神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

冬なんて大嫌い!

2018年10月31日 07時32分52秒 | 季節と自然/花

昨日あたりから雨が続き急激に寒くなってきた

今朝7時には強い雨に混じって、小さなアラレがほんの数秒車のフロントガラスを叩きました

10月中旬まで、まだ暑さを感じて汗がじわりと出ていたのに、2週間うちにもう冬が見えたような寒さ

そしてこの頃は、虹を見ることが多くなりました、月曜日にはゴルフ場で、今朝は雨が降る中で海から

上る虹を見ました

もうその辺りの2500m級の山の谷筋は白く光っています、そして300m~1000m位の山は

黄色や茶色に焼けてきました

明日からは11月、もう雪国では冬支度を始めなければなりません、信州や飛騨へ向かうときは

天気予報を調べていかないと突然の雪に出会ってスノータイヤを履いて居なければ出戻りという

事にもなりかねません

一度、松本から高山へ向かう安房トンネルの出口で積雪のため戻ったことがあります

いよいよ息苦しく暗く寒い冬、雪国では雪との格闘が始まる、昼近くまでは経済活動中断で除雪作業

老人や女性の一人暮らしにとって深刻な冬です。


都忘れの湯「雨飾温泉」

2018年10月29日 07時33分19秒 | ドライブ

新潟県と長野県にまたがる日本100名山「雨飾山」は、谷川岳と同じ1963mで同じく、双耳峰

登山道のメインは長野側だが新潟側からの登山道の途中、標高1000mにあるのが「雨飾温泉」だ

昔は麓からここまで徒歩で来たが、今は温泉入り口までマイクロバスが入る道路がついた

とはいえ急な登りと相次ぐカーブ、ガタガタ道の連続、今日はボランティア仲間14名で、ここにやってきた

天気は予想外の晴れ、紅葉もまだ残っていた、しかも今日が温泉営業の最終日とのことで

ラッキーが重なった

しばし周辺の山塊と紅葉をご覧あれ

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一つの時代が終わっていく

2018年10月28日 06時44分57秒 | 時代検証

ちょっとショックな気分

昭和40年代から、父と共に魚組合を引っ張ってきた最後の長老が昨日の朝亡くなった

97歳だった

40年前には、流水で濡れたコンクリート床の上で立ちっぱなしの魚屋は、60歳までしか生きられないと

言われたこともあった

実際、父の一回り下の魚屋は40代から60代までに次々と若死にして、空白の世代であった

それは昭和一桁生まれの人たちで、少年時代を戦争の中で過ごした人たちだった、戦中、戦後と

10代20代を食料統制のひもじさを体験し、高度成長期に入った頃40代、一気に贅沢三昧の食生活

景気の急成長と共に暴飲暴食、遊び呆ける生き方に急激に変化して、体がついていかなくなった

一回り上の父たち大正生まれは、軍隊で心身ともに鍛えられた人たちで、高度成長でもバブルでも

羽目を外すこと無く堅実な生活を送ったから、たいがい80歳以上まで生きて、過去の魚屋の負のイメージを

払拭した

軍隊ではご飯一口、30回とか50回とか噛むように訓練されたという、だから子供時代から胃弱だった父も

軍隊で胃弱が治ったそうだ

60歳以上まで生きられないと言われた魚屋、ついに亡くなったYさんが最高記録97歳をうちたて

父も94歳、共に働いた母も93歳、父の親友だった魚屋Iさんも94歳迄生きた、他にも90歳を超えて

亡くなった先輩が数人いる

そんな魚屋の歴史を知る私の年代も既に65歳~70歳に至った、父やYさんIさんの熟年期の仕事ぶり

猛烈な個性、ひくことを知らない行動力、あのパワーも、この人たちのことも50歳以下の現役世代は

ほとんど知らない

39歳になる息子や、40歳の板前に「Yさんが亡くなったよ」と言ったけど、全く無関心だった

