神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

荒波人生 昭和38年~41年 このころの暮らし

2020年01月13日 19時47分33秒 | 小説/詩

かずは思うのだ、自分が高浜に店を構えた昭和32年頃が境目だと

そこで敗戦国日本の負は精算されたのだと

勿論、国土の一部、沖縄などがまだアメリカに占領されていたり、

不平等な条約で縛られた敗戦国という足かせは外れていないから

完全な独立国とは言いがたい

けれども今日食べる米さえ、隠れて得なければ生きていけなかった戦後の

苦しい生活から見れば、家だって小さくても文化的で清潔になったし

食い物も有り余るほど流通してきて、腹ぺこなんてことも無くなった

洗濯機、冷蔵庫、営業用トラック、扇風機、ミシン、テレビ、便利な世になった

人々は活き活きと働いているし、外に出れば元気な子供達の走り回る

姿がそこかしこで見られる、子供の後を飼い犬たちが鎖も無くついて走って

いる

こんな小さな町でさえ戦後のベビーブームで子供があふれかえっている

我が家は3人、むかえに立ち並ぶ家々でも小学生、中学生が3人、4人

2人、2人、3人などと、それぞれ家庭に住んでいる

陽一が小学校に入学したときなどは生徒数が2000人、一学年は55人

程で6クラス、陽一より1~3級上のベビーブーム(団塊の世代)は更に

いクラス多かったのだから教室が不足した

子供が多いと言うことは、その国がこれから少なくとも30年以上繁栄する

ということだ、人口増は即、口に胃に繋がる、衣服に繋がる、建築に繋がっていく

かずの店が毎年、倍々ゲームで売上が増えていくのはそのためだ

 

昭和38年は、北陸、越後を中心に大雪が3ヶ月も降り続けた

関東で生まれ育ったかずにとって、雪国の冬は苦手である

もう、ここに来て15年以上が過ぎたが、雪の扱いはへたくそだから

雪かきは主に弟の徳磨が受け持った、日頃は仕事が遅いとか徳磨を叱りつける

けれど、こんな時は頼りになるのだ

息子の陽一も雪が大好きで、徳磨と何やら楽しそうにじゃれ合いながら雪かきを

楽しんでいる、それを見て改めて徳磨と陽一が叔父と甥の関係である事に

気づく、かずだった

自分と徳磨は17歳違う兄弟だが、徳磨と陽一は9歳しか違わないのだから

どっちが兄弟かわからない

しかしこの年の雪は半端でなく、1日に50cm以上も降る日が続き、とうとう

道路は1階の部分より高くなってしまい、足場の階段を雪面に造って道路に

上るざまになってしまった、店は日中から電気をつけないと暗いし、客足も

遠のき、仕入もままならない開店休業状態が続いた

吹雪の日には小学生が集団下校をしてきた、現在の4倍近い子供達がいた

時代だから、親が心配するよりも子供達の集団の方がよほどたくましい

高浜地区には小学生だけで200人近く居たから、それらが黒いマントを着て

一列になって真っ白な雪道を歩いてくるのは壮観であった

この頃の子供は滅法雪に強い、吹雪いていてもじゃれ合ったりしている

陽一も買ってやったスキーを持って友だちと近くの土手で滑って遊んで居る

この頃の子供スキーは、板の上に皮の輪が左右にまたいでいて、そこに

長靴を差し込むだけの簡単なものだった、だから脱げてしまうとスキーは

どこまでも滑っていってしまう

中学生になった頃、ようやくカンダハという装置がつきワイヤー状の締め具で

長靴の後からも確保出来るようになった、スキー板はまだ木製である

この大雪を38豪雪と名付けたが,40年前後は何度もこのクラスの豪雪に

見舞われて雪に弱いかずを苦しめた

38年6月には新潟市中心に大地震が起きた、新潟地震と名付けられM7.5

信濃川にかかる出来たばかりの昭和大橋がドミノ崩しのように川に崩落した

しかし明治時代に出来た萬代橋はびくともしなかった

越後は地震の多いところだ、それに比べ越中というところは地震が皆無と

言っても良い、勿論他所の大地震の揺れは来ることがある、震源地としての

地震が無いのだ。

かずが産まれる9ヶ月前に東京で関東大震災が起きた、幸い家族はこの頃

まだ古河にいたから大丈夫だったが、古河でも少しは被害があったらしい

だからかずは、これまで地震らしい地震を感じたことが無かった、新潟地震も

どーんという衝撃が一発来ただけで、この町では被害もほぼ皆無だった

夏休みになると子供達は近所誘い合わせて、通学団単位で海に泳ぎに行く

砂浜が海に沿って1km以上続き、砂浜の始まりから波打ち際までは50m以上

ある、まったく小学生だけの自治で海へ行く、6年生が大将になって1年生まで

10数名の団体だ、トラックの大きなゴムタイヤチューブを浮き輪にしてもつ子供

賑やかに歩いて海に行く

海に行けば小学生が端から端までひしめき、監視の人たちが目を光らせて居る

ここの海は深くてすぐに背が立たなくなるから危険なのだ、だがだからこそ

子供達は泳ぎが達者だ、特に漁師の子供達は赤い「金釣り」という簡易フンドシ

で泳ぐ、泳ぎは誰も敵わないほどうまい

1964東京オリンピックに出て銀メダルを取った山中毅さんは、能登輪島で

日本海の荒波の中を泳いでいたのだ

まだプールなど無い時代だったのだ、子供達は野生児だった

これから5年も経つと長野県からの道路事情は次第に良くなって、海水浴

ブームが起きてくる、昭和40年頃はまだその域に達していない

しかし松本から前回書いた、大口さんの家族が、かずの家にやってきた

大口夫婦、お父さんの宏一さんは、かずより4歳ほど年上だった

彼も例に漏れず戦争に参戦したが、かずとちがって外地「南方諸島」への

志願兵としての赴任だった、在籍年数も3年を超えていたが、学歴も高いので

下士官であった

パラオに進駐していたがパラオ諸島の激戦地ペリュリュー島で5倍ほどの

重装備のアメリカ軍と戦い撃退させたこともあったが力尽きて玉砕した

しかし大口さんは全滅必至になった頃、上部からの命令を託されて

軍艦で島を離れて別の島へと脱出して命を繋いだのだそうだ

一緒に来たのは高校生の長男と陽一より一つ年上の中学生の次男

それに温泉で相部屋だった大口さんのおばあさんの5人だった

二人の子供は、いずれもスポーツマンで凜々しい顔をしている

陽一が軟弱に見えた

ここに来る前に、30km程離れた海水浴場で男三人は泳いできたのだそうだ

今夜は魚をたっぷり食べて一晩、この家に泊まっていく

かずは太っ腹で前向きな宏一氏をすっかり気に入った、信州人と付き合う

のは善光寺の伯母さん一家とあるから初めてでは無いが、宏一氏は

若いながらも松本市の調理器具、、厨房機器の会社の専務取締役だという

飲食を扱う職業の、かずにも少しは関連がある、これからどっちの方向に

進んで行くのか、かず自身もわからないが、今の位置ではとどまらないと

自分に言い聞かせたばかりだ、いずれにしても魚からは、魚料理からは

離れないだろうと思った、そんな事を前提に宏一氏と話していると何か

自分の進む道が見えてくるような気がした

「大口さんに出会えて、なにかヒントを得ることが出来ました、これからも

よろしくおつきあいをお願いしします」と言うと

宏一氏も「いやー、井川さんもなかなかの苦労人で話しを聞いていて

面白れいっせ、厨房に関わることなら何でも相談にのるだで遠慮無く」

かずは飲めないけれど、少しだけ相手をした、いつもよりも飲んだ

宏一氏は豪傑だ「米どころの酒は、やっぱりうまい!」とご満悦だ

すっかり酔って寝床に就いた、大口宏一氏とのつきあいは、この後

30年以上続くことになる、そして人生に大きな影響を与える人となるのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和38年から40年 様々な出会い

