神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

戦国英雄イレブン データー

2024年03月05日 13時16分57秒 | 戦国時代
 テレビで近頃、最強の城ベスト**、最強の戦国大名**などの番組が増えた気がする。
「歴女」「刀剣女子」などの言葉が流行り、若い女性の間にこうしたブームが起こったのは嬉しい限りである。
今、「甲越軍記」を現代語に書き直す作業をしているが、考えてみれば戦国大名というのは今の我々が住む日本国の原型を作った人たちなのだ。
長い平和な貴族社会平安時代が平氏、源氏の武士の台頭で終わり、それ以後、徳川家康が日本を平定した1615年までの四百数十年間、様々な大名が出てきて戦いに明け暮れ、滅び去った大名の方が多い。
その中で1570年頃には勝ち抜いた大名のベストエイトが出そろったと言って良いだろう。
それは上杉、武田、北条、織田、徳川、(豊臣)、毛利、島津だ
豊臣は織田の家臣で、後継者となったが日本統一という偉業を達成したから、外すことはできない。 これがベストエイト
この他に力及ばずベストエイトに入れなかったが、やはりエイトに準ずる業績を上げた三家がある。
伊達、今川、長曾我部である。 彼らは同じ時代を生きたが、その年齢差は大きい、各家は代々続いた家が多いが、ここで言う英雄は、その家をもっとも大きくした当主の事である。
年齢が若い順に書いてみるが、伊達政宗は一人はるかに若いので、二番目に若い徳川家康の1歳時を基準とする(家康が1歳の時、他の英雄は何歳だったかということ) 名前は知っていても年齢差を考えることはあまりないと思う。


           戦国英雄イレブン
(最大領土=現代の都道府県、北海道、沖縄は除く)
伊達政宗マイナス24歳(宮城県、福島県)
*徳川家康にもっとも警戒された男、秀吉の台頭が無ければ奥州、北関東一円を領土にした可能性あり) 

徳川家康1歳(日本全国平定260年の徳川幕府を作った)
75歳の長寿を保ち、ついに日本を平定した

長曾我部元親3歳(高知、徳島、愛媛、香川)
*四国統一を成したが、財力、兵力で織田、豊臣には太刀打ちできず)

豊臣秀吉5歳(日本全国統一、朝鮮に侵攻して一時占領)
*信長の死後、家臣団同士の戦いに勝ち抜いて主役に躍り出る、抜群の知恵と勇気で百姓出身ながら日本を統一した。

織田信長8歳(岡山、兵庫、鳥取、京都、大阪、奈良、三重、滋賀、福井、石川、富山、岐阜、愛知西部、長野、山梨、群馬北部)
*本能寺で家臣明智光秀のクーデターで殺害された、もしここで生きていたなら秀吉以前に日本統一を完成させた筈、秀吉、家康の出番なく、日本の歴史は大きく違っていたはず。 世界観を持っていたのでフィリピン、インドまで進出した可能性がある。

島津義久9歳(鹿児島、熊本、宮崎、長崎、佐賀、福岡、大分一部)
秀吉に対抗して敗れたが日本の最果てと言う立地が幸いして、勢力を持ったまま生き延びて明治維新の立役者となる

上杉謙信12歳(新潟、富山、長野北部、能登、関東全域の支配権獲得)
領土拡大の意欲はなく、専守防衛に徹して信州の豪族を助け、武田信玄、北条氏康との戦いに生涯を費やした。

武田信玄21歳(山梨、長野、静岡、群馬北部、愛知北部、岐阜北部)
戦国最強の男、同じく最強の男上杉謙信と前半生を戦い続け、上洛のチャンスをロスした、これが無ければ10年早く織田信長を攻めることが出来た。
武力、知謀に優れ、もし健康であったなら家康は配下に組み込まれ、織田信長も危うかった。

今川義元23歳(静岡、愛知三河地方)
*血統書付きの名族、信長に殺されるとは夢にも思わなかった
北条氏康27歳(神奈川、東京、埼玉、群馬、栃木西部、千葉北部、伊豆箱根)
*関東を占領したが息子が平凡で決断力と判断力に欠けて秀吉に滅ぼされた。

毛利元就45歳(広島、岡山、山口、福岡東部、島根、鳥取、兵庫、瀬戸内海)
長男が早世、孫は平凡であったが元就の二男、三男が毛利家を守った、家康に敗れて、260年山口県に押し込められたが明治維新の主役となって明治新政府の中核となる。

結果として、信長、秀吉、家康は一人と考えても良い経路をたどった
同盟者、主従の間柄だったからだ、秀吉と家康は一度本格的に戦ったが、信長の二男を間にワンクッション置いたのでいずれかが滅ぶ戦にならず、規模で勝る秀吉に家康が臣従したことで丸く収まった。
家康と北条氏政の人間の出来の違いがこれだった。

自らチャンスを潰したのは武田信玄だろう、信州は北信濃に構わず南部だけにして三河から尾張に進み、上洛は考えず織田信長だけに絞り、尾張の占領の為の戦なら大いに勝ち目はあっただろう。
それから上洛でも良かったはず、家康はこの時点で信玄に降参するしかなかったはず。
もっとも上洛後に何をするかと言えば、権威主義の信玄は足利幕府の再興に力を注ぎ、足利将軍の執事で満足したかもしれない。
天下統一の野心は無かったと思う、甲信は都から遠く、情報も最新のものは入らず、尾張や近畿の開けた土地に住む人間には結局敵わなかっただろう
信長が生き延びても、四面楚歌の信長であるから、いずれどこかで討ち取られる、すると秀吉がいずこかの大名に仕えて頭角を現す可能性は高い
また武田家に従属した家康も辛抱を重ね、10年後に信玄が亡くなれば、これまた頭角を現すであろう。
結局、最後は信玄より16歳から20歳若い家康と秀吉の覇者争いになっただろう。





金沢へ ②加賀本多博物館

2023年03月15日 13時50分35秒 | 戦国時代
今回の金沢行きの一番の目的は「加賀本多博物館」見学だった
博物館、美術館は同じ趣味、価値観がある人と行くか、一人で行くに限る

