かずは思うのだ、自分が高浜に店を構えた昭和32年頃が境目だと
そこで敗戦国日本の負は精算されたのだと
勿論、国土の一部、沖縄などがまだアメリカに占領されていたり、
不平等な条約で縛られた敗戦国という足かせは外れていないから
完全な独立国とは言いがたい
けれども今日食べる米さえ、隠れて得なければ生きていけなかった戦後の
苦しい生活から見れば、家だって小さくても文化的で清潔になったし
食い物も有り余るほど流通してきて、腹ぺこなんてことも無くなった
洗濯機、冷蔵庫、営業用トラック、扇風機、ミシン、テレビ、便利な世になった
人々は活き活きと働いているし、外に出れば元気な子供達の走り回る
姿がそこかしこで見られる、子供の後を飼い犬たちが鎖も無くついて走って
いる
こんな小さな町でさえ戦後のベビーブームで子供があふれかえっている
我が家は3人、むかえに立ち並ぶ家々でも小学生、中学生が3人、4人
2人、2人、3人などと、それぞれ家庭に住んでいる
陽一が小学校に入学したときなどは生徒数が2000人、一学年は55人
程で6クラス、陽一より1~3級上のベビーブーム(団塊の世代)は更に
いクラス多かったのだから教室が不足した
子供が多いと言うことは、その国がこれから少なくとも30年以上繁栄する
ということだ、人口増は即、口に胃に繋がる、衣服に繋がる、建築に繋がっていく
かずの店が毎年、倍々ゲームで売上が増えていくのはそのためだ
昭和38年は、北陸、越後を中心に大雪が3ヶ月も降り続けた
関東で生まれ育ったかずにとって、雪国の冬は苦手である
もう、ここに来て15年以上が過ぎたが、雪の扱いはへたくそだから
雪かきは主に弟の徳磨が受け持った、日頃は仕事が遅いとか徳磨を叱りつける
けれど、こんな時は頼りになるのだ
息子の陽一も雪が大好きで、徳磨と何やら楽しそうにじゃれ合いながら雪かきを
楽しんでいる、それを見て改めて徳磨と陽一が叔父と甥の関係である事に
気づく、かずだった
自分と徳磨は17歳違う兄弟だが、徳磨と陽一は9歳しか違わないのだから
どっちが兄弟かわからない
しかしこの年の雪は半端でなく、1日に50cm以上も降る日が続き、とうとう
道路は1階の部分より高くなってしまい、足場の階段を雪面に造って道路に
上るざまになってしまった、店は日中から電気をつけないと暗いし、客足も
遠のき、仕入もままならない開店休業状態が続いた
吹雪の日には小学生が集団下校をしてきた、現在の4倍近い子供達がいた
時代だから、親が心配するよりも子供達の集団の方がよほどたくましい
高浜地区には小学生だけで200人近く居たから、それらが黒いマントを着て
一列になって真っ白な雪道を歩いてくるのは壮観であった
この頃の子供は滅法雪に強い、吹雪いていてもじゃれ合ったりしている
陽一も買ってやったスキーを持って友だちと近くの土手で滑って遊んで居る
この頃の子供スキーは、板の上に皮の輪が左右にまたいでいて、そこに
長靴を差し込むだけの簡単なものだった、だから脱げてしまうとスキーは
どこまでも滑っていってしまう
中学生になった頃、ようやくカンダハという装置がつきワイヤー状の締め具で
長靴の後からも確保出来るようになった、スキー板はまだ木製である
この大雪を38豪雪と名付けたが,40年前後は何度もこのクラスの豪雪に
見舞われて雪に弱いかずを苦しめた
38年6月には新潟市中心に大地震が起きた、新潟地震と名付けられM7.5
信濃川にかかる出来たばかりの昭和大橋がドミノ崩しのように川に崩落した
しかし明治時代に出来た萬代橋はびくともしなかった
越後は地震の多いところだ、それに比べ越中というところは地震が皆無と
