神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記49 武田信玄の死 

2022年10月31日 18時04分46秒 | 貧乏太閤記
「あい分かった、沓掛城に待機している佐久間信盛を大将に、平手、水野隊は浜松城へ出向き、家康の援軍として出撃させよ」
信長は三将に3000の兵をつけて浜松に向かわせた、数的には少なすぎるが最初から戦わせる気はない、むしろ血気にはやる家康を戒めて浜松城に籠城してやり過ごせとの意を言い含めて出したのだ。
武田信玄との決戦は信長が真っ向から引き受けるつもりであった。
ところが信玄がいよいよ動き出すと聞くと、途端に畿内から伊勢までの反信長勢力もまた力を得て動き出した。
伊勢長島の一揆勢、本願寺、三好一党、それに足利義昭も露骨に動き出している、義昭の要請に山城、河内、摂津の土豪も信長を裏切って味方するものが出てきた。
これに加え、信長自身が徳川の援軍に大軍を率いて行けば浅井、朝倉も動き出すことは必定である、そうなればせっかく取った近江も失うことになる
信長は動くことができない、だが信玄が浜松に向かえば家康から援軍要請は必ず来る
徳川家康は三河と遠江に拡大したとはいえせいぜい50万石くらいのもので浜松城で動員できる兵力は1万が精いっぱいだ。

早くも武田家の老臣にて名将の誉れ高い山県昌景(やまがたまさかげ)の先発隊3000が東三河の村々に火をかけて挑発した。
徳川軍は各城に籠ったまま挑発に乗らず守りを固めた。山県隊も本隊に戻って
28000の武田軍が浜松城を無視して北にあるにある二俣城へ向かった
家康の正念場だ、信長の援軍が浜松に到着したが3000はあまりに少ない、ここで籠城するべきか、討って出るか
浜松城の兵力は1万、武田が25000なら十分守ることができる、信長の本隊があとで3万もくれば形勢は逆転するかもしれない
援軍の大将、佐久間信盛も籠城せよとの信長の命を伝えた、だが「あれが三河武士なのか、腰抜けん武士よ」とあざける武田軍の顔が浮かぶ
二俣城が落ちれば、そこは武田軍の軍事拠点となって岡崎、浜松、掛川のどの方面にも対応できるようになる。
家康はまだ若かった「打って出るぞ、我が国を通過されては先祖に申し訳が立たぬ」、佐久間が諌めるのも聞かず、城に数百を残しただけで全軍が武田軍の後を追った

「ははは、徳川のわっぱめ、まだ尻は青いと見える、これで家康の首は取ったも同然じゃ」武田の重臣、山県昌景と馬場信春は顔を見合わせて笑った
「全軍、予定通り反転せよ、指揮官の諏訪四郎武田勝頼が命じた、一糸乱れぬ陣形を保ったまま、最も難しいと言われる反転をいともたやすく武田軍は行った。
三方ヶ原で両軍は睨み合った、兵の少ない徳川連合軍は大きく左右に開いた鶴翼の陣で武田軍を包み込む陣形だ
「わっぱめ、薄っぺらい陣形で向かうとは戦を知らぬ愚か者よ、甲州武士の恐ろしさを味わうがよい」
後方に総大将の武田信玄と旗本、後備え5000を置いて、司令官武田勝頼をはじめ全軍が魚鱗の陣形で向かい合った
中央の小山田、馬場、山県の三隊は矢のごとく中央突破、まっしぐらに家康本陣を突く
武田勝頼隊、内藤昌豊隊が先鋒がこじ開けた前線から左右に攻撃を仕掛ける
更に、そのあとを戦況を見ながら武田信豊、米倉の遊軍が後始末をする
全く隙のない陣形である。
たちまち薄っぺらい徳川、織田の連合軍は各所で打ち破られた、普通大将の本隊は奥深いところにあるが、家康の本陣はすべての隊と同線上でふきっさらしになっている
作戦的には家康をおとりにして、攻め込んだ敵を左右の翼が包み込む陣形なのだが、三倍の敵には通用するはずがない
戦も何もあったものでない、徳川軍の完敗でであった、家康自身何度も敵の槍をかわしてようやく浜松城に逃げ込んだ
家康の身代わりとなって討ち死にした家臣も複数あったという
こんな中でも活躍したのが本多平八郎忠勝であった、僅か300の隊長である忠勝は冷静に家康の退路を確保しながら殿軍を務めて多くの味方を救った。
家康は敗軍ながら大手門を閉じず、味方の敗残兵を収容した、武田軍はなぜかそんな無防備な浜松城には目もくれず、予定通り二俣城に向かった
家康は、この日の情けない自分の姿を書かせて、生涯反省材料にしたという。
「強い!信玄は強すぎる」家康は心からそう思った、そして不思議なことに家康は信玄を師と仰ぐのであった。
10数年後に武田が滅んだあと甲州に入った家康は、武田の遺臣の多くを召し抱えたという。

その後、二俣城を激戦の後落とした武田軍は次の目標、野田城を取り囲んだ
ところがある夜、密かに数十騎の武者と荷駄が二両、野田城から東に向かったことを誰も知らない、一騎は重臣馬場美濃守であった。
その小隊は、信濃路に入り一週間後に諏訪の館に入った、翌日には海津城から信玄の寵臣であった城主高坂源五郎もやってきた、そしてまだ薄暗い早朝に大瓶(かめ)を積んだ小舟が一艘、諏訪湖の真ん中まで漕ぎ出し、そこで大瓶を湖中に沈めた、湖岸では馬場と高坂も手を合わせていた、小舟は何事もなかったかのように岸に戻った。