私たち以上の年代は魚屋の誇りを持って働いていたけれど、今の世代は自然消滅していく地方の魚屋の最後の姿

あの時代の熱気も活気もひとっかけらもない、10年後には市場の存続さえ無くなるのでは無いかと思う

なんだろう?華やかだった我らの青春時代と父たちの魚屋人生はダブる、今日土曜日、銀行へ行ってきた

私の青年期まで、人でごった返していたメインストリートも人っ子一人いない午後4時半、車さえ僅かに通るだけ

田舎の旧商店街は死んだ、若者は相変わらず熱気を持っていても、この町を生き返らせるより、より賑やかな

町を求めて出て行く、。 この町にいたとしても、この町の貧弱な商業をあざ笑って、都会で買い物をする

この町で育った子供たちは大学まで出してもらっても、この町には戻らない、この町で働いて給料を得る若者も

この町にお金を落とさない。

そう言いながら、わたしもネット通販の利用が多くなった、PCの中に店舗とアイテムが満ちあふれて迷う

小さな町の小さな店舗で僅かなアイテムの中から選ぶ時代は終わった、それでも少ないアイテムながら

客を引きつける商品ばかりを並べている老舗もあるのだから、やはり商いは地域性ばかりとも言えない

頭から田舎の店はダメだと決めつけない思考も必要だ、まずは現場を見ることだ

 

予測では2050年には、この町の人口は半分に減り、もはや市と呼べる人口では無くなるそうだ

我が町を中心に東西南北半径50km、直径100kmの半円の中の市町村の合計人口は50万人に満たない

過疎地域だ、人口がどんどん増えていた時代、元気いっぱいの町だった時代、人が活き活きと生きて助け合っていた

時代、今そんな時代は閉じようとしている。

 

 


今年は紅葉?

2018年10月27日 07時52分30秒 | 季節と自然/花

いつものことだが、もう10月も終わりに近づいた

今年は紅葉の便りもろくにないうちに季節は終わりそうだ

これからは東北や京都など限られたところでしか紅葉を楽しむことはできなくなる

明日は標高1000mの温泉へ日帰りで行ってくるけれど天候が心配

紅葉はどうなのだろうか? 我々の地域は紅葉といっても鮮やかな紅色は少なく

焦げ茶色や黄色が混じるくらいで、モミジやカエデの赤も鮮やかには映らない

あの京都の燃えるようなモミジ、八甲田山、奥州の目を見張る紅葉

もう一度見てみたい

一時期、紅葉の京都に入れ込んで、5年間連続で三千院を訪れた時期もあったが・・

もう10年近く三千院はご無沙汰している

北野天満宮の紅葉が京都見物の中では最高だった、数といい色といい素晴らしかった

紅葉と竹林の対比も面白かったし、何よりマイクロバスで乗り込めるのが良かった

今年はどこかで紅葉に会えるだろうか? まだ今年は目にしていない

 

 


僕が二人

2018年10月26日 08時16分18秒 | ライフスタイル

最近、僕はときどきいなくなってしまう

誰かが代わりにやってくる

僕はどこに行ってしまうのだろう? まったく覚えがない

でも代わりの僕が何をやって、何を言っているのかはよくわかる

好き勝手に、およそ破廉恥に、でも心地良い・・

でもそんな代理人を許してはならない、調子に乗ってエスカレートするばかりだ

僕が帰ってきた、どこへ行っていたのか・・・? わからない・・・

昼まで僕はすっかり疲れて、ふらふらさ。


内戦

2018年10月23日 08時54分38秒 | どうでもいいこと

世界では未だ多くの国で内戦が起こっている、見るも悲惨なのは国民の暮らしだ

学校教育も市民生活もあったものではない、町は敵味方の砲弾と爆弾で破壊し尽くされ

助けを求める病院も教会も破壊され、商店は破壊と略奪、食べるものもなく着の身着のままで

難民となって戦場になっていない場所を求めて逃げ惑う

 

