばれず、最初に武士として呼ばれたのは朝廷をあるいは

天子を守る者たちだった。

いずれにしろ武士は田舎の貧しい階層から発生したのではなく、天皇の子孫から

発生したのであって、天皇家の外戚で栄華を極めた藤原氏、天皇の子孫である

平氏、源氏を武士が名乗るのは当然だった

我が祖も藤原氏というのは、藤原一族だからすごいだろ!という意味ではなく

武士で在るからにはそれらのいずれかの流派なのは当然だったのだ

武士などというが特別なものではなく、人口も少なかった昔では国民の半分武士

、半分農民という位ではなかっただろうか、武士が珍しい特別な存在ではなかった

だろう、現代でも公務員の給与手当年金総額と税収を比べれば、昔の公務員である

武士の数が農民と同数でも不思議ではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥羽越列藩同盟

2020年04月25日 17時54分41秒 | 日本史

爽やかな、ほのぼのした記事を書こうと思うが、朝起きて

市場に行けば、もう「売れない」とか「休業」とか「感染」、そんな話題ばかり

とうとう市内の「道の駅」も全面休業に入った

政府は5月7日迄の自粛というが、そんなものでこのコロナが治まるだろうか?

今日も国道を『ブンブン』と県外のバイク集団が走っている

毎日毎日、こんな事を書き続けている自分がバカに見えてきた

 

幕末、長州、薩摩を中心とした西国大名の官軍が江戸を降伏させて

最後の仕上げと会津征伐にむかった

徳川家康の東軍が会津の上杉征伐にむかって以来、260年ぶりの

会津征伐だ、今度は攻守入れ替わり、德川方が攻められる番となった

すでに会津に戦う意思はなく恭順を示していたが、若い方面軍参謀は

「会津藩主の首を取る」と息巻いて許そうとはしない

奥州最大の仙台伊達藩が仲立ちしても、まったく妥協する気配も無い

あまりの尊大無礼についに業を煮やした仙台藩が官軍参謀、世良修蔵を惨殺した

そして勢いのまま、『奥羽越列藩同盟』を結成した

越後と現在の東北6県が力を合わせて、会津の許しを請おう、そして平和裏に

この戦争を終わらせようというのが目的だったのが決裂した

越後と言っても中立を許さない官軍に「降りかかる火の粉は払う」と開戦した

長岡藩だけが根性を見せただけで、その他はほぼ恭順

官軍は越後から,白河口から、攻め寄せてきた、しかし白河口は伊達藩の援軍も

あったが、いとも簡単に打ち破られてしまった

越後口は、会津藩と長岡藩が官軍相手に激しい戦闘を繰り返し一進一退

ついに長岡城は官軍の手に落ちて、家老河井継之助は会津に落ち延びる途中

絶命した、田舎にあって藩の近代化を推し進めた英傑であった

東北では秋田藩が同盟を裏切って、山形の庄内藩に攻め寄せた

しかし財政豊で近代兵制をいち早く取り入れた庄内藩は強く、越後、東北の

官軍方を撃破し続けた

しかし白河口からの官軍の攻撃は早く、二本松を落とし、仙台藩を降伏させ

三春は裏切り、つい会津藩も降伏したのであった

 

今、コロナに攻め込まれ、江戸も大坂もたいへんな事になっている

比較的感染が少ない東北と越後はGWに向けて、ウィルスの侵入を防ぐために、

新潟県と東北六県及び政令指定都市の新潟市と仙台市が、まさに

「奥羽越列県同盟」を結んだ

広域連携で関東関西からのウィルス侵入を防ごうというのが趣旨のようだ

三度目の会津戦争がいよいよ始まるのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


半島国家と島国国家の政権

2018年09月15日 21時41分48秒 | 日本史

日本人は大和朝廷、京へ遷都、鎌倉時代、、秀吉の大坂政治、江戸時代、いかなる場所で、いかなる者が

政治を行っていても、この国は日本(倭)であり、住民は日本人(倭人)で2000年続いてきた

 