野田城を取り囲む本陣では、信玄の異母弟武田信廉(のぶかど)、武田勝頼、親類衆 穴山信君(のぶただ) 山県昌景ら主だった重臣が集まった
「まさかお屋形様が亡くなられるとは予想もしなかった」信廉が言った
「もはや過ぎたことは仕方あるまい、いかにこの戦を有利なまま終わらせて甲斐に引き上げるかだ」
「敵に知られることだけは絶対あってはならぬ、うまい言い訳を考えて兵に疑念を持たせてはならぬ」
「今川の総崩れの二の舞はあってはならぬぞ」
「今後は信廉様にお屋形様を演じていただくことになるが、影武者以上の難しい仕事になります、どうかよろしくお願い申し上げます」
「こうなっては仕方あるまい、信廉一世一代の演技をいたすこととする」
「急ぎ野田城を落としましょうぞ、そして堂々と甲斐へ戻ることといたしましょう」

12月に二俣城の水の手を切って開城させたが、野田城が落ちたのは2月であった、実に2か月も三河で進軍が停まっている
家康は浜松城に閉じ困ったまま動かない、野戦ではとても武田には勝てないことを悟ったからだ
岡崎城の息子、信康にも堅く城を守って決して出てはならぬと申し渡してある
岡崎は兵4000、織田領と隣り合わせてあるから、浜松よりは安全だ、後詰も期待できる

3月に入っても武田軍は野田城から動かず、一部が岡崎方面や浜松方面に兵を移動させるが攻撃の意図は見えなかった。
信長も岐阜城に戻り、しばし戦況を見ることにした。
「なぜ信玄は動かぬ」
「おそらく畿内の将軍や松永、浅井朝倉が動く気配がないためではないでしょうか」
「ばかな奴らよ、もともと頼りにならぬ者どもを頼りに、はるばる出かけてきた信玄も案外愚か者よのう
そうじゃ権六(柴田勝家)、様子見にそなたは兵5000を率いて岡崎まで出張って見よ、戦をしてはならぬぞ、もし敵が動いたら沓掛まで撤退して、そこに籠れ」
「家康に、二俣を偵察するように申し伝えよ、信玄の動きがおかしいと」































梨泰院(イテウォン)で大惨事!&思い出 

2022年10月31日 07時53分38秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国
韓国でセウォール号沈没事件で300人以上が犠牲になった以来の大惨事が起きた。
韓国ソウルの繁華街の一つイテウォンでハロウィンを楽しもうとやってきた十数万とかいう若者で溢れかえる中、ドミノ現象が起きて150人以上が亡くなり、100人以上がケガをしたという、日本人も10代、20代の女性が一人ずつ亡くなったそうだ。
日本でも過去に花火だかのイベントで大勢が亡くなった事件があった、あれ以後イベントでは厳格な会場警備や規制が各地で行われるようになった。
韓国の今度の事件は、テレビで見る限り規制とか会場誘導や警備はほとんどされていないようだ、起こるべくして起きた事故のようだ。
こうした都会型事故は、そこに参加する人々も無警戒であるように見える、渦の中に巻き込まれて身動きが取れなくなって初めて危険を察知するがもう遅い
もう少し危険予知能力をもつ学習が必要だ
そもそもマスク解禁になったとはいえ、やはりコロナ回避の点からも異常な密を避ける人数規制は必要だったと思う。
私がそこにいてもやはりこの人込みの中には入れなかったと思う。君子危うきに近寄らずか

先日もテレビで見たが、何かの会場だか建物のエスカレーターか階段で、高圧的に誘導指示する警備員への批判が是か否かやっていたが、こんな事件が起こるとあの警備員が立派に思える。

韓国には若い頃それなりの回数行ったが、イテウォンは一回しか行ったことがない、イメージでは「若者が多いおしゃれなファッションの街」と思っているがどうなんだろうか。
私は田舎者だから景福宮(キョンプックン)を起点にした太平路(テッピョンノ)周辺から地下のような清渓川(チョンゲチョン)のほとりを歩くのが好きだった、鐘路(チョンノ)や南大門(ナムデムン)へも行きやすいし、雰囲気も浅草っぽくて好きだ。
太宗(テジョン)、李瞬臣(イスンジン)像が立つ光化門(クワンゲムン)広場ではデモや集会で人があふれることもあるがカラーの噴水が上がって夜は美しい
ホテルの宿泊回数では市庁舎などが並ぶここのコリアナホテルが一番多い、江南(カンナム)には新しくおしゃれできれいなホテルが多く雰囲気も良いが、でも漢江(ハンガン)の北にある古めかしいコリアナは2~3流だが周辺地域が庶民的で気取りない小さな店で食事が楽しめた、朝食にプコクを食べに行った店が地味だがおいしかった。
よんさまフィーバーのあと日韓関係がおかしくなって以来一度も行っていない、時々懐かしくもなるが年金暮らしではもう行けないな、板門店(パンムンジョム)で38度線を越えた思い出が一番かな。





空想歴史ドラマ 貧乏太閤記48  武田信玄動く

2022年10月30日 19時15分15秒 | 貧乏太閤記
元亀2年(1571)3月北近江を除いた琵琶湖周辺の仕置きを完全に済ませた信長が岐阜城を発って京に入った。
まだ表立って足利義昭は信長と対立していない、が・・すでに信長包囲網の中心として旗頭に祭上げられているのだ。
義昭が旗印であるならば、戦の中心として反信長軍から期待されているのは武田信玄であった、信玄は信濃の完全征服を成し遂げ、越後の上杉謙信をフットワークで翻弄した。
その勢力はついに飛騨(岐阜県北部)をも占拠し、越中(富山県)の上杉方にまで迫っていた、さらに配下の真田一族を使って上州(群馬県)の沼田まで拡大した。
そして南では徳川との条約を破って、いよいよ徳川領の遠江(静岡県西部)も伺っている。
その武田信玄に対抗するために、信長ははるか遠くの上杉謙信と同盟を結んで
背後からけん制してもらった。
しかし信玄もさるもので、逆に越後国内の反謙信勢力を焚きつけて反乱を頻発させていた