我が国で内戦と言えば「戦国時代」と「明治維新の内戦」であろう

今のシリア内戦により近いのはどちらだろうか?、明治維新の方が似ているだろう

政府軍(徳川)に対して、旧支配者だった帝の軍が立ち上がった、それは最後の段階で

最初は反政府のテロリストが日本各地から京に集まり、小さな暴動や騒乱、暗殺を企てた

政府軍もテロ対策の特殊警察組織を作ってテロリストの弾圧に乗り出した

地方の軍閥が反旗を翻した、長州国である、たちまち政府軍に鎮圧され降伏したが心からでは無い

いつか反撃しようと機会を狙っていたが術が無い、そこに坂本龍馬という商人が一儲け企んで

長州国の敵、薩摩国と長州国に手を結ばせるという離れ業を行った

西国にイスラム国並みの強大な勢力が誕生した、政府軍は再び長州国を攻めたが今回は

勇猛な薩摩国は味方では無く敵に回っていた、たちまち政府軍は敗れて敗走した

この時既にイギリスは薩摩国に接近して武器の供給で後方支援していた

イギリスと敵対関係であるフランスも負けじと政府軍に武器の供給を申し出た

まさにシリアでいえば政府軍を応援するロシア、反政府軍を応援するアメリカという図式だ

明治維新が幸いだったのはイスラム国に該当する第三勢力がなかったことだ

後に奥羽越列藩同盟ができて新政府軍に抵抗するが、これは同胞である会津藩を庇護して

新政府軍の会津攻撃をやめるよう嘆願した東北奥羽の大名同盟といってよい

正面切って新政府軍と戦ったのは徳川旧政府軍が全面降伏したあとで、それも奥羽同盟軍として

戦ったのは初戦の白河城の戦いだけで、少数の新政府軍に対し、城を防壁にして数でも勝る

同盟軍はなぜか仙台兵、会津兵、ちりぢりになって逃げだし、簡単にこの重要な会津口を

新政府軍に占領されてしまったのだ。

盟主である大藩仙台藩が積極的に新政府軍に対抗する気がなかったのだ、血に飢えた新政府軍は

会津を生け贄にして京での屈辱の鬱憤晴らしをした、この時点では勝利に酔う新政府軍の

狼藉、暴行、荒くれぶりはイスラム国の無法に近かったと思われる。

平和に暮らしていた越後長岡藩、そしてかっての徳川政府に利用されながらも忠義一徹だった

無欲の会津藩が新政府軍の標的になったのだった。

しかし国中を巻き込んだ内戦であったが、戦場となった京、越後長岡、会津、函館以外の地域は

戦災にも遭わず比較的国民は平穏だったと思われる、シリアのような悲惨さは無かったはずだ

 