2020年01月12日 20時49分13秒 | 小説/詩

昭和30年に次男を産んで暫くたった頃から、みつこの体調が

悪くなった

病院の検査の結果が出た、胃下垂で栄養吸収が良くなく太れない

それに加えて、もっと深刻なのは甲状腺障害の疑いがあることだった

甲状腺などと言われても、かずも、みつこもさっぱりわからない

だが体調不良の主因はそこにあるようだった、場合によっては入院の

必要もあるらしい

それで、かずは忙しい日々の合間に、みつこを5日、一週間と小刻みに

近場の温泉に保養にやるようになった

当然、店番が手薄になるので店員を募集したら坂口松子という19歳

の娘が務めたいとやってきた

小柄で小太り、丸い顔、細い目でなかなか愛嬌があるし、おっとりした

話し方も好感が持てる、中卒だという

娘だと思ったら亭主がいた、これまた愛嬌たっぷり、というよりおべっか言いの

お調子者に見えた、歳は25だそうだ

ある日、色浅黒く、厳つい顔、いかにも強面の、あきらかに鳶職とわかる男が

店に顔を出した、すでに酔っていて酒臭い

「さしみをくれ」と言った

かずが刺身を1人前切って渡すと、「すぐ食べるから、醤油をかけて割り箸も

一箭くれ」と言った

鳶の男は玄関先で座り込んで一合瓶の酒をラッパ飲みしながら、刺身を

食べようとしたが、酒瓶が邪魔でうまく食べることができない

かずは見かねて「お客さん、中で食べたらいい」と誘うと、驚いた顔で

「いいのけ?」と嬉しそうな顔をした

笑うと、厳つい顔が消えて優しい顔になったのが意外だった

奥の小上がりの縁に腰掛けて飲んでは、刺身をつまむ

「うめえな、ここの刺身はよ」と舌鼓を打つ

「お客さん、どこの出身かね?」

「おれかい、うん名古屋だが」

「えらく遠くから来てるんだね」

「あ~日本中どこへでも仕事のあるとこへ飛んでいく」

「おとう!もう一本いいかね?」

「ああ、いいよ、ゆっくりしていけばいい」

喜んで隣の渡辺商店でまた一合買ってきた

「おとう、この町へきてこんなに親切にしてもらたんは

はじめてだ」

「へーそうかい? あんた家族は?」

「女房はいたが・・・今はどうしとるかわからん」

「・・・」

彼は氷室という名前で、北信越マシン工業の工事50mの高さの

煙突工事を担当しているのだそうだ、命綱などつけずに上がっていても

平気だと笑った

老け顔なので、かずとあまり歳は代わらないと思っていたが、まだ

28歳なのだという、かずよりも一回り近く若い

すっかりかずに親しんで「おとう、おとう」と呼ぶ、かずはもともと人情に

厚く、人を信じないと言いながら頼られると無条件に受け容れる短所(長所?)

がある

最初は、みつこや店員達も怖がっていたが,慣れてくると、なかなか

良い人だし、毎回なんやらのささやかな菓子をみやげに持ってきてくれる

今ではこの店の常連となっていた

 

酒飲みと言えば、店員坂口松子の亭主もそうで、これが飲むと我を忘れる

酒乱癖があって、普段は小心者なのに酔うと子分100人のヤクザの

親分に変身してしまう(勿論妄想だ)

松子が休みで実家に行った日のことだ、鬼のいぬまにと思ったのか、家で

しこたま飲んで、まだ足りず酒を買いに下りてきた、そのついでに、かずの店

に顔を出したが、みつこが酒臭いと言ったのが気にくわないと言って

店頭で怒鳴りはじめた

ちょうど配達から戻ったかずが「どうした坂口さん」と言うと、矛先を買えて

かずに絡み始めた、最初は受け流していたが、ついに堪忍袋の緒が切れた

かずは、痩せて背の高い坂口の胸ぐらを掴むと、道路の端まで押していき

その勢いのままに坂口を側溝に突き落とした

それから店先の一斗缶を持って行き、それで坂口の頭を何度も叩いた

誰かが警察に電話したのか、やがて巡査がやってきて、かずを停めた

「あんた!事情は聞いたが、これ以上やったら、あんたを逮捕だよ、ここまでだ」

巡査は手を伸ばして目を回している坂口を引っ張り上げて

「もう今日は家に帰って寝なさい、これ以上飲んだら豚箱で泊まることになる」

と釘を刺した

 

ところが、それから一週間くらいたって、また酔った坂口がやってきて

「この前の借りを返しに来た、俺の一声で子分が100人集まるんだぞ」などと

言って、息子の陽一にせまった

このときも、かずは配達に出ていていなかったが、たまたま鳶の氷室が奥で

飲んでいて声を聞いて出てきた

氷室は状況を把握すると,坂口の腕を掴んで外に引っ張っていき、いきなり

げんこつで坂口の頬を殴った

「ぐぇ!」あっという間に坂口は道路に倒れ込んだ、そして仁王立ちになっている

氷室の顔を見上げて、突然土下座をした、そして「兄貴!子分にしてください」

氷室の方が驚いた。

 

40年の夏、夏休みの子供3人とみつこは町から40kmほどの山間部にある

川原湯温泉に湯治に行った、予定は1週間だった

川原湯は、ひなびた1軒宿で湯治場としてこのあたりでは有名である

まだ相部屋というのが当たり前で、混んでいる夏休みは尚更だった

それでみつこ達も当然ながら相部屋になった、相部屋とは他の客と同室で

寝泊まりすることである

その相方は信州松本の初老の婦人二人であった、どちらも穏やかなおばあさんで

子供達もすぐに慣れた、一人は大口さん、もう一人は山根さんという

一週間もいると家族同様になって、みつこが「うちは魚屋をしている」と言うと

海無し県の長野だけにたいへんな興味を示して、うまい魚を食べに行きたいね

などと言った

これが翌年実現するのだ、この頃は道路事情は悪く、山道は舗装されていないし

細くて狭い、片側崖などというのは普通で、トラックなどの転落事故もたまに起きた

そもそも国道が開通したのも数年前の事で、乗用車をもつ個人などまだまだ

少なかった、しかし大口さんの家には大型乗用車があったのだ

それで大口さんの家族がやってきた、それがかずの運開きになるとは・・・

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和39年 16年ぶりの東京

2020年01月10日 21時28分05秒 | 小説/詩

昭和39年は日本にとって忘れられない記念の年となった

去年の大河ドラマ「いだてん」を見た人なら、そのいきさつがわかるだろうが

東京でオリンピックが開催されたのである

太平洋戦争開戦の前年、1940年(昭和15年)にも東京でオリンピックが

開催されることが決定していた

しかし当時は日本軍が中国大陸や満州で中国軍と戦争をおこなっていた

平和の祭典であるオリンピックの開催国が、戦争をしているのでは理にかなわない

結局、日本はオリンピックを辞退、しかも国際連盟まで脱退して大東亜、太平洋

戦争に突入したのだった。

しかし今度のオリンピックは、戦争放棄の新憲法下で繁栄の兆しが著しい日本で

開催されたのだ

日本中が沸き立ったが、この田舎町では一部の人間が聖火リレーに選ばれて

歓喜したくらいで、あまり盛り上がりはなかった。

かずの子供達は中学2年になった長男をはじめ、誰一人東京に行ったことが

ない、なにしろ東京までは汽車で10時間以上、半日はかかるのだ

かず自身も昭和23年にこの町へ流れ着いて以来16年、東京とご無沙汰だった

それで長男を連れて、東京へ行こうと思いたった

オリンピックを見せることは出来ないが、長男は来年は中学校の修学旅行で

東京へ行くから、そのとき競技場などの施設は見学出来るだろう

だから自分のホームグラウンドだった上野から浅草あたりを見物させようと

考えた

そして当日は上野公園、不忍池、浅草寺などを見せて皇居二重橋へ

それから、今、日本で一番人気の芝の東京タワーへつれて行った

上野で一泊して翌日は亀戸まで足を伸ばした、両親の終焉の地

10代の頃の自分が蘇ってくる

東京はオリンピックで大きく変貌をはじめているが、どこを歩いて見ても

昔のとおりに迷うこと無く歩けたのが嬉しかった

帰路はタクシーで上野まで乗ったが、花王石鹸、遠く千住のお化け煙突が

見えて、息子に昔を語ったのであった

お化け煙突は偶然だが、この年の暮れには壊されて消え去ったのだと言うことだった

子供時代に見ていた風景が消え去るのは寂しかった

 

