神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

死は生の始まり 生は死への始まり

2022年01月31日 21時01分07秒 | 宗教
今日は曇りから大雪の予報だった、だが予報に反して昼からずっと快晴になり暖かな日中となった
義父の人柄が天気まで変えたのだと身内は語った

人間が神になれぬのは無常の壁を越えられないからだ
無常の壁を超えるには全ての煩悩を捨て去り無の境地に達するしか無い
そのためには極限まで厳しい修行をするしかないが大多数の凡人にはそれはできない
そんな凡人を救うのが宗教である
浄土真宗は罪人も愚人も凡人も「南無阿弥陀佛」の6字を唱えるだけで阿弥陀様の救いを得ることが出来ると説いたもっともベーシックな宗教である

人は死の安楽を得るまで安らぎはない、それなのに死後の世界にも地獄極楽があると簡単にいう、それこそが無常というものだ
封建時代以前ならともかく高学歴社会の現代人は地獄極楽など信じるものか
まことの宗教であれば「無限に思える無も一瞬にして次の生に移るのだよ、その一瞬が極楽なのだ、誰であっても極楽を体験する、
されどあまりにも一瞬で記憶すら残らないまま転生してしまう」と
それでは悪の限りを尽くして人生を楽しんだ者勝ちでは無いかと思うだろう
だが神のシステムはそれを許すまい
善行を積むことでのみゴールである極楽、永遠の安らぎを得る
そこには体などの俗物は無く、心地よい安らぎの感覚だけが存在する
それはまさに母の胎内の安らぎなのだと思う
生体を得ない永遠の胎内の安らぎこそ極楽浄土
悪行の者も救われるが、それの繰り返し、永遠に永遠の安らぎ(極楽往生)を得ることは出来ない
人間界は魂を磨く場だと宗教は言う、故に悪を繰り返す者は永遠に安らぎを得られず無常の世界に繰り返し送り込まれる
現世こそが地獄なのか?、それはあるまい、この世に生を受けて幸せな人生だったと逝く人は多い
それならば尚更この世に未練が残るのでは、それこそが悲しい
ゆえに飛鳥、大和、平安の時代の宗教は貴族宗教で現世で栄華を極めた者たち(藤原氏、北条氏)が死後の世界でも変わらぬ栄華を継続できる祈りであった
だから王族貴族、地方地頭など有力者の子弟が平安貴族や鎌倉幕府などの後援で貴族宗教の住持となった
そして大衆宗教の日蓮宗や浄土宗、真宗などが出てくると既存宗教は権力者に訴えて迫害し遠島などの処罰を与えたのだが、それが越後などで広まることになった
貧しき者どもまで救われるなら貴族階級の特権が失われるという独占欲が既存宗教の保護、新興宗教への迫害となったのだ
だがもとより全ての人を救うことこそ宗教の重大な役目なのだ、ところが現代では大衆宗教の一部には金銭欲にかられた寺も出てきた
そういった傲慢さが寺離れをおこし、弱きものは現代の新興宗教になびいていく者も多い
無宗教、無信心の者も多くなったいま既存宗教界も襟を正すときがやってきた

針地獄だ、灼熱地獄だと地獄絵図を言うけれど、本当の地獄は心を襲う地獄だ
だがそれも死と共に消え去る、だから自殺が絶えない

地球だとか宇宙だとか時間だとか、それは短い時間の中で人間が勝手に見ている幻だ、死と共に魂はたちまち転生するが、それがどこなのかは神のみぞ知る
永遠の世界に時間など存在しない、人類の歴史も存在しない

誰が私に語らせているのだろうか?