中国も4000年間、大陸の中原は国名が唐、宋、明、中国と代わっても、住民は漢が政権を取って以来

ずっと漢民族である

 

だが半島国家は小さいけれど、統一した国名も統一した民族名も不明で何と書いて良いかよくわからない

韓民族というが、朝鮮民族という名もある、韓は半島の三国時代以前に馬韓、辰韓、弁韓の三韓という

のが半島の南縁にあった

そして日本に統合された1910年以前に大韓帝国が少ない年数存在した、だがそれ以外で韓という国名

民族は聞かない

韓は韓国語で「ハン」と読む、これは恨「ハン」に通じ、朝鮮人の心の根には「恨」が潜んでいると言う人も居る

日本の国民音楽「演歌」は、語りから始まった楽曲と言うが、青江三奈、森進一に代表されるように夜が似合う

男女の甘いムード歌謡「艶歌」、その逆の人生の底辺を語る「怨歌」は「恨」に似ている。

 

 

朝鮮とか朝鮮人というのが一般的でもっともわかりやすいが、朝鮮とは1392年に高麗の将軍、イ.ソンゲが

高麗王家を皆殺しにして滅ぼした易姓革命で作った国家で、その国名は大陸の宗主国「明」に選んでもらったのだ

という。 朝鮮、朝鮮人というのはここが起源だから、それ以前には半島には朝鮮も朝鮮人も存在しなかった

今は半島の北半分は朝鮮で(北朝鮮とは韓国を南朝鮮と区別する時の便宜上の言い方)

南半分は韓国になっている(韓国では朝鮮を朝鮮と言わず北韓と呼ぶ、朝鮮という言い方は嫌いとのこと)

国際的にはコリアと呼び、サウスコリア、ノースコリアとなっている

先のピョンチャン冬期オリンピックでも半島全図の統一旗をかかげチーム名(国名)も統一コリアだったと思う

コリアは高麗の英語読みだと思う。 この半島に相応しい統一表記があるとすれば高麗、高麗人が一番

良いのかもしれない。 半島人には高麗の原型、高句麗がもっとも華々しくもっとも大きな国家の時代だった

高句麗は大陸の隋が滅ぶほど勇戦し、唐とも互角に渡り合っていた強国であった。

 

 

それぞれの政権の流れ

日本  天皇による直接政治-藤原氏の摂関政治-天皇及び院政-源氏~北条氏の鎌倉幕府政治

-後醍醐帝の短期帝政ー足利氏の室町幕府政治-戦国乱世-豊臣氏による政治-徳川幕府

ー明治維新王政復古ー東亜.太平洋戦争敗戦.アメリカ主導の民主主義政治のはじまり

 

朝鮮半島  古代朝鮮-新羅.高句麗.百済の三国時代ー新羅ー高麗ー朝鮮ー日本併合時代

ー日本敗戦で独立ー朝鮮戦争の結果、朝鮮と韓国の二国時代

 

日本人の起源は北方、朝鮮半島、南方から渡ってきた様々な民族の混じりが長い年月の間に原日本人と

なって、やがて南からやってきた倭によって淘汰され、新日本人(大和民族)となったのではないだろうか

そして畿内に天皇を中心とした朝廷を構えて政治が始まった

 