越後(新潟県)は豊かな国でしかも広大だ、上杉謙信の居城「春日山城(かすがやま)」は現代の新潟県上越市の小高い山城である。
地理的には国府の五智(ごち)ともども横長の越後の中では西に偏りすぎている、だから多くの土豪たちは春日山から遠く(今風に言えば50km~200km)に多くの有力土豪がいる
特に遠いのは山形県に近い揚北(阿賀野川の北の意味)衆と呼ばれる地域で、伊達輝宗(伊達政宗の父)とのつながりが深く度々反乱を起こしている。
魚沼郡の長尾政景(まさかげ)は謙信の姉を娶りながら何度も反旗を翻した、信玄の工作があったかもしれない(謙信の死後、家臣の直江兼続(なおえかねつぐ)の助けを借りて上杉家を勝ち取った上杉景勝(かげかつ)は政景の息子である)
そのほかにも柏崎あたりや蒲原郡でも反乱が起きて謙信を悩ませた、そのいくつかは信玄の調略によるものである、信玄は強いばかりでなく策士でもあったのだ。
それに比べると謙信は策を弄せず、正面から堂々と戦うことを好み、弱きものに同情して無償で助ける人情家で無欲
謙信以外の武将は攻めて勝利すれば、その地域を我がものとする
しかし謙信は関東を制圧し、反抗する者を破った、神奈川県の小田原まで攻め込んだ、北陸も最終的には福井県の織田領まで攻め込んだ、ところがその土地の大名に託して越後に帰る、自分の家臣を占領地域の城に置いて行政をさせることをしない、敵対した現地大名さえ許してしまう。
まことに不思議な武将である、しかし家臣にすれば命がけで戦っても何も得るものがない、それでも上越後の家臣は裏切らず生涯従った
勝っても恩賞は感謝状一枚、運良ければ馬か太刀を拝領するくらいである、土地を得たいために戦に出る他国の武将の家臣であればとっくに主を替えているはずだが、不思議なことに謙信直属の武将にそういう者はいない、
謙信には金銭に代えがたい強烈な魅力があったとしか思えない。
その代わり謙信と日頃は疎遠な遠くの土豪たちは反乱したのだろう
そんな謙信が信長からの同盟に応じた、ただ一人で信玄をはじめ周囲をすべて敵にして奮戦している信長に同情したのだろうか

ここで信長の戦を整理してみよう
信長の敵は多い、現代の神戸から大阪にかけての土豪は半分が味方で、半分が敵だ、そして大坂には本願寺が敵対している中ではもっとも強力だ。
これに加えて、四国から、かって京を手中にしていた三好三人衆がたびたび軍勢を率いて大坂に攻め上り京を伺う、それに呼応して和歌山の雑賀衆も集合する、これが関西方面。
近江では浅井、朝倉という名門大名と対決している、東の東海道は同盟者の徳川家康が戦国最大の大物、武田信玄と国境を接しているが、信玄の動きがおかしい、いつ徳川領に攻め込むかわからない、しかも飛騨方面から岐阜方面に直接攻め込む恐れもあるのだ。
伊勢方面は信長の息子が神戸、北畠という有力大名家を乗っ取ったので安定しているが、六角の残党が斎藤家の残党や一揆と結びついていつ蜂起するかわからない。 信長を取り巻くそんな状況である、しかもこの頃は京にいる将軍、足利義昭との関係も悪化している。
その信玄がいつ動くか、それが今や信長と、対抗する勢力の最大の関心事であった。 本願寺顕如(けんにょ)、足利義昭は催促の書簡を送り続けた
だが関東北条と越後上杉を敵に持った信玄は容易に動けないでいる
信長は、その隙に目の上のたん瘤の浅井を滅ぼそうとしている
信長は5万の大軍で、7月ついに小谷城の目の前の虎御前山の仮城に入り一気に攻めあがった
一方、越前の朝倉義景も自ら1万数千を率いて浅井の救援にやってきた、そして小谷城の近くの大嶽山に陣を張ったが、あまりの織田勢の多さに戦うことなく滞陣した。
織田方は木下、佐久間に先陣を任せて何度も攻めたが、浅井方も屈強に陣を固めて攻め入らせなかった。

比叡山を取り囲む信長のもとに報告が入った、伊勢長島の願証寺門徒による一向一揆が、長島を見張っている織田方の小木江城を包囲したとのことである
だが目の前の浅井朝倉軍を包囲して身動きができない
浅井長政は動かぬ朝倉勢に何度も戦闘を促したが動かない、しかし援軍に来たのに動かぬ主君に朝倉の武将が激怒した「われらは、このような腰抜けの主君には使えることが出来ぬ」
そういって数隊が戦線を離脱して、織田方に寝返った
その中の大物は前波(まえば)吉継である、信長は快く迎い入れて一軍の将として遇した。
しかし朝倉が参戦せずとも浅井は守り抜いた、織田軍は大軍であったが撤退した、だが信長には収穫があった、それは朝倉軍の戦意の低さと、朝倉の気骨ある家臣ほど裏切るということを知ったことであった
(これなら朝倉を滅ぼすのはたやすいであろう)信長は次回こそと思った。
凡そ一か月の対陣で信長は岐阜に戻った
けれども失ったものもあった、それは長島一揆に襲撃された小木江城の落城と城将であった信長の弟、織田信興が討ち死にしたことであった
代償は大きかった、更に新しい脅威が信長の耳に届いた、それは恐れていた武田信玄がついに徳川家康が守る遠江に向かって動き出したという報告であった
その数、およそ3万と言う。
「おのれ、長島が動いたのは、これを知ったからだ、おそらく本願寺と信玄には密約が成っていたのだ、これには足利義昭が重要な役割をしたはずだ、これは忙しくなる」
さすがの信長にも緊張の色が走った。
















 










