神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

復讐のドラマ 半沢直樹 / えいらく 

2020年08月31日 10時48分19秒 | 映画/ドラマ/アニメ

いよいよ2020年8月も最後の一日を迎える

今日は昼仕事を終わらせたら、隣町まで買い物に行ってこよう

期限が今日までのセールDMを3日前に見つけた

ちょうど必要としていたサングラス、不景気に*千円の割引はありがたい

ちょっとしょぼいかな・・・とも思うが・・・昔・・・

父がまだ商売駆け出しのころ、働いても働いても生活は安定せず

天ぷら専門に売って、財を成したという噂の大先輩に聞いたとさ

「とおちゃん! どうやれば、とおちゃんみたいな金持ちになれますか?」

天ぷらおじさんは小魚を干しながら言ったとさ

「金なんぞ、使わなけりゃ溜まる」

 

1000円を「しょぼい」なんて言ってるうちは貧乏生活一直線、まっさかさまに落ちる

自重すべし!

 

さて第一シリーズを見逃した私は「半沢直樹」の第二シリーズから見始めた

昨日の地方視聴率は30%弱だと言っていた

一週ごとにかたがつくのではなく、数回で一つの山が解決していくスタイル

いったいどこに視聴者を引き付ける要素があるのか?

最終的には鬱積したストレス、欲求不満をパッと解消する気持ちよさなんだろう

そのためには敵役が重要な役割を占める、殺したいくらい憎い敵役が最後に

つらく悲しい少年時代があって・・・なんてお涙頂戴ストーリエピソードならば

半沢直樹の倍返しドラマは成立しない

但し、小サラリーマンの悲哀はところどころにちりばめられて、

「罪を憎んで人を憎まず」くらいで許してやったらキャラはでてくる

彼らもまた巨悪に利用される哀れな存在、「1000万円の方にします!」

これで転んでしまう

「半沢直樹! おぬしもワルよのう」

たしかに見ていて面白い、大銀行、大手航空会社、政府、大臣、国税庁

われらのたどり着けぬ世界の熾烈な生き残り合戦

だからこそ無責任に面白い復讐ドラマ

 

だから私は今、復讐ドラマを2本見ている

半沢と、中国ドラマ「えいらく」、サブタイトル「復讐の皇后」

「えいらく」は先日全60数話を見終えたばかりで、今は再視聴中

一回目は大雑把なあらすじを見ていたようなもので、それを踏まえて

2回目を見ると細部まで見えて面白いし、見逃していたぶぶんや

策略の伏線などが見えてきて一回目以上に面白くなる

こちらも復讐ドラマとしては抜群に面白い、一回目はさらりと見てしまったが

二回目は、誰がえいらくに敵対して、どのような意地悪をして、どのような結末を

迎えたか、どのようにしてから皇后にまで上り詰めたかという

段階的なサクセスストーリーも面白い

昔、3回見た韓ドラ「チャングムの誓い」と似たような面白さがある

人生流転、大きなピンチ、チャングムは類まれな調理人として頭角を現した頃

大悪人に貶められて罪人として転落する、それから階層の医女として

再生、ついには当時の女としてはありえない、王の専属医師となる

再び咎人となるが、最後は小さな幸せを得るドラマだ

「えいらく」は最初から姉の仇打ちの為に紫禁城にとして入る

ついに姉の仇を打つが、自分をかわいがってくれた皇后が非業の死を遂げ

そのように仕組んだ巨悪が新たな復讐のターゲットとなる

復讐のため唯一無二の幸せな結婚をあきらめ、皇帝の妾となる

そこで最高権力との最後の戦い

66年間、清国皇帝を勤めた乾隆帝(けんりゅうてい)が、後半可愛いキャラなのがコミカルで面白い

同じ題材を別仕立てにした「如意伝」(意は別漢字)と合わせてみると面白い

 