兼六園の賑やかさに比べて、「本多の森」周辺は人もまばらで落ち着いた空間だった。

本多政重(ほんだまさしげ) 
加賀本多家祖。 徳川家康の知恵袋、本多正信の二男
徳川秀忠の家臣を殺して徳川家から出奔流浪の身となり、福島、大谷など全国の大名家を渡り歩く
最期にたどり着いたのが加賀前田家120万石、2代藩主、前田利長のもと
1611年(大坂の陣の3年前)その時には、すでに利長は隠居して3代藩主前田利常の代だったが、利長の口利きで前田家の家老となる
大名の家来でありながら、中堅大名並みの5万石をいただく
それは父の本多正信を通じて徳川家康への太いパイプがあり、徳川将軍家への口利きが容易で、何度も前田家の危機を救ったからだ。
だが、政重はかっては二代将軍秀忠の家臣を殺害して徳川家を去り、1604年=関ヶ原戦の4年後には上杉家の宰相であり軍師の直江兼続の娘を娶り養子になって直江勝吉(「勝」は藩主の上杉景勝から諱名)と名乗ったこともあるが兼続に嫡子が出来て上杉家を後にする。
直江兼続と言えば、徳川家康を挑発して激怒させて上杉征伐を決心させた男
また関ケ原の合戦では石田方の宇喜多秀家の家臣として徳川方を攻撃した。
(敗れた主君の宇喜多秀家は前田家の姫を娶っており、前田家からの嘆願もあり八丈島遠島処分で斬首を免れた、そこで80歳以上まで生きたという)
宇喜多家の重臣だった政重は父正信のおかげなのか罪に問われなかった
さらに家康のお気に入り大名、藤堂高虎が馬が合うのか政重に力を入れてくれたおかげで、家康から前田家に仕官することを許すお墨付きを得ることが出来た。
本多政重の家系は不思議と主家から出奔するのである
父の本多正信と、その弟本多正重(甥の政重と読みが同じ)は三河一向一揆で家康に抵抗して出奔、加賀の一揆に走った
10数年後に許されて徳川家に帰参した、本多正重の息子正氏も徳川家を出奔して、豊臣家に走り、関白秀次の重臣として仕えたが、秀次切腹の時、同じく切腹を命じられて果てている。

政重は異母兄の本多正純とは仲が悪く、父、本多正信の死後には黄金1000枚が絡む金銭トラブルも起きるなど最後まで仲直りできなかった。
正純は将軍暗殺の嫌疑(宇都宮城釣り天井事件)で失脚するが、兄弟として同罪にされそうになった政重をまたも藤堂高虎の奔走で救われる。
藤堂高虎は正純に恨みでもあったのか、失脚した正純を罵ったという。
本多の江戸の本家は政重の息子が継いだ。 加賀の本多家は現在も続いている。
大河ドラマにもなりそうな本多政重の波乱万丈の人生だ。

本多博物館は二度目だった、今回は徳川家康、本多正信、本多正純、本多政重直江兼続、伊達政宗らの書状が展示されていたので、それを読んで回ったため、小さな博物館なのに見るのに1時間かかった。
政重の鎧兜、大槍、刀も展示されていて政重の凄さを垣間見た。
手柄あって更に5万石加増を言われたが辞退したので、代りに「村雨の壺」を拝領された、それも展示されていた
別名「5万石の壺」と言われる。

石川県歴史博物館二棟と合わせて三連になっている



国立工芸館



戦国 身内の争乱物語

2021年10月07日 12時04分44秒 | 戦国時代
黒澤明監督の「影武者」を見て思った
このドラマでは主線は影武者の生き様とハプニング、そして心の変化だ
そして伏線は戦国最強と言われた武田信玄が死んでのち10年足らずでなぜ武田が滅んだのかが伏線として描かれている
それは信玄が滅ぼした諏訪氏の娘に産ませた子が諏訪四郎勝頼で、本当なら信玄の後継者になる立場だった
信玄は若いとき、今川の娘を娶った長男と今川攻めで対立して自害させていた、次男三男は後継者となり得ず、4男勝頼は自分が後継者と思って居た
しかし信玄はいまわの際で家督は孫に譲り、孫の父である勝頼には後見するようにと命じて死んだ
勝頼はそれを聞いて信玄の股肱の重臣たちが自分を下に見ていると思い、実力を見せてやると憤り、家康方の高天神城を攻め落とした
これは信玄さえ落とせなかった城だったから勝頼は得意満面だった
自信を持った勝頼は重臣たちが止めるのも聞かず家康領への攻撃を繰り返し、ついに運命の長篠の役へと突入して大敗、古老の重臣たち山県、馬場、真田など名だたる武将は全員討ち死にした 
映画では「われらの命もここまでじゃ、あの世へ行ってまた御館さま(信玄)のもとに集まろう」と言って決死の突撃をするのだった
(われらが倒した敵の、娘の子である若造などに従えるものか。われらの大将は信玄公以外あるものか)という誇り高き武田武士の憤りが聞こえる場面だ

真田家の長男、次男もここで討ち死にして他家に養子に行っていた真田昌幸が真田家を継ぎ、勝頼を支える武将となった
信玄の誤算は長男を殺してしまったことと勝頼に負い目を負わせたことだった
信玄は若いとき乱暴者だった父信虎を図って今川家に追放した、そして長男を殺した、戦国の常と言えこれは失敗例だ

信玄のライバル上杉謙信はまだ20歳前に実兄と争って家督を奪ったという説もある、海音寺潮五郎の小説「天と地」には米山峠の戦が描かれる
一方、兄は病弱で謙信(景虎)が代行したという説もある

熟年となった信玄の敵の一人、徳川家康は信長に命じられて謀反の容疑で泣く泣く妻と長男を殺害した、妻は敵との密通容疑があったというのが小説の通説
その家康が天下を取ったあとで孫同士の対立があって三代将軍家光は春日局の後押しで両親(2代将軍秀忠)が跡継ぎにしたかった弟を切腹自害させた

信玄のもう一人の敵、織田信長も謀反を企てた実弟を殺害している
二人の母は信長を嫌い、弟信行を可愛がっていたという
奥州の後れてきた英雄伊達政宗も弟を殺した、こちらも母が気性が荒い政宗を嫌い、弟を可愛がっていたという
父は戦に明け暮れ、母は弟を愛し兄を疎んだという例はよくあるようだ

豊臣秀吉は、弟小一郎を死ぬまでもっとも信頼して重用した、妻の一族も優遇した
姉の息子は豊臣秀次と名付け関白にまで取り立てて自分の後継者に指名した、
ここまでは立派だったが息子秀頼が生まれると秀次に難癖をつけて切腹させた、さらに秀次の妻妾、その子供達まで全員の首をはねて殺した

こうしてみると戦国時代は兄弟がもっとも危険な存在ということがわかる
そんな中で薩摩島津氏、中国毛利氏は兄弟の結束固く困難を切り抜け明治まで家を存続させた、維新の立役者薩摩藩と長州藩である、偶然だろうか