しばしの休憩をとったかずだが、田舎に戻るとまた日々の忙しい暮らしが

待っていた

そんなおり、隣の渡辺青果店の主人がやってきて「井川さん、私ね商工会議所から

頼まれたんだけど、高浜でも商工会をつくりませんか」と言った

渡辺青果店は奥さんが営業しているのだが、主人は中央商店街の大きな

呉服店の番頭で、そこの社長は町の名士で商工会議所の副会頭なのだ

渡辺さんは、そんな主人から店を任されている程の才人であった

性格は温厚だが頭は切れる

これまでのかずは、商売をしているとは言え、その行動範囲は山深い農村部と

高浜地区の域をでていない、いわば「井の中の蛙」なのである

田舎、田舎と、この町を少し斜めに見ていた「かず」だが、こんな村でも

山田先生などという権力がある、それだって町全体の市議会の中では

あまり発言力をもたないのだから、まだまだ自分は小さい男だと自省した

(もっと上を目指すべきだ)とこの時、思った

「やりましょう,いい話だと思います、手伝わせてください」

それから1ヶ月ほどで高浜商工会が発足した、この町では7番目に出来た

地域の商工会である、その会員数は30名、商業系と工業系半々であった

会員の多くは30代40代で血気盛んな年頃である、いままで、かずと面識

がない会員も多くいた

積極性が売り物のかずだから、この中でもすぐに頭角を現した

会が出来れば長が必要となる、こんな小さな団体でも派閥が出来る

かずが押すのは勿論、渡辺さんだ、一方、あの金三も会員となっていたが

そのボスの山田市議も木工所を経営しているので会員になった

そしてすぐにオブザーバー的立場になったので金三も威張っている

山田市議の後援会長である村松運送の村松は、山田市議の後釜を狙っている

それを快く思わない大下機械店の大下は成り行きでかずの側に近い

他に理髪店の長谷川が、どっちつかずだが力を持っている

一応こんなところが高浜商工会のうるさい連中なのだ

結局、話し合いで渡辺さんが会長、山田市議が副会長になった

東京にいたときには、こんな構造とは無縁だったかずは、腹の中で

笑っている、(こんな所にいつまでもいるものか、上をもっと上を)

ここにきて、かずは初めて自分が何を求めているのか、うっすらと

わかるようになってきた、そして自分の成すべき方向だけが見えてきた

しかしまだ天の利、地の利、人の利全てが身についていないことも

わかっている、これらを得ないことには、よそ者の自分が表に出ることは

出来ない、かずの頭がクルクルと回り始めた

そして昭和40年代に入ると、かずの人生に大きく関わってくる人々が

次々と現れてくるのだ。

 

 

 

 


荒波人生 昭和38年 宴会場ができた!

2020年01月09日 18時49分52秒 | 小説/詩

古河から戻って来た「かず」だが二階建ての増築という大仕事が

待っている

かずにとって、同じ敷地内にはあるが、家としてはこれが3軒目に等しい

最初の家は、結婚して長男が生まれたために借家を出て我が家を

ほしいと思ったためで、あの時は資金が全く足りないで、借金した上に

まだ足りない分を大工さんの手伝いをして、何とか建てた二間の家

だった。

二軒目は今の地に土地を求め、1階店舗、2階6畳二間の小さな家を

建てた、この時も5万円足りなくて、建設会社の社長の好意で猶予

してもらったが、それを返すのに3年もかかったのだった。

しかし今度の増築は3分の1ほどの頭金を準備出来た、それは日本全体が

好景気に突入したからだった。

かずの町でも大手自動車メーカーの部品を製造する「北信越マシン工業」が

進出してきて、高浜地区の4分の1にも及ぶ広大な敷地(農地)を買収して

工場建設を開始した、これは第一次、第二次と実に15年間も拡張工事が

続いたので、その工事関係者だけでもかなりの延べ人数が県外から入り

食料品、飲料、そして夜の町には建設労働者が夜な夜なくりだして

繁華街は賑わった

またこの工場に田畑を売却した大部分の地主は高浜地区の農家だった

それで一気に消費が高まり、かずの魚屋でも仕出しや刺身などが何倍も

売れたし、工場建設の魬場(工事関係者の宿舎)からも魚の切り身や

刺身の注文が連日入った、それで開店当時の数倍も売上が伸びたのだった

 

増築中の間は、家族は近くの空き家を借りて住んでいたが風呂が無い

それで300mほどの所にある銭湯に通った

風呂上がりの楽しみは、帰り道にある屋台の「夜鳴きそば」を食べること

そばやの主人は以前は町内を屋台を押して歩いて居たけれど60過ぎて

からは自宅の前に屋台を置いて商売をしていた

風呂上がりで小腹が空いたせいもあるが、これが絶品で、風呂帰りの

客でいつも満員だった

そばと言っても、日本蕎麦ではなく志那そば(ラーメン)である、煮干しの

出汁でとった汁がうまい(まだスープなどとは言わない)

このあと二年くらい経ったとき、役所のものがやってきて、衛生法で

露天での営業はまかりならんと一方的に退去を命じた

おじいさんは驚いたが相手が役所ではどうにもならず、生活が困るわけでも無い

のでやめようかと思うようになった

しかし常連客は、そうはいかない、せっかくの楽しみを奪われてたまるかと

何人かの者は役所に掛け合ったが、やはりだめだった

そんな時、かずが主立った常連客に声をかけた

「露天でダメなら家の中でやれば文句は無いはずだから、おじいさんの家は

玄関が広く,その先に10畳ほどの居間があるから、少しお金をかけて改装

すれば商売は続けられると思うが、我々も協力していくらか応援しませんか」

と言ったら、大工が生業の人もいて「改装くらいなら、俺がやる、安くやってやるよ」

と乗って来た、おじいさんも少しくらいの蓄えもあるし、銀行に勤めている息子も

助けてくれるだろうと、やる気になった

常連客が集めた金額は改装費の5分の1ほどだったが、それでも無理なく

そば屋を開店することが出来たのだった

そして、おじいさんが寝込むまでの10年間は、ずっと繁盛していたのである

 

昭和38年の3月についに増築工事は終わり、床の間付きの20畳の座敷

二階建ての家が完成した、そしてさっそく宴会場の営業許可をとった

近所の料理達者な千佳さんという人を雇って宴会があるときだけ調理に

来てもらうことにした、千佳さんは、かずと同い年であった。

去年、かずは人生初めての仲人を経験した、弟の徳磨に嫁を世話したのだ

嫁の名は晴美という、健康そうな女であった

そして5月に、あたらしいこの座敷で二人の結婚式と披露をおこなった

これは,かずの家で宴会ばかりでなく結婚式も出来ると評判を呼ぶことになり

次第に座敷の仕事がでてきた。

それで夜の宴席の手伝いとして昌代さんという30歳の近所の主婦を雇った

これで店番の徳磨、千佳さん、昌代さんと従業員が3人になった。

いずれも刺身くらい切ってしまう調理上手な主婦なので助かった。

更に、この頃は店が忙しくなって、女房のみつこも店の切り盛りだけで

手一杯になったので家政婦を頼もうと思った

そんなとき最初の家を建てたとき世話になった金貸しの長瀬セツが遊びにやってきた

今はもう、金貸しはやめていた、しかも数年前に甲斐性無しの亭主を見限って

離婚して一人暮らしなのだそうだ

やることも無いのでプラプラしていると言うから、家の中の事をやってもらえないか

と恐る恐る聞いたら、逆に喜んで「ああ、いいぜ」と快諾してくれた

長男の陽一も気が合うのか「セツおばさん」と呼んで親しんだ

このセツさんは男勝りの性格で更に巨漢である、漁場で育ったせいか言葉遣いも

荒っぽい、だが腹の中には何も無いからっとした性格なのだ。

かずは、こうして近所の千佳さん、昌代さんが店の仲間になったので

近所の女房達を呼んで、座敷の披露を兼ねて食事を提供しようと考えた

それで15人ほどの奥方達を招いておもてなしをしたのだった。

ところが思わぬ波紋が起きた

高浜地区で小さな赤提灯の店を経営している、奥谷金三という男がやってきた

金三は、かずより5歳くらい年上で教養の無いずるがしこい貧相な顔つきの

男だ、ただ酒を飲みたい男で、かずがもっとも嫌うタイプなのだ

「この前の夜、女衆を集めて酒を飲ませていただろう、何の集会だ!」

いきなり高飛車な物言いだった

「ああ、あのことですか、座敷をつくったから近所の女衆に披露したんですが

なにか?」

「披露だったら村の偉い先生方から招くのが筋だろ!、披露などと言って

選挙運動をしていたんじゃないか?」

「そんなたいそうなことを考えてなんかいないですよ・・・ばかばかしい」

「バカバカしいとはなんだ! この村には山田先生という市会議員の先生

がいる事くらい知ってるだろ」

「それは選挙に行っているからわかりますが?」

(そうか!金三は山田市議の後援会の使いっ走りをやっていたのだ)