北東アジアの日、中、朝の歴史を見ると気づくことがある

中華の国には皇帝が頂点にあり、地方には自治的な国家があってそこには王がいる

日本も同じく頂点は天皇(皇帝)で地方に大名たちが治める国家が200以上あり

大名は、それぞれの地方自治国家の王ともいえる

ただ鎌倉時代からは大名(武家)が政治を行うようになって、武家の頂点に

征夷大将軍、執権などが就いて全国に命令した

けれども、武家の頂点といえども天皇の臣下という立場であった

それが最大に利用されたのが明治維新だった、錦の御旗に対して徳川幕府は賊軍となった

それが260年の徳川幕府をあっけなく崩壊させた

朝鮮は1200年代に前王朝の高麗王氏を滅ぼした易姓革命で、李氏が興した国だ

漢民族の明国のバックアップで成功した革命、明からみたら朝鮮は明国の数多い

地方王の一つとしか見ていない

だから朝鮮ではそれ以前も以後も、国家の最高権力者であっても王だ、皇帝がいない

ドラマでもわかるが朝鮮は**王と**王妃であり

*宗 *祖と 

日本は天皇と皇后、中国は皇帝と皇后である  **帝という呼び方をする

永楽帝 後醍醐帝 など

 

中国は3000数百年も高度な文明が続いた国だ、様々な王朝が数百年単位で入れ替わる

易姓革命が続いた、さらに中国古来の漢民族が北方の(彼らにとって蛮族)異民族に

支配されたことも何度かある、遼、金、元、清などに服従したのだ

日本が1895年に日清戦争で大勝利したが、相手は漢民族ではなく(兵士や国民の大多数は

漢民族だが)満州族の国家だった

いわば日清戦争は、満州族に服従する漢民族を日本が解放するきっかけを作った戦争だった

1900年の北京の事変で清国は完全に息の根がとまることになる

乾隆帝崩御から約100年後のことだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


やせ我慢より実益

2020年08月29日 22時04分05秒 | ライフスタイル

うーん! やっぱりクーラー生活は快適だ

夜も、なんなく寝られるし

今日から、焼酎サイダー割飲みながら

尾崎紅葉の金色夜叉 井上靖の淀殿日記を読む

案内状が来たから、月末に遠近サングラス作るのが楽しみ

そろそろ靴も欲しいなぁ

軽井沢のあの靴店に行きたいけど、感染増加傾向

高原はいいけど、観光地はどうなんだろう?

 

 


熱中症 考えもしなかったけど

2020年08月28日 17時14分14秒 | 病気と健康

毎度のごとく魚市場へ行った

最近、市場に仕入れに来るようになった40歳くらいのあんちゃん

最初見た時は、ふわふわしているが、最近は結構しっかり者に見えてきた

なかなか金銭感覚にも細かいようで(あれれ)という感じだ

私は、どちらかと言えば第一印象で人間を判断してしまうことが多い

それだけに見間違いも多いのだ

今朝もあんちゃんに会ったら「おはようございます」とあいさつしてきた

「暑いです~」とタラちゃんみたいに言うから

「おれの部屋は毎日30度、そこでクーラーなしで寝ているんだよ」と言ったら

「自慢になりませんよ、まじ冗談じゃないですよ!」「・・・・れれれ?」

叱られちゃった

「それっていつ熱中症になっても不思議ないですよ」

それもそうだ、ちょっと自分の健康を過信してたかな

時々、体の芯からカーっと体温が放出されて表面にたまる意識はある

体中に熱がたまっている感覚、気温を見ればそれほどでもないけど

こんな時が危険なんだろうな

今夜からクーラーの部屋で寝ることにした、先日そこで寝たらぐっすりだったから

やっぱり暑いと寝ているようで寝ていないんだろうな

 