あるアマチュアボクサーの葬儀に参列

2022年10月30日 08時18分55秒 | ゴルフ・スキー・スケートなどスポーツ
「ある・・」はタイトルの便宜上で、その人は、父の従弟
10代の元気な盛りには刃傷沙汰も起こしたほどの元気すぎる人だったとか(長男氏の話)
あるとき本屋でボクシングの本に目が留まった、そこには当時の黒人名ボクサーのファイティング写真があった、「かっこいい!!!」
そしてサンドバックを作って自己流で練習を始めて、それが近隣に伝わり、本格的なジムに誘われ練習に励むようになった。
やがて社会人全日本に出場してついにチャンピオン(ライト級)になった。
その後も富山県や新潟県の選手として全日本、国体合わせて17回出場、引退後は後進の指導にあたり自分と同じ社会人チャンピオンを輩出した、プロボクサーも育てた。

今日の葬儀が終わり出棺の時には本人の遺言通り、「ロッキーのテーマ」が流され、葬送の鐘で10カウントを叩いた後、通常の見送りとなった。
戒名にも本人の希望通り「拳」の一文字が入った、ひつぎにはボクシング雑誌を入れ、火葬場にチャンピオンになったときのファイティングポーズをとった写真が飾られていた。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記47 秀吉の劣等感 

2022年10月29日 18時25分04秒 | 貧乏太閤記
秀吉も、この20人ほどの重臣の一人に加えられるほどまでに出世した、実質3万石の領地も得た、また木下家中も弟の木下小一郎、蜂須賀家政、前野将監、竹中半兵衛の4人の司令官を得た
更に堀尾吉晴も秀吉の馬廻り衆として司令官の勉強中である、信長が拡大するたびに秀吉も大きくなっていく
横山城は小城だが、早く丹羽長秀や柴田勝家のような家老になりたいと願うのだった。
自分を虫けらのように殺そうとした明智光秀には負けたくないと思うが、もともと美濃の斎藤の一族で重臣だった光秀には家柄で負けているし、丹羽長秀と共に老臣の地位にあり、それは秀吉より2歩も3歩も先行しているのだ。
それだけなら頑張って追い抜く自信はあるが、光秀の才能は秀でたものがある、将軍の側近、朝廷にも顔が利く文化人で外交官、さらに戦術家でもある
(まだまだ力が足りぬ)そう思わせるだけの力が光秀にはあるのだ。

光秀の立場はほかの家臣と違ってよくわからない
美濃で戦に敗れて逃げた先の越前(福井)朝倉家の食客になっていた時、都から逃げて来た足利義昭と出会った
義昭の幕臣(将軍の家来)細川藤孝と意気投合して、はっきりしない朝倉義景に愛想を尽かした義昭を、織田信長に引き合わせたことで義昭の重臣になった。
しかし信長も正妻だった濃(のう)の従兄である光秀の才覚に注目して家臣にした、しかも義昭の家臣であることを認めながらであった。
この時点で光秀は、義昭と信長の両人から禄(給料=土地と家来)を受け取っている、いわば2つの会社で取締役をしているようなものである。
短気で独占欲が強い信長にしては異例の扱いである、それでも光秀を家臣にしたかったのだから光秀には凡人にはわからぬ才覚があり、それを天才信長が認めたのだ、それが今日まで続いている、だが光秀の気持ちは次第に義昭を離れ、信長に近づいていることもわかる。
秀吉が信長に忠実で何度も命がけの戦をしてきたが、それでも光秀のなんだかわからない魅力(能力)には遠く及ばない。
秀吉は、それを感じるたびに自分の生まれ育ちと、光秀のそれを比べてしまい、いつもどうにもならない劣等感と寂しさを感じる
そして胸の奥から「育ち」という、どうにもならない壁に怒りを感じて、それは光秀への対抗心になって行く、それなのに光秀と会うと、思わず身をかがめて卑屈なほど自分を光秀の前では小さくしてしまう。
どうしても(自分はなんにつけても光秀の下なのだ)思ってしまう。
さらに、信長が光秀と話している時の態度を見ていると対等で、大人同士の対話に見える、信長が自分に対するときは大人が可愛いい子供に対するようで、子ども扱いされている気がする、そこにまた秀吉は光秀に劣等感を思ってしまう、そして嫉妬してしまうのだ。
(儂はこれほどまでにお屋形様に身を粉にして働いた、その働きは光秀よりも上だと思う、なのにお屋形様は儂を子ども扱いしている、いったいどうすればお屋形様は儂を光秀と同じように扱ってくれるのか)
光秀の前に出れば自ら貶めてしまう自分にも情けなくて腹が立つ、その底にあるのは「育ち」であり、「家柄」になると考えるのもおぞましい、比べようがないのだから、百姓の中でも下の下であった自分の家、美濃の斎藤家の縁者で大名の家に生まれた光秀、スタートがそもそも天と地ほど違うのだから
だが秀吉には、それがわかっていても呑み込めないどうしようもないジレンマで気が狂いそうになる。「光秀には勝てない」

もう一人、秀吉には気になるライバルがいる、それは滝川一益である、得体のしれぬ男だ、歳は40をかなり超えていそうだ、話では信長よりも年上らしい
信長の一益起用法も謎めいている、重臣の列に加えられながら行動は常に他の武将と異なった動きをする
かって北伊勢に侵攻した時も、早くから調略活動をしていたようだが目だった動きは見えなかった、ところが北畠、神戸らが降伏したのは一益の働きだと、信長から勲一等を与えられている。
伊勢の数か所の城を受け持っているが、どこの城主と言うでもなく、常にその働きは信長から直接与えられているらしい
「まことに謎めいたおかしな男よのう」と秀吉が半兵衛に言うと
半兵衛は大声を上げて笑い出した「殿と同じではござらぬか、他の家臣どもはみな殿のことを、殿が申された滝川評と同じことを申されておりますぞ」
「ふ~む そういわれてみれば・・・うむ」と言葉に詰まり苦笑いした。