サムライ

2020年02月08日 22時17分06秒 | 戦国時代

朝は雨が音を立ててふっていたが、じきにみぞれに変わり

一日そんな天気が続いていた

道路の雪は、やはり消えた、昨日と比べても気温の高さは

明白だ

テレビで日露戦争を大学講座風に解説していた、1895年日清戦争で

日本が勝ち、莫大な賠償金と遼東半島の経営権を得たことで

日本は戦争で勝てば金になることを知った」と

しかし三国干渉で日本は権益を得た遼東半島を返す羽目になり

それを干渉した側のロシアが得たことでロシアに対する日本国民の

「今に見てろ!」の気持ちが起こり、1903年からの日露戦争に

つながり、膨大な戦費をまかなうための増税にも国民は我慢した

ということである

しかし東洋一の清国より更に格上の世界の強国ロシアは日本の

10倍以上の国力、軍事力を持つ国家だ

しかし国民の後押しと勇敢な兵士、敢闘精神をもった軍人の力で

英国の後押しも受けて大国ロシアに勝ったのだった

ところが期待したロシアからの賠償金はびた一文取れず

樺太の南半分と遼東半島および満州方面への勢力拡大にとどまった

国民は弱腰内閣と憤慨して暴動もおきたらしい

しかしロシアに清国と同じレベルの圧力をかけることはできなかった

多大な人的被害と国家予算のロスで、ロシアとの再戦などできない

もし交渉が決裂して新たなロシアの大軍が攻めてきたらひとたまりも

ないことは明らかだった、国は破産の危機に追い詰められていた

幸いしたのはロシアでも革命の危機が訪れていて日本との戦争どころ

ではなかったのだ、結局帝政ロシアは革命によって倒された

ロシアからの賠償金は諦めた日本は1910年に朝鮮王朝を日本に併合

して足場を固め、満州への進出を目論んだ

ずいぶん昔に思えるが案外江戸時代の終わりから昭和までは短い

日清戦争は明治維新から40年、日露戦争は50年しかたっていない

大正時代は14年しか無かったから、明治が昭和になるのに15年しかない

だから昭和25年生まれの私は大正39年生まれだと思えばいい

明治で計算しても明治84年生まれくらいだから平成生まれ

たとえば平成25年生まれが昭和89年生まれだから、いかに明治が

江戸時代が私から近いかわかる

明治天皇が崩御されたとき西南戦争で西郷隆盛軍と熊本城で戦い

203高地でロシア軍と戦った乃木将軍は奥様と連れだって天皇の

後を追ったが、明治の終わりは幕末から明治時代を戦い抜いた

維新の英雄たちが去り、新たな昭和の軍人たちが現れる

それは比較的穏やかな大正時代で入れ替わっていくのだ

軍人の心構えも生き様も大きな変化がおきている

東アジアを植民地にしようとやってきた欧米列強から国を守るため

武力革命で近代国家を造り、近代的軍隊を作っサムライたち

最大の脅威だったロシア軍と朝鮮、満州で戦い抜いた明治のサムライ

国政から離れて大陸で暴走した昭和の軍人とは異なる生き様を思えば

サムライの時代は大正で消えたと言えよう

 

今日がgooブログ開設1900日だそうです

 

 

 

 


侵略者 戦国時代

2019年03月19日 10時16分22秒 | 戦国時代

足利幕府が弱体してから戦国時代がどんな必要性で起こったのか? 空想してみる

後醍醐天皇が朝廷による政治の復活を目指して、尊皇さむらいの新田氏、足利氏、楠氏

などを糾合して、鎌倉の前北條氏を滅ぼして復活したが、足利氏の反逆で夢は潰えた

その後、足利幕府も義満、義政のきらびやかな時代もあったが落ちぶれて、国家の統制は

成り立たなくなった

すると地方の守護大名、守護代、有力豪族はそれぞれが保護者を失ったため自らの武力で

自分の領土を守らざるを得なくなった、すなわち無政府状態の日本になったのだ

そんな中で強い者は、上下の身分など無視して、かっての上位命令者を襲い、その全てを

奪うことも可能となった、下克上のはじまりだ。

その代表は中国の毛利氏、尼子氏、尾張の織田氏、越後の長尾氏、美濃の齊藤氏、関東の北条氏

畿内の小勢力、奥州伊達氏、佐賀の龍造寺氏、四国の長宗我部氏など

 

地方豪族の限られた兵力でどのようにして領土を広げ、そこを確保していけたのか、それが疑問

守護大名にも下克上に負けない強者もいた、甲斐の武田氏、駿遠三の太守、今川氏

豊後の大友氏、薩摩島津氏などだ、

彼らも侵略を始めてそれぞれが膨大な領土を得た、しかしその後、世代交代時に

新進気鋭の新興勢力によって滅ぼされてしまった(島津氏は明治まで続いて新政府を作り上げた)

 

そんな中で武田氏の領土拡大と領地経営がどうだったのかと調べてみると、今川氏を滅ぼした

あと今の静岡県には一族の重臣、穴山氏を置いてその辺り全域の見張りをさせて、占領した

地域の降伏豪族の自治をまかせていたのだろう

また占領地の信濃では、諏訪に、被占領者の諏訪氏の姫と占領者の武田信玄の間に生まれた

勝頼に諏訪家を継がせて地域支配を任せた

木曽では、有力豪族の木曽氏を懐柔して娘を嫁がせて親戚となった

結局、敵方の大名を追い払ったあと残された小さな地方豪族を攻め滅ぼすか、味方に取り込むか

を選択して。特に大きな者には娘を嫁がせたり、息子を送り込んで相手の姫と結婚させて乗っ取る

あるいは有力な味方とする方法が一般的だ

そのようにしなければ関東一円とか、甲信越東海一帯を一大名が支配することなど無理だ

上杉謙信が越後北関東の軍勢10万ともいう大軍で小田原まで攻め込んで鶴岡八幡宮を詣でても

越後に帰国したとたんに、関東は謙信の手を離れて好き勝手が始まる

それは謙信が拡大した領土の経営を全く考えなかったからで、手を打たなければいくら占領地が増えても

元の木阿弥になってしまう

結局は政治能力に長けた文武両道の有力家臣を多く持った大名が、それぞれに県単位の支配地を

(過去の守護大名並)与えて自治をさせることと、忠誠を誓った外様大名に領地安堵を与えて自治をさせた

ことで日本国という領土の経営ができたのだ。

これができたのは信長、秀吉、家康の3人だけだった、だが後北条氏も関東一円に一族を配して経営

していたから、これら3人に次ぐ政治家と言って良いだろう

上杉謙信は勇猛な武将を多く持ったが、政治能力に長けた官僚家臣はすくなかったのかも知れない

だから直江兼続が上杉家の中で輝いているのだろう

武田信玄も謙信ほどでは無いが、盤石とはいえなかった、武力で押さえつけるのは限界がある、政治力は

人材登用では3人よりかなり落ちる

だから最後には裏切りの連続で家が滅んだのだった。

 

最後に   戦国大名はなぜ自国だけで満足せず領土拡大戦争に明け暮れたのか?

多分きっかけは自然現象(饑饉、自然災害、天変地異)か何かで食い物が不足したからではないだろうか

食い物を求めて隣国へ攻め込んだのでは? 戦争は敵であれ味方であれ多くの口減らしにはなる

生き残った者だけが奪った食料にありつける、土地を奪わなくても明らかに弱い隣国へ攻め込めば

百姓家から備蓄米や野菜を、畑からは稲刈りを待つばかりの米や麦や野菜を奪える

だからこそ奪われまいと桶狭間の信長のように小人数でも果敢に攻めかかる

イナゴの大群が農作物を狙ってやってきたようなものだから、豊かな濃尾平野は米不足の今川家の

飢えを凌ぐに格好の獲物だったろう、多分上洛などは二の次ではなかっただろうか。

「下克上」も食糧不足で上からの取り立てが厳しいので起こった反乱とも考えられる

 

 

 

 

 

 

 

 