2020年8月 信州の高原④ 美ヶ原

2020年08月25日 08時33分18秒 | ドライブ

 美ヶ原は2034mの王ヶ頭を頂点に北西に向けて武石峰から

美鈴湖を経て松本市に下りるラインと、

南に霧ヶ峰まで下り、東に折れて白樺湖へ行く長いラインの

二方向に通じている。

 今回は武石峰方面に行こうと思ったが、途中、災害で交通止め

これも7月の長雨のせいかと思う

目的地変更、つづら折りの山道を美ヶ原山本小屋の駐車場に

向かった。

 駐車場は40台は停まるが満車に近かった、その70%は

都会からの車で、いかに都会人が息苦しい都会から逃れ、

自然を求めているのかよくわかった。

 美ヶ原は2000mの高さにあって、国内ではあまり見られない

広々とした高原台地だ、その大部分が牧場でいくつかの牛の群れが

ゆったりと遊んで居る。

 たまに馬の親子が居たりするが、今日はポニー、太ったポニーが三頭いた

二頭は柵に繋がれて、観光客が買ったエサをいただく役目のようだ

地上はたまらない暑さだが、ここは別天地、日差しは強いが空気が乾燥して

湿気が全く無いので快適だ、たまに風が吹くとひんやりとした天然クーラーだ

高山植物はあまり見えないのが残念だった

 

王が頭

美しの塔

ポニーじゃなくて子馬かも?

塩を舐める牛たち

 

帰りはぐるりと白樺湖まで走ったが随分と遠かった

毎年3回は訪れていたビーナスラインだったが、この3年ほどはご無沙汰していた

思いついたらすぐ出られる今だからこそ、思い切ってきて良かった

7月にニッコウキスゲを見に来る予定だったが連日の大雨で諦めた

8月の今日も少しだが遅咲きのニッコウキスゲを見ることが出来た

 

 

 

 

 

 

 


2020年8月 信州の高原③ 池ノ平湿原

2020年08月24日 08時15分34秒 | ドライブ

群馬県と長野県を結ぶ路線は多いが吾妻から嬬恋に通じる

国道144.145の渓谷美と浅間山北面の景色は素晴らしい

このあたりはたしか中世には真田の領地であった

いかにも奇をてらす真田に相応しい、へそ曲がりな景色が続く

県境に近い田代から南にまっすぐな坂道が伸びている

そこを上り詰めた峠が湯の丸高原だ

この付近は少し早ければツツジが満開であったろう

峠を下れば東御市だ、田代から東御市までの道の左右には百体観音様が

見守っている

湯の丸高原から東に尾根道が続いてそこを15分ほど走ると池ノ平湿原の

駐車場に至る

更に進めば高峰高原に行く、ランプの宿があるそうだ、そこからは小諸に

下る、車坂峠からの景色は素晴らしい

池の平湿原は一周しても30分ほどの小さな湿原だ、脇道にそれれば

2000mそこそこの三方峰の高台がある

前回来たときは富士山が見えたが、今回はカスミが多くて全く遠くの山は見えなかった

森の中の道には高山植物が咲いていて、そのどれにも様々な蝶がとまっていて

目を楽しませてくれる、これほど蝶が多い高原も珍しい

一つの花に三匹くらいとまっている

三方峰より

湿原

回転失敗

嬬恋のキャベツ畑 道路の左右の高原に果てしないキャベツ畑が続いている

7月の長雨のせいか国道は大笹と田代間で復旧工事、う回路で迷って30分以上ロス

う回路もすべてキャベツ畑だった

田代から湯ノ丸高原の間の沢沿いの道もいたるところで道路の半分が落下していたり

崖が崩れていたりで、工事中の箇所が多くて怖かった

 

 