「おまえは山田先生の後援会に入っていないだろ、高浜で商売をやって

いるものはみんな入っている、おまえが山田先生に刃向かって別の者を

押すなら、このくらいの店は簡単につぶせるんだぞ!」

最初からけんか腰だ、かずはあきれてしまった

「そんなことは無いです、だいたい選挙自体興味が無いですからね、

だが、この地区で住んでいるから、前回の選挙では山田さんに投票しま

したがね、もし俺を無理矢理、敵にして山田さんから切り離そうというのなら

社会党にでも共産党にでもなりますよ、そうしたいんですか?奥谷さん」

「やっぱり社会党か! おまえは」

「困ったなあ、もののわからない人だ・・・面倒くさいから、あんたが難癖

つけて山田さんの反対派にしたがっているって、直接あんたの山田先生

のところに行って言うから、これからすぐ一緒に行きましょう、山田さんの

命令でここに来たんでしょ?」

「先生は関係ない!」

「じゃあ勝手に、あんたの判断で俺を山田さんの敵にしようと考えたんですね」

「そんなことはない」

「じゃあ何なんだ! いったい何しに忙しい俺の店に来たんだ!難癖つけやがって」

かずが怒鳴ると、山田先生の子分を気取る軽薄者はたじろいだ

「魚屋だからってなめるなよ!つぶすだと!おまえだけの力でやって見ろ

先生の力を借りないでどれだけやれるんだ、山田先生だって俺を敵にする

愚か者じゃ無いよ、おまえは俺と一対一でやれるのか! やるか!!」

「そんなに怒るなよ、俺も言いすぎた、勘弁してくれ」

そそくさと逃げ帰ったので、そばでハラハラしていた店員達もほっとした顔を

している

「おい、かあちゃん店先に塩をまけ、虎の威を借る狐とは、あいつのことだ

ちょつと手柄をたてて先生とやらに褒められてご褒美でももらいたかったんだろ

田舎根性丸出しの田舎もんだ、二度と来ないだろう」

かって闇米商売の時に駐在とやり合って言い伏せた、かずだ、このくらいの

太鼓持ちなどとは格が違いすぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和37年 古河へ墓参りに行く

2020年01月07日 21時43分16秒 | 小説/詩

茨城県古河市、茨城県というと大洗、水戸など海岸の印象があるけれど

関東平野のど真ん中、内陸にむかって針のように伸びた先端

そこに古河市がある、かずが生まれた時は、まだ猿島郡(さしま)古河町

であった。

古河の駅に降り立ったのは実に20年ぶりだった、それだって既に東京へ

上京した後の事で、正式にこの町を出たのは小学校5年生、昭和10年

のことだから、古河を離れて27年が過ぎていた

寺を訪ねる前に、自分が生まれ育った家を見たいと思って、そっちへ

むかった

古河は江戸時代は城下町で、初代藩主は有名な老中、土井大炊頭

(おおいのかみ)利勝で石高は16万石

利勝は徳川家康の重要なポストを受け持ち、その正体は家康の一族

あるいは実子という説もある人物だ

その他にも歴史的には河越夜戦で北条氏康に敗れた古河公方の

本拠地でもあった

そんな城下町であるから、その地名も厩町、仲ノ町、白壁町など雰囲気の

ある地名があり、かずが産まれたのは白壁町の旧武家屋敷であった

家は風呂もあり、部屋数も5つほど、その中にはいかにも武家的な4畳間

切腹の時に使う(しじょうのま)と呼ばれていた。

ここを訪ねるのは27年ぶりだった、少し迷ったけれど雀神社へ向かう

大通りから左手の小径に入ると、間もなく塀に囲まれた大きな旧家があらわれた

かずの家の隣は、家老松井様のお屋敷だったと子供の頃から聞かされていた

その松井様の家があった、その隣に畑に囲まれたかっての我が家があった

電球柿の木、お稲荷さん、栗の木、懐かしかったが嫌な記憶も多い家であった

複雑な気持ちでそこを立ち去り、子供の頃に遊んだ「おすずめさん」雀神社へ

むかった

入口には上って遊んだケヤキの木が、朽ち果てそうな姿でまだ立っていた

お詣りしてから、祖母が働いていた製糸工場にむかった、建物はあったが

もう稼働していなかった。

子供の時には製糸工場で働いている祖母を機械の音を真似て「ガーガーばあちゃん」

家事をする祖祖母を「おうちばあちゃん」と呼び分けていたものだった、

かずには二人のばあちゃんがいたのだ

けれど父や母は物心ついたときには家にはいなかった。

この町の駅近くにある寺に祖母、祖母の連れあいの義祖父そして祖母と義祖父の

一人息子正男が眠っている

寺に着いた、さっそく墓参りをしようと寺に入って声をかけた、寺の若奥さんが顔を出した

かずと似た年頃だった

「白壁町にいた阿南の者です、長い間ご無沙汰していましたが、今日は祖母達の墓参り

にやってきました」

すると奥さんは「私は嫁でわからないので住職と代わります」と言って奥に入っていった

間もなく年配の住職が現れた

「阿南さんというと、徳五郎さんのことかね?」と聞き返した

覚えていてくれたと、かずは喜んで「そうです、そうです」と言った

すると住職の顔が曇った、「立ち話もなんだから上がってください」

住職について控えの間に入った、そこで改めて挨拶をして永代経や小布施を丁寧に

差し出すと住職は困った顔をして

「実は徳五郎さんの墓は墓じまいさせてもらったのです」

「えっ!?」言っている意味がわからなかった

「徳五郎さんが亡くなって、家族の方が東京から納骨に来られたが、その後

音信不通になってしまった、20年には東京が空襲で焼かれて家族の方は

残念ながらみんな亡くなったというような風の便りも聞こえてきた、それでも

25年頃まではもしかしてと思って,墓の掃除などもしておったが、誰もお見えに

ならなんだ、それでもう誰も親族はおられんのだと思って共同廟の方にうつさせて

もらって読経だけは欠かさずしているのだが・・・まことにすまんことをした」

かずは呆然とした・・・義祖父が水死した息子と、亡くなった妻のために建てた墓

だから、先祖代々というわけではないが自分を可愛がってくれた祖祖母の墓

が無くなったと思うと全身の力が抜けてしまった。

しかし口だけは「そうでしたか、おっしゃるとおり私の両親は東京で空襲に遭って

亡くなりましたが、私だけが兵隊に行っていて難を逃れ生き残ったのです、しかし

戦後は生活に追われてついには親戚を頼って日本海の方へ移り、今はそこで

結婚して生活しています、ようやく一息ついて墓参りを思い立ってきたのです」

と言った

住職は「このようなことになって小布施はいただけません」と返そうとしたが

「墓は亡くても、このお寺にお骨と魂があるから、どうかこれからも仏を守って

いただければありがたいのです、なかなかここまで来ることは出来ないので

お盆には毎年、小布施をお送りしますのでぜひお経だけはあげてやってください」

と頼んだ

住職は「わかりました、心を込めておつとめさせていただきます」答えた

 

帰りの汽車の中で、かずは思った(両親の葬儀を、義父の弟の慶次に任せた為に

浅草の日輪寺でおこなったが、あの時、古河の寺で葬儀をすれば良かった、

そうすれば俺が生きていたこともわかって、墓じまいはされなかったのに)

そう思うと悔しくて涙が出そうになった。

(おれは親不孝者だ・・・)この思いは一生心に残った、そのため、かずは

自分の死と向かい合った90歳頃から、「いずれ守る者が無くなる墓よりも、

毎年、会員が集まって供養をしてくれる共同墓地に入る」という信念をもち

自ら共同墓地の会長を務めたのだった。

 

 

 