国民の受難という視点から見れば、14世紀から16世紀末にかけての戦国時代の国民こそシリア内戦の

被害国民そのものである

都市と都市、県と県の戦争、それが戦国時代、日本中の全てが戦場であり、勝者は敗者の軍人を

皆殺しにし、その支配地域の人民を奴隷として召使いや下働きに使ったり、奴隷商人に売り払って

金に換えたり、売られた人々は東南アジアに売られる者もあったという

また敵地の財、富は勝者が全て略奪する、まさに戦国時代の日本人は現代の暴力的な無政府状態の

国家に等しい下等国家だったのだ、これが正常な指導者の下で落ち着くのに250年という年月が

必要だった。

それを作り上げたのは織田信長-豊臣秀吉-徳川家康の愛知県トリオだった

そのような人たちでさえ残虐であこぎな政策いや暴力を用いている、そしてそれは日常的な常識だった

信長は仏教をきらい、比叡山や長島の宗徒数万人を惨殺し、焼き殺し、本願寺と長年戦った

秀吉は朝鮮に攻め込み、数十万の朝鮮兵士を殺し耳や鼻を削ぎ手柄の証拠とし、多くの朝鮮人男女を

戦利品として売買したり、日本に連れてきて労働力とした

家康は主家の豊臣家の2代目で娘婿の豊臣秀頼を焼き殺し、一族を大坂城に攻め滅ぼした

キリスト教徒を弾圧して、天草でキリスト教徒を攻め滅ぼした

このように民度としてはまだまだ低い日本人であったが、江戸時代250年の間に武士の心も和らぎ

人々の関心は文化、教養、産業へと移行し民度は次第に上がって行った

そして明治維新で徳川の時代は終わり、日本は新政府の元、富国強兵に力を入れて、やがて軍の大陸進出

となり、周辺国や欧米と戦争を始め、アメリカの原子爆弾と大空襲で完膚なきまで叩きのめされた

それ以来、日本は戦争をやめてひたすら産業利益を追求した、そしてついには世界一の高所得国民に

なり、そののちバブル崩壊で一級国の座を失った

未だに我が国はアメリカに占領されていて、東京上空を我が国の旅客機が自由に飛ぶことさえできない

沖縄もしかり、沖縄の民族意識は結集しつつある、政府はどう対応していくのか、右、左の考えや

思惑、純県民の思い、問題は複雑だ

中国、ロシアの脅威が高まっていく中、アメリカトランプはは日本を見捨てるような発言を繰り返す反面

仇敵北朝鮮のキムジョンウンを、置き忘れていた子に再会したかのように猫かわいがりを始めた

キムジョンウンも、そんなトランプにすっかりなついた、男を上げたのは仲介役の韓国のムンジェインだ

だがこの国の大統領はたいがい退任後に逮捕される、竹島に上陸して韓国国民から喝采を受けた

イミョンバクも、従軍慰安婦像を世界に建て続けて国民から喝采をもらったパククネ、追求されて自殺した

ノムヒョン、最近3代の大統領はみな退任後に弾劾、訴追、逮捕されている

反日は現役時代の点数稼ぎになるが、不正の免罪符にはならないようだ

 

強いアメリカに、フラれてもふられてもついていく、けなげな我が国

金色夜叉を見ているような日米関係、2018年、30年後にはどんな日本国になっているだろうか。

 

 


けっして幸せとは言い切れない・・・でも幸せかも

2018年10月22日 08時59分07秒 | 心 思い

65歳から人生に大きな変化が起こっている

私の手相通りに人生は進んでいる

「長寿だが70歳頃に大きな山が訪れる、それを乗り越えれば順調な人生」だそうだ

信じるも信じないも自分次第、都合の良いことは信じたい、嫌なことは信じたくない

それが占い

いかにも宗教らしき先生の透視とやらを二回ほど聞いたことがある、一つは人捜し

もう一つは病気のこと、どちらもはずれだった

で、私の人生手相占いは結構気に入っている、なんか自分の望む人生設計にはまっているからかなあ

人相見のおじさんに言われたことは以前書いたけれど、その通りにはなっていない

でも19歳の時、言われたその一言が、ずっと私を支えて「あきらめない心」を築いてくれた

それで頑張ってこれたし、これからも思いを達成するために頑張るエールにはなっている

 

単調だった人生にメリハリがついた

フクロウがやってきて、白猫がやってきて、私の父の家での介護の暮らしが始まり、

愛犬が死んで、母が亡くなって、父が亡くなって、白猫Peeがいなくなって、カートがやってきた

その間にも様々な人間関係が出たり入ったり、忙しい、思いもしなかった3年間が・・・・

幸せなのか、不幸せなのか・・・仲良し夫婦の仲良し家族を見るとうらやましくもあり

思いどおりに動ける自由な我が身が嬉しくも有り・・・・

まだまだ人生は続く、天秤にかけてみれば、私の道はようやく明るい方向に向かっている気がする

私は情は深い方だと思っているが、仲良しの年上の女史は「あなたは人情味がない」という

よく考えれば、だれをも愛するけれど冷徹な部分も確かにある、それは煩悩と同じく、私が持って生まれた

性(さが)だとも思う

 

そんなわたしだが先祖と親を敬うこと、毎日のおつとめを欠かさぬ事、これだけは守っていきたい。

 

 


名古屋~湯の山温泉(2)

2018年10月21日 07時39分51秒 | 旅行 関東.東海

車の運転は車次第、やはり走りの良い2000CC以上の車ならどれだけ走っても

疲れない、むしろストレス解消で最高の気分

それにしてもよく飲んだなあ、仲間が良いと何時まで飲んでいても飽きが来ない

もっとも運転があるから深酒は出来ないけど、だけど良い温泉だった、4回入りました

ほんとによく暖まる温泉です、咳が止まらなくて困っていた女史もこの夜は一度も咳がでなかったって

 