半島では南に原半島人の三韓民族、南東部に新羅、南西部に百済、北半分に高句麗が有り、三韓は

新羅に統一される

三国はそれぞれに王が居て、王政国家であるが、高句麗は今の北朝鮮に旧満州を加えた、広大な国家であった

民族も、おそらく純粋な半島人では無く、半島人種や満州族、北方の遊牧民、漢民族、あるいは西方のアジア系、

海岸部の民族、沿海州方面の民族など多彩な集合体あるいは混血だったのでは無いだろうか。

やがて、漢民族の唐の支援を受けた新羅が、百済、高句麗を滅ぼして半島の統一国家を完成させたが

満州から遼東半島は唐に帰属して、現在の北朝鮮南部と韓国を合わせた程度の国家になった。

新羅金王朝の誕生、新羅の歴史は長いが、統一新羅は約250年続いて高麗王、王権に譲位する

新羅が統一国家となった頃、滅びた高句麗の一族大祚榮が、唐と新羅の間で支配者が定まらず混沌としていた

旧高句麗の地を次第に奪って「渤海国」を建国した、その領土は、今の北朝鮮北部~ロシアの沿海州に広がる

広大なものだった

新羅と唐は対立もあったが、主に友好的で有り、渤海と対立していたので、危機感を感じた渤海は倭国(日本)に

使者を送って友好を求めた、倭国もこれに答えて友好関係を結んだ

百済がまだ健在で新羅と戦っているときも倭国は友好国の百済を応援して援軍を送っていた

一方で倭国は唐にも遣唐使を送って友好を維持していた

このように7世紀~10世紀は、半島と倭国は大陸も含めた大きな土壌の中で、戦争や友好による深い繋がりを持っていた

 

日本は12世紀の終盤まで天皇中心の朝廷政治が行われていたが、平清盛が後白河天皇に取り立てられてから、

武家の地位が一気に上昇して、1192年には貴族化した平氏を滅ぼして源氏(源頼朝)が鎌倉に幕府を開き、実質的な

政権運営を始めた

武家政治の始まりである、朝廷貴族政治、あるいは帝政から遥かに身分卑しき者だった武家に政権が移ったのは驚くべき革命

といえよう。

 

半島では9世紀の末になると新羅の貴族政治は乱れ、弱体化した。地方で2つの強力な勢力ができた、それぞれが後百済、

後高句麗を名乗って新羅の領土を侵略した、特に南部でできた後百済は直接的に新羅を攻撃して、ついに新羅の都を攻撃した。

一方、後高句麗では専制的な指導者クンエを部下の王権(ワンゴン)が討って、後高句麗の指導者となった

風前の灯火の新羅王は、ワンゴンに政権を委譲して新羅救援を要請した。 ワンゴンは要請に応えて、後百済のスンホン軍を

撃退した

その後は後高句麗と後百済は一進一退の戦闘を繰り返していたが、後百済の王スンホンは、息子の反乱で別腹の

息子たちを殺され自らも命の危険にさらされた。 なんとスンホンが選んだ道は仇敵だったワンゴンに救いを求めたのだった

ワンゴンは快く応じ、スンホンの案内で簡単に反乱軍を壊滅させた。 スンホンはワンゴンの後高句麗の半島統一を認めた

ワンゴンも親の年齢のスンホンを手厚くむかえて生涯の面倒を見た。

こうしてワンゴン(王権)は高麗王国を宣言して、新羅に代わる統一王朝を完成させた、936年の事である。日本では次々と

天皇に娘を妃として送り込む権力者藤原氏による摂関政治の真っ只中であった。

 

この頃、半島の北の満州付近では渤海が遼に滅ぼされ、遼は金に滅ぼされ、金はモンゴル族の元に滅ぼされた

元は大元国と名乗って、その騎馬軍団を南方に進めて、唐のあとにできた中華大陸の宋を攻めて滅ぼした

同時に半島の高麗にも攻め寄せて数十万を虐殺し、王族をはじめ数十万の民を捕らえて元へ送った

高麗の王子を元風に洗脳して高麗に送り返して王位を継承させた、王名も元風のものに変えさせて隷属させて

支配した。

これは元がヨーロッパまで攻め込んで人類史上最大の領土を得たのち分裂して、弱体化するまで続いた

1274年、1281年の二回、元は高麗軍や宋の降伏軍を先頭に大軍で海を渡り、日本の九州博多に攻め込んだ

このときの日本の為政者は源氏のあとを継いだ執権北条氏(北条時宗)であった、元の降伏命令に従わず九州武士団は

勇敢に戦って、二度とも撃退した、元の大軍は二度とも運悪く海上で大嵐に遭遇して壊滅的な損害を被った

しかし北条時宗はこの時の心労などがたたって30数年の若さで亡くなった、そして鎌倉北条幕府も次第に弱体化して

1334年、王政復古を目指す後醍醐天皇と、尊皇の士の軍によって滅んでしまう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