義父が暮らしていた集落 女房殿の故郷(1月30日撮影)


なにもする事がない日は

2022年01月30日 19時52分29秒 | どうでもいいこと
何もすることがない日は、酒を飲んでテレビを見てうたた寝をするか..
なんか或る知人の生活に似てきた

でも深酒になる前に寝てしまおう
月曜になれば、また酒に頼らないでもよい忙しい日常に戻る
それにしても会いたい人たちに会えない今の様は酷すぎる


追記
*カミュ「今日ママンが死んだ」ではないが
今朝 女房殿の父さんが死んだ。99歳安らかな老衰だった
何もすることがない日が一転して忙しくなった




今日はもうやめた

2022年01月29日 14時53分17秒 | yottin日記
田舎の会社とは言え、株式会社を解散するのはこれほどエネルギーを要するのかと今更ながら驚いている
秋口から準備を始めて、大晦日まで仕事をしてその日を限りに解散した
それまでの過程が精神的に一番たいへんだったので明けて小正月くらいには落ち着くと思って居たが「とんでもはっぷん」だ
何がたいへんかというと公共料金や税金、そして様々な会社名義のクレジットカード、ETCカード、社用車、生命保険に損害保険などの解約、廃止手続き
社員や自分の離職手続き、取引先やお得意様への連絡、電話機、カラーコピーファックス、パソコンネットワーク(12台使用)の返還作業
有線放送、PRサイトの解約、Wi-Fiの廃止手続き、様々な加盟団体の退会手続き、借地の複数地主への返還手続き、最小限のガラクタの始末
掃除、更に私的な様々な手続きなど

この半月の間に100件近い処理をしてきたが、まだまだ2月まで続きそうだ
そんなわけで電気水道を止めてある店へ毎日一回は出勤している
シーンとした店内を15分くらいかけて見て回る、窓の外にはドンヨリした日本海が広がっている、いずれ見納めになるだろうう
ときどきふと寂しさがこみ上げてくる、36歳から35年間ここで働き、平成の前半までもっとも活気があり最高の売上をしていたのだ
社員も関連会社含めて25名ほど居たこともあり一緒に飲み会などしたときはたいへん楽しかったものだ
毎年社員慰安の旅行をした、三年に一度は二泊三日、沖縄にも行ってきた
そんなことを思いながら、去って行った社員を思いながら、外は雪

こんな整理だけでなく、毎日のように仕事がらみの人とも会っている、それも結構忙しいのだ
一昨日、突然水道局から届いた請求書に驚いた、宛名は4年前に亡くなった父で住所は私が20年も口座引き落とししている自宅
昨日の最初の仕事は水道局でそれを確かめること、それから始まった
少し調べてもらってシステム上の事だとわかったが今まで来たこともなかったはがきが届くと?と思う
そのあと息子に会ってコンビニ振り込みを依頼して、それから銀行へ行って支店長と振り込みの新しいシステムを相談した
昼飯を食べる時間も無く午後一で生保会社へ行って解約手続きをして、それから地主の家を訪問、新しい振り込みシステムの説明
それから30分ほど昔話をした、この人とは若い頃草野球チームを一緒にやって彼は監督兼左腕エースだった
草野球では抜群の鋭く落ちる今ならフォークが武器だった、奥さんは私の同級生で二人三脚で中学校の同級会を開催した仲である

そこを出て別の銀行の支店長さんに挨拶に伺った、「yottinさんのお店が無くなって寂しいって、お客様からときどき聞きますよ、寂しいですね」とおっしゃってくれた
それは前出の保険会社のセールスレディも同じ事を言っていた、あらためて自分の責任の重さを痛感した一日だった
まだ頑張るという選択もあったがコロナが消え去る保証は無く決断は早かった
自分でも驚くほどあっという間に決断したのだった、それは今の状況を見ると正解だったと思う
何も知らずに予約をくださるお得意様を断るときが一番切なかったが、自分の年齢を考えてもここは辞めて良かったのだと


今日は官庁も金融機関もおやすみの土曜日、なんも出来ない
朝も昼もきっちり食べたし、店の見回りもしてきたし、駐車場や家の周りの除雪もしたし、これからビールを飲んで少し寝ようかな
現役の時はゴルフ、旅行以外は仕事を休んだことが無かった、ましてや昼から飲むなんてことはあり得ない
なにもない今日は昼飲みだ、なにしろやることが無くて退屈だ、どこかの温泉でも行って雪見酒としゃれたいところだがこの感染拡大では動けない
寂しすぎる