戦国時代を地味に派手に駆け抜けた真田一族と上田

2017年12月23日 08時25分35秒 | 戦国時代

信州が好きだ

一番行くのは上田だ、菅平から下る、群馬嬬恋から言ったり、あるいは諏訪から大門峠を下ったり

あるいは松本からの143号で峠越え、麻績から修那羅峠を越えて青木村経由

小淵沢から佐久を経由、高崎から上信道、軽井沢から18号、蓼科-立科-御牧経由

長野から新地蔵峠越え、様々な山道が峠を越えて上田に集まってくる

この町に住んでいた90歳の老夫婦が毎年1~2回我が宿にくるようになって

親しくさせていただいてから尚更に好きになった町だ

見えられると我が町の名所を車で案内したものだ、雪がほとんど降らない上田故、冬の雪が舞う日に

ドライブしたら目を点にして体験できない風景に見入っていた

長野駅まで送っていったこともある、おじいさんは写真を撮って、それを新聞広告のチラシに貼り付けた

手製のアルバムを作って2度ほど送ってくれた

そのおじいさんも10年ほど前に94歳で亡くなった、亡くなる前年まで家の宿に来ていたから丈夫な

人だった。 案外わたしは幅広い年代層と友達になれるようだ

 

信濃という国は日本で4番目の面積をもつ県だ、大きな県は戦国時代には大きな力を発揮する

静岡の今川、愛知岐阜の織田、関東一円の北条、新潟の上杉、福井の朝倉、中国地方の毛利などいとまが無い

ところが、信州長野という所には、そうした大大名が存在せず、郡単位で中小大名が争っていた

そこに山梨の武田信玄が攻め込んできて各個撃破したのだ

信濃豪族の諏訪、小笠原などが連合軍で迎え撃ったが、それぞれがプライド高く力の集合体になり得なかった

長野県民は理屈っぽくて頑固、妥協が嫌い、堂々巡りの討論が好きで個性が強いため結論に至らないと隣接他県民が言う

当時もそうだったのか一応信濃守護として松本に小笠原氏が存在していたが、国内を統一する力は無かった

あの上杉謙信でさえ、現在の新潟市以北の新潟県は完全に支配できず、反乱が絶え間なくおきていた

とにかく国が大きすぎるのだ、なのに地域支配のシステムが完成していない

それを上手く機能させたのは織田信長だった、彼の先進的な頭脳は現代でも通用するだろう。

 

諏訪氏などは殺された挙げ句、娘は武田信玄の(当時は晴信)妾にされて男子を産み、それが武田家を滅ぼしてしまう

武田(諏訪)四郎勝頼になるのだが。

越後一国はほぼ信濃一国に匹敵する面積を有する、ここには上杉(長尾)が居て、反乱は起こるものの統一国家で

あったから、五分の戦いで武田の進行を信州川中島で止めていたのだった。

それで武田信玄は太平洋側に侵略経路を変えて代替わりして弱体化した今川を併合し、相変わらず統一できぬ

中信、南信を併合し、まだ弱かった德川家康の三河を蹂躙して織田信長と対峙したのだった

しかしパワーのあった時代を、上杉謙信との戦に費やしすぎた、織田を攻める頃には老いて病持ちになっていた

結局、戦に勝って病に負けた、そして一方の上杉謙信もまた大酒飲みがたたって脳梗塞を患って死んでしまった

恐怖の竜虎が相次いで病死して、命拾いしたのは織田信長と德川家康である、その後、この連合軍は武田を滅ぼし

上杉を包囲した。

武田勝頼が弱体化したのは長篠の戦い、ここで武田信玄の元で活躍した老臣達が相次いで討ち死にしたのだった

それから7年後に武田が滅ぶ

この長篠の戦いでは、武田家の家臣、真田兄弟も討ち死にした

真田は信州真田郷で勢力を張っていた、すぐ近くには上田の強力な豪族村上氏が城を構えている、たびたび小競り合いを

していたが村上氏は甲州の武田氏と手を結んで、真田の本家海野一族に攻めかかった

 

真田の真田本城は上田市街から菅平に向かって伸びる道路からすぐ近くに遺構がある、行って見たことがあるが

山城と言うほど急でもなく、ただ形態は山頂の長尾根に伸びている山城特有の構造だ

だが平らな山頂から谷に向かって下りていくようで、あまり山城という感じがしない、普通は下から上に登って行くが

ここは山頂の大地から下っていくのだ、不思議な感じがする

ライバル村上義清の山城「葛尾城」は堂々とした尾根続きの山城だ、ちょっと真田城はちゃちい

上信道坂城Pからは葛尾城を真横から見ることが出来る、大きな尾根だその先が千曲川に45度ほどで落ち込んでいる

このパーキング去年までトイレだけのPだったが、最近コンビニが出来て賑やかになった

このPで周辺の山城を遠望しながら1時間ゆっくりするのが楽しみだったが、コンビニが出来てからはせわしくて長居

できなくなった。

 

結局、有名な真田幸村のおじいさんにあたる、真田幸綱は本家の海野氏らと上州群馬に落ち延びて関東管領上杉氏の

大番頭、長野氏の居候となる。

中山道海野宿は観光地として昔の街道の町の姿を見せてくれる、上田の東、上信道東部湯の丸インターで下りて坂道を

南に18郷に出て右折、しばらく行くと海野宿入口で左折、千曲川に沿って行くと海野宿に着く

そこの神社に海野氏、真田氏ら滋野一族の成り立ちが書いてある。

国を追われた真田氏に再起の時が来る、長野氏を大将にして管領上杉軍が真田の故郷小県郡に兵を進めた

この時すでに、武田、村上は敵対関係にあり、諏訪、村上の連合も曖昧になっていた

真田幸綱も長野氏に従って本領奪還に燃えて出陣したが成果なく、思い切って仇敵の武田氏を尋ねて武田氏の家臣となった

信州を狙う武田の力を借りて、旧領小県を取り返すつもりだった、武田にしても小県の地理に詳しい真田は重宝した

ところが武田晴信(信玄の若い時代)は砥石城攻めで百戦錬磨の村上義清に大敗して甲府に逃げ帰った

再び上田を攻め上ったが、またしても大敗、重臣を討ち死にさせてしまった

ここで真田幸綱が大活躍、なんと計略で村上の葛尾城を乗っ取ってしまった、これで形勢逆転、武田の猛攻で

村上氏は越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)を頼って落ち延びた

こうして真田氏は武田氏の重臣として取り立てられ、旧領の小県、上田平を領土として取り返したのだった

さらに武田氏の上州攻めに活躍して吾嬬渓谷に沿った険しい地域を手に入れ、一族重臣を配していった、そして

その領土は上州沼田まで広がる。

このあたりは先日も走って見たが、狭い谷間の所々に集落が出来る適度な平地があり、またその先は狭い渓谷になっていく

こういった山岳地帯を住処として生涯を過ごす人々にとって、こうした狭い谷間の国も都なのだろう

その地を死守するためにどれだけの地を流したことか

東海や近畿の開けた豊かな平地で暮らす人たちには想像もつかぬ山国の暮らし、直虎の地、井伊谷もまた真田の庄

同様にその地で生まれ育った人々が死守した土地、狭い土地を必死に守る純朴な人々の地に見える

 