ゆっくりしたいので朝食は8時からにした、でも6時にはもう寝ていられなくて風呂に行った

それでも時間をもてあまし腹は減るし7時半にすれば良かった

朝食も個室で、食べきれないほどのおかず、毎朝シンプルな朝食なので、どうやって食べて

良いかわからないくらい、それでもデザートは別腹、またラウンジでコーヒーとデザートをセルフで

いただいた

今日は朝から雨模様、ロープウェイはあきらめて、今日の目的地「なばなの里」へ直行だ

フローリストもメンバーなので彼女初めてと言うことで是非連れて行きたくてプランしたんだ

あいにくの雨が憎いけれど仕方ない、どれだけも走らないうちに、なばなの里に到着

相変わらず雨なので傘を入り口で買って入った

それでも室内がいいってベコニア館に真っ直ぐむかう、私は3回目だけど初めてのメンバーは

目を見張っていた、赤が目立つ鮮やかな世界

 

   

 

 

 

 

 

ここで小一時間ゆっくり見て、休憩所でお茶をして、あとは買い物、それで昼食時間に近づいた

外にでたら傘がいらないくらいの小ぶりになっていた、「地ビール」の看板が目に入った

私はだめだけど、他の連中は飲みたいって、それでビール園で昼食にすることに

 

 

私は飲めないので、メニューから数量限定というハマグリ釜飯を注文、ハマグリだと喜んだけど

アサリ並みに縮んだハマグリと米がどうも北越人にはいまいちだった

 

おみやげ買って

さて、あとは故郷までの400kmの長旅が待っている

今日は名古屋に戻って関ヶ原経由で北陸道米原に出て帰る、遠回りだが全線4車線で平坦な

海岸線を行く北陸道は東海北陸道より遥かに快適だ

関ヶ原付近から晴れ間が出てきて、北陸道では青空になった、そのまま休みながら走って

途中SAで夕食、それでも順調に7時に帰宅出来た、お疲れ様でした

 

 


朝から大騒ぎ

2018年10月20日 09時58分44秒 | yottin日記

7時前から料理長から電話が鳴って、「水道の水が出ないので何とかしてください」

今日は土曜日なので仕事もピークの日、水が出ないでは済まされない

実は伏線は昨日にあった、洗い場の蛇口からポタポタと水が出て止まらないといって

庶務係の社員に、総務係から「何とかして」と・・・

それで庶務係は館内全水道の元栓を閉めて、蛇口のパッキンを取り替えて、元に戻したはずだった

その後、レストランがたて込んできたので、私がヘルプしたが水の出が良くない

それで初めて、水道の件を庶務係から聞いたのだけど、元栓が緩いとは思っていたが・・・

そのまま気にもせずいたらしい、それを私が発見して、すぐに市の水道課を呼んで点検させたが

「これは業者の方がいいですね」と庶務係に言って帰ったので、業者に電話をしたのだったが

業者が来る前に庶務係が退社して、総務係に伝達したのだがどちらもどちらで、意志が伝わらなかったようで

業者が来て総務が応対したが緊急性を伝えず、ちょうど雷雨の真っ盛りでもあり業者は「明日来ます」と言って

帰った

ところが今朝になって調理長からの電話、調理場だけでなくトイレから全館の水道まで全て水が止まった

やっと私の元に直接話しがきた

すぐに工事会社の社長に直接話して、朝一番で社員をまわしてくれるように頼んだ、1時間も経たぬうちに

3人の工事人が来て30分で終わらせてくれた

庶務、総務二人がかりでまるまる一日たっても解決しないことが30分で解決する、本気やる気、人脈の結果だ

WI-FIの導入もそうだった、総務に検討させたが、すぐにパソコンの前に座りネットであれこれ、それから1ヶ月

少しも進まず、というよりあきらめた忘れた? 報告無し・・・事務室から彼の机を撤去した

私が代わって、PC関連会社の女工事人に直接相談、その日のうちにやってきて、現場を見て即見積・・発注

あっという間に導入決定、わたしも疑問点を徹底的に聞いて説明してもらった。

私より30歳も若いのに行動力も解決能力も無い、田舎の人材不足は深刻だ・・・適材適所・・何をやらせようか?