朝鮮の歴史

2022年01月28日 18時55分29秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国
国家間には様々な問題が生ずる、対立も多い
けれどなんであれ隣国とは何者かを知っておいても邪魔にはなるまい

10年か15年前か韓国の王朝ドラマにハマって「チャングム」とか「イ.サン」イ.サン(正祖)の祖父(英祖)の母のドラマとかを見た
長編のチャングムは、もう4回見た
同時に朝鮮半島の2000年の歴史も興味持って覚えたので朝鮮半島の三国時代(高句麗、百済、新羅)のドラマもいろいろ見た
それで漢字のハングル読みも覚えたし、ハングル文字も学び、韓国語も少しかじってみた、それで旅行にも何度かいってきたし
ところが突然熱が冷めた。些細なことで熱は冷めるものだ

今は中国王宮歴史ドラマにハマっている


日本の歴史とか中国の歴史と言う、ところが韓国の歴史というと一般的には朝鮮の歴史という場合が多い
それは多分この国の歴史の中でもっとも長い間の王朝が朝鮮だからだろう、約520年という、この国の最後の王朝だ
始まりは神話の時代でパクヒョッコセ、とかタンクンとかの神様的国祖である
そして子孫が造ったのが高句麗(コクリョ)、新羅(シラ)などでやがて百済(ペクチェ)と三国時代と呼ばれる
この中で最強だったのが高句麗でかっての満州と北朝鮮を併せた領土を持って漢民族の隋の滅亡の一因となり、その後の唐とも戦った
隋、唐 遣隋使、遣唐使で古代日本とも馴染み深い

新羅は唐に従って高句麗や百済を攻め、日本は百済を応援して兵を送った
高句麗は最強だったが王朝の内紛でいとも簡単に滅ぼされてしまった
こうしてこの半島は新羅が統一した(日本では大和政権)
この時、友好国の倭(わ=やまと=日本)に百済の仏師や陶磁器の職人やおそらく王家の人々も逃れてきて大和地方に住み着いた
法隆寺にも百済観音などが遺されている

新羅はやがて唐に反発する、そして現在の北朝鮮、韓国を完全に領土とした
それから年月が過ぎ新羅が弱まってくると、国内各地に新羅に対する反乱軍が興ってきた、後高句麗、後百済がその中の最強勢力だった
後高句麗では内紛が起きて王建(ワンゴン)が権力を握った
後百済も手強く新羅を圧迫した、新羅は王建に救いを求めた、新羅は王建の庇護下に入り後百済と後高句麗の一騎打ちになった
しかし後百済では父子の対立が起きて、怒った後百済王はなんと王建を頼って後高句麗にやってきた
王建は力を得て後百済を滅ぼして半島を統一して高麗(コリョ)を建国、頼ってきた後百済王を岳父として敬った

高麗はやがて北方の異民族「遼」に侵略され圧政下に置かれた、その後には「蒙古=元」に占領されて日本侵略戦の先鋒に使われるなど酷い目に遭った
(日本では鎌倉時代)
元は中国も占領してイスラム国家からヨーロッパの東までも占領したが、少数民族が歴史上最大の国家を得たために間もなく瓦解した
漢民族の中華には明が独立を果たして、力が衰えた元を圧迫した
高麗は明か元のどちらに味方するか岐路に立たされた、高麗王は元に味方して明を攻めるために軍を派遣した
しかし高麗の将軍李成佳(イ.ソンゲ)が反乱を起こして都に攻め込み占領、中国の明国をバックにして1392年「朝鮮王朝」を興した
(日本では足利家の室町時代)
この時、イソンゲは高麗王朝の人々を根絶やしにしようと大殺戮を行った
王という名では危険なので国とか王が入った別姓に変えて隠れた者が多かったという、日本にも逃れてきた人もあったようで、高麗川という地名があるが
その辺りにも来たのかもしれない