上州(群馬県)は関東管領上杉氏の力が弱まり、西から武田、南から北条が攻めてきて草刈り場となった

たまらず、管領上杉憲政は越後の長尾景虎(謙信)を頼みに逃げ延び、関東管領職を景虎に譲り、上杉の姓も

与えた、こうして関東管領上杉謙信が誕生した

清廉潔白、無欲の男、そして権威主義者の謙信は上杉憲政という雲の上の人に頼られて感激した、そして

武田、北条の賊徒を追い払い、上杉憲政を関東に安住させるべく越後から出兵する

真田は上田から沼田まで版図を広げた祖、真田幸綱が亡くなり、後を継いだ真田信綱は弟昌輝と共に武田勝頼

に従い、設楽が原の織田、德川連合軍と戦って討ち死にした

そして、養子に出ていた三男昌幸が戻って真田家を継いだ、この昌幸が父の幸綱譲りの策士だった

力も人数小さな戦国大名にとって頼るのは生き残るための知恵、昌幸は主家武田氏が滅んだ後、必死に生き残りの

道を探って北に南に駆け巡る、それは安定した権力者家康などから見れば滑稽でコウモリのような小賢しい人間と

映っただろう

織田信長や越後の上杉、最高権力者秀吉、時には家康や北条とも和睦、終始背後に巨大権力者の威を借りて、その領土を

宿敵北条や德川から守ってきた、そして僅かな兵で地形を利用して、宿敵德川軍を敗退させた昌幸だったが

1600年、関ヶ原の戦いで德川軍に対抗した石田軍に味方したため、信州上田の戦で数万の德川秀忠軍を

足止めさせた、しかし石田があっけなく敗れ敗戦側となり、次男幸村と共に紀州に流され幽閉された、そこで死亡

長男は德川四天王の本多忠勝の娘を娶り、德川方として参戦した、この功によって家康が憎んだ真田昌幸は

処刑されず紀州幽閉で済んだという

 

真田親子が流されて14年後、德川家康は豊臣家を滅ぼすために大坂城を攻めた

豊臣方も浪人や関ヶ原で敗れた大名や豪傑を集めた、真田幸村も紀州を脱出して大坂城に入城して侍大将として

数千の兵を指揮する事になった

冬の陣は攻めあぐねた德川軍が和睦、しかし油断した豊臣軍の隙を突いて大坂城の守りの要である外堀を埋め立て

総曲輪を破壊した、これによって大坂城の防御力は90%低下したので、家康得意の野戦に豊臣方は引きずり出された

こうなると兵力が少ない豊臣方に部がなく各個撃破されて大将達は次々討ち死に

真田幸村は家康本陣めがけて突入して家康をあと一歩まで追いつめたという話もあるが、真実は?だが討ち死にしてしまった

 

長男、真田信幸は信州松代に十万石を得て、幕末までその地で移動もなく250年続いた

真田の里、上田から北に向かって地蔵峠越えの自動車道路がある、峠を越えるとつづら折りの山道が続き

松代に下りて行く。 松代は長野市だが真田領の城下町の風情が今も残っていて観光地になっている

城下の道場を見に行ったとき、凜々しい女性が的場で弓の稽古をしていた

凛と張り詰めた空気で、急いでその場を離れた 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


直虎の時代

2017年09月17日 18時04分20秒 | 戦国時代

信長や家康の伝記のような小説はたくさんあるが、農民雑兵を主人公にした小説はあまりない

深沢七郎の「笛吹川」はそんな中でキワだった作品だ

毎日毎日、田畑を耕し家族が粗末な一つ屋根の下で貧しく暮らす農民一家

だが1500年代の日本中が戦乱の時代に平和な暮らしなど無い

百姓という立場は領主に命を握られている弱い立場だ

家族総出で米を作っても、ほとんど全部領主に持って行かれる

農民は僅かな米や、大部分は雑穀と葉野菜での食事

ある日突然、領主からの召集で組頭の配下として戦争にかり出される

粗末なすり切れた胴丸を裸の上に巻き付けて、粗末な槍一本で兵隊としてかり出される

数日分の干し飯をもっての参陣、いわば数合わせ、あるいは楯、所詮は百姓足軽

敵方の最前線の百姓足軽と、戦いの最初に槍で殴り合う役目だ

百姓同士が最初に殺し合うなんて悲しい、というのは今の時代の人間が思うこと

多分当時の人は、死ぬことについてそれほど面倒な理屈は持っていなかったのではないだろうか

この世に未練を持つほどの楽しみや財産があるわけでも無く、むしろこんな暮らしから逃れる

死の方が身近じゃ無かったんだろうか。

せいぜい家族への未練くらいだっただろう、だがあきらめが染みついて居る生活では

それすら無かったかもしれない

戦争にかり出されて死んで戻る(体は戻れない)ことは日常茶飯事のことだった

だからどの家も子だくさんだ、3人や5人が戦死しても一人位は家に生き残る

たまたま秀吉の様に気のある男が、出世して百姓生活から逃れるという「大志」を抱くくらいだろう

 

村には手が無い、足が無い、片目しか無いなんて障碍の農民がたくさんいただろう

領主が保証してくれるわけでも無く、死に損の痛み損だ

戦争に出てみても、どこへ向かうのかなんてわかるまい、学校教育など受けていないし

江戸時代ならともかく、この時代には農民の大部分は文盲だ、まして地理など知るよしも無い

せいぜい自分の村と周辺の村くらいしか知らないし、今の様に旅行をするわけでもない

生まれた村で一生暮らし、嫁いで隣村へ行くくらいがせいぜいだ

だから戦争はある意味、命がけの旅行の楽しみだったかもしれない

戦争ではぶんどり自由であった、勝ちさえすれば敵の村に押し入り、生活物資や財産を強奪できる

逃げ遅れた老人は殺し、女を奪い、女子供を戦利品の奴隷として戦地で奴隷商人に売って金にする

そんな狼藉だけを楽しみに戦争に行く、領主も褒美として狼藉に目をつぶる

なにか良いことが無ければ命がけの仕事などできるものか

戦争に負けて敵に村を蹂躙されれば、逆の立場になる

男どもは殺され、娘を奪われ、妻と子供は売られてしまう、恐ろしい時代だ

 

井伊直虎の場合はどうだったんだろうか、直虎は百姓では無い、領主である

それもある程度影響力を持つ領主だ、一つの地方の長である

昔たくさんあった、○○県**郡の郡長くらいのレベルだ、5つくらいの寒村の長である

城とは言えぬ位の砦が5つあると思えば良い、そして5人の村長がいて

直虎は村長会の会長と言ったところか

しかし直虎に属す小野村の村長は、静岡県全域と直虎たちの愛知県三河地方を治めている今川家の

役人を兼ねている、それは直虎の井伊家を監視して報告する役目なのだ

井伊家の家来で有りながら、今川家の公のスパイを兼ねている嫌な奴なのだ

もっと大きな視点で見れば、井伊の様な郡長は周辺にいくらでも居る、だから井伊家は特別な存在では

ない、そしてこの辺りの郡長はどこかの県知事クラスの大名に属さなければ生きていけない

井伊家は東海道最大の今川に属している、だが今川の家臣ではない、一応は独立した存在だ

今川クラスの大名はこの周辺では松平家(徳川家康の若いとき)、織田家、武田家がある

今川と武田が当時は有力大名で、織田はそれより若くて小さい、松平は織田の子分程度だ

松平はこの間までは今川の家臣だったのだ、それが織田信長が今川義元を討ち取ったことで独立したのだった

独立するとすぐに織田信長と同盟を結んだ、同盟と言っても桁が違う、日本とアメリカの様な関係だ

それでも織田が味方になったおかげで安心して今川の領土を侵略する事が出来る

それで狙われたのが井伊の領土だった、隣の郡長はとっくに松平に寝返って先鋒として井伊を攻めてきた

結局井伊の領土は寝返った郡長に乗っ取られた、今現在井伊の領土は消えてしまった、ただ人はいる

跡継ぎも直虎も有力な家臣も家来もみんな生きている、これからどうやって井伊家は再興するのだろうか

 

 

 

 

 

 

 


上杉謙信、上杉景勝の存在はなんだったのか?