権力の歴史

2018年06月23日 16時47分01秒 | 日本史

朝鮮半島で14世紀末にできた「李氏朝鮮王朝」と17世紀初めにできた日本の「徳川幕府」の成立過程は

似ている

徳川幕府は誰でも知っているので、簡単に成立過程を書くと、戦国時代が統一されていく過程で最後の

仕上げをしたのは、織田信長-豊臣秀吉-徳川家康の3人であった

信長時代では、秀吉は信長の有力な軍団長であり、家康は日米関係のような同盟者であった

秀吉時代では、秀吉が日本の統一を果たして戦国時代を終わらせた、その豊臣政権で家康は大臣の筆頭

となった

そして秀吉が死んだあと、残された遺児、豊臣秀頼を担いで、思いどおりに自分の権力を拡大していった

それを良く思わない、石田三成などの純豊臣官僚が立ち上がって日本を2分して関ヶ原で戦った

しかし、ワンサイドゲームで家康が勝ったが、まだ支配者にはならず、相変わらず豊臣秀頼の大臣として

振る舞った。 それは石田三成とは馬が合わなかったが純豊臣家臣である加藤清正、福島正則など

強靱で影響力ある豊臣恩顧の有力堅物大名が数名残っていたからだった

だが実権はあきらかに家康にあった、そして清正が死ぬとついに家康は大坂城に秀頼を攻め殺して

豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開いた、その時代は明治まで260年続いた

だが幕閣の権力争いは兄弟間の将軍位争いを引き起こす

家康の長男は家康が信長に従っていた頃に、信長に言いがかりをつけられて自らの手で切腹をさせた

家康の人生最大の痛恨事であった

次男は秀康は秀吉の人質として行った大阪城で秀吉に可愛がられたこともあり、家康はこれを嫌った

後に福井松平家の祖となる

3男秀忠は恐妻家の凡人と言われるが、家康は愛し、後継の2代将軍にした、6男忠輝は戦国豪傑の趣があり

舅は野心家の伊達政宗だったので、危険を感じた秀忠は家康と相談して、越後高田の大大名だった忠輝を改易

田舎に配流して92年の生涯を終わらせた

3代将軍となった家光は、父秀忠夫婦が愛した実弟の忠長に将軍の座を奪われそうになったが、乳母春日局の活躍で

家康から将軍のお墨付きをもらう

こんな事があって、兄弟の中は悪くなり、秀忠が死ぬと家光は忠長に切腹を命じた。

 