ある日、秀吉は弟小一郎と久しぶりに兄弟で茶飲み話をしていた
小一郎も兄に付いて学び、戦場経験も付いてきた、今では立派に一軍を指揮できる武将に育った。
子供の頃は毎日の食事もろくにあたらず、ひもじいと言っては泣いていた痩せこけた「つき」だったが
「兄様」家臣の前では「殿様」と呼ぶ小一郎だが、二人きりの時はこう呼ぶ
「兄様も水飲み百姓よりまだ貧しい家の出身から、ようもここまで出世なされた、おそらく八百余州倭(やまと)の国で始まって以来の快挙であろう
いったい兄様はどのような考えで生きておられるのかのう?
何も考えずに突っ走るだけでは、こうはなるまい」
「そうよのお、お前にだけは教えるが儂の思いは簡単なのさ、ただただ『受けた恩に報いたい』それだけを生きがいにしておる、あてなく彷徨っていた時に救ってくれた清州の住職、命の危機を救ってくれた今川家の松下様、身分差を気にせず対等に付き合い、何度も助けてくれた前田利家様、出世の糸口を与えてくれた小六殿、三蔵、そして生まれも育ちも気にせず雇ってくれたお屋形様
これらの人々に恩返ししようと、ただそれだけを考えて生きてきたのだ」
「うむ・」
「その人たちに喜んでもらうにはどうする、何を彼らは欲しているのか、それを徹底的に調べればなすべきことが見えてくる。
出世したいとか、金持ちになりたいとか誰もが考える漠然とした思いは目標とは言わぬ、それらは結果なのだよ
もっと小さくて簡単に実行できることを目標にするのが良い、そうすれば小さな成功の積み重ねでやがては出世につながったり、金持ちになれる
何事もこつこつと積み上げるのが大事だ、2のことができない者にいきなり10のことをできるわけがない、
行商をしたころは儂は貧しい者でも買えるような小さな商いから始めて、銭がたまるようになってから商う品を少しずつ高価なものに変えていった、そして町人、僧侶、武家、と客層を上げていき、最後に得た大金で鉄砲一丁をようやく堺で手に入れた、それを土産にどこぞの家臣にしてもらおうと小六殿に相談した結果、前田さまに出会い、その伝手でお屋形様に目通りできて織田家に鉄砲足軽頭として雇ってもらったのじゃ
今目の前にある事柄に集中して、それをうまく乗り越える方法を実行すれば必ず神仏も応援してくれる
金ケ崎で殿軍(しんがり)を願い出て自ら死地に入った、あの時は明智様も一緒に死地に入ったのだ、普段から明智様は好きではなかったが、あの時は心を合わせてお屋形様や徳川様、多くの織田の兵士を無事に逃がすことだけを考えて戦った、己の生など思ってもみなかった、まして死も考えはせぬ
ただただ目の前の敵を倒すことに集中したのだ
その結果、少ない兵と鉄砲を有効的に使って逃れ、いよいよダメかと思ったとき、徳川様の鉄砲隊が儂らを救ってくれた
徳川様を助けたいと思った気持ちが徳川様と神仏に通じて、窮地のわれらも救われたのだ、最初から命惜しんで逃げ腰でいたら今ここに生きてはいないだろう、死の中に死を求めた故、生を得たのだ
出世など望んでできるものではない、一日一日の勤勉な働きの結果としていつの日か、向こうからやってくるのだ、出世は夢や希望ではない、結果なのだと思って励むことだな、そうすればいつの日か、お前にも小城の一つも天から降って来るやもしれぬぞ、ははは」
「兄者、良い話を聞かせてもろうた、小一郎、今の話を人生訓として心に深く刻み置きます」
「ははは、そう硬く考えるな、お前は生真面目すぎていかんが、酒も飲め、女も・・・おっと、愛妻家のお前には無理な話よのう・・ははは、忘れてくれ」







田舎を考える

2022年10月29日 08時07分44秒 | 病気と健康
昔、都市部に住んでいる同級生が同級会で「田舎はいいなあ」と言った
じゃあ帰ってくればよいと思うが、絶対帰ってこないだろう。
都会生活で退職した人が田舎暮らしを始める番組を時々見る、だがそれは僅かだから番組になるのだ、全体から見たらわずかなものだ。
田舎の何がいいのだろうか? 
空気がうまい、のんびり暮らせる、現地の食べ物がうまい、畑作などが楽しめる、生活費が安い、自然を満喫できる、アウトドアを楽しめる、人が良いなどか
たしかに、こういう部分は私も同感である
ところが健康な時は田舎は良いが、田舎には重大な欠点がある(ここでいう田舎は裏日本の人口一桁の町)
所得が都市部より低い(経済格差)、高学歴、優秀な人材が少ない、肉体労働仕事が多く、営業、ITや,
インテリジェンスを必要とする仕事が少ない、ディスクワーク仕事が少ない、新幹線以外の公共交通機関がほぼない、文化施設がすくない、娯楽がない
、ファッションなど流行から後れている、話題になる飲食店、レストランとかがほとんどない、一流品が買えない、エンタテイメントを楽しむ機会がほぼない
例えば新幹線や飛行機で東京へ行って見ることはできる、東京まで2時間~2時間半は我慢できるが、交通費と宿代、食事で3万円以上かかる
東京にいれば入場料だけで済むし、時間の無駄もない。
こんなのは旅行だと思えば我慢できるが、決定的な不便がある
それは医療施設だ
設備と医師が揃った病院がない、地元の病院は地方都市から派遣される医師が主力で週に1~3日くらいしかいない(交代制)
夜や土日は経験少ない医師が一人くらいでだいたい内科医だ
Y子の場合、脳梗塞を発症していたにもかかわらず、若い内科医の判断で単なるめまいか貧血程度に判断されて、一晩病室で寝ていただけだったそうだ
翌日になって「帰っていいよ」みたいになって、起き上がったら吐き気をもようして再検査、脳の検査をして初めて脳梗塞が見つかった、それは危険な部位であった。
緊急手術をして成功したが、以来亡くなるまで3週間意識は戻らず亡くなった。
田舎では、こんな話を時々聞く、地方の基幹病院まではどっちに行っても1時間はかかる、しかも救急搬送ではそれも選べない。
場合によっては町医者に運ばれることもある、一票の格差などもあって東京23区の4倍の面積に衆院議員が1人しかいないのでは田舎住民の声は中央に届かない、その一人さえ東京暮らしで田舎にはめったに来ない、なんか江戸時代みたいな気がしてくる。江戸時代わが藩の殿様は一度もこっちに来たことがなかったそうだ。
これが田舎の最大の欠点だ、都会にいれば助かる命も田舎にいては助からない、都会に住めばよいというが、生涯ここに住んでいた老人にはほぼ無理だ。
どうにもならないけれど、これが田舎の現実だ、今の時期になるとまた雪との戦いが頭にちらついてくる、
雪国人はあきらめることに慣れている、平均寿命は都会に負けないから運が悪かったと割り切ればそれで終わる。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記46 比叡山焼き討ち