2017年06月19日 10時55分16秒 | 戦国時代

日本の戦国時代後半(1550年~1615年)全国に芽生えた数多の武将群も
いよいよ強力な10数家の大名に集約された。
 いずれも弱肉強食の理にて隣接する弱者を強者が襲い、根こそぎ奪い去り、また
強者と強者が手を結んで手強い弱者を襲って分け合った、そんな動物的な戦国武将の中に上杉謙信という唯一無欲で清廉な武将がいた、ところが謙信、100戦100勝の敗戦を知らぬ強者でもあった。
 信州川中島の5度にわたる武田信玄との戦は、まさに決勝に相応しい組み合わせがベスト16でぶつかってしまった様な強豪同士の決戦であった。
 しかし戦の動機は全く異なる、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄は父を追放し、長男を殺し信州に攻め込み片っ端から領地や住民をさらって自分の土地を増やしていった。
攻め殺した領主の妹を妾にして子を成したりもした(諏訪勝頼)
 一方謙信の方は、武田信玄に追われて逃げてきた信濃豪族を受け入れ、懇願されて奪われた土地を取り返して信濃豪族をもとの土地に返してやろうという、無償の戦であった。

 このように上杉謙信という人は戦国時代には珍しい風変わりな武将である
あまりにも清廉潔白でしかも一本気だからワンマンである、ワンマンをカリスマ性で補っている、織田信長も同じワンマン+カリスマ

 戦国時代は領土の獲得ゲームだ、なぜ領土がいるのかそれは頻繁に戦争があるからだ
戦争に勝つ度に、活躍した家来に土地や奪ってきた捕虜などを褒美に与える
ところが上杉謙信の戦争はいつも頼まれてやっている様なところがある、領土を拡大するための戦争では無く、弱きを助け強きをくじく正義の聖戦だ。
奪われた土地を取り返しても、自分の物にせず元の持ち主に返す、関東に出陣して次々と敵の城を落城させても、そこに家臣をとどまらせず越後へ引き上げるから、逃げた敵はまた戻ってきてそこを奪い返す、遠いから容易に引き返すこともできずいたちごっこだ。

 それでも戦争だから死者も出る、戦に勝っても土地が増えるわけでは無い、しかし謙信は義を果たしたことに幸福感を感じている、家臣もそうだと一方的に思っている、だから感状の紙一枚で家臣を報償する、家臣は自前の食料や家来の戦死、負傷という被害を受けているのに紙一枚ではそのまた家臣に何もやれない。
 だから大きな越後では不満を持った与力の豪族たちが離反する、織田や伊達の甘言に誘われて謙信を裏切る、特に越後北方の豪族にその傾向が多い、何しろ200kmも離れた土地なのだ。
 それでも謙信は成敗に出陣する、そして謀反軍を降参させる、信長なら逆さ磔か、一族共々焼き殺すだろう、ところが謙信は「二度と謀反を起こすな」などと言って春日山に引き上げる、領地も奪わず、地位も奪わず帰って行く、何しに来たのかわからない。
 そこが謙信の不思議さである。

 

   謙信の魅力というか、なぜこうなるの?と思うことがある
まわり中が油断できない敵ばかりの戦国時代、謙信と竜虎と言われた強者武田信玄も
雅やかな今川義元も中国の覇者毛利元就も京に上洛したことが無い。
 できるわけが無い、そもそも今川も武田も京に旗を立てるため、4万の軍を率いて行っても、とうとうたどり着けなかった。
 今川義元は僅かな信長軍に討ち取られ、信玄は病死したという。
毛利は京に行こうとも思わなかったのだろう遠すぎるし、背後の九州や山陰の尼子という敵が狙っている。
 
 ところが、京から400kmのド田舎越後に住む謙信は、なんと2度も京の地を踏んでいる、それも数千、数万の軍団など引き連れず、僅かな家臣と京に上り帝や公家と面談し、お言葉をいただき、名僧や文化人と交わり越後に難なく戻っている。
 朝廷に無礼を働く三好、松永の近畿侍を僅かな家来と懲らしめ、足利将軍から篤い信頼を得た、上級公家の一人は謙信に惚れ込んで越後まで同行して住み着いたほどだ。

 なぜ謙信は敵と戦うこと無く京まで行くことができたのだろうか?
越中富山は敵ばかり、加賀の一揆も敵だ、その先の越前朝倉家は一揆を敵としている、言わば敵の敵は味方で朝倉は謙信に好意を持っている。
それで船に乗って越前まで行ったと思われる、そこから朝倉の同盟浅井氏ともよしみを結び、浅井の旧主六角とも侵略の意思がなければ戦う理由も無く、京まで無事についたのだろう、そして京に巣くう三好、松永は謙信の威風堂々とした姿に恐れを成したと思われる
まさに謙信の無欲無心仏心とカリスマ性がこのような奇跡を二度も起こしたのだ。
 関東の味方が、北条の大軍に包囲され救援を求めてきたときも急いで越後から出陣、
そして味方の軍が揃うまで待てば落城の恐れ有りと、謙信は僅かな軍勢を伴って軍旗を先頭に、数万の北条の包囲軍の真ん中を堂々と、しかも粛々と通っていく、北条の軍勢はあっけにとられて誰一人手を出せずに入場を見送ったという伝説さえある、謙信が軍神と言われる所以だ。
 あの魔王信長さえ初めて京に入ったときは将軍足利義昭を戴いて、大軍を率いて入洛したのだった、信長さえ謙信の大胆さはまねできない、唯一秀吉が陽気バージョンで似た様な行動を度々行っている。
 家康との小牧の戦で敵味方の真ん中に一人出て行って尻を徳川型に向けて尻まくりしたとか、家康と連れションをしたとか、母親と妹を人質に出したとか、敵方の前田利家の城門前に一人で出て行って「又左(前田利家)儂じゃ藤吉郎じゃ、茶を一杯所望!門を開けよ!」というパフォーマンスは全て太閤記の読みどころだ。
戦国武将の大胆な人柄となると謙信と秀吉が東西の横綱だ。 

 謙信という人は全く殺気が無い人だったのだろう、殺気は無いのに恐ろしさを与える人
悪鬼を踏みつけ、善人には慈悲を与える、毘沙門天の生まれ変わりと言われる謙信の面目である。
 いつも春日山城の堂にこもって瞑想を続けていたという、生涯妻帯せず子も成さず
姉の息子を養子にしたが、敵だった関東北条氏との和睦の印に人質としてやってきた北条の息子までも養子として可愛がった、それなのに後継者を決めること無く突然卒中で死んだという、これが仇となって二人の養子が越後を二分して戦い、上杉景勝が勝利したが無敵の越後軍団は半分の力に衰えてしまった。