2020年8月 信州の高原② 木崎湖

2020年08月23日 14時54分07秒 | ドライブ

長野県を北から小谷村、白馬村、そして大町市に続く

国道148号は大町で147号にかわる、白馬から佐野坂を上ると仁科三湖が表れる

青木湖、中綱湖、木崎湖と並んでいる、私はずっと木崎湖が一番大きいと思っていた

けれど最近になってわずかに青木湖が広いのがわかった、標高も木崎湖の方が高いと

思っていたが820mほどの青木湖の方が760mほどの木崎湖より高地にあったのだ

木崎湖好きの私は少しがっかりしている

女房殿は独身時代、ここの宿でアルバイトしていたので何度か行ったのだった

信州は湖というだけで高原ムードが香ってくる、日差しが強くてもなんでも高原なのだ

この辺りには仁科屋形の跡があって見に行った記憶がある

仁科氏は一説には古代の天皇から始まっているともいわれているが定かではない

しかし中世には存在が明らかで信州中原の戦いや南北朝での活躍が明らかである

しかし武田信玄の台頭で仁科氏は武田信玄の五男盛信を養子に受け入れて

悪く言えば乗っ取られてしまった

武田勝頼が滅ぶとき、武田家の親戚や重臣までもが我先に逃げたり降伏したが

勝頼のすぐ下の弟、仁科五郎盛信は織田方10万の大軍を高遠城で迎え撃ち、一日で

落城したけれど忠義の武士として名を高めた


お盆もおしまい 見た夢

2020年08月17日 16時08分24秒 | 宗教

朝方の夢、なんか知ってる顔が大勢出てきて

クラブのママや、昔あれこれのおねえさんやら、大きな商業ビルの中のレストラン

新規開店の飲食店、ずいぶんと賑やかで都会的な夢だった

そして久しぶりに夢に父も出てきた

大きな通りを私は一人、車を飛ばしていた、どうもスピード違反らしくて

路肩に並ぶ自衛隊の車列の中から、私に停止を命じる隊員がいて

さて停まろうか、行こうかと悩んだ挙句、交差点の手前で自衛隊車両の前の

スペースに駐車したのだった

そして車を降りて自衛隊に話しかけようと思った矢先、後ろからやってきた

40代の父が「飯食べに行こう」と道路をわたって向かい側にある店へと歩き出した

今思うと、駐車した場所は築地本願寺前に似た場所であった

夢はそこで終わったが、お盆らしい夢だった

一昨日は共同墓地の墓参り、昨日は母の祥月命日で店を休業にして一日

仏壇の間で過去の香典名簿を整理していた

そんなお線香臭い日々だったから、こんな夢になったのかも

26日は父の3回忌法要をようやく行う、2月の雪深い時が命日なので半年過ぎたが

コロナ騒ぎでここまで伸びたのだ、今回は兄弟だけで行う法事

コロナで何もかも変わってしまった

それにしてもテレビで見た首都圏のお盆中の密バーベキュー、バーベキューでのバカ騒ぎ

10日後の感染者数がどうなるか注目! これがウイズ・コロナなんだろうね

ちっとも怖くないや! てか?  70歳以上の感染数が少ないのは怖くて家から出ないから

らしい、昔の人間は辛抱強い

 

 


お墓参り

2020年08月15日 08時22分28秒 | 宗教

レストラン休業と言っても、さすがはお盆で13日から日中はほぼ調理場

21度の中に一日いると、外の35度の世界はまったくわからない

ある意味、未だに夏の日中を体験していない

忙しいけれど夜の仕事はないから、いつも通り19時には家に帰る

昨夕は7時から、お墓参りに行ってきた

地元の僧侶親子が読経を行い、会員約60名ほどがお参りした

全員マスク姿だ、消毒アルコールも用意してある

去年は忙しすぎて、とうとう参加できなかったが、今年は余裕で参加できた

おととしは、やぶ蚊に全身15か所も刺されたので、今回は風呂上りに

全身、虫よけスプレーを振りまき、服の上からももう一度

おかげで、かの一匹も寄り付かなかった

 

この合碑廟は昔からあった薬師堂の参道の側地に建てられた

昭和38年だそうだ、50年以上の歴史がある

今は立派な廟になっている、この間埋葬された人は300人を超えたそうだ

父母もここで眠っている

16日は母の祥月命日、26日には父の3回忌を寺で行う、8月は私にとって

いかなる欲も封印する神聖な月になった


盆 母のこと

2020年08月13日 10時01分01秒 | 病気と健康

両親が亡くなって、ようやく盆を意識するようになった

16日は母の祥月命日 母らしい

 

父のことは、ここでずいぶん書いたが母のことは、ほとんど書いていない

母は平凡な人で、92歳で亡くなったが父と私と妹に看取られての大往生

人生の半分は病んでいたが、亡くなったのは老衰だった、静かに眠るように

 