そこの部分になると私の決断力は鈍ってしまう。

 

 

 

 


名古屋~湯の山温泉

2018年10月19日 20時05分41秒 | 旅行 関東.東海

11日に帰ってきたが12日はハナキン、翌土日に向けても仕事が集中している

3日間の空白期間でも電話は日直の元に鳴り続けて、結構な量の仕事が溜まっていた

それをこなすために一日、忙しく動き回ったが考えて見たら、この金曜日には整体を予約してあった

気がついたのは2日後で、急いで整体屋さんに電話をかけて翌週火曜日に行くからと謝った

なぜ火曜かというと、14日.15日の2日間は、仲良し旅行会の仲間と名古屋方面に行く

からだ、これも宿の手配からコース作り、予算まで私に全面的に任されているので・・・

それだけでなく今回も私が往復850km運転することになっている

会が出来て10年間で4回目の旅行、もうメンバーも全員60歳を過ぎ歳年長は74歳

それでも元気では負けない

 

さて当日は良い天気に恵まれて、北陸道から東海北陸道を通ってまずは名古屋観光

その前に昼の腹ごしらえ、おいしそうなSAはないかと調べたら、時間的にも岐阜の関SAがよさそうだ

時間はぴったり予定通りで到着、いろんな食堂があるみたいだが、飛騨牛の定食が目に入った

それで飛騨牛ローストビーフ丼を注文、女性たちも同じく飛騨牛ローストビーフ丼で、私以外の男性は

飛騨牛釜飯とかを注文した

ローストビーフ丼はあたりだった、大きめに切った柔らかなローストが6~7枚入っていて、柔らかく

味もジューシーでみんな「おいしいね」とご満悦、でも男性陣は釜飯のイメージが違ったようでがっかりしていた

天麩羅に目がくらんで注文したようなのだが

ステーキ丼などもあったけど、お昼に4000円弱はちょっとね

それから間もなく名古屋市内に車は入った、もうカーナビ任せのドライブだから気楽なものだ

全行程高速道路、名古屋環状線に入っても日曜日のせいか道路は結構空いている

今日は徳川園と徳川美術館巡り、私は数年前にここに来て、池の中で咲いているうすピンクの蓮に惚れた

それでみんなを案内してきたのだが、川の流れと池の姿は相変わらず良かったけれど、私の覚え違いか

それとも季節のせいか、まったく花というものが咲いていない、せっかく天気も良かったのに残念

鯉だけが心を和ませてくれた

ブライダルシーズン、あちらこちらで写真撮影、園内の建物では結婚披露宴もやっていました

外から全部見えていますが、そういった演出効果もあるのでしょう

 

 

そして隣接する美術館へ、ここも好きと興味無しで大きく別れる、美術館、博物館のたぐいはそんなものだ

私は最低でも1時間かかる、興味深いところなら半日いても飽きない

特に刀剣兜鎧、古地図、恐竜、宇宙天体、文学、絵画、歴史、戦争、昭和時代などはいくら時間があっても足りない

だから電話がかかってくる「もう外で待ってるよ、まだ~~」

ちょっと時間が余るけど今日の宿、湯の山温泉に行くことにした、そうだ早ければロープウェイに乗ることも出来る

「あああ~~桑名の焼きハマグリ食べたいなあ」そればかり私は言っている、でもネットで見たら旬は夏で、もう10月は

外れているとか、今度改めてチャレンジだな

順調に四日市までついて、ここからは湯ノ山へ一本道、初めての三重県の温泉だ

ネットで予約した「鹿の湯ホテル」へ、曲がりくねった道路の坂の途中に鹿の湯ホテルがあった。 第一印象は(年季の

入っている小さめののホテルだなあ)で第一印象は60点、駐車場も狭いし、日帰り客もいるようで、それで約10台ほどの

駐車場は満杯で、坂の下に少し広い駐車場が有り、そこに停めてくださいとのこと

Uターンもままならない狭い道なので、ロープウェイまで行って返したが、ロープウェイは満杯の客、(こりゃあ今日はダメだ)