朝鮮はこの半島で最長の国家であり1890年代後半まで約500年以上続いたので、この半島国の歴史を語るとき「朝鮮の**」という言い方が一般的になった
1895年には朝鮮の宗主国清国を大日本帝国が破ったことで(日清戦争)朝鮮は清国の影響下から逃れた、朝鮮王朝は終末をむかえて日本の庇護下で大韓帝国となった
1910年に大韓帝国は日本の領土に編入され朝鮮民族国家は世界の地図から消えた
独立を果たしたのは日本がアメリカに負けた1945年だったが共産国に占拠された北朝鮮とアメリカの保護下に置かれた韓国の分断国家となり1950年には朝鮮戦争が勃発し現在に至っている分断国家だ

日本は日本の歴史と言えば天皇の歴史で一本化できている、韓国の歴史とか朝鮮の歴史、高句麗の歴史などというのは
日本で言えば徳川の歴史、豊臣の歴史というのに等しい、徳川という国家も豊臣という国家も無かったのだ、あくまでも日本の中の一時期の政権でしか無い
だから困った私は朝鮮半島の歴史と書くことが多い、専門書でも朝鮮の歴史というのが多い
だが今の時代、朝鮮というと北朝鮮をさし、南は韓国という、今でも朝鮮民族と韓民族が半島に二つの国家(当然彼らは一つの国と互いに言うが)
しかし南北がオリンピックで統一チームで出たことがある、あのときコリアという国旗で出たと思う、コリアは英語表記で、日本風だと高麗となる
高麗の国名は三国時代最大の国家「高句麗」から出たらしい

日本が1910年に統合した時は朝鮮国だったから日本人は朝鮮人と呼ぶが、韓国ではこの呼び方は好ましくないようだ。
北朝鮮は朝鮮(チョソン)と自ら名乗っている、北朝鮮は韓国を南朝鮮と呼び、韓国(大韓民国=テハミングゥ)は北朝鮮を北韓と呼ぶ
統一の民族国家名が欲しい


蘭因絮果 愛の無常

2022年01月27日 18時31分08秒 | どうでもいいこと
中国王朝ドラマに出てきた熟語、「燃え上がる激しい愛も、やがて冷めて消え去る」の意。
これを昔の歌謡曲で言えば「会うが別れの初めとは」となる   考えてみた
私は高校時代、亀井勝一郎さんの「愛の無常について」を繰り返し呼んだ
内容はもう忘れた、45年以上読んでいないのだから
蘭因絮果にしても、やはり愛の無常を四文字に押し込んだものだろう
愛ばかりが無常ではない、人生そのものが無常である
生まれて生きていくこと自体、死へ向かっている、すなわち始まりは終わりへの因果なのだ
私はいまこのような生き様になってみてつくづくそれを感じている
だが無常の形は数多くある、年齢も70を過ぎるとこの先に待っているのは無常の連続だ
自分自身が親に対しておこなった無常な仕打ちはどうだったのか
表面上は親孝行を取り繕ってみても満るより足りぬ事の多かったことを嘆いてみても、それが自分の限界だった

物言えぬ動物に行った仕打ちは、弱い立場の人間に上から目線で行った仕打ちはどうだった
やがては因果応報で我が身にも返ってくるだろう、いや既に返ってきたのだ
罪深き私への罰だ







26日ぶり 台所に立った

2022年01月26日 17時27分45秒 | 料理を作る・食べる
「あしたのジョー」はラストイベントで全ての力を出し切って真っ白な死を迎えた、私も2021年12月31日最後の力を振り絞ってお得意様の料理を作って53年の料理人生を終えた
あれからジョーと同じように真っ白になった、包丁を見ることも無く、台所にも立つこと無く今日まで過ごした