2022年10月28日 17時31分09秒 | 貧乏太閤記
9月に入ると、足利義昭の反対にも耳を貸さず、岐阜を発った信長は柴田、丹羽、中川、佐久間の老臣たちの軍団を先行させて六角や一揆軍の残党が籠る湖南の城を次々と襲わせた。
そして比叡山の銭箱ともいえる商業都市坂本を最初の血祭りにあげて放火して焼き尽くした、坂本にも叡山の小寺や伽藍が多い、その勢いのままに比叡山に押し寄せると、麓からあまたある伽藍に放火した、火は風にあおられて山上に向かって広がっていった。
そして織田の兵たちは煙の中を逃げ惑う僧侶、女、子供まで山にいる人間を片っ端から切り捨てた

「よいか女子供は相手にするな、刀が穢れる、僧兵と手向かう者のみに集中して切り捨てよ、高僧は捕えて縛り付けておけ、われらは武士らしく強兵のみを敵とする」
秀吉は自分の家臣たちにはそう告げた、そのため秀吉の旗印を見て逃げ落ちて来る者たちが多かったという。
逃げた僧侶には遠く下野(栃木)の寺社に向かった者も少なからずいたそうだ、とうぜん本願寺や奈良に逃げた者も多かったであろう。
この一大事件で信長が得たものは、延暦寺が所有していた寺領の莫大な土地であった、これを此度の恩賞として家臣に分け与えた。
失ったものは人の心であった、信長の家臣には無かったが、足利将軍の家臣である大和、山城や摂津の有力大名が裏切った。

この大惨事のあと、しばしの夏休みが訪れた
この頃には秀吉は任地である浅井との最前線横山城を棲み処として、凡そ1000人の兵で小谷城の監視をしている
だが息抜きも必要だ、秀吉はじめ、木下小一郎、竹中半兵衛、蜂須賀小六、前野小兵衛、堀尾吉晴ら秀吉の将校たちは交代で京や岐阜で息抜きをしている
妻子はみな岐阜にいるから、たいがいの者は岐阜で過ごす
しかし秀吉はそうはいかない、岐阜には母と妻ねねがいる、妹は家臣に嫁がせた、京には愛妾ふじと息子が住んでいる、息子も数えで3歳になった
岐阜か京かと言えば3度に2度は、愛息がいる京のふじのもとに行ってしまう
「そうじゃ、うかつと言えばうかつであった、戦続きで忘れておったが子に名前をつけねばのう」
「そうですとも、城持ち大名の子が名無しではあまりに可哀そうでございますよ」ふじは声を荒げることもなく微笑んで言った、ふじはまだ20歳になっていないはずだ。
「そうじゃのう、今夜は二人して徹夜で名前を考えるとしよう」
「若松丸」と名付けた。
3度に2度と言ったが、それは忙しい身の上、3か月に2度という程度である、だから本妻のいる本宅には3か月に1度が良いところである。
ねねは未亡人に等しい、だが今は織田家の危機であり、自分も最前線の守備隊長である限り仕方のないことであった。

「此度の仕置きにて敵味方がはっきりしたようです、大名では大和の松永、摂津の三好義継が本願寺方に寝返りました、将軍も最近は本願寺、浅井朝倉に通じ、越後の上杉、甲斐の武田、中国の毛利に頻繁に密書をおくっているよしにございます」丹羽長秀から信長に報告が入った。
「よし、義昭のことはおよがせて、明智と細川に探らせよう」
信長は、すぐに手を打った諸国に間者を送って各大名の動きを偵察させている、そして何食わぬ顔で将軍義昭と会った、義昭も知らん顔で対座している
「大和の松永久秀は謀反を企んで機会あらば二条御所を狙っているとのこと、これは放置できませぬ、近いうちに信長これを討ちます、とりあえずは筒井順慶を新しい守護として任命していただきたい、将軍家への忠誠を誓わせます故」
信長はすでに筒井順慶に大和一国支配の権限を与えていたが、とぼけて義昭に願い出たのだ、正式には将軍からの命が必要だからだ、地方では自称守護もいるが、さすがに都の辺りではそうはいかない。
義昭は松永が味方になったが、悟られてはいけないのでしぶしぶ筒井の守護就任を認めた。
義昭に扇動された者共が動き始めようとしていた、それらの動向は逐一信長に報告された
「来年にはいよいよ義昭の火遊びが火事を起こしそうな様子になってきた」岐阜城に諸将を集めて信長の演説が始まった。
「わが織田家は、これまでにない軍編成を行う。 これまでは他国と同じく兵のすべてを儂が掌握して戦局に応じて諸将に貸し与えていたが、今後は儂の元には馬廻りなど直属部隊以外はおかず、そなたたち重臣に定まった城と周辺の領地を与え、石高に応じて固定した兵数を与える、またその領内の土豪は与力衆として使って良い。
その代わり百姓を戦に動員することは禁ずる、百姓は米作りに専念させれば実り多く兵糧米も増える、これは他国にはない新しい制度だ、足軽は次男坊、三男坊を給金(米)を与えて扶持せよ、織田家は兵農分離でゆく、これで田植えだ、稲刈りだと戦を中断せずに済む、他国はそうはいかぬから刈り入れが終わるころ攻め込んでそれをいただくのも戦略であろう。
これより各武将の仕置きを申し渡す、速やかに移動を完了させて戦に備えよ、年が明ければ慌ただしい動きが始まるであろうから備えよ。」
信長は各重臣に領地を分け与えた、これからは指名された軍団が自らの兵だけを率いて戦場に挑むことになる、それは固定化するから訓練もしやすくなる。
1571年の織田家序列