荒波人生 昭和33年~37年 忘れていた事が

2020年01月06日 22時50分58秒 | 小説/詩

かずが住宅兼店舗を建てた昭和33年は、長男陽一が小学校に

入学したとしでもあった。

長女は5歳、次男は3歳になっていた、そしてかず自身は間もなく

34歳になろうという年だった、この町に来て11年が過ぎていた。

田舎では時間の流れが遅い、そんなのんびりした田舎町でも、かずの

時間だけは早く過ぎている、それだけめまぐるしく生きているという証だ

そろそろ,この町にも中央商店街の旦那さんの家から順次、テレビが

入るようになってきた。

昭和33年という年は、3にまつわるビッグニュースが続いた

プロ野球では立教大三羽がらすが入団、巨人に長嶋茂雄内野手

阪急に本屋敷錦吾内野手、南海に杉浦忠投手がそれぞれ鳴り物入りで

入団した、特に六大学ホームラン記録を塗り替えた長嶋選手は背番号3

派手なパフォーマンスと実力で瞬く間にスターになった。

また333mの東京タワーが完成したのも、この年、昭和33年だった

日本がいよいよ発展していく予感がしたのは東海道線に特急「こだま」が

東京-大阪間に登場、約7時間で走った、これは当時としては画期的なスピード

だった。

かずの家にも、まだテレビは入っていない、近所の家にも入っている様子は

なかったが、孫兵衛の爺さんが毎日、孫の手を引いて店にやってくる

ここから500mほど下ると西町商店街がある、そこの電気店では

店頭の棚にテレビを置いて、通行人に相撲の時間だけ放送を見せるのだ

爺さんは、それを楽しみに行くのだが、その前にかずの店先で刺身を切って

もらって食べていく、それが隠居の楽しみだと言う、そして

「おまえが、ここで魚屋を開いてくれてありがたい、町までいかんでもうまい

刺身が食べられる」と毎回言う、これを聞くと、かずもなんだか嬉しくなるのだった

夏の夕暮れには店先に縁台を出して涼む、明るい時間は縁台将棋で楽しむ。

ちょっとした家や店の修繕があるとむかえの家の爺さんに頼む、

この爺さんは元大工で今は隠居の身だ

仕事が終わって「じいちゃん、これ」と謝礼の包みを差し出すと決まって

「こんなもんは、いらん」と言ってから

「いつものがあれば、それが一番だ」と付け足す

かずもわかっていて、焼酎の一合瓶と刺身一皿を縁台に腰掛けている爺さんに

持って行くと

「これこれ、これが一番だ、極楽極楽」と目を細める

戦後間もない、生き馬の目を抜くような殺伐とした東京で生きてきた、かずにとって

こういった田舎のまったりとした人間関係は心が癒やされる

こうして田舎に同化しながら生きているうちにまた2年も過ぎ、テレビが大半の

家に普及した、それでもかずはテレビを入れなかったが、息子達が毎晩

近所のテレビのある家に「テレビ見せてください」と行くことが次第に

哀れに見えてきた。

かずは、お金が少し貯まるとなぜか店や家にかけたくなるクセがある

裏の空き地にも平屋の建物を作って、前半分は風呂、後半分は物置にした

店にも木製の冷蔵庫入れたし、運搬車も買った

しかし家族の団らんとなるとそれに費やす道具は一切買わない

しかし息子が「昨日、うちにもテレビが入った夢を見た」と言ったとき

さすがに買う気になったのだった。

テレビが来た日、子供達のボルテージが一気に上がった、陽一は

興奮して舞い上がっているし、妹の由希子は不思議そうにテレビの

四面のあらゆるところから中をのぞき込んでいる

映画のように映写機があるわけでも無いのに、ガラスの中で映画や

スポーツが写るのだから魔法としか思えない。

テレビの導入をリアルタイムで経験した子供達の驚きはとうてい

今の子供にはわからないだろう。

今思えば14インチほどの小さな画面、そして白黒画面で画像も粗い

チャンネルと言っても、リモコン以降の今の人にはわかるまい

丸いダイヤルに1~12まで数字がついていて、それを基点に合わせて

チャンネル選択をする。

だから今でも70歳前後から上の人は別番組に替えたいときは

「チャンネルをまわしてくれ」とか「おーいチャンネルをくれ

(リモコンをくれのつもり)」と言うことがある。

 

もう店を出して5年目に入った、この間、地元での足固めに全力を

注ぎ込んで元旦以外の364日間、休み無しに夫婦で働き、弟の

徳磨のほかに、松子という20代の主婦も店員として雇った

そしてついに、裏に建てた平屋の倉庫を壊して、二階建てにして

小さな母屋とくっつける事を決断した、そして新築の2階を宴会場

とする新たな商売を考えていた。

そんな頃、時々買い物に来ていた沢村貞子似の客、浅草育ちも同じ

三松美鈴の娘、三松京子がたびたび遊びに来るようになった。

京子もまた、母親に似たチャキチャキ娘で、歯切れが良くて早口だ

歳は23歳だという、これがまたこの近所では滅多に見られない美人で

しかも代用教員をしているというから、才女でもあるのだ。

利発そうな大きな目は、またくるくるとせわしく動き回って好奇心の旺盛さも

物語っている

鼻筋も緩やかに高く通っていて、ふっくらとした健康そのものの頬

なのに少しも気取らず、美人を鼻にかけず、「ふ~ん?」「そうなの?」

「え-! ほんとなの?」が口癖、羽に衣を着せぬさっぱりした下町言葉

かずは、この母子と話していると浅草にいる気分に浸れるのだった

そして、それは東京大空襲で死んでしまった浅草のセイ叔母さんと珠子さんを

思い出させるのだった。

そして大事なことを忘れていたことに気づいた、それは生まれ故郷茨城の

古河にある寺、祖祖母、祖母、義祖父が入った墓参りだった

最後に行ったのは義祖父の納骨の時だったから、かれこれ20年が

過ぎたのだった。

思い出した途端、矢も楯もたまらない思いが駆け巡った

「古河に行ってくる」、かずはみつこに、そう言って準備を始めた

この時代、古河は遥かに遠いところであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和33年~36年 対決!

2019年12月27日 22時08分01秒 | 小説/詩

かずが33年の人生で身につけたことがいくつかある

「人は信じられない、無防備に信じれば悪人の餌食になってしまう」

そのくせ、お人好し

 

「今すべきことは今すぐにやってしまう、後回しは、しないのと同じ」

「間違えれば重大な損失や責任を招く事柄は、時間を掛けて深慮して

何度も精査してからとりかかる」

余裕が出た時、かずはそれを忘れて即断して晩年を苦しむことになった

 

人生は思いどおりに行くことが少ないが、正しい判断で素早く行動すれば

成功の確率は格段に上昇する

とにかくかずの行動は早い、悩みや苦しみはうじうじ考えているより、すぐに

動いて解決すれば早く楽になる

今の最大の問題は、鬼平の攻撃からどうにかして逃れることであった

魚を思いどおりに買えないのでは生活に関わってくるのだ

しかし年齢も財力でも到底かなわない大きな相手なのだ

「う~ん」知恵を絞る、どんな強者にも弱点はあるはずだ、大男だって

見えない水虫菌に苦しめられる、どうやって俺は水虫菌になるか?

鬼平も大陸坊主も個人的には強い精神力を持っている、これをやっつける

のは無理だ、他の角度から攻めるしかない

 

そういえば・・・ラジオで聴いた 山岡荘八という小説家が「徳川家康」を

新聞に何年も延々と書き続けているらしい

(「徳川家康」も「豊臣秀吉」天下をとった男だが、織田信長の家来であった

カリスマ信長の怖さにひれ伏し、言われるがままに従うしかなかった

それが、信長が死ぬと秀吉は水を得た魚のように急速に頭角を現し

信長の息子達を殺し、配下にして天下を取った。

家康は秀吉の死を待って、その息子を殺して天下を取った・・・そうか!)

かずの頭の中、ひらめいた!

 

朝のセリ場で、またいつものように大陸坊主が、かずとやり合っている

というか一方的だ

今朝は久しぶりに鬼平も顔を見せて、セリの後から睨みをきかせていたが

(この小僧か)と、かずの顔をじっと見ていた

その時、かずは誰にもわからぬように鬼平に近づいた、他の者はセリに

熱中していて気づかない

「鬼平社長さん!」と声をかけた、鬼平は平然と「なんだ!」と言った

「いつも番頭さんに、ひどいめにあっている井川です」

「それがなんだ!」と一喝する

「魚が思うように買えなくて困っています」と、かず

「おまえが噛みついてくるから、仕方ないだろう」

「これからも続けますか」

「おまえさんに遠慮する筋合いはない、セリは勝負だからな」

「そうですか、力関係ということですか」かずの表情がふてぶてしくなった

背水の陣の状態になると目の光が変わる、これがかずの気味悪さなのだ

鬼平も表情の変化に気づいた、お構いなしに、かずは続けた

「そうですか、いつまでもやるという事ですか、それなら3年後も5年後も

虐め続ければいい!、だが! 10年後にはあんたは歳をとって伜の

代になる、それから後は、おれがゆっくり、あんたの伜を10年も20年も

可愛がってあげますから、どうぞやってください!」

この鬼のような鬼平がぞっとした、この餓鬼は、俺に敵わないから伜で

仇をとる気なのだ、そしてそれは本気なのだと感じる。

世間には厳しい鬼平も、どうみてもひ弱な20歳の一人息子の将来に

不安を感じていたのだ、しかもその息子が可愛くて仕方ない、

そこに堂々と伜を攻撃するという向こう見ずな若者が表れて宣戦布告をしてきた。

さすがの鬼平も、この向こう見ずで怖いもの知らずの貧しい若者の素手の

戦法にたじろいだのだ。

「おまえには負けた、若いのにたいした奴だ、だがおまえにも非はある

無鉄砲に榊原に対抗して食いつくのでは可愛げが無い、榊原も頭にくる

それだけのプライドを持った男だからな、だからおまえさんも少しは人に

妥協する可愛さをもたんきゃならん」

かずは素直に聴いている

「もっと、うまくやれよ、俺たちだってほんとの鬼じゃない、筋を通してくれば

失礼だが、おまえさんが買うくらいの魚は痛くも何ともないんだ、だが

噛みつかれれば、おれたちも潰しにかかる、それが俺のやりかただからな

実を言えば竹丸常務も、俺たちがこんな風だから気にしているんだ、

これからは、ほしい物があったら、それとなく榊原に言って波風がたたんように

すっればいい、俺たちが買ったものの中から、ほしいものを分けてやることも

出来るんだ、仲良くやるのがお互いとくというもんだろ」

「わかりました、よろしくお願いします」

かずも珍しく、ニコリとしたのだった、これで心のわだかまりも、不安要素も

消えたのだった、10年後には、かずの予感なのか鬼平が死んだ、だが鬼平の

息子を、かずは可愛がって盛り立てたのだった

 

それからまもなく、もう一方のボス、池波吉太郎とも一悶着が起きたのだが..