ようやく「食べたい」という気持になった、食べたいから作る、それが料理の動機だ
今夜の夕飯を私が作るから」と女房殿に伝えた
11月に地元で獲れた雌鮭からイクラと筋子を作り、痩せこけた脂のない身を何度も塩で水分を抜き乾燥させた塩漬けの鮭
塩抜きをさっさとやったのでちょっと塩分が強かった、1時間は塩抜きしないとダメだな、次回の参考に

それが食べ頃になったのでこれで鍋物を作ろうと思った、もう一つ医者の奥さんからいただいた北海道羅臼の開き乾燥鱈

この二つをメインに魚介出汁を使い調味料は塩鮭から出る塩分だけ
椎茸、コンニャク、ほうれん草を巻いた白菜、エノキ、薩摩揚げ、玉子

腹一杯食べた、残りは明日の朝食の雑炊に


こりゃダメだ! ピークはいつ来る

2022年01月25日 18時50分18秒 |  コロナ騒動
東京12800人超え、我が県の1000人超えも時間の問題
田舎町の我が町でさえ三週間で感染ゼロは1日だけ、最近は2桁になった
いよいよクラスタも出たようだ

日本だけがなぜ少ないのかと優等生みたいに言っていたが、欧州などより接種が二ヶ月ほど遅いだけだから、二ヶ月後が心配という評論もあった
まさにその通りになってきた、人口1億2千万人の日本は英独佛各国の1.5~2倍だ、一日10万人感染でも不思議では無い

だけど初めの頃から見たらとんでもないほど感染者が増えたのに、落ち着いたものだ、あまり恐怖心を持つ人は居ない
イギリストップが「マスクなどいらない」と言ったのだから、欧米の危機感は無いに等しい、テレビを見てもノーマスクは普通だ

いよいよコロナとの共存が始まったのか? だが日本では感染=濃厚接触者=職場の一時閉鎖みたいになっている
オミクロン株がインフルレベルの安全牌のように言われている、「罹ったからなに?」若い世代にはそんな風潮もあるようだ
高齢者と疾患がある人だけが命の危険に晒されているが、専門家が「若い人で風邪症状以下なら家で静かに休んでいても良いよ」 な感じの発言をした
まさに医療現場でも評論家でもこの件について意見は二分している

真剣に考える人間が愚かなのか、軽く見ている人間が愚かなのか
待機日数についても政府はどんどん「おまけ」してくれている、二週間が4日くらいまで縮んできた
これは「オミクロンなんかたいしたことは無いよ」と言いたいけど言えないから、それとなく暗示をしているのでは?とも思う

誰にしろ「安全」とは言えないのだ、そう思っても言えないのだ、少ないけど死者は出ている、「大丈夫」と言って死んだら真っ青だ
言い方を変えるしか無い

自分の事業がこんなくだらない自粛でやめてしまったと思うと悲しくもなるが
幾つになってもやめることが出来ない商人根性の未練を断ち切ってくれたと思えば、それはそれでありがたい

私は知人友人、お得意様、取引先に200通ほど廃業の挨拶状を送った
その中には自宅近所の90歳代のお得意様宛もある
今朝、その一人のおばあちゃんに会った「たいへんだねぇ いわったねぇ(
こまったねぇ)と同情された
「また自宅で魚屋さん始めてよ」とも言われたが、さすがに....

ゴルフ仲間の80歳の製造業の会長さんからも電話が来て「yottinさん、元気が出たらまたゴルフに誘ってくださいよ」と激励をいただいた
立派な大学を出た温厚な会長さんは、なぜか私をなにかとひきたててくださった、これからもおつきあいできそうだ
何人かの女友達からも激励のメールや電話が来て「ぼかぁしあわせだな~」なんてにやけているこの頃です。







大相撲 御嶽海(長野県)三度目の優勝で大関手中

2022年01月24日 17時18分28秒 | 大相撲
長野県の国道19号線から一本北にある幹線道路に「くるみの里 雷電道の駅」がある
長野県が産んだ歴史上最強の力士「雷電為衛門」の資料が置かれている(去年11月に行ったときにはコロナのため資料館は閉鎖されていた)
長野県の強豪力士はなかなか居ないらしい、御嶽海は長野県の星となるか?
ぜひ横綱になってもらいたい