言っても良い、勿論他所の大地震の揺れは来ることがある、震源地としての
地震が無いのだ。
かずが産まれる9ヶ月前に東京で関東大震災が起きた、幸い家族はこの頃
まだ古河にいたから大丈夫だったが、古河でも少しは被害があったらしい
だからかずは、これまで地震らしい地震を感じたことが無かった、新潟地震も
どーんという衝撃が一発来ただけで、この町では被害もほぼ皆無だった
夏休みになると子供達は近所誘い合わせて、通学団単位で海に泳ぎに行く
砂浜が海に沿って1km以上続き、砂浜の始まりから波打ち際までは50m以上
ある、まったく小学生だけの自治で海へ行く、6年生が大将になって1年生まで
10数名の団体だ、トラックの大きなゴムタイヤチューブを浮き輪にしてもつ子供
賑やかに歩いて海に行く
海に行けば小学生が端から端までひしめき、監視の人たちが目を光らせて居る
ここの海は深くてすぐに背が立たなくなるから危険なのだ、だがだからこそ
子供達は泳ぎが達者だ、特に漁師の子供達は赤い「金釣り」という簡易フンドシ
で泳ぐ、泳ぎは誰も敵わないほどうまい
1964東京オリンピックに出て銀メダルを取った山中毅さんは、能登輪島で
日本海の荒波の中を泳いでいたのだ
まだプールなど無い時代だったのだ、子供達は野生児だった
これから5年も経つと長野県からの道路事情は次第に良くなって、海水浴
ブームが起きてくる、昭和40年頃はまだその域に達していない
しかし松本から前回書いた、大口さんの家族が、かずの家にやってきた
大口夫婦、お父さんの宏一さんは、かずより4歳ほど年上だった
彼も例に漏れず戦争に参戦したが、かずとちがって外地「南方諸島」への
志願兵としての赴任だった、在籍年数も3年を超えていたが、学歴も高いので
下士官であった
パラオに進駐していたがパラオ諸島の激戦地ペリュリュー島で5倍ほどの
重装備のアメリカ軍と戦い撃退させたこともあったが力尽きて玉砕した
しかし大口さんは全滅必至になった頃、上部からの命令を託されて
軍艦で島を離れて別の島へと脱出して命を繋いだのだそうだ
一緒に来たのは高校生の長男と陽一より一つ年上の中学生の次男
それに温泉で相部屋だった大口さんのおばあさんの5人だった
二人の子供は、いずれもスポーツマンで凜々しい顔をしている
陽一が軟弱に見えた
ここに来る前に、30km程離れた海水浴場で男三人は泳いできたのだそうだ
今夜は魚をたっぷり食べて一晩、この家に泊まっていく
かずは太っ腹で前向きな宏一氏をすっかり気に入った、信州人と付き合う
のは善光寺の伯母さん一家とあるから初めてでは無いが、宏一氏は
若いながらも松本市の調理器具、、厨房機器の会社の専務取締役だという
飲食を扱う職業の、かずにも少しは関連がある、これからどっちの方向に
進んで行くのか、かず自身もわからないが、今の位置ではとどまらないと
自分に言い聞かせたばかりだ、いずれにしても魚からは、魚料理からは
離れないだろうと思った、そんな事を前提に宏一氏と話していると何か
自分の進む道が見えてくるような気がした
「大口さんに出会えて、なにかヒントを得ることが出来ました、これからも
よろしくおつきあいをお願いしします」と言うと
宏一氏も「いやー、井川さんもなかなかの苦労人で話しを聞いていて
面白れいっせ、厨房に関わることなら何でも相談にのるだで遠慮無く」
かずは飲めないけれど、少しだけ相手をした、いつもよりも飲んだ
宏一氏は豪傑だ「米どころの酒は、やっぱりうまい!」とご満悦だ
すっかり酔って寝床に就いた、大口宏一氏とのつきあいは、この後
30年以上続くことになる、そして人生に大きな影響を与える人となるのだ