一方、半島では高麗王朝が約450年続いて末期を迎えていた、高麗の家臣で地方財閥であるイ.ソンゲ将軍は

今の北朝鮮付近に強大な軍団を持っていた、だが純粋な軍人で中央政界とは無縁だった

そこに取り入った人物がチョンドジョンである、彼は中央で中堅の役人だったが反骨心旺盛で反発して罪人になったこともある

野心家でイ.ソンゲを利用して国家転覆を謀ろうと近づいた。

まずは、高麗王朝を実質動かしている独裁大臣を追い落として殺し、イ.ソンゲの上官だった大将軍をも追い落とし

高麗王の首をすげ替える権力を握った、そして最後は高麗王のワン氏以下、一族をことごとく抹殺してイ.ソンゲを王位に

つけて李氏朝鮮国を宣言した。

だが官僚の多くは高麗王朝の官僚だったので反対する者も多く、粛正が続き、政権は安定しなかった

老いていくイ.ソンゲは、長年戦の連続でもう血を見ることには辟易していた、そして悪夢にうなされ仏教に帰依するように

なった、そして後妻の息子を世子(セジャ=次の王様第一候補)に指名したため、才覚ある5男のバンウォンが反発

チョンドジョンと対立して、ついにドジョンを暗殺した、次いでバンウォンはイ.ソンゲが亡くなるとセジャだったイ.ソンゲの

後妻の息子2人を殺害して、実兄で2男のバングァを2代王に奉ったがバングァは、バンウォンを恐れて王位を2年で

バンウォンに譲った。

朝鮮王朝、第4代王は、李氏朝鮮の王の中でもっとも優れた王と言われた世宗(セジョン)

3代王の父の情け容赦ない権力志向を反面教師にしたとも言われる、字を書けない庶民のためにハングル文字を発明した

王でもある。

 

 

 

 

 

 


日本史 新しい興味が湧いてきた

2018年05月26日 14時20分42秒 | 日本史

昨夜はベッドに腰掛けた瞬間「グラグラ」と横揺れが・・・約5~10秒くらい・・震度3ってとこかな

5クラスは何回か経験したから、この程度はどって事無いけど・・震源地は長野県北部栄村

12日に高速道走行中の地震と、ほぼ震源は同じ

 

さて日本史は昔から好きで、最初は「太平洋戦争」から始まり、「戦国時代」、「日清日露戦争」そして

「幕末・明治維新」と興味は移ってきたのだけれど

今度は幕末から昭和初期の一般人や農民の暮らしに興味が出てきた

それは私のルーツ調べが原因なのだ、栃木では数百年にわたって大地主として続いた先祖

武家や領主、あるいは寺や小作とどのように関わっていたのか、また生活の程度、楽しみ、祭り

交通機関、運送(海運=川運)

それは渡良瀬川と利根川に挟まれた古河でも言えることだし、あるいは歴史上の有名な事件や

維新との関わりにも興味がある

幕末近くには自然災害が相次ぎ、米は不作で農民一揆が相次いで各地で起こった

大塩平八郎の乱も、その一つだが、その乱を鎮めたのが古河藩だったとルーツを調べていて知った

そのほか今まで知らなかったローカルな騒動もルーツ探しの中でいくつか出会った

昭和6年の栃木県(現さくら市)で起こった「阿久津騒動」は父の義父の妹の夫の出身地の出来事

だった、学校歴史には絶対出てこない事象に出会う事こそ研究の面白さだ

イザベラバードの奥羽紀行も明治初期の農民や庶民の暮らしを体験談として書いてあるので

先祖の暮らしを垣間見ることが出来る

 

腰に二振りの日本刀を差して闊歩していた首狩り族が、欧米の大艦巨砲の新世界を見たとたんに

大小を捨てて西洋をまねると、わずか数十年で東アジアを従え、世界最大の強国ロシアと戦争して

勝ってしまった。

その基礎となるエネルギーは農民パワーだった。 国民の大半が貧しい農民で子だくさん

食べるのに一番良い方法は軍隊に入ること、近年の某国に似ている

そう考えると、幕末、明治の農民生活、庶民生活には大いに興味が湧いてきた

また江戸時代の藩政と農民の関係、これも興味がある

さっそくアマゾンに三冊、関連本を発注した。 これらの研究をルーツの小説の中に取り込めば

かなり肉厚になるのではと期待している。

 

 

 

 


日本の歴史 幕末の大逆転

2017年09月13日 14時25分03秒 | 日本史

日本人がもっとも活動的だった時代はいつだろうか

歴史ドラマで人気がある時代は、活動的な時代だったと言えるだろう

戦国時代と幕末が双璧だ、そのあとは明治時代だと思う

戦国時代は日本中が都道府県、市町村単位で一つの国家を形成して戦い

次第に勝者が膨らんで大きくなっていった時代だ

そして最後の信長、秀吉、家康で日本に平和が訪れる

そして250年後に家康が築いた徳川幕府を倒して、天皇を頂点とした政治体制を

作った革命の時代が幕末だ

幕末は戦国時代と違い、徳川幕府を廃し天皇主体の政治復活(尊皇)、徳川幕府の政治継続(佐幕)