池波は若いながらも、市場の小島専務派の旗頭であった

だから社長派の(正確には常務派だ)かずを気にくわなかった

鬼平ほど露骨ではないが、かずのやることにあれこれと文句をつける

そして、それは意外な形で終止符をうった

セリの些細なことで池波が、かずに声を張り上げた

「兵隊にもいかない餓鬼が生意気な口をきくな!」

かずも負けては居なかった

「ばかをいうな、おれも兵隊くらい行ってるぞ」と、かずが言うと

「なにを・・・いったいどこの部隊でふるえていた?」と池波がからかう

「東京の調布の高射砲隊だ、言ってもわかるまい」

「なに?調布だって?、あの244戦隊のところか?」池波のトーンが下がった

「・・・?」意外な反応に、かずもぽかーんとした

「ははは!、そうか調布か、ははは」池波はその大きな角張った顔そのままに

豪傑笑いをしてから

「おい、おれは厚木基地で戦闘機の整備をしていたんだ、調布か!なつかしいな」

そしてかずの両肩に手を置いて揺すって、満面の笑顔になった

「おい戦友!どうだ一杯やりながら昔話をしようじゃないか」思いのほか豪快な男だった

兵隊同士の絆というのは命がけの明日知れぬ身同士故に、学校の同級生同士

なんかの友情より、ずっと深いようだ

市場の派閥なんか関係ない二人になった、これから死ぬまで二人の関係は

続いて行くのだ、仲のい友だちとなり、女房同士も仲良しになって4人で近くの

温泉へ行ったりもするようになった

かずは、この頃、ダットサンのオート三輪を購入した、自動車とはいえオートバイ

タイプの棒ハンドル、前一輪、後は二輪の変則自動車だ。

それから数年後にはダイハツミゼットを買った、この田舎ではサラリーマンには

まだ乗用車など普及せず高嶺の花だった、商売人がこうした運送用の自動車を

ポツポツ導入しだした頃であった、そして間もなくテレビの時代がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和33年 魚市場の事情

2019年12月26日 19時41分04秒 | 小説/詩

かずが彼の将来を危ぶんで面倒を見始めた徳磨だったが

意外な反響が起こった

何があっても、何を言われてもいつもニコニコして決して腹を立てない

余計なことは言わない、余計なこともしない、そして応対の面白さ

今で言う「てんねん」なのだ

それで店に買い物に来る主婦達の人気者になり「とくちゃん」と可愛がられる

学校の勉強は苦手だったが、魚の扱いはすぐに覚えて、「三枚おろしして」

「腹を空けて」「家に届けて」などお客さんの要望には、いつでも

「はいはい」と快く引き受ける、それが人気の原因だ

これには、かずも驚いて「人にはわからない才能があるものだ」と感心した

 

かずが竹丸市場に行くようになって既に二年が過ぎた、そして魚屋事情が

わかりはじめた

かずの性格だから、一年も経つと魚屋の中で頭角を現しはじめた

東京の闇市で鍛えられた人間だけに、田舎の純粋な者には薄気味悪い

存在なのだ、自分が正しいと思えば妥協しないでズケズケと言う

大概の魚屋はたじろぐのだった

しかし、どうしても勝てない貫禄の魚屋だって居る、その筆頭はこの町

一番の鮮魚店「鬼平鮮魚店」を構えている鬼塚喜平である、町の中央商店街に

大きな店を構えて県外にも出荷している、従業員も10人以上いて番頭の

榊原弥二郎も手強い男なのだ、さすがのかずも、手も足も出ない、

貫禄がまったく違うのだ

かずは33歳、喜平は55歳、弥二郎は40歳だ、弥二郎は兵隊として中国で

5年も戦った男だ、頬には銃剣の白兵戦で受けた生々しい傷がある

人は「弥二郎」とは呼ばず「大陸坊主」と呼んでいる

「中国では人に言えない悪事を働いたのだ」という噂が飛び交うような男だ

セリ場では王様だ、セリは人より高い金額を言ったものが魚を競り落とす

「鬼平」に従順であれば大陸坊主はセリの邪魔をしないが、反抗的な

セリをする者には徹底的に虐めて魚を競り落とさせない

とことんまで値をつり上げて絶対、反抗者には魚を与えない、かと思えば

つりあげて、かなりの金額になった頃合いで、反抗者に競り落とさせる

こともある、それで反抗者は高く買うので適正価格で売れば赤字になるのだ

そんな嫌がらせもする

そんな反抗者は、かずの他にも二人いた、一人は池波吉太郎37歳

もう一人は神谷宏三27歳だ

池波は、この町のもう一つの繁華街「筋町通り」のボスだ、資産家で魚屋の

他に出荷もしているから「鬼平」と同じなので時にバッティングもある

そんなことで互いに煙たい存在だ、池波は「あしわら」という屋号で店を

開いている、店員は二人だが、トラックを3台もっていて魚の他にも運輸の

仕事もしているから、元気の良い運転手を抱えているのだ

だから大陸坊主如きに負けては居ない

神谷宏三は男7人兄弟の5番目とかで腕白坊主そのままの男だ

いつもサングラスをかけていてニヒルな男だ

だがまだ駆け出しで力は無い、だが負けず嫌いな性格はかずと同じで

損得などよりプライドを重視するからいつも大陸坊主にやられっぱなしだ

それでも向かって行く、そんなことで宏三と、かずは仲良しになった

かずが6歳年上だから、宏三は「かずさん」と呼ぶ、かずは「こうぞう」と

弟のように呼んでいる

魚屋はざっとこんな感じだが、市場の主役、魚市場関係も複雑なのだ

どこにでもあるような社長派と専務派の構図である

ここは株式会社だから有力な二大株主がいた、一人は創業者の竹丸豪蔵

67歳、対する専務は小島仁65歳である、二人とも当時では老人の仲間入りだ

創業者は竹丸だが、小島は同等の出資をした大株主なので口を出す

それが竹丸の燗に障る、表面では二人は何食わぬ顔をしている

だが互いの胸の内は次期後継者に飛んでいるのだ、どちらも自分の息子を

次の社長にしたいと思っている、裏では工作合戦が盛んにおこなわれていた

魚屋を巻き込んで多数派工作をおこなっている

かずは権力や派閥争いなどには無関係と思いきや、そうではない

義理人情に弱い性格である、市場に入るとき、甲村の推薦でも信用力が無い

かずは社長、専務の合議では「あいならん」と言われたのだ、しかし

竹丸社長の息子の竹丸剛太常務が、なぜか、かずの加入を後押ししてくれた

のだ、挙げ句に「保証人が不足なら、俺も身元保証人になる」とまで言い張ったので

取引出来るようになった経緯がある、それをかずは忘れてはならない恩義と

感じていた、ゆえにかずは竹丸派と目された

なぜ、常務が保証人になったのか、それは後日、わかった

「ちょっとこい」と常務に言われて市場の応接室に行くと、そこには先客がいた

知っている男だった、かずが店を建てたとき基礎工事をした飛島工業の飛島健治

だった、この男とは生い立ちと境遇がまことにそっくりだったため気が合って

随分と話し込んだのだった、どちらも下戸であるのも気が合うのだ

かず苦労の人生を送っただけに、苦労人には共感を覚える、そして負けず嫌いで

強い者に立ち向かう男も大好きだ、それをお互いが感じたのだ

そしてずっと以前から飛島は竹丸常務の弟分的立場にいて、何かと面倒を

見てもらっていたが「面白い魚屋がいる」という事を竹丸に話した、それで

常務も心に留めて置いたのだという、かずを後押ししたのは可愛い子分の飛島への

恩づくりだったかも知れない

この場で常務は、かずに「今度のことは飛島の推薦があったからだ、これからは

おまえたち二人は兄弟のように助け合え、お互いが困ったとき保証人になって

助けるのだぞ」とまで言った、かずはこの時の義理を大切にしたことで、数十年後に

とんでもない大火傷をすることになるが、それはおそらく私は書かないだろう

そこまでこの小説はたどり着かないと思うしハッピーエンドで終わりたいのである。

強いて言えば、その大火傷も持ち前のファイトで乗り切るのだが...