母が父と結婚した時の実家は平凡なサラリーマン家庭で、母の母と、母の兄

兄嫁がいた

当時の父は食料統制下で米の闇販売をしていた俗にいう「やみや」だったから

真面目で細心な性格の母の兄は結婚を「やめとけ」と言った

けれど母の母(私の孫ばあちゃん)は「あの顔は見込みある」と言って結婚OKがでた

その後の人生は、ずいぶんと書いたが、母は気の優しい人で子供想いで

綺麗好きで、陽気で父の魚屋を手伝う働き者だった

若いころは小太りだったが、仕事が忙しくなるにつれて細くなっていった

私が10歳ころから体が弱くなりはじめ、医者に行くようになり温泉へ湯治にも

行くようになった

手術をするような大きな病気にはならなかったが、体のバランスが崩れて

様々な症状が出てくる、大学病院に行って調べたら甲状腺障害がわかった

それからは甲状腺の治療でしばしば入退院を繰り返した

紀州白浜温泉へ父母が結婚記念の旅行に行った時も現地で症状が出て1ヶ月間

地元の病院に入院した、当時父は60過ぎで仕事も繁盛していたので2~3泊の予定

だったと思うが1ヶ月にもなった

仕事は気になるが仕方ないと人生初めて1か月の休養をした、好きな釣り三昧で

日常を忘れられたのは、今の私の心境に似ている

母は弱い体だったが、仕事は一生懸命だった、料理はおてのもの、さしみ切りは

もちろんプロだ

近所の同い年位のお母さんたちが集まって、大正琴を習って演奏会をしたりしていた

だが父が自宅の魚屋業を私に任せて、新し商売を始めてからは夫婦春秋は終わったのだった

私が結婚して5年後くらいに父母は家を出て、安い古屋を一軒買って移った

父は仕事が忙しく母は一人暮らし同様になり、今までの近所の

友達とも疎遠になり、たまたま引っ越し先の近くに一人だけ昔からの友達がいて

唯一の楽しみであった

それでも孫、(妹の娘と末息子)が妹と「おばあちゃん」と時々尋ねてくれるので

慰めにはなっていた、でも長男の私は仕事にかまけてほとんど行かないし、銀行員の

弟は遠方で年2回しか顔を見せない

結局、妹と外孫が一番の頼りになった、そういう意味では妹の亭主(私と同級生)には

感謝している

妹の亭主は工事関係の自営業者で頭もよく体格もよく頼りになる男なのだ

母も随分と頼りにしていた、私よりよっぽど頼りにしていただろう

 

あれほど働きずめだった母が50歳くらいから専業主婦になって、しかも父の食事つくり

だけになったのだから、ずいぶんと空虚だったろう

近くにいても後半から晩年の母にはほとんど私は会っていない、とんだ親不孝者だ

私には、そんな冷酷さも潜んでいるのだ、今も変わらない

 

母はこの商売の年末年始、ゴールデンウイーク、お盆の忙しさが身についている

だからこそ無意識の苦しみの中で8月15日まで辛抱して持ちこたえた

8月初めに地方の中核都市の施設に妹と会いに行ったとき、医師から、もう

腕からの点滴ができなくなりました、これからは直接管を入れて栄養を送る

方法しかないがどうします」と聞かれて、死を覚悟した

それなら生まれ故郷の町でと思って、退院を希望して地元病院の「終活病棟」に

入れてもらうことになった

15日まで忙しく働き、16日妹と迎えに行った、すると個人で連れていける状況で

ないから救急車で高速道路を使って搬送します」という思いがけないことに

費用はすべて病院だか、自治体だかから出るという

妹が救急車に乗って、私はマイカーで戻った、地元病院に戻ると昼だった

すぐに医師が検査をして言った、「いったいこんなになるまで放っておいたの」

前の施設では、ほとんど眠らせておく処置をしていた、最初の話とは少し

違っていたが、地元では母の症状に合わせることができる受け入れ先がなく、

ようやく見つけた病院だったから強くもいえなかった

穏やかに入院していることができない症状ではあったのだ、そして夕方個室に入った

ようやく一段落して、妹と食事をして別れた、それから間もなく母の容体が悪くなり

電話が来た、隣町に帰ったばかりの妹にまた電話をして私は病室に戻った

父も具合が悪くなって数日前にこの病院の一般病棟に入院していた

午後9時を過ぎたころから次第に数値が下がり始め10時には看護婦が渋るのを無理強い

して父を車いすと酸素マスクのまま病室に来てもらった

それから1時間後に看護婦と、父、私、妹の三人に看取られて静かに息を引き取った

忙しい15日まで我慢してくれて、16日夜に亡くなったのは、この商売に携わっていた

母だからこそなしえた最後の思いやり、さすが母であった

 