、天皇を頂点としながら徳川を含めた大名による合議制国家(勤王、公武合体)の3つの勢力が

争った時代だ。

公武合体の証として、皇女和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻が行われた

これとは別に外国船が相次いで交易を求めて日本にやってきたが、それらを追い払って鎖国を

続けるという攘夷思想、外国と交易を始めようという開国派にも別れている、だからより複雑だった

幕府閣僚でも開国派、攘夷派に別れ、勤王思想であっても開国と攘夷に別れている

また地方大名もその通りであった。

日本の治国システムは世界に類を見ない独特なものである

まず神話時代に天から下りてきた神様の子孫が日本各地に住んでいた蛮族を滅し

あるいは従えて大和において日本の大部分をを平定し「天皇」となった。

それ以来日本の主として今日も続いている

天皇家は「いかなる権力者も侵してはならぬ存在」としていつ時代にも政治権力者すら天皇家を

滅ぼす行為を行わず、逆に保護してきたのである。

天皇家に勇猛な天皇が現れ、幕府と戦ったときでも、常に為政者側は争う天皇に対し、別の系統の

天皇を擁立して旗印とした。

武家は天皇の家来であり、将軍は天皇に任命されて北の夷敵を征討するための存在というのが

建前で会った。

だからいかなる権力者であっても天皇の上位にはなれず、ならず、その下という位置で国政を

行った。

戦国時代がおわり、徳川の天下になると三元政治になった、すなわち天皇の下に徳川将軍が有り

日本全体の統治者として徳川将軍があり、それに従う300近い大名という地方国家が存在して

それぞれに独自に独立採算制の政治を行っていた。

中国は大昔からアジアの盟主を自認していた、その最高権力者は日本の天皇と同じく帝として存在した

それは日本で言う将軍と同じ立場であるが「帝」と称した

なぜかと言えば、中国は大アジア(日本の戦時中の八紘一宇と似た考え方)の盟主であり、周辺の国

「朝鮮半島や日本、東南アジア、北方の民族」は、かってに臣下と見なしていたからだ。

王の中の王という立場の帝、だから中国は隋、唐、宋などが滅ぶ度に全く違う血筋のものが帝になった

これが日本の天皇との違いである。(因みに中国の属国という長い歴史が続いた朝鮮半島では、最高権力者は

つねに中国の臣下であるから帝を名乗ることが出来ず王という名称に甘んじた、北方民族「蒙古、女真族など」

に従ったときもやはり王であった)

 