天守殿 織田信長 林秀貞、前田利家など旗本馬廻り衆 小姓衆 母衣衆
一門衆 総大将織田信忠(信長嫡子) 
従うもの(与力) 織田信包(信長弟) 津田信澄(信長弟、信勝の嫡男)
織田信孝(信長三男) 織田長益(信長末弟)

伊勢守護 北畠信雄(信長二男 安濃城) 与力 伊勢郷士

宿老 佐久間信盛(永原城)与力 栗田、野洲郡郷士
   柴田勝家(長光寺城)与力 蒲生賢秀ら蒲生郡郷士
老臣 丹羽長秀(佐和山城) 与力 犬上郡郷士
   明智光秀(坂本城) 与力 堅田衆および志賀郡郷士
重臣 木下秀吉(横山城) 与力 宮部継潤および坂田郡郷士
   中川重政(安土城) 与力 観音寺、箕作郷士
   磯野員昌(新庄城) 与力 朽木元綱および高島郡郷士
   滝川一益 北伊勢および甲賀郡一帯 独立遊軍
   蜂屋頼隆 尾張一帯 信長直系遊軍
   
外様衆
   水野信元 尾張三河一帯 
   安藤 稲葉  美濃衆  
   神戸具盛 南伊勢衆

尾張国8郡の一つを領するに過ぎなかった織田弾正忠家は、天才信長一代で美濃、伊勢、南近江を切り取り、京の都も実効支配、さらに堺の既得権も得た
その家臣団も上図のごとく強大なものになった。
だがまだ序章である、信長の本領はここから始まる。

















忙しい!

2022年10月28日 07時15分00秒 | yottin日記
ずっと暇な毎日だったのに今週は一気にいろいろなことが起きた
3週間前に脳梗塞で突然倒れた仲良しのY子も、とうとう帰らぬ人になった。
しかも驚いたのは、この一週間に高校の同級生が3人も亡くなったこと。
Y子の通夜の頃に親戚から電話が来た、父の従弟が88才で亡くなったという知らせ、3日間続けて葬儀に出席だ。
重なるときは重なるものだ、今日明日は、このほかにもまだやらなければならない重要なことがある
本当に忙しい今週だった。



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記45 信長と南蛮人

2022年10月27日 18時04分16秒 | 貧乏太閤記
翌元亀2年(1571)春、浅井軍5000が秀吉の横山城と支城に攻めてきた
秀吉は支城の救援に向かい、竹中半兵衛は横山城を守った、10倍近い敵を秀吉たちは撃退した。
この奮戦を誰よりも喜んだのは信長であった、そして重大な決意を固めた

「叡山を焼き尽くす」重臣が居並ぶ前で信長は宣言した
「なんと?」居並ぶ諸将はみな一様に驚いた、未だかって聞いたことがない暴挙である、松永久秀が奈良の大仏殿を焼いて「天下の大悪人」の烙印を押されたが、それよりはるかに罪は重い、「仏敵」となるのだ。
織田の諸将でさえ恐れるものが多かった、秀吉さえその一人だ
「お屋形様、それは今一度お考え直し下され、坊主を殺せば7世祟るとか」
筆頭家老の佐久間信盛が声を上げた
「祟りだと!死んで来世があると思うか、それは坊主が金儲けのために考え出したたわごとよ、地獄も極楽もあるものか、この世こそ地獄と思え」
「しかし、それは」
「貧しさに苦しむ庶人をだまして、わずかな貯えさえ奪うくそ坊主こそ地獄がふさわしい、浅井朝倉と結託してなにが仏に仕えるだ、笑止なり
このこと儂の決意は変わらぬ、反対する者は頭を丸めて高野山に上がるがよい、叡山と本願寺と一揆は滅ぼすが、高野山は今は構わぬ」
もはや、だれも声を発する者はいなくなった、だが心の中では誰もが割り切れぬ気持ちだった。

そんな諸将の中では意外にも明智光秀は冷静であった
秀吉は聞いてみたくなった、城下がりのとき馬を並べて行きながら聞いてみた
「明智さまは此度の叡山焼き討ちに対し顔色一つ変えず、一言も発しなかったが、仏罰が怖くはありませぬか」
「面白い問答になりそうゆえ、どうですか拙者の屋敷にてゆっくり話しませぬか」
「おお、それはありがたいことで、よろしいか?」
秀吉が明智の屋敷を訪ねたのは初めてである、その逆もしたり