父は終始無言で、表情がなかった、手を握ってやって」というまで手も握らなかったし

あの時の父の心のうちは今もわからない、少し認知もあったし、頑固さとへそ曲がりは

ますます強固になっていた

それから半年後の2月に父も母を追って亡くなった、インフルエンザのまっただ中で

近くにいながら面会もできずに一人ぼっちで亡くなった、病院から電話が来て急いでいったら

もう亡くなっていたのだ、病室に看護婦も医師もいなかった、だからすべてゼロの

数値を見て「死んでいるのでは?」と私が看護婦に投げj掛けたのだった

病室に入ってきた看護婦は一目見て「ああ、そうですね、今先生を呼びます」と

事務的に言って出ていった

 

 

 

 

 


久々にカートねこ

2020年08月10日 19時05分31秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん

いやあ~今日は、まじ暑い  いつも20度の厨房も今朝は火をつけたら

25度まで上がった、こんなの初めて

富山空港付近では38.6度とかで岐阜に次いで全国二位の暑さだったとか

そういえばカートを保護した日も、こんな暑い夏だった

あれからまる3年、いまだおうち猫にはならず、気ままに暮らしている

体形は変わらず、夏は毛を落としてさわやかに小柄な猫、冬は毛がふさふさして

洋猫の風情がある

毎日、我が家の玄関の所定の場所で一日3食食べていく、最近は私より

長男の楽しみになっているようだ

この1か月はだいぶ様子が変わってきた、玄関先に滞在する時間が少しずつ長くなり

玄関戸が開いていれば食事時でなくても時々入ってくるようになった

どうやら家に住みたい意志はあるようだが警戒心は相変わらずなので猫本人も

ジレンマに悩んでいるかもしれない

女房殿は1年前に保護猫団体のメンバーになったが、よそ猫には夢中だが

我が家の問題児、カートには関心も示さない

保護して注射とか洗濯とか虫退治とかをしてもらいたいが、それをしてもらえば

所有は団体の方になってしまう、あくまでも自分でやるのが筋なのだが

そもそも最初が悪かった

行方不明のピー子を公開捜査した時、尾が短いつながりで私が保護することになったカート

ゴルフ場のカート小屋の中で衰弱死直前だったのを保護したのだ

つれてきて獣医医院に連れて行ったら、たまたま先生は留守で、来るまでおいてくださいと

看護婦(みたいな)おばちゃんに言ったら「どんな黴菌がついているかもわからないのに

あずかれません」と独断で決めつけられて、仕方なく家の玄関に置いたのだが

その夜、脱走した、脱走する際に私の手を噛み、爪を立てて逃げた

カートを飼っていた元飼い主がやはり噛みつかれて一週間腕をぼんぼんに腫らしたのを

聴いていたから、急いで内科に行って毒消しの静脈注射を打ってもらった、

後日獣医医院の奥さんに言ったら

あの人(看護師みたいなおばちゃん)何でも自分で判断して困るのよねえ」などと

同情されたがあとの祭、あれ以来、カートと私の不思議な生活が続いているが

そろそろ向こうも飼い猫になりたい様子なのだ、だが問題は彼の生活改善だ

様々な虫の駆除、健康状態のチェック、洗浄、それから初めてコミュニケーションと

信頼関係づくり

何よりも、どう捕まえるか、下手なやり方をすればますます人間不信がつのるし

今の状態では家の中に住ませることもできないし、さてさてどうしたものか

冬までに何とかしたいが、コロナ騒ぎ、営業問題もあってそれどころではないし