明治天皇の親である孝明天皇はかたくなな攘夷思想であったから、初期の勤王、尊皇の志士や

勤王大名は当然攘夷派であった。

しかし長州毛利家や薩摩島津家のように、一度外国と戦争をした藩は、もはや日本人の今の武力では

欧米の奴隷になるという危機感を持ち、積極的に欧米に近づき、欧米の文明や兵制を取り入れて強国化を計った

徳川幕府にも勝海舟や小栗上野介などのような開国思想の幕臣がいて、アメリカを訪問してアメリカの

文明を目の当たりにしている。

しかし外国に出ない幕臣の親玉は、天皇の権威を恐れて攘夷派を装っているが、アメリカの武力をも恐れ

曖昧な態度に終始した、それが天皇にばれて幕府は頼りにならぬと思われてしまった。

一方、外国船と戦った長州、薩摩には絶大な信頼を寄せた。

徳川家も井伊直弼が筆頭家老で権力を振るううちは安泰だったが、御三家の水戸徳川家の脱藩浪士に

殺害されると一気に幕府の力が落ちた。

そもそも徳川家は、将軍家とそれを補佐する御三家が力を合わせてこそ盤石だったのに、14代将軍を

紀伊徳川家と、水戸徳川家から一橋家に養子に行った一橋慶喜とが争ったことで有力大名と

幕閣の協力体制が崩れ、徳川家の力は弱まった

この頃、幕府を倒して天皇政治を早急に実現しようと考えていた急進派は長州藩であった

長州藩は吉田松陰の先見的な教育を受けた下級武士団が保守的な上級武士団を凌いで

藩主毛利公を抱き込み、藩を自由に動かしていた。

代表的な藩士は、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文、井上馨

山県有朋(一部後の名前)などで多彩な革新武士集団だった

一方、薩摩藩や土佐藩も下級武士団が力を持ち、精力的に活動したが、両藩共に藩主(殿様)の

力が強く、長州藩のようには力を発揮することが出来なかった。

特に土佐藩は武市半平太がリーダーとなって藩主に取り入ったが、藩主が信頼する大物

吉田東洋を暗殺したため、結局は切腹させられて土佐勤王党は壊滅した。 

それ以前、土佐藩に見切りをつけて早々に脱藩したのが坂本龍馬と中岡慎太郎であった

彼らは土佐一藩など頼りにせず、京に出て全国の脱藩勤王浪士と倒幕を企てた。

こうした倒幕を企てる勤王浪士に対抗して、徳川幕府も会津藩松平家を京都の守護職に充て

治安維持の任務に就かせた、その先鋒として働いたのが新撰組である。

彼らは切り捨て御免の殺人集団として勤王の志士たちは恐れた。

一方、浪士方にも人斬りという異名をとる殺人者が居た、土佐の岡田以蔵と

薩摩の田中新兵衛、中村半次郎、肥後の川上彦斎が特に有名である、彼らは幕府方や

彼らの主義に反対する者を上からの命令で次々と殺害した。

彼らに命令した者には志半ばで倒れた者もあれば、維新を成し遂げ明治の元勲となった者も

いる。

こんな中、あせった長州藩は軍を動かして天皇を頂こうと、京都御所に

攻め込んだが、警備の会津藩と応援に駆けつけた薩摩藩によって撃退されて長州(山口県)に

逃げた。

徳川幕府は怒って、近隣の大名に命令をして長州を攻め、首謀者を切腹させて藩主親子に詫びさせ

謹慎させて引き上げた、ここまでは幕府の権威は生きていたのである。

長州は意気消沈していたがあきらめてはいなかった、ただ反撃の方法が見つからない

そこに現れたのが坂本龍馬だった、彼には世界に乗り出す日本という大きな野心があった

しかし母体の土佐藩は動かず、結局他人のふんどしを借りて相撲を取るしか無い

そこで長州と薩摩という2大雄藩を利用しようと考えたのだ

龍馬はあちらこちらに顔が利くという特技がある、頭も度胸も良い、薩摩藩で重い役を任されている

西郷隆盛に近づき、禁門の変以来、犬猿の仲であった薩摩と長州を同盟させるという離れ業を成し遂げた

これで一気に倒幕気運が高まった、戦うのは長州、薩摩は後方支援で最新の武器と軍艦を長州に

送った。

幕府は長州の不穏な動きを見て、再び大軍を長州征伐に送った、しかし薩摩と長州が手を結んだことに

気づかなかった、幕軍の主力となるはずの薩摩が無断欠席、幕府は長州周辺の鳥取や福岡の大名に

長州を攻撃させたが瞬く間に敗れた、しかも大坂に居た将軍家茂が20歳の若さで急死した

それで幕軍は総崩れとなった。  こうして徳川幕府軍と薩長中心の倒幕軍の形勢は逆転した。

間もなく倒幕軍は京を目指して進軍していく。

 

*確かな資料ではありません、個人的なうろ覚えにつき文頭には「たぶん」

文末には「だと思う」をつけてお読みください。