 織田信長の急激な版図拡大に危機を持って、親の代の仇敵、武田と上杉が同盟したが既に遅く1582年武田氏は滅びた、それは四方から織田軍が越後上杉を次のターゲットにした瞬間だった。

 越中から佐々軍団、信州から森軍団、上州からは滝川軍団、その後には北条家も狙っている
 北からは奥州の伊達が越後を伺い、上杉の家臣団に反旗を翻させた、
山形の最上も漁夫の利を狙う、まさに風前の灯火。

 しかし凡将と言われる上杉景勝だが運の良さでは謙信を上回っていた
織田信長が家臣の明智に殺されたのだ、これによって地方の織田軍団は総崩れ
景勝も北信濃と上州の一部を取り返した。
 さらに良いことが続く、織田軍団の内戦で勝ち上がったのは羽柴秀吉だった
この人殺しが嫌いで調略戦が得意で陽気な秀吉は、越中の敵佐々成政を降伏させるために越後側にいる上杉と手を結ぼうと動いた、景勝の参謀直江兼続も用心しながらもこの話乗るべきと進めたのでは無いだろうか。
そして佐々降伏の後、越中越後国境にそびえる上杉の最前線勝山城で秀吉と景勝は同盟を結んだ、このときまだ安定していなかった秀吉と越後一国の老舗上杉とは互角の同盟だっただろう、表情を表さず、無口だったという景勝はともかく、直江兼続は秀吉に会って安心したのでは無いだろうか、しかも秀吉の小姓兼秘書の切れ者、石田三成とは知恵者同士気が合った様だ。
 
 こうして秀吉との出会いは景勝の運気を上げた、秀吉の急速な権力上昇で家臣とはなったが、越後時代の50万石弱の領地も120万石にふくれあがり会津に移った。
これは秀吉家臣では徳川家康に次ぎ、毛利輝元と並ぶ全国二位の大きな領土を得た
しかも秀吉内閣の一級閣僚5名の一人に指名されて、まさに秀吉は景勝の福の神だった。

 しかしそれも秀吉の死と共に反転する
家康に臣従するか、石田三成に加担するか、1600年の関ヶ原の大戦はそういう選択に迫られた、日本を二つに割ってのいわば決勝戦だ
 景勝にはプライドがある、何を考えているかわからない徳川家康は虫が好かない、石田三成はどうか?  生真面目で豊臣政権に忠義を貫き、小身の大名ながら20倍もの領土を持つ最高権力者に「忠」と「真」は無いのかと詰め寄る勇気、一本気な性格は景勝にも通じる、何より三成には上杉謙信と同じ「義」の心がある。
上杉は石田三成に賭けた。

 そして敗れた、東北の地にあって、小競り合いはあったがろくな戦もしないで上杉家は敗者になった、首謀者の三成たちは捕らえられ打ち首の上さらされた。
景勝も覚悟を決めた、だが誰ぞの口添えなのか領地75%を没収されたが米沢に30万石を与えられて存続を許された。
30万石なら上位の大名の体面は保てる、ところが江戸時代がもっとも安定した元禄に赤穂浪士の事件が起こった、討たれたのは上杉家の殿様の実父吉良上野介だった。
 上杉の男子が途絶えて、上杉の姫と吉良の間にできた子を上杉家に養子縁組して入れて
上杉家を存続させたのだった。
 ところがその時、上杉家では跡継問題でごたごたがおきた、それが原因で30万石を半分幕府に召し上げられ、15万石に減らされたばかりだった、そこに赤穂浪士の事件。

 江戸にいた上杉の殿様は、実父の危機なので家来を引き連れて吉良邸に救援に行くと馬にまたがった、しかし上杉家に代々使えている家老が立ちはだかって、それを止めたのは
忠臣蔵の映画でよくある場面だ、上杉代々の家臣にとって「吉良家の私恨でお家断絶になってたまるか」という心境だったろう、こうして幕末まで上杉家は15万石の身代で存続した。
 幕府の末期には密貿易で潤った薩摩など僅かな大名以外は、ほとんど財政が逼迫していた、徳川家本体も消失した本丸の新築もできない有様だった。
上杉家も同様に大きな借金を抱えて四苦八苦していたが、養子で上杉の殿様になった上杉鷹山は名君であった、質素を軸に経済を立て直して借金を解消、しかも数万両の貯金まで作ったのだった。

 戦国から明治まで生き抜いた大名は決して多くない、したたかな者だけが生き抜くことができたのだ。
   津軽、佐竹、織田、上杉、伊達、徳川、真田、前田、池田、蜂須賀、黒田、毛利
山内、島津

 一世を風靡しながら滅び去った者は多い
    南部、芦名、最上、長野、武田、村上、北条、里見、今川、斉藤、浅井、朝倉
    六角、神戸、豊臣、松永、三好、石田、明智、長宗我部、大内、尼子、宇喜多、
    別所、大友、少弐、龍造寺、伊東、小西、菊池、柴田、波多野

   越後上杉家、会津米沢上杉家とは戦国の時代、どんな役割を果たしたのか
 謙信の時代は間違いなく主役であった、天下取りの野望を持たないのに生涯を
戦三昧で過ごした。
謙信は戦をすること自体が生き甲斐だったと思う、戦無しでは生きられない男だったのだろう、その先の天下など眼中に無く、「男だねえ謙信さん」と絶賛されることに興奮し、また嬉しかったのかも、彼はナルシストなのだろう、強い相手も見ると決着をつけたくなる剣豪タイプでもある、ボクサータイプ、とにかく戦闘大好き人間。
 謙信の戦争方法にはほとんど作戦など無かった様だ、狡猾な信玄や信長とは全く違う、自分の感だけで突き進んでいく、相手が作戦どおりの陣形を作る前に突入して破ってしまう、定石を重視する敵は、謙信に意表を突かれて混乱する
作戦がない謙信は相手の弱みを察知する嗅覚がある、そこを一気に攻めるのだ。

 こんな謙信が近くにいて迷惑したのが武田信玄と北条氏康だった、どちらも謙信が越後などにいなければ、信長や家康の台頭を許さなかったかもしれない、信長、秀吉、家康にとって謙信は幸運の神だったのだ、IFで考えれば歴史が変わったかもしれない。
 謙信は死の直前、京へ上る軍を招集していたという、これだって帝に無礼を働く信長を懲らしめる目的だけで、天下に号令しようとなんか思っていなかっただろう
だから死ななかったとしても信長を討ち取らぬ限り歴史に影響は無かっただろう。
 よくよく考えると大物相手の戦争ばかりしていた謙信だが戦に勝っても大物を一人も
殺していない。 信長は僧侶や信徒を数万単位で虐殺、今川義元、浅井、朝倉、武田、
松永などの大名、大物地方豪族を多数殺した。
 秀吉も主君織田信孝、柴田勝家 、明智光秀、北条などを攻め殺している
家康は主家の豊臣親子を責め殺し、関ヶ原で多くの大名を殺した
こう見ると謙信は異色のクリーンな戦国武将ということが立証される、キャッチ&リリース、戦は人殺しでは無くレジャー感覚だったのかね。