ひもじい人も、大成した人も人生は戦いの連続だ
何かを得るために何かを失い、何かを犠牲にする
大相撲などスポーツアスリートはまさに毎日が闘いだ
数年前に佐渡嶽部屋を見学したけれど厳しい稽古が行われていた
500人ほど居るとか言う力士の中で関取というまともな給料がもらえる十両以上は70人くらい
十両にいても気を抜けば俗に言う「ふんどし担ぎ」という下位に瞬く間に落ちてしまう

大関だった照ノ富士や宇良は大怪我で、不祥事での阿炎、序二段、三段目にまで落ちていったが奇跡的な復活を遂げて、今場所大活躍した
同じく幕下か三段目に落ちるだろう不祥事の元大関朝乃山にも復活を期する

今場所は過去に無いほど熱戦が多くて見ていても面白かった
あっさりと勝負がつく取り組みより攻防がめまぐるしく変わる取り組みが多かった、しかも出血する取り組みも多くてショーでは無く格闘技と言える
150kg前後の体がもうぜんダッシュでぶつかり合う、ガチンコ力士は頭が割れるのではと思うほど激しい頭突きでぶつかる
そんな相撲が多かった、そして今場所ほどベテラン、上昇株、有望若手それぞれの役割を果たした場所は珍しい

なかなかすぐに漢字で書けない四股名が増えてきたが、明生、隆の勝、大栄翔、阿武咲、阿炎、逸ノ城、翔猿、それに王鵬、若隆景、霧馬山、宇良、豊昇龍、琴ノ若、若元春
20代の活躍がめざましい、全てが実力伯仲の元気者同士なのでお互いつぶし合って負け越しもあるが、ここから抜け出る力士こそ次世代のエースだ
今場所は琴ノ若、豊昇龍、阿炎、若隆景等の成績が良くて来場所は三役や上位に上がる

一番記憶に残った一番は14日目の豊昇龍と大関正代戦、豊昇龍が負けたと思った相撲だったが最後まで手をつかず、額から土俵に落ちていった
そのために優勢だった正代は我慢出来ず膝をついて体をかばった
それで豊昇龍の額と正代の膝が同時に土について取り直し
結局、額から出血しながらも戦った豊昇龍がケガを恐れた正代を破った
大関正代は大きく負け越して来場所はカド番、豊昇龍は11勝で来場所の三役入りは確実、正代と豊昇龍の勝負への執念の差が顕著に見られた一番だった

今場所あるある
1.苦し紛れに引いた力士はたいてい負け
2.立ち会い棒立ちの力士は負ける確率高い、正代、豊山など
3.前回しをとった力士は勝つ確率高い
4.押し相撲の力士は一気の押しなら勝つが、出足が鈍いと負ける
5.土俵際に押し込まれても土俵を味方に出来る力士は逆転勝ちが多い

総括 横綱照ノ富士はさすがだが両足の具合が悪く強敵には耐えられず負けた
大関正代は地位的には千秋楽最後の一番で照ノ富士と戦うはずなのに、二場所連続で横綱戦が無かった、屈辱!
関脇御嶽海は先場所までの気まぐれが消えて15日間ずっと緊張感をもって戦っていた、もともと大関以上の実力者だから三度目の優勝
来場所は大関、この緊張感が続けば横綱も夢で無い、来場所が正念場