「ふふふ、仏罰などありませぬ、木下殿は若き頃には仏門修行なされたとかお聞きしたが、まことに心から仏を信じておられましたか?
「・・・うむ・・あの頃の儂は、その日の飯に困って寺でも社でも山賊でも何にでもすがりたかっただけでしたなあ、別に仏や仏陀を信じていたわけではなかったかもしれませぬ、ただ仏様のおかげで飯にありつけた、ありがたやとは思いましたが」
「はたして仏様のおかげだったのか?、ありつけたのは木下殿の自らの働きがあったからでしょう、寝ていても仏様が口元まで飯を運んできてくれたなら、それは仏のおかげとなりましょうが」
「うむ・・そうとも言えるが、お屋形様が叡山や本願寺を敵視して憎む理由はわかりますが、全山焼いて皆殺しにせよとは少しやりすぎと思いませぬか」
「木下殿、われら庶人とお屋形様では発想の原点が違うのでござるよ」
「なんと!」
「われらは憎しみや親しみなどの自分を起点にした感情でそんなことを考える、だがお屋形様には既に目指すところがあって、そこにいかようにしてたどり着くか、それを基準に物事を考えるのでござる、ほとんど感情で考えることはありませぬ、ゆえに感情に訴えるときはたった一発、とんでもない爆裂をする、それであとは無かったようにもとにもどるでしょう」
「いかにも、そうでありますが、では何を目指しておられるのですか」
「わかりませぬか」「はあ、わかりませぬ」
「お屋形様が京を支配するようになり、われらも奉行として在京しましたが、なにか変わったことに気づきませんでしたか」
「伴天連(ばてれん)のことでございますか」
「いかにも伴天連でござる、今までのわが国にはいなかった人種が京の都を闊歩しております、しかも奴らはお屋形様に近づき教会と言う伴天連寺を建てて布教まで許された、これはなぜだかわかりますか」
「日本の寺に見せつけたかったからでは」
「ははは、」さすがは木下殿じゃ、そのとおりです。 お屋形様はもともと仏教には関心も興味もなかった、ただの迷信と思っていた節があります
父君の弾正忠様(織田信秀)の葬儀でも家臣居並ぶ前で、香炉の粉香を位牌に向けて投げて撒いたとか、柴田権六殿にお聞きしたことがあります、あきらかに仏教に対して不信感があるのでしょう、それなのに本願寺から出た一揆が各地で蜂起する、叡山は浅井朝倉を応援して匿い、反抗する、これでは庶人より遥かに癪癖が強いお屋形様が爆発して当然でござる」
「ならば伴天連のゼウス教とやらも同じでは、まして異国人でござるよ」
「いえいえ、お屋形様にとって伴天連は宗教などと思っておりませぬでしょう、伴天連もまた宗教以上の何かを求めて我が国にやってきたのでしょう、われらにはその目的はわかりませぬが、すでにお屋形様は見通しているご様子、伴天連と話すときはまことに愉快そうであると聞いたことがあります」
「ふうむ・・愉快とは」
「好奇心が強いお屋形様にユーロペ(欧州)の珍しいギヤマン、とか眼鏡、世界を描いた球体などを贈って関心を得た」
「なるほど」
「それよりも、もっと強烈な魅力が伴天連にあります、最近気づかれたことはありませぬか」
「わかりません、なんでありましょう」
「尾張半国を得るにも数十年かかっていたのが、この数年で近江半国、山城、摂津、伊勢、美濃、これだけの広大な領地を得たのはなぜでありましょう、なぜ急に織田家は強くなったのか」
「ふうむ? 将軍を得たからでありましょうか?」
「それもあるが、お屋形様は最初から将軍をあてにはしておりませぬ、権威を利用しただけで、それによって領地を得たわけではありませぬぞ」
「武力でござるか」
「いかにも、だがまともに戦えば、言って悪いが尾張、美濃の兵は決して強いとは言えませぬ、それはお屋形様もとっくにご存じのこと」
「ふむ、それを補うには鉄砲か!」
「まさに、それでござる」
「だが、敵も鉄砲はもっておりますなあ、本願寺や雑賀などは数でもわれらに負けぬほどあるとか」
「木下殿は鉄砲足軽を率いたことがありましょう、また拙者と金ケ崎の退き戦でも鉄砲800挺撃ちまくって撤退に成功しました」
「いかにも」「お気づきないか」
「うむ!そういえば威力も性能も命中率も射程も最初よりよくなった気がします」
「気ではなく、その通りなのです。われらは最初は弾も火薬も国内のものを使っていたが、これは南蛮人が外国から持ち込む物に比べると、まったくクズのような代物でした、今、織田家が使っているのはすべて南蛮人が持ち込んだものです、敵は未だに国産の弾を使っているが、これは鉄など重いので飛ばないし命中率もよくない。 お屋形様は南蛮人に布教を許した代わりに火薬や弾の独占をしている、堺の権益までも抑えたのは、そのためでござる」
「お屋形様はそこまで」
「いかにも、並みのお方ではございませぬ、ゆえに拙者もお屋形様のなされることに全面的な信頼をしておるのでござるよ」
「なるほど、明智様が微動だにもしないわけを、ようやく納得しました、勉強になりました」








1年ぶりの温泉旅行

2022年10月27日 06時41分54秒 | 旅行 北陸
石川県の和倉温泉に泊り、観光を楽しんだ
1日目は富山県砺波市の酒蔵「若鶴酒造」、日本酒だけではない、ここは日本で3番目にできたウィスキーメーカーでもある、その銘は「三郎丸蒸留所」
火事で焼けた後もクラウドファンディングで再建した。
三郎丸蒸留所
高岡大仏、梵鐘などで有名な銅器の製造所が作った世界初鋳造性ポットスチル
「ゼモン」

稀な55年物を記念55万円で発売、数百本限定は、瞬く間に終わったとか

ここを見学して、ウィスキーと純米酒1本買った
そのあと昼食をとり、能登島で水族館へ行った


高岡I.Cー七尾I.C間が工事交通止めのハプニング発生、そのためガラス美術館の見学はできなかった。
和倉温泉到着、一年ぶりに温泉に入る、相変わらずマッサージはやっていない
仲間10人と飲み語り合った一日。

2日目は金沢市内の見学
「忍者寺」と名高い、加賀百万石前田家の隠し出城ともいわれる妙立寺
前田家3代目前田利常が、徳川からの取り潰しの危機に備えて、市街戦を想定して作ったという、金沢城に続くという深さ24mの井戸
この平凡に見える寺の様々な仕掛けが面白い、幕命で3階建て以上が禁止されたが、この寺は外観二階建て、内部は四階建て七層になっており、比較的小さな建物なのに、部屋が23(茶室、切腹の間、礼拝所、武者隠しなど)階段が29(襖の裏、廊下の下などに隠したものも多い、落とし穴兼用もある)もある
この複雑な設計図を考え書いた人間に凄さを思う。


昼食は卯辰山の六角堂でステーキ昼食、


金沢21世紀美術館、東茶屋街でスィーツ、近い場所の旅でゆっくりと時間が取れた。