この派閥構造では、かずはいつも虐められている鬼平と同じ派閥なのだ

派閥が同じでも、鬼平はぶれない、かずはやられっぱなしであった

何とかして逆転したいと、執念深いかずは解決方法を模索している

虐められれば虐められるほど復讐心が湧き上がる嫌な男なのだ

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和33年~ 高浜での生活

2019年12月25日 19時27分32秒 | 小説/詩

店を開いたこのあたりは新開地で、住宅もポツポツと建っているだけだった

近所に目を向けると、かずより2年ほど前に開業した食料品店と、かずと

ほぼ一緒に家を建てて開業した八百屋、それに肉屋も電気屋も相次いで

開店したので、この田舎では、ちょっとした商店街になった

更に床屋さんも同じ地域に開業した。

 

それでも,住宅が少ないから店でお客を待っていても商売にならない

だから、妻のみつこが店番をして、かずは午前中は宣伝も兼ねて、町内の

山の手まで自転車に魚を乗せて売りに行く

みつこも魚捌きの練習をした成果が出て、刺身くらいは切る腕前になっていた

そんなある日、近所の男性客が店に来た(あれ?どこかで見たような?)

みつこは、この男に見覚えがあった、相手も「おや?」という顔をしている

そうだ思い出した

みつこが、長男陽一を産む前の妊婦の時のことだった

妊娠していたが、毎朝汽車に乗って隣町の東亞工業の子会社へ働きに

行っていたが満員電車で身を守るのもままならなかった

そんな時、一人の男性がみつこが座れる席を確保してくれるようになった

しかも満員だから,誰かが倒れ込まないように両手を突っ張らせて

自分は立ったまま防御までしてくれていたのだ

それは、みつこが実家に出産準備に行くまでの間、しばらく続いたのだ

同じ会社の別の場所に居るのはわかったが、とうとう名前も聞きそびれて

いたのだった

かずには「そんな親切な人が居る」と言ったが、かずもとうとう彼に会う機会が

なかった

そうだ、その人だった。 すぐ近所に住んでいる丸川さんという人だと

わかった、あの頃は東亞工業から出向で子会社に来ていたのだそうだ

それで丸川さんの夫婦共々仲良しになってつきあいが始まった、

戦後まもなくここに住み着いた丸川夫婦は年齢もほぼ同じだった

それで丸川さんが宣伝してくれたので、彼らとつきあいがある近所の人たちも

次第に店に買いに来てくれるようになった

だいたい同年代であったから、社交的なみつこの友だちが一気に増えた

その点では、愛想は良いが人付き合いに難があるかずは、なかなか友だちが

できなかった

しかし、かずは水城村などの行商でもそうだったが、女たちには人気がある

歯切れの良さと、男っぷりがいいからかもてるのだ

少したった頃、また新しい客が店に来た、かずより10歳以上は年上だろう

「あなた東京育ちだそうね、どこなの?」と聞いた

上野から亀戸、神田、田町、調布と転々としたと言うと、「私は浅草なのよ

なにか嬉しいわ、同郷の人に会ったみたいで」

かずも久しぶりに下町言葉に触れて、セイ叔母さんや珠子さんを思い出して

懐かしかった

戦火で家も何もかも焼かれたけれど、この二人が並んで写っている写真を

ずっと持っていた、それは入隊するときに下着などの僅かな携帯品の中に

持ち込みを許されていた写真も持って行ったからだった

両親と自分が写っている写真2枚と、この二人の写真一枚、それだけが

手元に残った写真だった。

 

昭和35年には池田勇人首相が「所得倍増計画」を発表して実行

毎年平均8%以上の高度成長が続くことになるが、今は32年~33年

まだ緩やかな成長期であったが確実に世の中の景気は良い方に

むかっている

日本経済の立ち直りが早かった原因の一つは朝鮮戦争の

勃発だと言われている

1895年(明治28年)に清国(中国を支配した満州族国家)との

日清戦争に勝ち、1904年(明治37年)には強国ロシアと日露戦争となり

辛くも勝利した日本はその勢いで1910年(明治43年)朝鮮国を廃して

大日本帝国に併合したが、35年後にアメリカとの戦争で敗れて

アメリカに支配され独立国の地位を失った、同時に日本が併合した

朝鮮は連合国に解放されて独立を取り戻したかにみえた、しかし現実は

連合国が朝鮮人には国家運営が難しいと判断して国政に介入した

しかも北半分はソ連と中国が介入し、南半分はアメリカが介入した

そのため朝鮮は、北が社会主義国家、南が自由主義国家として分断

され二つの国が出来た

北朝鮮はソ連に亡命していたキム.イルソン(金日成)が支配し、韓国は

イ.スンマン(李承晩)が大統領となった(*李承晩は日本が独立を失って

いる戦後間もなく、竹島を韓国領とした李承晩ラインをひいた人物である)

しかし日本帝国が北朝鮮に作った巨大ダムと工業力が動いている間

工業生産性が高い北朝鮮は、農業主体の韓国に軍事力で勝っていた

かずの長男が産まれた翌年、突然北朝鮮軍は戦車を先頭にして

国境を越えて一気に韓国に攻め込んだ

韓国は抵抗したがあっけなく首都ソウルが陥落、大統領はスウォン(水原)に

逃げたがそこも危なくなり、瞬く間に朝鮮半島の南端プサンまで

追いつめられかろうじて「テグ(大邱)、プサン(釜山)」ラインでの防御で凌いだ

韓国軍壊滅の間際、マッカーサー率いるアメリカ軍がソウルの南

インチョン(仁川)に逆上陸したため、伸びきった北朝鮮軍は分断され

各個撃破の憂き目に遭って、今度は逆に敗走することになった

それで今度は米韓軍(イギリスなども含めて国連軍)が逆襲して

北朝鮮の首都ピョンヤン(平壌)を占領、北朝軍を中国国境まで追いつめた

しかし今度は北朝鮮は盟主中国(中国共産党国家)に助けを求めた

中国は義勇軍という名で北朝鮮を助けて、米韓と戦った

結局勝敗はつかず元の国境付近で膠着状態になり令和の今日まで

休戦状態が続いている

この戦争で日本はアメリカ軍の補給基地、経由地となり米軍の軍事

物資の生産供給や宿営地、中継基地として潤ったのである

それが昭和30年代の繁栄の引き金になっている

 

かずも余裕が生まれて、長男陽一と澤田達也を連れて10年ぶりに

長野の伯母さんを訪ねた

もう長女も、次女で元許嫁だった佐知も嫁に行って家には居なかった

三女が婿をとって家を継いでいた、長男、次男がいたのに不思議に

思ったので聞いてみると、伯母さんの表情が曇った、それでも意を

決したのか気を取り直して話し出した

東京の下宿屋でかずと一緒に暮らした長男光顕は鬱病になって

長野へ戻ったのは別章で書いた通りだったが、それから一年後に

神経を病み衰弱して亡くなったそうだ、そして野尻湖に連れて行って

くれた元気な次男は、高校卒業と共に行方不明になってしまった

「元気だから探すな」という手紙が数ヶ月後に届いたという

今はもう諦めているのだという

伯母さんの家も傍から見るほど幸せでは無いのだと思った

それに比べれば貧しくても家族5人で平和に暮らしている自分は

幸せなんだと思った

この頃、徳二(かずの実父)はリヤカーを使って今で言う廃品回収業

で生計を立てていた、住まいもさすがに払い下げの塩小屋というわけにも

いかず貧しいながらも廃材で小さな家を建てたのだった

だが廃品回収の仕事はプロテスタントの敬虔な信者である女房が

主にリヤカーを引き、徳二は廃品の中からめぼしい美術書などを

拾い集めて蔵書として読みふけっていた

親戚では「徳二は豊かな家に生まれていればいっぱしの学者になれた

かもしれない、頭が良いのに残念だ」と言うのが常であった

確かにこの町の古代の遺跡の調査などには興味を示して調べ歩いた

形跡がある

だが一方、親戚の間では「徳二は怠け者で女房、子供に働かせて

自分は好きな事だけしてプラプラしている」という見方もされていた

そんな家で徳二の一人息子、舟形徳磨は16歳になり中学校を卒業後

夜間高校に通ったが勉強について行けず中退して廃品回収の手伝いを

していたが小さな体で、しかも痩せこけていて、着ているものも汚れた

古着であるし、あまりにも貧しく惨めなので、かずは自分も人を使うほどの

繁盛でもなかったけれど、徳二に「リヤカーを押していても徳磨の

食い扶持も稼げないから、少しでも稼ぎになるようおれが面倒を見る」

と言った

しかし徳二にもプライドがある「生意気なことを言うな」などと言って拒んだ

しかし徳二の姉である腰越の伯母さんも徳二宅の貧困を見かねて

「あんちゃん(かずのこと)の言うとおりだ、徳磨を預けた方が何倍もいいから

ここは甘えておけ」と説得した

徳二は仕方なく徳磨を預けたが、そこらへ言っては「かずの奴は少し

商売がうまく行ったと言って天狗になっている、徳磨を連れて行って

ただ同然で使っている」などと悪口を言って歩いた

かずも徳二に対しては、実の父に対する尊敬の念など持っていないから

遠慮会釈なく言い負かした、それは子供の頃から義祖父の関神源治郎

祖母の関神キク、そして母から家族を置いて離婚して出ていた徳二への

恨み言をさんざん聞かされていた後遺症でもある

だが腹違いではあるけれど弟の徳磨を、なんとか立派な大人にしたいという

兄弟の情は持っていたのだった、女房のみつこも「とくちゃん」と言って

可愛がったから、徳磨も、みつこに慣れて楽しく仕事をするようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和32年 店を持つ