おいしい魚を食べたくなった

2022年01月23日 12時28分45秒 | 料理を作る・食べる
「サラめし」を見ていたらいろいろ食べたくなった
人生の全てを飲食で生きてきた私は一般の方々よりも美味しいものを食べた人生だと自負している
越中越後の超近海漁場で魚主体の店を営んできたから生きた魚の味も知っている
あんきも、スケトウタラのタラコ、白子、真鱈の白子、ズワイガニの刺身、あんこうのさしみ、いさざの躍り食い、生だこのさしみ
こんなものを、生やしゃぶしゃぶ程度の湯煎で食べてきた
それが仕事を辞めたとたん食べる機会が無くなった(そうか普通の消費者になったんだ)、最近そんな寂しい気持に襲われはじめてきた
いや!普通の人より貧しい食になってしまった、正月以後、刺身のひっとっぺらも食べていない、毎日切れはしをたくさん食べていたのに
朝抜き、昼カップラーメン、夜だけ家庭料理、昼は今でも残務整理に追われて家に居ないから、どうしても食堂かインスタントで済ます
これはいけない! だが仕事に追われている今はどうにもならない
落ち着いたら週に一回は私が晩飯を作ったり、昼飯を作ったりしようと考えている、魚屋仕込み、料理屋仕込みのプロ料理を食べさせたいし、自分も食べたい
たまには友達を集めてみんなで私の手料理を食べてもらい、美味しい酒を酌み交わすのも良いな
今までは魚市場で魚を競りで箱買い仕入れていたが、これからはスーパーか魚屋で小口買いか...考えたことも無かったが仕方ない
そんな事を考えていたら、少し楽しくなってきた
いずれにしてもコロナと雪が大手を振っている間は残務整理に没頭、春になったら生活パターンを変え、生活リズムのプランを立てようと思って居る

仲良しの料亭での焼き魚「かます」炭火焼き


僕の好きな先生

2022年01月21日 19時18分37秒 | 知人・友人
越後美人さんのブログに恩師とのことが書かれていたので、私も久し振りにお世話になった恩師を思い出しました

二人の好きな教師
1人目 小学校1年と2年の担任だったS先生(女性)
人生最初の教師がS先生だった、他の5クラスはみな若い先生だったのにS先生は初老域に入っていてニックネームは「ばあちゃ先生」
町の中でも田舎の農村地域に住んでいたんで方言丸出しの飾りっ気が無い落ち着いた先生だった、小学校低学年の私たちにはまさに、おばあちゃんだった
先生から学んだのは「のんびり、ゆっくり、あわてない」それと「愛情」
三年から担任が代わったが、私と少数の同級生は高校進学後も先生の家に遊びに行っていた
亡くなるまで40年間ほどずっと年賀状のやりとりをしていた
S先生が亡くなられた後、葬儀のおときを私の店でやったのですが、途中で火葬場へ骨拾いに家族が行くので私がバスで送った
何という奇跡だろうか、家族の方が先生と私の関係を知っていてお骨を拾わせていただいたのです
54人いたクラスメートで先生のお葬式とお骨拾いまでさせてもらったのは私だけ、悲しいけど嬉しかった思い出です

2人目 中学校3年生の時の担任U先生(男性)
蝶々の研究家で県の研究所にいたけれど教師として赴任、最初は拉致された、めぐみさんの中学校に赴任(当時は事件前だったけど)、そのあと私たちの学校に来た
正義感の強い熱血教師(体育会系ではない)天体と生物に詳しい先生で写真も趣味だった、「和」という字が好きな先生
高校生になったあとU先生のクラスだった同級生10人ほどで会を作って学校は違えど毎週日曜に集まって遊んだ
そして顧問としてU先生にときどきお出まし願った、夏休みには海岸の近くの先生の家に行って、海で貝やウニを捕って鍋で煮て食べたり、灯台がある丘に登ったり
笹ヶ峰から火打山に登り小谷温泉へ下りたりとかのキャンプをしたりして楽しんだ、高原の星空の下で輪になって語り合った想い出は今も残る
会の名前は先生が「和.友の会」と名付けてくれた
卒業に際して先生が贈ってくれた言葉は「若者よ、若者よ!いつも正義と共にあれ」それは今も忘れない。先生は90才は超えたと思うが今も健在だ
毎年、蝶の版画の年賀状を送ってくれた、それは今もアルバムに貼ってとってある