外で案内をしてくれたおじさん、なかなか気さくな人で、私たちの故郷を聞くと「ああ~そこなら私、よく遊びに行きますよ」だって

そして地元民でも入れない秘境に一人で勝手に行くんだって! びっくり!、許可無いとダメなんだけど、おじさんは平気みたい

今度は若い娘さんが部屋まで案内してくれて説明、そういえば古く見えた宿も、中に入ればなかなか新しく清潔になっている

雰囲気は、今まで行ったホテルとは、かなり趣が違う、そして部屋数も多いので驚いた

3~5階が客室のようだ、今回は男性は喫煙者がいるので、女性とは階も部屋タイプも違うことに・・・女性の方が禁煙で2000円高い

それだけの差なのに部屋タイプは全く違う、5000円くらい違うように見える

でも我々の部屋も16畳ほどある広い畳のワンルームだから不足は無い、窓からは四日市の夜景も見える

まだ早いので、部屋に集まってビールを飲み始めた、今回のメンバーは全員飲めるので楽しい

1時間ほど飲んでから、風呂に入った、ここの温泉は今まで聞いたことが無い「弱放射線温泉」とか言っていた、完全な沸かし湯らしい

浴場は大とまで言わないが結構大きい、露天風呂もあって石をくりぬいた二人しか入れない湯船が深々として楽しい

なによりあがったあと、体が熱くなってきて汗が止まらない、これは良い湯だ

さて夕食、夕食は全ての客が個室だ、大きな団体はとっていないようだ、えらく廊下が騒がしいと思ったら中国人の家族が2組

食前酒は「これは何のお酒ですか?」聞いたら「酢です」という返事、ここの若女将は数十種類の材料別に食酢を作っている

そうだ

 

今回のコースは「僧兵鍋」コース、若いお兄さんが料理を出してから説明を始めた、織田信長が攻めてきたとき山にこもった当地の

寺の僧兵たちがスタミナをつけるために食べたいわれがある鍋なのだそうだ

一時間ほど経ったとき、さりげなく料理を出し、空き皿をかたづけている和服の30大くらいの女性が

すると仲間の男性が「女将さんじゃない?」すると和服のきれいな女性がうなずいて「そうです」

あいさつをしないで下働きをしている女将も珍しいが、妙に初々しくてこれもいいねと男性陣

この方が果実酢や果実酒をたくさん作っていらっしゃる

肉はイノシシ、鹿、豚、鳥肉、あとは地野菜とキノコ、とにかく白菜を中心に山盛り、赤味噌ベースのたれの中にどんどん放り込む

食べても食べても減らない、あとは刺身と前菜と数品、ご飯の頃にはもう満腹状態

私は地酒吟醸酒を飲んでご満悦・・・あれ?食後のデザートが無い、すると「デザートは1階ロビーで自由にお召し上がりいただけます」

だそうだ、行ってみると広いラウンジでコーヒーやドリンク、みつ豆に、あれなんだっけ・・・串に刺した何かにチョコレートの滝を

デコレーションするあれ・・・女性たちはキャッキャと喜んでお代わりしている

館内のあちこちに「まこもだけ」の装飾

いろいろな手造り酢が日替わりで楽しめる

これが若女将手造りの酢と酒の数々

どんどんお客さんがやってきて一度にラウンジが賑やかになった、これは良いアイデアだ、どこの宿でも見たことが無い、

これも若女将のアイデアだろうか? もう第一印象とはぜんぜん違った評価になっている、若いスタッフがやたら多い宿だ

 *湯の山温泉「鹿の湯ホテル」  部屋3 接客4 夕食3 朝食4 泉質5 大浴場4 特色5 宿印象5 交通4 対料金価値(CP)4 

美味しいスィーツにアメリカンコーヒーいただいて、そのまま館内のカラオケルームへレッツゴー、二時間たっぷり歌って、また風呂に

入って、いやあ極楽極楽!  

女性陣一番のお気に入りはこのバスケット、他ではビニール袋にタオルと歯ブラシだけど、ここはこのバスケット

着替えもバスタオルも楽々入る

                                                            つづく