2019年12月24日 15時26分05秒 | 小説/詩

かずは一週間のうち2~3日は山への行商をやめて、町の中のはずれの区域へ

売りに行くようになった

それは近い将来、店を開くための適地を探しながらの商いであった

今住んでいるでは、表通りから中に入りすぎているし、しかも去年の秋

とんでもない大きな高波がおこって、あの高いママ坂を乗り越えて

一番浜辺の家が全壊、裏の畑山次郎の家も床上浸水の被害を被った

そんな危険がある場所でもあったし、狭い土地で借地でもあったから

ここでは魚屋を始めるつもりはない

いろいろ歩いてみたが町の中心部の商店街から1kmほど山の手の

髙丘地区が気に入っている

この地域は農家が大部分であった、街道が二本平行して5km先で

合流している、その先さらに5kmの奥谷村で道は行き止まりになっている

街道の一本は遥か昔からの道で古道と呼ばれ、もう一本は家もまばらな

地区を貫く新しい広い道で、新道と地元の人たちは呼んでいる

古道の農家は江戸時代以前から続く家が大部分で、封建的な色合いが

濃い、有力者というのが存在していてこの地区では絶大な権力を持っている

髙丘地区の区長も例外なくここから出ている、市制が制定されてからも

市会議員はこの古道地区から出ているのだった

昔は川筋で沼を埋め立てた場所もある新道地区は、戦後になって建った家が

ほとんどで高浜地区外からの者が多い、とはいえ高浜全体の1%程度しか

戸数がないから寂しい地域なのである

ここでかずは、大きな犬に虐められている子犬を見つけて保護した、あきらかに

捨てられた子犬である、震えているのを自転車の前カゴに入れて家に連れてきた

コロと名前をつけた、赤犬の子でコロコロしているからである

子供達は喜んで遊び相手にした、コロもすぐになついて家族になった

 

竹丸魚市場と近松魚市場が出来たのは、昭和24年に魚の国家統制が解除

されたからだ、しかし30年には近松が廃業した

その30年には米の統制も緩和されたので、もはや闇米の必要も無くなり

かずの商売は純粋な魚売り一本になったのだ

そうなると行商だけでは行き詰まる、いよいよ本腰を入れて店舗を建てる

準備が必要になった

そのための課題は、家を建てる土地の選定、家を建てるための資金の準備

今住んでいる家の処分だった

丸竹市場に出入りするようになって、同年代の魚屋の知り合いも出来た

その中に「田印」という少しがさつな感じの男が居たが、なかなか目鼻の効く

男で世間に詳しい

店舗は持たず、町の東方で行商をしている男だが、それに店舗の話しを

したら「おれは高浜がいいと思う」と言ったので、自分も気に入っている

高浜がいよいよ第一候補となったのだ、それで高浜の客に、それとなく

どこが良いかと相談したら、数人の人が新道の真ん中あたりを勧めた

そのうちの一人、高根さんというお客さんは、市内の車屋建設の常務だった

それで、建築も高根さんに任せることにしたのだった。

次は予算であった、昭和25年に建てた今住んでいる家の時には3万円の

予算で建てるつもりだったが、ほとんど資金がなかった

母屋に近いところに住んでいた金貸しの長瀬セツという3歳ほど年上の女

彼女は東京巣鴨の病院で看護婦をしていたが、故郷のこの町に帰ってきて

金貸しをはじめた、しかし板東という若いおんなったらし(女を騙すに長けている)

に騙されて金を貸したが取り返せず困っていたのを、かずが決着つけて

取り返してくれたので、それ以来つきあいをするようになった

彼女の自慢は巣鴨の拘置所で東条英機を見かけたことであった

そんなことでセツに3万円の借り入れを頼んだら「わたしは金貸しだから利息

がつくよ、しかも高利だからね返せなくなるよ」と言う

「だめか」と言ったら

「そんなことはないよ、私のはダメだけど亭主に貸してもらえばいい

利息がつかないからね」

セツの亭主は大学卒で、何をしているのかわからないが事務所を構えて

いた、だがいかにも根性無しの風態で頼りない、ともあれ無利子でセツの

夫から貸してもらったのだ

実際はそれでも足りなかったのは以前書いた通りで、不足分は土台と

屋根石を浜から従兄弟たちと、モッコに入れて800個も運んだりしたの

だった

さて、車屋建設の高根さんが土地の情報を持ってきてくれた、新道の

埋め立て地を車屋建設が8区画にして分譲しているので、そこがいい

という事である、それで一番北側の区画を頼むことにして金額を聞いたら

土地.建物建設費込みで43万円だという、勿論現金は持っていない

無尽(講)と言って商売人が数十人集まって月掛けをしていく互助の

方法がある

例えば10人メンバーがいて毎月1万円掛ける、すると10万円集まる

それで無尽を開催する

資本金は10万円だ、今お金が不要な人は不参加または入札しない

だが、まとまったお金を必要な人は、10万円以内のほしい金額を

書いて入札する。

Aさんが10万円 Bさんが9万円 Cさんが88000円 Dさんが85000

と書けば、Dさんが落札となって85000円受け取れる、そのかわり

Dさんはあと9回1万円を払い続けるが落札の権利はなくなる。

ある意味、15000円が利息と言うことになる

その金額は会の資本金に上乗せされていく、安く早く利用するか

あとで満額+配当をいただくか・・・そういシステムだ

かずはこうして無尽で20万円を落とし、残りは今住んでいる

家を売って20万円作ろうと思った

しかし地主が更地にして返せなどと言えば万事休すなので

地主である大竹鉄工所の主人に「こうこうなので」と事情説明に

行って「謝礼に一割払うので、どうかご容赦を」と頼んだら

「売るあてはあるのか」と聞くので、これから不動産屋でも聞いて

見ますと言ったら

「それなら俺が売ってやる」、そして1週間も経たぬうちに

「売ったぞ」と言って20万円をポンと置いていった

やはり大きな商いをしている人間は違うものだと刺激を受けた

かずであった。

それから現金で40万円を持って車屋建設へで掛けて事務所で

「あとの残り3万円は後日払うので、これでやってもらえませんか」と

頼んだが車屋建設の40歳くらいのオーナー専務は

「だめだめ、うちは全額現金でないと仕事はしない」と言う

この地での実績も財産も持たないかずを、あきらかに見下している

信用しろというのも無理なところもあるが・・・・・・

「そこをなんとか、必ず払いますから」と平身低頭して頼むが、いかにも

ボンボンの専務は首を縦に振らず、今にも事務所から出て行こうとしている

そこに専務の父である社長が帰ってきた、そしてこの雰囲気に気づき

「どうした?」と聞いた、専務がこうこうと事情を話した

となりに居る高根常務にも事情を聞き、この話を持ってきたのが常務である事も

知った、それからかずにも事情を聞いた、そして一言「いいだろう、この仕事

受けなさい」と言った

「えっ!」という顔の専務に、「若い人がやる気になっているのだから

芽を摘むな!」と一喝した。

これでめでたくかずは、高浜の地で店舗兼住宅を持つことが出来たのだった

県道(まだ砂利道)に面して間口二間半、奥行き四間10坪の1階店舗

+トイレ+台所 2階は6畳二間の和室だけ、ここに夫婦と子供3人が寝る

建物の裏には買ったが手つかずの土地が10坪ほどある、その空き地に

ドラム缶の五右衛門風呂を置いてあった、まさに露天風呂であった

私は数回入った記憶があるが、母が入ったかは記憶にない

そして五右衛門風呂に入って、ソ連の人工衛星が星空の中を行く明かりを

見た記憶もかすかにある

井川かず、昭和32年5月、32歳にしてついに念願の店を開業したのだった

東京で食い詰め、この地に流れ着いて9年目であった