 一方、上杉景勝は徳川家康に敵対しながら、結果的には家康に天下を取らせた功労者という見方になっている、豊臣家を潰したい家康にとって石田三成を始めとする反徳川派を立ち上がらせる必要があった、そのために上杉征伐を考えたと言われている。
これにまんまとはまったというわけだ。
 上杉家は明治維新でも結局たいした活躍をしないで降伏している、会津が頼りにしていたにもかかわらずだ。 旧領の越後と庄内では長岡藩牧野氏、庄内藩酒井氏が徹底抗戦、官軍と五分の戦を繰り広げたのだった。

 

海にせり出しているピークが勝山城、ここで秀吉と景勝が会談したという

当時の越後上杉の最前線基地、富山方面からの敵を監視する


国宝「傳一文字 山鳥毛」上杉謙信の故郷に戻るのか?

2017年04月10日 10時10分15秒 | 戦国時代

人口20万人ほどの新潟県上越市が、郷土の英雄、上杉謙信の愛刀「山鳥毛」を

3億数千万円で購入しようと名乗りを上げた。

いろいろなブログを見ると、山鳥毛は上州の戦国武将、長尾氏から関東管領だった

上杉謙信に送られた名刀とのこと。

無銘であるが備前一文字の名刀で2尺6寸を超える大振りな太刀であり

鎌倉時代の作であるから、謙信の実戦刀の一つだったであろう

写真で山鳥毛のいわれでもある刃紋を見たが、見たことも無い様子で是非実物を

見たくなった。

上杉家は、越後の長尾家から始まっているが、謙信が、まだ長尾氏であったとき

関東管領(足利将軍に指名されて、関東全域を支配する地位の人)だった上杉憲政が

小田原北条氏の圧力に屈して越後の謙信(当時は謙信では無いが便宜上)を

頼って落ち延びてきた。 当時、謙信は義の武将として強気をくじき、弱気を助けると

評判であった、領土拡大を目指す戦国武将ばかりの時代に自分の領土を守るが

他の領土は奪わないという珍しい欲の無い武将だった。

上杉憲政は謙信に、伝統ある上杉の姓と共に関東管領という地位までも譲った

(養子縁組と言うことか?)

謙信は晴れて上杉を名乗る様になったのだ、謙信は織田信長や豊臣秀吉のように

天皇や朝廷を、自分の権勢の拡大のため利用するタイプでは無く、天皇の権威を

心から敬う尊皇の武将でもあった、こうした天上の尊き人から声をかけられるだけでも

恐縮、感激して感涙を流す様な人だったと言われている。

こうして天皇の武将(官軍だ)となった謙信は晴れて関東平野に出陣した、勿論

関東に勢力を張る、北条氏を征伐するためだ、関東平野に点在する数多の武将たちは

常に強い者になびく習性があった、それが唯一の生き抜く道だったのだから仕方ない

上州(群馬県)の白井の長尾氏は謙信を迎えて、この「山鳥毛」を贈ったと言うことだ

これ以来、「山鳥毛」は謙信が蒐集した二十数振りの名刀の一つになった

大東亜戦争、太平洋戦争を超えて間もなく、上杉家から岡山県の事業家の手に渡った

と言うことだ、当時すでに国宝に指定されていたが個人所有であった。

ずっと岡山県の宝として博物館に所蔵されていたそうだが、昨年持ち主の個人と

上越市が話し合い、3億数千万円で買い取る話しができあがったということだ

上越市では今、賛否両論の市民の意見が飛び交っている、議会でも一本化されていない様だ

大筋の意見では買っても良い方向の意見が多いらしい、但し条件として

「寄付金だけで買えるならOK!、税金投入はまかりならぬ」という意見がある

一方、「こんなチャンスは滅多に無い、寄付金を募り不足分は税金でもやむを得ない」という

肯定意見も多い。

この国宝を手放すことになるかもしれない岡山県でも波紋が広がっている様だ

もともと「山鳥毛」は備前(岡山県)で作られた備前刀だから手放してはいけないという意見

だが国宝とは言え、所有者は個人だから所有者が手放すと言えばどうにもならない

人口が上越市より200万人近くも多い岡山県だが、この刀に3億円払って購入する余力は無い

それを、地元の英雄「上杉謙信」の名刀を買い戻そうという人口20万小さな雪国の自治体の気概は

買いたいと思う。

 

 

 

 


真田の里を訪ねた

2015年12月11日 08時12分54秒 | 戦国時代

長野市松代、上田市、真田町は長野県内で真田氏の本拠本貫といえる土地で

歴史ファンにはたまらない

上田市から北、菅平に通じる途中に真田氏の発祥の地、真田町がある

ここには真田本城の遺構が残っている

すぐ近くには天敵、信濃最強の武士「村上義清」の葛尾城があって真田領を脅かした

真田本城に行ってみたが、上杉謙信の春日山城、村上の葛尾城の様な峻険な山城でなく

こんもりとした丘陵の様な感じで規模も大きくは感じなかった

真田の武器はなんと言っても、三代にわたる知謀知略であった

しかし武田信虎と手を結んだ村上の攻撃に耐えられず、真田幸隆は上州に落ちていった

耐乏生活の後、父の信虎を駿府(静岡)に追い払った、武田晴信(信玄)の子分として

真田氏は信濃に舞い戻った。

そして村上義清が武田の圧迫に耐えきれず、越後の上杉謙信を頼って落ちると

真田は上田一帯を領地として、上州の一部までに版図を拡大した

その頃には息子の真田昌幸が家督を継ぎ、息子、正之と幸村の兄弟も戦力となった

上田城は上田市の市街地にある、今も石垣や櫓の一部が残り本丸跡も残っている

武田勝頼が織田、徳川連合軍に破れて滅んだあと、敵であった上杉謙信に次男の

幸村を人質にして同盟を結び、織田信長亡き後の徳川家康に敵対した

そして上田城に攻め寄せた徳川勢を、知謀を駆使して僅かな兵で追い払った

その後も関ヶ原に向かう3万の徳川秀忠軍を、数千の兵で上田城に足止めして

関ヶ原の戦闘に参加させなかった、もし石田方の西軍が勝ったなら真田の勲功は

西軍第一であったかもしれない。

しかし歴史は徳川の勝利に終わったが、昌幸、幸村の西軍方の親子は紀州に追放

打ち首にならなかったのは長男を徳川方に参加させた事による

これも昌幸の策略だと、小説では書いている

そのため、真田は江戸時代を松代に10万石を得て明治維新まで生き延びた

松代城祉は川中島を望む犀川河畔に石垣で囲まれて残っている

櫓や天守などは無いが、天守台跡、本丸跡、二の丸などがそっくり残っている

後方には川中島の決戦で上杉謙信が陣を構えた妻女山も見える

近くの真田歴史館や真田屋敷や武道場なども見物である

 真田氏の軍用道路である松代と真田を結ぶ地蔵峠越えも走ってみると面白い